一人前の食事
食べ方がきれいだったことを、昨日のように覚えている。
彼の仕草に口調、すぐに出てくるイメージは概ね良いものではなかったけれど 、どういうわけか食事に対しては粗雑ではなかったことが決め手だったのかもしれない。食べ残しのない取皿を見つめながら、「私達、付 き合いましょうか」と気がつけば返事をしていた。授業終わりの食事の約束が一つ二つと続き、私の左手に収まりきらなくなった逢瀬の頃。 右手親指を折り曲げる前に、私達はこういう関係になったわけだ。
焼肉屋さんに行くために、汚れの目立たない黒の服を選んでいたはずだった……のに、出掛ける頃には、彼に好まれそうな桜色の装いに様変わりしていた。
まるで花柄の刺繍が透けて見えるスカートが、浮かれた自分が背中を押してくれたかのように、互いに見つめ合って有頂天になって、そのまま手に持った瓶ビールを飲み干していた__彼。癖のあるラガービールが、魔法のように口の中へ吸い込まれ消え ていく。まさか私がオッケーを出すだなんて思わなかっただろうから、きっと驚いただろうな。だって、私の顔と空になったビール瓶を何度も見つめているんだもの。
私も一口でいいから、ためしに飲んでみたかった。ビールが注がれるはずだった空のグラスを、すでに指輪のついている彼の左手 が弄んでいる。女避けという意味を持つ、業を背負った小さな飾りを、どうしても目から離せない。世間のいう「いい人」ではなかったのに、私は焼きが回っていたのだ。後を引くような甘いだけのカクテルが、私そのもののように感じられた。
__きっとそう、いつもそう。考えるのが苦手だからと、言い訳混じりにグラスを空にした。
「いい飲みっぷりだね」
私達のおもちゃのような関係を知る、仲の良い店員が近づいてきた。幸せそうな顔をした彼と満足そうに抱き合っている。「店員」と「客」という立場なのに、切り取ってみると友達同士以外の何者でもなかった。棘のある気持ちの言い訳を考えるならば、私はただ、私なりに「恋人」を知りたかっただけなのかもしれない。彼が繰り返し口にす る「好き」という言葉の本当の意味を、私はただ知りたかったのだ。
その日のごはんが不思議と美味しかったから、私は生まれて初めておかわりをした。決して忘れることのないように、ひとくちひとくちを噛みしめた。これが恋の味なのだと、アルコール混じりの口づけも__抱きか かえるように支えられた大きな手も__ぜんぶ、美味しい思い出にすり替えて。
食べ方に魅入ったことだけは本当で、忙しい合間を縫って二人で食材を買いに行ったり、お取り寄せの商品を選んだりした。小さなリュックに牛乳や水を詰めて、重い方の袋を無 条件に持ってもらった。金額の端数分だけを支払い、その分を他の家事で賄うようにバランスをとった。
でも、いつまで経っても彼に名付けられた「彼女」という称号になれることができなかった。損得の感情なしに守られることばかりに戸惑っている私を見るたびに、お互いが視線を合わせては面白くもないのに笑っていた。
そして、一人で使うにしては大きい 赤色の鍋で、思いつくままに何通りもの食事を作った。
なんのモヤモヤもなく彼の唇の間から魔法のように私の料理が食べられてゆくのを、いつも夢見心地で見つめていたくて。最初は下手だった料理も、数をこなすたびにスープからカレーへと昇格していった。
順風満帆とは言えなかったが、ささやかな幸せが私には愛おしかった。
周囲になんと言われようと、山盛りに盛られた食卓を二人で囲んだ。
一緒に食事を共有する、あの幸せな時間が手に入れられるなら……と、耐え忍んできた。きれいに食べられた食材達が羨ましくなるほど、彼の食 べ方は美味しそうで、残された真っ白な皿を何度も恨めしく眺めた。
けれど、何度願おうと……彼と一緒の「二人だけの時間」は、私だけのものではなかった。
だから、今日でそれもお終いだ。
__いいよ、お腹壊してもいい。全部食べるから。
その幻覚には匂いがある。
音もある。
でも、触感はない。
甘い魅惑に惑わされることは、もうないだろう。手短かに身支度を済ませ、いつもなら手に取るはずの合鍵にも、指を伸ばさなかった。机の上に何日も置いてけぼりにされたパンケーキに、小さな虫が唇をよせる。最初から「いらない」って言ってくれたなら、何もかも無駄にはならなかったのに。
片付けられもしない白い皿を眺める。
結局のところ、私と彼はその程度の関係だった。
私ではない、誰か他の女の子のイニシャルのプリントされているグラスに、少量のアルコールが残っている。
昨日を知る最後の氷が溶けた時__一人には大きく二人で暮らすには小さな部屋で__小さなグラスの音が聞こえるほど私は息を殺していた。
ここが世間からの隠れ家のようで楽しかったのも、遠い昔のように感じた。
きっと、彼はこれからも知ることはないだろう。焼肉を食べる用の暗めの服……フレンチに行く用の華やかな服、チェーン店ご飯を食べる用の身軽な服。そんな、「ご飯を食べる用の服」があるなんて。
薄い生地のスカートが春風に揺れる。
シンクに佇む赤色の片手鍋だけが、私たちの幕切れを俯瞰していた。




