10:部下には優しく大事に!
「おっ、お待ちを……!」
「お喋りは結構です」
エルヴィエルの手から槍の鋭い一撃が繰り出される。ヴェルディエルはそれを転がる形で辛うじて避けた。
「わざわざ貴女の為に考えた名も、全く意味がありませんでしたね」
次の一撃が繰り出される。それもギリギリで何とか躱わす。しかし聖界の土地は狭い……先程降りた岸がすぐそこにある。その先は深い雲海だ。人間界の海と違って、落ちてしまえば浮かぶこともなく、翼を使わないと上がれない。
「せっかく、この私に似せた名を与えたというのに……」
お喋りは結構、と言った側のエルヴィエルが腹いせか説教のように小言と攻撃を繰り出してくる。
これを全て何とかギリギリで交わしながら息を吸う。
「次こそ、次は……」
ヴェルディエルが間で切れ切れに口にすると、また次の一撃が飛んできた。
「次があるなどと考えているのが甘いのですよ」
そして槍の柄で膝を打たれる。刃の部分では無かったが、それでも十分な威力だった。
「くっ……そんな……」
またも槍が繰り出されるが、それはヴェルディエルのすぐ目の前に刺さった。
(もしや……わざと外しているのですか……)
ヴェルディエルの読みはその通りで、エルヴィエルの動きは全て当たらない……避けられる程度に繰り出されていた。
槍を繰り出す当のエルヴィエルは、地面に膝を突いている彼女の姿を少しだけ観察した。
「ですが……そうですね。私も聖族の端くれとして、慈悲を見せるのも良いでしょう」
彼女の何を見たのか、持っていた槍をヴェルディエルの前に投げて寄越す。
「アクシャの討伐を再度命じます。思い出しなさい、彼は人間界で人を殺して回っています。それも弱りきった無力な人間を殺し、戦を巻き起こして人間界を不幸に……引いては我々をエネルギー不足に陥れているのです」
虹の混じる美しい翼、それを一度だけ羽ばたかせ、エルヴィエルは更に続けた。
「同胞が聖族たる象徴の輪すら与えられず、聖力を使う事が出来ないのを貴女も知っているでしょう?」
生まれ持ったツノで負のエネルギーを吸収している魔族とは違い、聖族は自分に与えられた輪を額に装着することで正のエネルギーを吸収している。
そして今、この聖界は正のエネルギーが不足し、ヴェルディエルの目の前に広がるような寒々しい荒廃した世界が拡がっている。
エネルギー不足を問題視した聖界が取った方針は、エネルギーを吸収するために必要な輪を下級聖族に与えない事。
ヴェルディエルの幼馴染や、弟・妹のように可愛がっていた聖族達は輪を与えられていない。食物すらもまともに口に出来ず、中級聖族達の残りを配給されるだけ。
「それが、アクシャ1人を殺すだけで全て改善されるのです」
目の前の上司……エルヴィエルが、ヴェルディエルの脳内をも補完するかのように口にした。
アンジュ……かつてそう呼ばれた少女は死に物狂いで上からの仕事をこなした。文句も言わず、確実に。
そして甲斐あって念願の輪を与えられた後も努力に努力を重ね、聖界の未来へと鍛錬を積んだのだ。
その結果、上級聖族の中でも一目置かれるエルヴィエルの部下となる事ができた。
「はい…………はい……! 必ずや、必ずやこのヴェルディエルが!」
正義はヴェルディエルを見放さなかった。
あの魔族の誘惑になど惑わされない、次こそ消し炭にすると宣言しているのだ。
そうだ、あの軽薄な魔族の男さえ倒せば……。
「それではヴェルディエル、もう一度命じます」
またもう一度、彼女の上司が羽ばたき、もう一段空へと浮かび上がる。
次はしくじらない、油断しない。
「今すぐアクシャを倒しに行きなさい」
「え……」
決心した顔が呆けた顔に変わる。
今のヴェルディエルは自分の身体すら上空の空気から守れない程疲弊しているのだ。ここで少しでも回復しなければ、あの男と戦ったところで勝算など無いに等しい。
「ゲートすら開けられませんか? それは私が開けて差し上げましょう。ですから……」
ヴェルディエルの背後に金色のゲートが生まれる。そしてエルヴィエルがもう一度翼を大きく後ろに動かした。
「今すぐ行きなさい」
「きゃ……」
大きく羽ばたいたエルヴィエルから放たれた強い風。それは弱ったヴェルディエルを容易く吹き飛ばし、彼女の身体はゲートの中へと消えた。
「……ふん、どうせ、それでもあの男は聖族を殺しません」
忌々しそうな顔つきのままゲートを閉じ、エルヴィエルはその場を後にした。