第7話:宦官の死と、指先の痕
日も高く昇った午の刻、後宮の奥深く──翡翠苑にて、小さな騒ぎが起きていた。
「水を……! 冷や水を持て……!」
「呼吸が……っ、息が詰まって……!」
叫び声と慌ただしい足音。その中心に横たわっていたのは、若き宦官だった。白い唇、蒼白の顔色。泡を噛むように口元を震わせている。
「どういうこと!? まだ十六だというのに……」
「さっきまでは元気だったのに、急に倒れて──」
玲玲は小花籠の影からそっとその様子を見つめていた。周囲の下女たちは騒然としながらも、手の施しようがなく、ただ見守るばかりだ。
そこに一人、女官長が姿を現す。
「小玲、おまえ、さきほどこの宦官と話していたわね?」
「はい、ええ……。でも、ほんの雑談です。薬湯の届け先を確認しただけで──」
「薬湯?」
「ええ。高貴妃のところへ。昨夜、薛麗花さまが召されたものと同じ湯だと聞きました」
玲玲の眉がわずかに動く。
(また“薬湯”。偶然にしては……)
彼女は静かにその宦官──小篆と呼ばれる少年に近づく。脈はかろうじてある。呼吸は浅く、苦悶の表情が刻まれていた。
(口の中の痺れ、白い唇、指先の微かな紫色……この症状……)
玲玲は周囲を見回し、女官長の許可を得て、そっと宦官の口元を拭いながら指先を確認した。
そこには、かすかに赤黒く変色した点が一つ、薬指の先に見える。
(針の跡……? まさか、注入された……?)
そして、玲玲の視線は近くに転がっていた小さな陶器の薬瓶に注がれた。
「これは……」
拾い上げ、香りを嗅ぐ──強い甘味の匂い。その裏に、かすかな鉄臭さが混じる。
(この香りは……ジギタリス。心臓毒だ)
玲玲はすぐに確信した。強心作用を持ち、過量では心臓を止める毒。しかも、液体なら摂取も容易い。
「この薬湯……誰が調合を?」
「決まっておりましょう、薬房の翁華仙です」
女官長が口を挟んだ。
「翁さまがこのようなことを……?」
玲玲は否定も肯定もせず、ただ宦官の胸元を押し、体位を調整する。そして周囲に指示を出した。
「氷と、水を! 心臓を冷やして! それと、生姜汁を──少量!」
「小玲、あなた──」
「昔、祖父が山で毒草を誤って煎じたとき、似た症状になったことがあります!」
それは嘘ではない。だが、玲玲はすでに推測していた──これは「誤り」ではない。意図された毒殺未遂だと。
(だが、なぜ宦官? 狙われる理由がない……)
思考を巡らせながら処置を施す玲玲の目に、ふと違和感が映る。
小篆の袖口──そこに、微かに残る刺繍糸のほつれ。それは後宮の誰もが持つものではない。特別な身分の証──
(あれは、麗貴妃付きの……!?)
そのとき、女官の一人が小声で囁いた。
「ねえ、小篆くんって、もともとは麗貴妃さまの付き宦官じゃなかった?」
玲玲は、顔を上げた。
「麗貴妃……?」
ざわつく空気。その瞬間、玲玲は背筋を這うような確信に襲われた。
(もしかして──これは“宦官”への毒ではない)
(“薬湯”が毒であれば、彼が運んだ先──高貴妃、薛麗花さまも……)
今、すべての点が一本の糸で繋がり始める。
その瞬間──
「高貴妃さまが、またお倒れに!!」
新たな報せが、静寂を切り裂いた。
玲玲は立ち上がり、走り出す。
(間に合うか……いや、今度こそ、真実を突き止めなければ!)
毒と陰謀が渦巻く後宮で、一人の少女の観察眼が、ゆっくりと光を放ち始めていた──。