小瓶
深夜四時、海斗は傍で寝る祖母が起きないようにそっと布団から抜け出すと、二階へと上り、屋根裏部屋へのハシゴをこっそりとよじ登った。
「カイト。待ってたわ。今日は遅かったのね」
笑顔で振り返るエスカのもとに海斗は急いで駆け寄った。
「エスカ……!エスカ助けて!」
その肩にしがみついて、海斗は懇願した。いつもとは違う彼の様子に、エスカは戸惑ったように首を傾げた。
「どうしたのカイト。なんだか怖いわ」
肩に置かれた手をそっと払い、エスカは困ったように笑う。
「……燈凛ちゃんが、死にそうで……魔法を取り消す方法ってないの?」
「待って、待って。何があったのか分からないわ。死にそうってなに?」
海斗は顔を覆いながら、ぽつりぽつりとあったことをエスカに話した。エスカは最後までその話を聞くと、ふーん。と一言だけ感想を漏らした。
「だから、それで……助けて欲しくて」
「嫌よ」
エスカに話せば、なんとかしてくれる。そんな希望を打ち砕かれるようなはっきりとした拒絶に、海斗は顔を上げて、彼女の顔を見る。
エスカは口を尖らせて、興味なさそうに爪の先を眺めていた。
「なんで……。なんでそんなこというんだよエスカ!」
唯一の希望にそっぽを向かれて、海斗は彼女の肩を再度掴んで、揺らした。エスカは迷惑そうにその手を払うと、わざとらしく大きなため息をついた。
「前にも言ったじゃない。私の前で他の女の話なんかしないでって」
「そ、そうだけど……そういう場合じゃ……」
「いいじゃない貴方もその子のこと嫌いなんでしょ」
「なんてこと言うんだエスカ。そんなわけないじゃないか」
「だって、嫌いじゃなきゃ。その魔法は発動しないもの」
唖然とする海斗をよそに、エスカは目を細めて、楽しそうに薄く微笑んだ。
「話を聞くに、そうね。それは拒絶の魔法よ」
「拒絶の魔法……?」
「そう、対象の全てを拒絶する魔法。空気も温度も栄養も、もちろん治癒させるためのあらゆる方法も、奇跡だって……全てが拒絶されて、徐々に弱って死んでくの。やっぱり貴方。魔法の才能あるわよ」
海斗は苦しみ倒れた燈凛の姿を思い出し、ぞっと背筋に冷たいものを感じた。
「魔法はね、純朴な願いによって生み出される。貴方が、その女のことが本当に邪魔だと思ったからこそ、その女は呪詛を受けたのよ。貴方にそんな風に思われるなんて、よほどの悪い女なのね」
「そんなことない!燈凛ちゃんはいつだって俺のことを思って……」
「でも貴方は彼女を心の底から呪ったのよ。その女に消えて欲しい。それが貴方の本心だった。認めなさいよ。ねぇ、カイト。大嫌いなの。貴方、彼女のことが」
エスカの虹色の瞳がじっと、海斗を見つめた。
羨ましかった。妬ましかった。母親に愛されている燈凛が、母親に選ばれた燈凛が。そのくせこちらの気持ちは何も汲まず、姉面で、正論を振り回す燈凛のことが、海斗は心底に憎らしかった。だからこそあの時、心の一番触れて欲しくないところに、当たり前のように乗り込んできた彼女を、海斗は心の底から否定し、邪魔だと思った。消えて欲しいとすら思った。
確かにそれは、本心だった。
「ああ、確かに僕は、憎らしかったよ。羨ましかったよ。だけど、だけど大好きな姉さんなんだ。絶対に死んでほしくないんだ」
首を傾げるエスカに、海斗は続けた。
「燈凛ちゃんが言ったとおりだ。たとえ僕を引き取りたくなかったとしても、僕の存在が目障りだとしても、父さんも母さんも僕を愛してはくれている。嫌いも憎いも、大好きも両立するんだ。両方あるんだよエスカ」
「あ、貴方が何を言っているか分からないわ」
心底戸惑ったように、エスカは腕を組んだまま眉をひそめた。海斗はあふれ出てくる涙を拭って、床に手をつき、そんな彼女に懇願した。
「大事なお姉ちゃんなんだ。大好きな従姉なんだよ……。絶対、絶対死んでほしくなんかない。だからお願い。お願いだよ。エスカ……姉ちゃんを……姉ちゃんを助けて、なんでもするから」
エスカは困ったようにきょろきょろとしばらく辺りを見渡していたが、やがて、ふうとため息をついて海斗の頭を撫でた。
「分かったわ」
エスカのその言葉に、海斗は涙でぐしゃぐしゃなった顔をあげた。
「ほんと……?本当に!」
エスカは頷くと、自分の指先に歯を立てながら、懐から出した小瓶に、その血を数滴垂らした。青く、ほのかに光る液体だった。
小瓶の半分ほどに血が溜まると、彼女はそれを海斗に向けた。
「栓をして」
促されるまま、海斗は栓をした。指に伝う、流れ出たままの血は彼女の傷跡に吸い込まれ、たちまちに傷は塞がった。
彼女の手の中で、小瓶の中の血はほのかに青く光りながら、ゆらゆらと揺れている。
「拒絶の魔法は強力だけど、……これを飲ませれば、その女は命を取り留めると思う」
海斗は顔をぱぁっと輝かせると。小瓶を握りしめるエスカに向かって手を伸ばす。しかし彼女は体を逸らしてそれを拒絶した。
「ただ、条件があるわ」
海斗は宙を掴んだ手をそのままに、エスカの顔を見る。
「条件?」
「その女は助けてあげる。でも……貴方には私を選んで欲しいよ。大好きなのは私だけにして」
「えっ……」
「私、貴方のことが大好きなの。貴方にも、私のこと大好きでいて欲しい。そしてその大好きは私だけのものがいいの」
ふいの彼女の告白に、海斗はかっと顔が熱くなるのを感じる。
そんな時ではないと自分に言い聞かせつつも、目の前に希望があることで余裕ができたのか、心には確かな喜びが湧いていた。ただエスカの顔は、儚げに強張っていた。
「そして……どうかこの世界で一緒に生きて欲しい」
「この世界……?」
「ええ、この世界で永遠に。貴方はもう魔法を使える人間なの。あっちの世界ではもう異物だわ……今回のことでまた同じようなことが起きるとも限らないし……。貴方にとってもこちらの世界で生きる方が都合が良いと思うの」
自分の手のひらを、海斗はまじまじと見つめた。この手が、また、誰かを傷つけてしまう可能性がある。選択肢は一つしかなく、迷うことはできなかった。
「分かったよ。エスカ……。これを燈凛ちゃんに飲ませたら、必ず戻ってくるよ。そしたら暮らそう。ここで」
エスカは息を短く吸って、目を大きく開く。そうして震える声で問うた。
「ほんと……?ずっと、ずっと一緒に?」
「うん。ずっとそばにいる。約束する」
海斗が頷くと、エスカは安心したように笑った。
「ありがとう。わかった。明日、私、待ってるから……」
「うん。ありがとう……。いってくるよ」
エスカから小瓶を受け取ると、海斗は屋根裏部屋を降りて行った。