後編
少し考えて
「あの、NPO法人か何かですか?」
運転手は苦笑して
「まあそんな様なもんです。さあ、どうされますか? 決して損はさせませんよ」
「あの、お代金はいかほどで?」
「ああ、ふるさとをご覧になった後で、お気持ちで結構ですよ」
どうせ先の予定は何にもないのだし、このインチキ宗教だかなんだかに付き合って、見破ってやろうかな、という気になった。
「それじゃ、お願いしましょうか、それで、どこへ連れて行ってくれるんです?」
「何処へ行くかは、あなた次第です。あなたが心の中で一番思いが強い場所に行けるはずです」
なんだ、意外といい加減だな。
「故郷ったって、俺東京生まれで、小学校のとき横浜に移ってだいたいそのままだから、あんまり故郷って言えるとこないけど」
「まあ行ってみましょう、あのトンネルを抜けるともうふるさとですよ」
えっ、もう行っちゃうの?
中に照明もない、真っ暗なトンネルを抜けた。
「えっ? 雪?」
「ああ、しまったな、簡単なスタッドレスしか履いてなかった」
タクシーは雪の町の中を通り抜けてゆく。
「これは、五稜郭公園から今井デパートの横を抜ける道じゃないか!」
「思い出されましたか」
「確かに俺は親の転勤で中学校の三年間函館で過ごしていた。だがいつ横浜に帰れるのかと思い続けていたんだ。なんで函館なんだ」
「それは私にも分かりませんが、貴方の想いが一番強い場所なんでしょうねえ」
「ああ、そこの千代台運動場の交差点を曲がると、俺の通っていた中学校だ」
「では、そちらへ行ってみましょう」
交差点を曲がり、函館大火の時に作られたグリーンベルト沿いの道を走る。
「あっ! 見えた、鳩羽中学だ」
「近くに行ってみましょう、中にも入れそうですね」
改めて、このタクシーと運転手が何者なのかを想像し、ゾッとした。自分の幻覚かとも思ったが夢を見ている感じでもない。
「おお、ちょうど授業中のようですね」
「あれは中2の時の担任の森爺じゃないか!
おお、栄夫もいる、ああ、秘かに好きだった美伊子も!」
「あなた自身の目から見たイメージなので、あなた自身は出て来ませんがね」
イメージ? 何だかよくわからないが、これは紛れもなく自分の中学時代の教室だ。
「タイムマシンなのか? あのタクシーは」
「時を超えているわけではありません、あくまでお客様の深層にある風景を具現化する機能でして」
そんな事はどうでも良くなって来た。函館には思い残すことは山ほどあった。
「懐かしいなあ、栄夫と美伊子と三人でよく遊んでたなあ。そうそう、あの二人、二年の夏休みを過ぎたら急に付き合い出して、それなのにその後も三人でよくどこでも行ってくれたっけなあ」
「それは、あまり正確では無いですね」
「えっ? 何が?」
「美伊子さんは実は、一年の頃からずっとあなたのことが好きだったらしいですよ。でもあなたの心の中にある『壁』のようなものに気がついて、とても悲しい思いをしたみたいです。栄夫君と相談して、なるべく三人でいれる時間が増えるように、二人が付き合っている、という事にしたみたいですね」
「そんな、バカな」
「それだけあなたの心の壁が厚かったということでしょうか」
はじめて知らされる真実に驚愕した。いやこれが真実かどうかもわからないが。
「運転手さん、あんた一体何者なんだ? どうしてそんなことを知っている?」
「いやですからあなたの深層心理から導きだした風景に、客観的論理的解釈を加えただけですって。つぎは有名な夜景でも行ってみましょうか」
何が何だかわからないまま、またそのふるさとタクシーに乗り込んだ。
「夜景って言ったって、そう言えばさっきは昼間の教室だったぞ」
「ああ、時間はある程度恣意的に調整できますので」
通常の時間の何分の一かで、飛ぶようにタクシーは走り、すぐ函館山の山頂に着いた。
「ああ、やっぱり美しいなあ、中学校の頃も何度かみたはずなんだけど」
「お客さん、あの一つ一つの明かりは、いったい何だと思います?」
「何って、ネオンサインや家の明かりでしょう?」
「あの一つ一つは、人々の生活の営みなんですよ。お客さんは、中学時代、函館のことを単なる『風景』として捉えていたようです。実際は生活そのもののはずなんですがね」
「……」
「函館時代に、物事を客観的に、受け入れるべき物としてとらえる癖がついてしまったあなたは、その後も物事を受動的に受け入れるようになってしまう」
「ちょっと待ってくれ、俺はむしろ函館に拒絶されたんだと思っていたが」
「それは考え方ひとつです。あなたは自分でも身動きが取れないような壁を、自分の周りに作っていたんじゃないですか」
運転手の言葉に、言い返す言葉は無い。
「就職の面接に遅刻した時、取り返す方法はあったかもしれない。ライバルに蹴落とされた時も、見返してやろうと思えばその後挽回はできたかもしれない。脳梗塞にかかったって、その後やろうと思えば出来ることはいくらでもあったかも知れない」
「だが、もう取り返しはつかないんだ、妻も亡くなってしまった」
「あなたは、あの人々の明かりに戻って。また明かりを灯し続けるべきだと思います。あなたの光を消すことを、奥様は決して望んでいなかったでしょう」
「…… そうだな、私が体を壊したとき、妻は本当によくやってくれた」
「それでは、元の世界に戻るとしましょう」
山を下りる途中の隧道を抜けると、そのまま河口湖付近の道に戻っていた。
「しかしこれから何をすればいいかなあ、家も財産も処分してしまったし……」
運転手の眼鏡の奥の目がきらりと光った。
「どうです、お客さん。この近くの《下九十色村》というところに我々の団体の経営している《光と命の国》という施設があります。
今晩はそこで休んで、よかったら気晴らしにその施設にある農場でしばらく働いてみては」
「ああ、もうなんでもお任せします」
〈了〉