プロローグ 第1話:薬草売りの娘、後宮へ
春霞の中、京城の外れにある東の薬草市場には、早朝から人々の声が溢れていた。朝露に濡れた薬草の香りが立ちこめ、乾いた茎を束ねる音、薬鍋で煎じる薬師の声、値を交渉する老婆の小言……どれもが、いつもと変わらぬ一日の始まりを告げている。
その喧騒の中に、ひときわ目立つ少女の姿があった。
肩にかかる漆黒の髪は質素な麻の紐でひとつに結ばれ、身に纏うのは色褪せた亜麻布の上衣と、裾を膝までたくし上げた黒褐色の袴。少女――玲玲は、その細腕に背負った大きな葛籠の中から、丹念に仕分けた薬草を丁寧に並べていた。
「今日は根っこの生えのよい柴胡と、山で採れたての半夏があるよ。お師匠さまにどうぞ」
涼やかな声とともに、少女は笑みを浮かべて薬草を並べた。その話しぶりはどこか商売人らしからぬ柔らかさで、通りすがりの老婆が思わず足を止める。
「ほう、これはまた……目が利くねえ。どこの薬屋の娘さんだい?」
「うちは薬屋じゃないんです。ただ、祖父の薬草摘みに付き合っているだけで」
玲玲はそう言いながら、籠の底に残った一房の「玉露草」を指先で整えた。細く糸のような葉を持つその薬草は、気付かぬうちに熱を取る――そう祖父から教わっていた。
祖父は十年ほど前、山での事故がもとで片足を失い、それ以来、村の者の薬の相談に乗るようになった。玲玲は物心ついた頃からその傍に立ち、草の名を覚え、根の切り方を学び、人の苦しみに目を向けてきた。
――だが、それも昨日までの話だ。
「おい、お前が玲玲か?」
突如、背後から荒っぽい声が飛んだ。見れば、役人風の男が数名、鋲打ちの靴音を響かせて市場を歩いてくる。周囲の人々が一斉に息を呑んだ。
玲玲はゆっくりと顔を上げた。
「はい、私ですが……何か?」
「ここに召喚状がある。お前、今朝方の勅で、後宮勤めを命ぜられた。すぐに荷をまとめよ」
「――後宮?」
耳を疑った。
薬草売りの娘が、後宮へ?
言葉の意味は確かに理解できた。だが、その現実味はなかった。華やかで冷酷な宮中、皇后・妃嬪たちが競う権謀術数の舞台。そこに、下町の娘である自分が招かれる理由があるのだろうか。
「ま、まさか何かの間違いでは……」
「名も年も顔も、間違いない。これは命令だ」
数刻後、玲玲は夢の中にいるような思いで、輿に揺られていた。身体の震えが止まらない。祖父との別れの記憶もまだ生々しく、名残の声が耳に残る。
「お前は、目が利く。それは、薬草を見る目だけではない。人の心と体の間にある“影”を見抜く目だ。後宮に入っても、それを忘れるでないぞ――」
やがて辿り着いた「紫禁城」の正門前で、輿が止まる。
高い石垣に囲まれ、朱塗りの門には黄金の獅子が睨みを利かせていた。門の上には「承恩門」の文字が記され、衛兵たちが規律正しく整列している。
その光景に、玲玲は本能的な恐怖を覚えた。
一歩足を踏み入れれば、外の世界には戻れない。命も、名前も、すべてを飲み込む後宮という怪物。
「下女見習い、玲玲。入ります」
自身の声が、震えながら空気に溶けていった。
その瞬間、玲玲は確かに感じた。
――この場所には、「薬」では治せぬ病が渦巻いている。
それは、人の欲、権力、愛憎、そして“毒”。
彼女の長い物語の、第一歩だった。