11:急に出かける時は火の確認せえよ
『ピロン』
「ん」
アクシャのスマホに通知が来た。
ヴェルディエルがこの家を出ておよそ6時間ほど。
アクシャは夕飯に親子丼を作ろうとしている最中だった。
「えっ、思ったより早いやん」
お気に入りのアイドルのPVを楽しんでいたエリクスもアクシャの方を向く。
「何かあったっすか?」
「おん」
電気コンロの電源を切り、手を洗ったアクシャが手を拭きながら返事をした。
そして改めてスマホの通知を確認する。
「今日ベルに鍵渡したやん?」
画面をスイスイと手慣れた様子で操作し、その先を話した。
「あれ、GPS付けてあってん。聖界は流石に測定できんけど、何か設定しといた範囲内に入ったわ。ちょっと位置の計測モードを正確にするで」
「えー、死ななかったんすね。今どこっすか?」
言いながらエリクスもアクシャのスマホを覗きに来る。
「んー……びっみょーーーーに動いとるけど……」
「ここから離れて行くっすね」
3秒ぐらいその画面を眺めていたが……。
「これ……落ちて行っとらへん……?」
高い位置から真っ直ぐに降りているのなら地図上の位置は動かないはずだ。しかし、それはこちらに向かうでもない。
「コイツ多分、上空から地面に対して鋭角で落ちよるぞ?」
「……そっすね……意識もあるかどうか分かんねっすね……」
『ピ』
答えたエリクスがアクシャの代わりに炊飯器の炊飯スイッチを入れた。
そんなエリクスを確認したアクシャは表情をキリッと作り直す。
そして満を越して、滅多に言えないであろうセリフを口に出した。
「おやっさん! 空から美女が!!」
聖界のゲートはある程度の高さでしか作る事が出来ない。中級程度の聖族は誰でも作れるが、代わりに上層雲を超えた高さにしか作れないという欠点を持っている。
つまり、今のヴェルディエルは多分、最低でも高度5000mから降下中だ。
聖界に戻った、その短時間で辛うじて吸収できた聖力により薄く身体を包む事が出来たため、風圧による身体の損傷は防ぐ事が出来ている。
だが、それもいつまで持つか分からない。目を開く事も出来ない状況で、自分がどれぐらいの高さまで落ちたかなど分からない。
翼はどうだ。今の体力では、この落下中の風圧に逆らって翼を開く事など出来ない。出来たとしても途端に翼が折れるだろう。
……エルヴィエルに対しては強い信頼を抱いていた。忠誠心も。
だからこそ、彼にあんな行動を取らせてしまう程失望させてしまったことに対する罪悪感が胸を占めていた。
涙が出ているような感覚が瞼の下に感じられる。それも風で吹き飛ばされて、顔が余計に冷えた。
(私は……恐らくこれで命を落とすのです。先人達があの男に殺されていないのは本当だったのかも知れません……ですが、これは私自身の招いた罪……自害でもなく、任を成し得なかった者の当然の運命……)
最期に聖界の水ぐらい飲みたかった。
だがそんなヴェルディエルの脳裏に過ぎったのは、あの柑橘の甘い爽やかな香りがする温かな紅茶だった。
(……皮肉なものです、魔族から供された物が……私の最期の飲み物だなんて)
そして意識を手放し掛けた、その瞬間。
「何でやーーーー!! 何で飛ぶアイテム持ってへんねんーーーー!!!!」
禍々しく威容のある翼を大きく広げ、高速で飛翔するアクシャ。もうすぐ、もうすぐ手が届く。
「持ってる訳ないでしょ王子ーーーー!!」
後から追ってくるエリクスも翼を懸命に羽ばたかせて必死だ。
涙と重い瞼で姿は見えない。
そんな声を聞いて、柔らかい衝撃と暖かい温度を感じて、スゥッとした爽やかな香りを感じて……薄く眼を開けてもピンク色しか分からなくて。
(誰……ですか………………)
深い眠りに落ちた。
「あっ起きたっす」
いつか見た白い天井。横で聞こえる声は、いつか聞いた少年の声。
今度は窓からの日差しはなく、代わりに暗い夜更けであることが分かる。
「あ……私、死んで……?」
起き上がることも出来ず、そのまま思った事を口にした。
死んでない。声はカラカラに掠れている。
「んな死ぬ訳無いじゃないっすか、王子が助けたんすよ? ありがたく思うんすね! 王子が落ちてるアンタを抱き止めなかったら、あと2秒で地面だったんすから」
言いながらスマホを持った少年が立ち上がった。
大好きなアイドルのツアコン動画を観ていたエリクスは、アクシャにヴェルディエルが起きた事を報告しに行くつもりだ。
「あの……」
死ぬのは免れたとはいえ、まだ身体は弱っている。その程度の声しか出せなかった。
「うるさいすよ、聖族! 王子がお前に興味持ってるから見ててやったっす。オレはお前の味方じゃねっす」
そして部屋を出て行った。
当然だ、自分も魔族の事は好きではない。
だが、今回は認めざるを得ない。
魔族の、しかも討伐対象であるアクシャ王子に救われたのだ。
その真意など定かではない。死ぬより酷い事がまだ待ち受けているのかも知れない。
だが、敬愛するエルヴィエルを失望させたのだから、そんな待遇を受けても仕方ないとも考える。
そう考えている内にドアが開き、想像通りの人物が現れた。