第8話:秘薬の痕跡と、漂う陰謀
雨上がりの後宮は、しっとりとした湿気と練香の甘くも冷たい香りに包まれていた。
玲玲は小柄な体を屈め、誰にも気づかれぬようそっと香炉の灰を掬い取る。
「牡丹香……この香は華やかでありながら、気鬱を晴らす効能があるのだが――」
玲玲の指先に残る灰は、淡い紫色を帯びていた。
彼女の脳裏に、昨日の宦官・桂祥の死の光景が甦る。
口元に泡を浮かべ、指先には黒ずみ、そして寝殿の香炉に立ちこめていた妙な香気。
「……あの死は、ただの病死ではない」
宮中の尚薬局見習い調査官――新たな役目を任された玲玲は、秘薬の成分を推理しながら、後宮の闇に深く足を踏み入れていた。
玲玲は昨夜、禁軍の協力を得て桂祥の遺体の解剖を行った。
青白く変色した肌には、うっすらと紫斑が浮かび、爪の間には微量の黄褐色粉末が付着していた。
「この粉末は……『烏頭』の精製品に違いない」
烏頭は猛毒を持つトリカブトの根であり、乾燥させて粉にすると香料にも混ぜやすい。
加熱すると揮発して、長時間吸い込めば中毒症状を引き起こす。
しかも精製されたものは通常より強い毒性を持つため、微量でも命取りだ。
「指先の黒ずみは、毒に触れた痕だろう。桂祥は知らず知らずに毒の香を吸い続けていた」
玲玲の推理に禁軍の衛士たちも目を見張る。
香炉の灰からは、成分の一つである「鸚鵡嘴」の痕跡が検出された。
鸚鵡嘴は南蛮渡来の珍しい香草で、少量ならば精神安定効果を持つが、過剰に使うと神経毒となる。
そして、その主成分クリンチン酸は独特の揮発性を持ち、燃えた灰にも香気が残るのだ。
「桂祥は、この鸚鵡嘴を含む香を何らかの形で使用させられ、命を奪われた」
玲玲は記録帳を調べ、前夜の香の処方が妙芝女官の筆跡ではないことを突き止めた。
「つまり、誰かが意図的に処方をすり替えたのだ」
その瞬間、背後から足音が近づく。
「そんなところで何をしている、下女」
声の主は内侍監の若い宦官・蘇靖だった。玲玲の動きを警戒し、尾行していたのだ。
「香の成分に不審な点があります。桂祥の死は偶然ではありません」玲玲は落ち着いて説明した。
「証拠はあるのか?」蘇靖は厳しい目を向ける。
「あります。香炉の灰と桂祥の爪の間に、同じ毒性成分が検出されました」
蘇靖は一瞬黙り込み、やがて静かに言った。
「皇帝が、君に尚薬局の調査官を命じた理由がわかる気がする」
玲玲は息を呑んだ。
「しかし、この事件は慎重に扱う必要がある。鸚鵡嘴を扱える者は限られている。しかも、高貴妃の近くにいる者の中にだ」
「……後宮での“見えざる闘争”ですね」
「その通りだ。妙芝女官をはじめ高貴妃付きの香調師は、明日から一時的に職を解かれる。皇帝の命だ」
「では、私は?」
「君には香と薬の調査を任せる。死の理由を暴き、後宮の闇に光を投げかけよ」
玲玲は心の中で決意した。
「この後宮では、香も薬も、命を左右する武器だ」
新たな任務の幕開け。
後宮に渦巻く陰謀と毒の謎を、玲玲は解き明かしてみせる。
と静かに誓うのであった。