第七話 観光(2)
二週目の週末を迎えた。雲一つない快晴である。
親友もいる場所に紳士を案内するということで気が奮っていたのか、朝の弱いエクトルも朝食の時刻より一時間早く目が覚めてしまった。
身支度を済ませてリビングまで来ると、紳士は既に円卓の前に優雅に越し掛けていた。新聞を広げて読んでいたが、こちらに気づくと軽く手を挙げて会釈した。いつも通りだ。紳士は常に自分より先に朝の席にいる。現在は5時台だが、一体何時に起床しているのだろう。
服装は、滑らかな生地の光沢が眩いシックな青紫色のシャツに、純白のスキニーだった。彼の肉体を捉える時、どちらかと言えば上半身の造形に目を奪われていたが、今回下半身に忠実に沿う形状のボトムが纏われていることで、強く脚線の良さが際立ち集中的に吸い寄せられる。全身隈なく均整が取れている証拠を改めて突き付けられた心地だ。風呂上りに、何気なく裸の両脚を見た時から造形美は知らされていたはずだが、体格線を主張する衣服を身に付けたことによって強固な存在感が放たれた。彼は装いの変化一つで、新たな角度から魅力を打ち出して来るから油断できない。
この時も無論、上半身の存在感は顕著だ。肌を覆う生地の材質はゆったりとしているのに、胸板の厚さに押されて張りを見せていた。
日の出より間もない朝陽に燦々と染まる窓から、心地良く小さな流水音が聞こえた。レースのカーテンを透かして、大家の婦人が植栽の水遣りをする姿が見える。
彼女は日課で毎朝、庭に植えた花の世話と収穫を行うのだ。趣味でフラワーアレンジメントを営んでいる彼女は、開花した旬のものを摘み取る作業をすることがある。
快く平和な、ざわつきのない一時だ。しかし、エクトルの内面には、空気に反するが如き重い濁り気が張り付いている。特に酷く落ち込むような出来事があったわけではない、ある種、習慣のような悪い精神的な癖だった。
折角の、待ちに待った二週目の観光日である。天気も文句なく良好なのだから、同じように清々しい心持で素直に喜べば良いのだ。
ところが、よりもよって、今、週明けの仕事初めを思い、暗欝な気分に覆われているのである。
仕事の前日が迫ると塞ぎ込み始めることは誰にでも起こり得ることだ。エクトルも、先週の休日初日には月曜日に思いを馳せるには至らなかった。
今回、敢えて休日二日間の一日目の段階から煩悶しているのは、次に訪れる仕事の開始が通常に収まらないからだ。
奇天烈な人間問題のストレスは茶飯事なのである意味懸念材料に入らない。いよいよ次週から工房特有の繁忙期を迎えるため、不安で仕様がないのである。
モヒカンの現場監督に、来週から年内山場である繁忙期の幕切りだ、と通知された時は、毎日の状況より恐ろしい地獄があるのかと一瞬、目の前が真っ暗になった。
繁忙期など未経験だ。これ以上、日々を乗り越えて行く勇気がない。
だが、現在休暇を共に過ごす紳士にとっては全く無関係な憂いだ。個人的な物事として、内側だけに仕舞っておけばいい。内容自体、今から気を揉んでも仕方がない件であるし、場を盛り下げることのないよう口にも顔にも出すべきではないのだ。洞察力の高そうな対面の紳士も、落ち着かなげな少年の雰囲気に感づいた様子はない。
なのに、己の舌は後ろ向きな切り口を繰り出していた。
「ベヌンさん、僕、こんな爽やかな朝なのに、今から月曜日のことばかり気になってしまって憂鬱なんです。一緒に楽しむべき時で、とても失礼なことだとはわかっているんですが。どうしたら良いんでしょう?」
ハクビシン先輩を相手にする時と同様、甘えて良いような気がしているのだろう。結局、依頼心を呼び起こすような相手には身勝手にも、我儘を抑えられない性質だということか。暮らしている町の環境の不満だけではなく、ついに自己の不遇に対する愚痴まで紳士に対し吐露してしまった。優しくしてくれるとは言え、立ち位置はあくまで宿泊客なのだ。人生相談等持ち掛けてどうするのかと内面を叱咤するも、情動が理性を越えて零れ落ちてくる。
「おや? 仕事の心配かね? 君は見習い人なのだろう? 行く先、行く先が不安になるのは自然な心だと思うがね。反省したり恥じたりすることではない、休日だからと言って不快なものか。思う存分、聞かせてくれて構わない。話している内に、解決の糸口が見つかることもあるからね」
いけない、とエクトルは自省した。紳士の励ましは少年にとっての甘言、慰めとして一層依頼心を刺激する。だが一方で、〝聞かせてくれて構わない〟と配慮を利かせてくれた親切に対しては素直に応じるべきだろうという考えも過った。
ひょっとすると紳士は、数日自分と交流を重ねる中で、エクトルのことをネガティブに思考する傾向の人間性だと見抜き、割り切っているのかもしれない。
振り返れば、確かに毎度の食事の席等で、無意識の内に悩ましい事柄ばかり垂れ流していたような気もする。聡明な彼の前では、治療に時間を要する難儀を隠そうとしても無意味なのだろう。
エクトル一拍置いて深呼吸すると、訳の詳細を語り始めた。
一方通行に等しい稚拙な愚痴の奔流を、紳士は穏やかな微笑を湛えながら無言で聞いていた。
途中、呼吸を入れるため一旦言葉を切った時、紳士は微笑を口元に載せたままポツリと口を挟んだ。
「……君は、仕事が嫌いなのかい?」
「え?」
これまでも不意を打たれる場面はあった。しかし、普段より婉曲的な言い回しを用いる紳士らしからぬ直截的な問い方に、一瞬脳が愕然と硬直する。
「……どうして、そうだと思うんですか?」
辛うじて紡ぎ出せた問いの返しは、掠れた声でよろよろと空気に溶けた。繁忙期を思い遣られることを理由に辛いとして伝えていないはずなのに、何故好き嫌いの判断を誘ったのか。また何やら、無意識の内に余計な感情を吐き出してしまったのだろうか。
「多忙な時期は、もちろん、誰にでも重く圧し掛かって辛いものだ。私も以前、人手が追い付かぬという理由で、就学期間にも関わらず父と重役の廷臣達で執り行うはずの政務に駆り出される経験があったから苦労は理解できるさ。私が今のように尋ねたのは、不安を口にする君の言葉の中に、忙しさへの憂いとは別のものを感じ取ったからだ。今まで以上に機敏に手を動かすことへの要求に付いて行けるか否かについての話をしつつ、他者との関係性を思い煩うかのような言い回しがあった。〝もし今度ミスを犯したら、指導係の先輩工房員の陰口が増える〟だろう、とか、〝現場監督に悪い印象を言い触らされて、見習い期間打ち切りに持ちこまれるのでは〟などとね……。君が、不当に上の者達から怖い思いをさせられていると言うのなら、すぐにでも先生に申告なりして、改善する必要はあると思う。だが、冷笑的な節が覗く感じも拭えなかった……。まるで、仕事内容それ自体の大変さよりも、自らを取り巻く環境に重点を置いたかのような不安語りのようにも聞こえたんだ。真相は違っていて、君を傷付けることになっていたらすまない、だが、私自身が受け止めた嘘偽りない印象を伝えると、以上の通りになるのだ。仕事そのものは君の嗜好で選んでいるようなのに、奇妙な矛盾を感じるようでね。」
エクトルは羞恥を忍ぶと共に歯噛みした。ハクビシン先輩とのやりとりの二の舞いだ。最も強く思念している事項は、気を許していると無意識下に露呈してしまうらしい。上品な気遣いが感じられる口調ではあったが、ほぼ直入に核心を突いていた。恐らく自分は多忙に見舞われても、人間関係さえ無難か平穏ならば、懸念を吐き出す程には至らず粛々と取り組む気概でいただろう。
だがエクトルは、紳士の鋭い考察を素直に認め切りたくはなかった。認めてしまえば、大して努力もしていないのに、上司に当て擦りを続けている劣等生という印象を与えてしまうのではないか。
今日までも一緒の食事の席で、職場の悩みをさりげなく口にすることはあった。しかし、なるべく人間関係に触れるのは避けて来た。正直に打ち明ければ、根本にある醜い原因がばれてしまう。それだけは、何とかして確実なものと知られたくはなかった。
故に、荒技だが〝本当の別の理由〟というものを編み出すことにした。
「ははー、参りましたねえ、ベヌンさんてば鋭いお人だ。僕はね、何も職場の先輩方が煩わしくて、彼らに纏わる過剰な心配事を挙げてしまったのではないのです。僕が、変に関係の悪化等を不安に思うのは、彼らが筋金入りの職人堅きな人達だからです。熱血が故の彼らの強い態度を見ていると、おっちょこちょいをやらかすことで彼らの不要な苛立ちを煽り、師匠と弟子の関係性を壊してしまうのではないかと、怖くて怖くてたまらないのです。本当に周りは、凄い技術力の人達ばかりで……。素人なのだから焦っても仕方ないのですが、気づけば周囲と見比べて遅れを意識してしまう。なかなか向上に至らない現在がもどかしくて、この有様では繁忙期という猫の手も借りたい時期に、本物のお荷物になってしまうのではないかと……つい、最悪の事態を思い浮かべずにはいられないのです」
苦し紛れな代物である。嘘八百も良いところだ。だが、恥ずべき醜性を持つ存在として認知されるよりは遥かにマシだ。歪でも、先達を立てるような姿勢を見せておけば丸く収まるだろう。
また、ある意味で模範解答のようだとも思う。滑稽さに噴き出してしまいそうだ。委託で製造されるだけの品を扱う場だ。職人の技術力などあったものではない。
仮にあったとしても、周囲は目も合わせたくない人格の失墜した連中なのだ。彼らの手つきなど、わざわざ貴重で乏しい視力を割いて観察しようと思った試しがない。故に、知りようもない。
他人の能力がいかほどかなど、そもそも確かめたことがない。忌むことはあれど、妬むことなどあるものか。
憧れのハクビシン先輩は、と問われると答えあぐねる。彼女とは、まだ仕事の席を並べられたことがない。明日の身すら、わからぬ段階では未来図さえ描きようがない――
「なるほど。そうか、君は関係の悪化を極度に恐れて、繁忙になること以外の要素も酷く心配していたのだね。周囲との協調も無論大切だ。私も王政修業をしている中で、常に思い知らされるよ」
幸い、下手な言い繕いも正当な理由として受容してくれたようだ。薄紅色の唇に軽い苦笑が漂う。艶やかな透明感に満ちた麗貌を、エクトルは穴が開くほど見つめながら聞き入っていた。
「だが、周りを意識し過ぎると、気の方が立ってしまって磨きたいと思った力も麻痺してしまうかもしれない……。この間も言ったが、誰にでも領分がある。抜きん出ようと急ぐことも大事だが、己のペースを大事にするべきでもある。己が向上するには次にどうすれば良いか、方法が見えてくるはずだ。人と人の関係の方は、良かれと思った行動でさえどう転ぶかわからぬものだしね」
「両立が、必要だということですか」
エクトルにとっても、技術力を向上させたいのは本音だ。一からの創造ではなく、任された製作でも、上手に出来上がった物と下手に出来上がったものでは言うまでも無く受け取る側の信頼度は差が開くだろう。
「そうとも言えるね。大家殿もこんな話をしていたな」
「大家さんが?」
思わぬタイミングで、またもや自分の知らない彼女と紳士の交流秘話を聞けるらしい。やや色気のある方向を期待したが、割と真面目な内容だった。
「彼女はフラワーアレンジメントの教室に通っているそうだね。そこで君と同じような悩みを抱くようだ。目を瞠るほど上達の早い生徒が何人かいて、その一人が友人だったりすると、仲が良かったのについ妬みが湧いて、いつか関係がこじれることがあるのではないかとね……。ふと、午後のお茶の席で聞かせていただいたよ」
婦人はフラワーアレンジメントで作ったブーケや花輪を、インテリアとして飾っている。エクトルの素人目には充分素晴らしい出来栄えに見えて、アクセントになって周囲が華やぐようだと関心していたものだが、彼女も物を作る人として避けて通れない悩みを抱えてとは意外だ。気風が良く、大らかに振舞う婦人には似つかわしくなさそうな心模様だとは思った。どうやら紳士は、会話の相手をする者全てに対し心の澱を溶き解す効果をもたらすらしい。
快活な婦人も、子どもの自分には良い所を見せようとして強がりの仮面を被っているのかもしれない。紳士の言葉は、自然と深奥の苦悩を導き出したのだろう。
エクトルの抱える真の苦悩は、無論婦人とは別物なのだが、紳士には同種のものと思わせていたかった。紳士には相手を親身にさせる才能もあるが、同時に相手を背伸びさせようと力ませる作用もあると少年は考えている。
「私は専門家ではない。故に、正解となる完成形とは何か判断する術も資格も持たないが、この数日間で知り得たことがある。大家殿は、紛れもない、たゆまぬ研鑽を下地から大切にする人だと……」
「? どういう意味ですか?」
恒例の、やや詩的な言い回しをする紳士に問う。自分も、婦人は地道に取り組むタイプだとは思うが、下地とはどういうことか。何より、その言葉が自分にとっても参考として活きて来るのではないかという期待も込めて答えを求める。
「庭をごらん」
唐突だったが、特に動揺せずエクトルは頭を巡らす。円卓付近の窓越しには、水遣りを終えたらしい婦人が花の収穫に取りかかっている様子が見えた。
「あの庭に植わっているものは、全て大家殿がフラワーアレンジメントに使うための花だそうだ。私は植物には詳しくないのだが、土や花に触れてみて確信したよ。土の具合、花弁の色つき方や茎の強さ……日光の当たり方や肥料について、工夫と研究を重ねられた上で育てられているとね」
「触れる機会があったんですか?」
「時折、申し出て水遣りや植え替えを手伝わせてもらったんだ。私は歴史研究に関心はあったが、植物学にはしっかりと関心を向けたことがなかったから勉強になったよ。この惑星の植生や土の性質について、軽度だが知ることができたからね」
これには面喰らった。家事手伝いをして婦人を喜ばせているとは聞かされていたが、庭手伝いも含まれていたらしい。
料理の手伝いもして、植物の世話の手伝いまで進んでやるとはキメ細やかな心意気である。完璧とは、この人のためにある言葉ではないか。
美しい花々に、温かな眼差しを注ぎながら手を添える姿などさぞ立派な絵になるだろう。どのような場合であれ絵になる人物ではあるが、彼と同じく生まれながらに華やかな存在との組み合わせはより絶大に違いない。大袈裟に酔いしれる婦人の陶然とした表情が目に浮かぶようだ。
ちなみにエクトルが今まで庭手伝いをしたことはない。門外漢の自分が繊細な花壇を触ってはまずいという思いと、手伝いも特に要求されていなかったという両方の点があったためだ。本当に子どもには触れて欲しくなかったという理由が有力だろう。紳士には積極的に許可を出すのだから。
「土台がしっかりしているから、見たまえ、花の一本一本が、バランスを欠くことなく、整然としつつ個性を醸した配置を見せて優雅に咲き誇っている……。彼女は、良き材料を作り上げることに長けた人だとわかるんだ。綺麗で質の良い花を育てることは、フラワーアレンジメントを行うための重要な下地と言えるだろう」
「下地って、なるほどそう言うことですか」
エクトルは納得した。
「彼女は、製作に悩み、苦労しているのだと思う。しかし、こうして下地を固める努力を怠らず励んでいる……。ならばきっと、彼女のペースで、彼女にとっての最上な輝く品が出来上がるだろう……」
エクトルも花には詳しくないし、特別関心もない。しかし、言われて眺めてみると、プロの経営する植物園に勝るとも劣らぬ賑わいと鮮やかさがあった。独学で相当な修練を積んだのだろう。婦人が大学時代に専攻していたのは観光学だったと聞く。
「エクトル君も、エクトル君自身のペースで挑めば良い。君のペースで、どんな下地を作り上げたい?」
「僕の、下地……」
問いかけの中のフレーズを繰り返すだけで、思考停止する。今、自身にとって優先度の高い要対策案件はおぞましい人間関係だ。技能であれば、黙々と練習を積めば微量でも進歩は得られるだろう。しかし、対人間ではわからない。ガイド本を何冊も読み漁れば良いのか、ハクビシン先輩のような味方らしき存在をネットでも駆使して募れば良いのか――。何だか、取り留めがない。
すぐに解答を出せる件でないことは、紳士もわかっているのだろう。追及することはせず、ちょうど庭仕事から戻って来た婦人の方へ話しかけていた。これから朝食の支度にかかるというので、手伝いを申し出ているらしい。今更なのか婦人も大仰に遠慮せず、むしろ美形の紳士と料理を共に出来る日々が出来て楽しいと満面の笑顔で快諾していた。婦人は、婦人ならではの方法で紳士と仲を深める道を見つけたのだ。羨ましがっているだけではいけないと、焚きつけられた気がした。
朝食のメニューは、定番の厚切りベーコンエッグに、スープとパンだった。婦人手作りのハーブとドライフルーツをブレンドした紅茶つきだ。
紳士はメインでスープを担当したらしい。香草の効いたソーセージに、ミニキャベツ等の野菜が豊富に入ったトマトスープで、出掛ける前の体力付けにぴったりな活力漲る具沢山な中身だ。起き抜けでも食べ易いようにという工夫なのか、濃厚ではなく酸味の仄かなさっぱりとした風味だった。視界の鮮やかさを演出することを忘れずとも、穏やかに調和の取れた印象が何となく紳士らしいなとエクトルは思った。
主食のパンはジャガイモを練り込んだブリオッシュである。これは近所のスーパーで売られている物だが、婦人がレンジで良いさっくり加減に焼き上げてくれたらしい。腔内にジャガイモの柔らかさとほっくりとした味わい、焼き立てパンの小気味ある触感が円やかに融合して広がった。
紳士は、婦人の丹精込めた紅茶を特に楽しみにしていた様子だった。物静かに瞼を伏せながら、緩やかに口の中へと押し流して味わっている。
流れる都度、逞しく盛り上がった喉仏が上下する。エクトルは何故かそこに注意が向いて、また訳も無く後ろめたい感情が誘発される。喉仏の動きに、官能的なものを感じ取ってしまったのだ。朝食の最中にまで、何を連想しているのか。
当たり前だが、この際も当人が隣席の人物の不審さに感づいた気配はない。彼はやや厚みを有した唇を湿しつつ、満足げに紅茶の感想を洩らした。
「こんなに美味しく温かい紅茶を飲んで、元気が出ないはずがない。エクトル君、今日も私達は歩んで行ける。君の御友人に会うのも楽しみだ、さあ、食事を済ませたら早速博物館へ向かおう」
促して、力強く頬笑みかけた。エクトルも膨らみかけていた疾しい気分を打ち消して、力を込めた笑顔で応じる。
「ベヌンさんこそ、ありがとう。あなたの作ったトマトスープ、最高です。また御馳走させてくださいね」
礼を言ったら、気のせいかもしれないが、紳士の瞳の下がほんのり桃色に滲んだように見えた。まさか、照れているのだろうか。だとしたら、貴重な名場面だ。手元にサーモグラフィーを用意できるなら、ぜひとも計測したかったところだ。
エクトルは、まるで一生に一度しか食べられない貴重な御馳走でも味わうように、自分の器の中で残り僅かとなった赤いスープを丹念に掻き集めた。
家を出てから数分も経たぬ頃、ふと紳士は少年に切り出した。
「今度は君からも話を聞きたいな。私は私のことを伝えたけれど、残念ながら君のことは仕事のこと以外に何も聞けていない。出会ってから数日も経つというのに。君は、学校にも通っている身分だというが、朝から夕方まで仕事に出掛けているという状態なのがいまひとつ解らなくてね。どのような仕組みなのか、ぜひとも知りたいところだ」
(おや。そう言えば、プライベートな自分のことはまともに話していなかったけ)
相手が物珍しい出で立ちの紳士だけに、うっかり聞き出すことばかりに気を取られて、自分自身のことはろくに伝えられていなかった。これでは、エクトルが嫌う不公平そのものだ。仕事の件は、日頃紳士が尋ねて来たから合わせて答えていたに過ぎない。
それにしても、自分の口から正確には学生の身分であることを教えた覚えはないのに、いつのまに伝わっているのだろうか。恐らくお喋りな大家の仕業だろう。
彼女の性格からすると、紳士に突っ込むと同時に、少年の預り知らぬところで勝手に個人情報を吹き込んでいることは想像に難くない。今更なので気にするまでもなかった。伝わってしまった以上は、明瞭に話しておくべきだろう。
話は腰を落ち着けてしたいから飲食店で行おうとエクトルから切り出し、図書館から歩いて数分の距離にあるオープンテラス付きのカフェに立ち寄った。先週に訪れたのとはまた異なる店だ。
太っ腹にまたもや奢ろうと鷹揚に持ち掛ける紳士の心遣いを遮り、支払いを申し出る。見習い先で得た僅かな給料しかないが、裕福な相手とはいえ客人、何度も甘えるのは心地が悪かった。手作りの料理まで何回も頂戴している。一応は自分も働いているのだ、僅かな成果からでも尊敬できる人物の役に立ちたかった。
カフェに入る際、鳥打ち坊を被った店主の老人から「あの背の高いお方、俳優さんかスーパーモデルか何か?」と尋ねられた。偶然図書館で知り合った研究者であり、お勧めスポットの案内を頼まれているのだと誤魔化す。
容姿と雰囲気から、壮大な想像を招いたのだろう。エクトルは苦笑いを繰り返すしかなかった。
「君の現在の立場を厳密に言うと……休学して、特別に働いているということなのかな?」
紳士はまだ冷め切っていないホットレモネードを口に含みながら、改めて問い掛ける。
二人が店員に案内された席は、柵を隔てて表街道に面したオープンテラスだった。パラソルを中心に立てた円いテーブルを挟み、行き交う軽自動車や向こう岸の軒並みを時折見遣りながら会話をしている。
「いえ。休学しているというわけではないんです。学童期のカリキュラムに組み込まれているんですよ。僕らの“国”には、十三歳から十五歳になるまでの三年間、“社会の小さき見習い人”と言って、短い職業体験期間が社会制度として義務付けられているんです。体験といっても、給与が支払われるので、実質アルバイトのようなものです。興味のあるものを選択して、未成年の内に、仕事をする感覚を本格的に肌で知っておいてもらってから、成人期の進路選択をさせようという考え方なんですね。できるだけ多くの子ども達に、いざ社会に出てから『こんなはずじゃなかった』とギャップを理由にすぐ辞めてしまうような人間に成長してほしくないんでしょう」
数日以上に渡り共同生活を送る間柄から、現在修業の身分として学生をしつつ仕事をしているとは伝えていたが、具体的な内容を説明するのはこれが初めてだ。
「なるほど。学童として過ごす間に、学習の一環としての“労働期間”が組み込まれているというわけか。制度としてね」
「そう言うことです。でなきゃ過保護に育てられた裕福な家の子女なんて、仕事知らずで生涯を終える可能性がありますよ。どんな大富豪でも制度からは逃れられません」
〝社会の小さき見習い人”――エクトルの住む惑星国家に設置された社会制度の通称だ。入植が落ち着いて平均寿命が高まると同時に、国の定める要就学期(が18歳までとなるが、その間に義務として職業体験期間が設けられるようになった。13歳から15歳になるまでの3年間が該当する。狙いは、就学期を終了後、社会人になる段階になって想像と現実の落差に呆気なく打ちのめされ、引き下がるような若者の人口を減らそうというものだ。
多感な時期に埋め合わせをしておけば、冷静な思考で職業選択ができる若者が増えるだろうという予測のもとに成立したが、当初から学会では特定の職種に対して人材不足が加速するのではないかという批判や、早くに良い面も悪い面も知っておくことで覚悟を持って臨む志願者を見込めるという評価と半々あった。現在も一定の是非を受けながら続行されている状態である。
エクトルが口にした通り、体験と称するものの立派な労働時間と変わりなく、安いが給与もあるので一定の責任は課せられる。抜群に優秀だったものが将来のポストを約束されるといった特別待遇はない。
エクトルは正確にはこの“社会の小さき見習い人”として就職している立場である。両親が話してくれたイメージから将来の安定した就職先として決める一手にしようとまで考えていたが、現在では“正式者”と“非正式者”といった区分の存在など個人の能力とは無関係な待遇差が敷かれていると知ったため、早くも幻滅して自身の人生まで悲観し始めている最中だ。因みにこの弱音までは相手に漏らせなかった。今日までも散々、愚痴を滑らせてしまってはいるが、自身の務めに関する事については無様を晒したくないという気持ちが働いたのだ。
「私の方こそ失礼した。つい先入観に基づいて話を切り出してしまったね。生物とはどんなに知識を蓄え年月を刻もうとも、己を育んだ社会通念から抜け出し難いものだ。幾多もの〝常識〟があると学ぶために、あらゆる星の土を踏んできたつもりだがやはり足りないな」
髪を軽く梳くように頭を掻く仕種をしながら、ベヌンは詫びを入れる。
「め、滅相もありません……。僕こそお恥ずかしい。気付かない内に固定観念の支配中に置かれていて、切り開く術を閃けないのが現在の我が身です。貴方と出会えたことで、日々新たな知見を学び得ています」
「恐縮だね。喜ばしい言葉だが、買い被られる程ではないさ。決して、知見の多さが見る目の良さに結び付くわけではない。真摯に摂取しようとするまっさらな状態からも、広く見えてくるものがある。私からも、君には感謝の日々さ」
エクトルは、高揚に顔が熱くなるのを抑えられなかった。だが、今や心地良さに甘え委ねても構わないだろうという気になっている。紳士の好意には素直でいるのが最上の礼儀だと知ったのだ。謙虚も過ぎると嫌味になると言うし、返って失礼にしてどうすると言うのか。
紳士はメモを取っていた。〝見習い人制度〟の話も遊学業における取材として書き留めておこうと思ったのだろう。
彼の使用する筆記具は、今や原初的と言われる万年筆だった。全身が手触りの良さそうなである。
少年は意外に受け止める。彼の社会では、手製の筆記具は傍流の少数派という位置付けだ。特に大都市圏では過去の遺物扱いであり、研究者や愛好家しか使わない。あとは収集家が価値ある年代物として見ている程度だ。
「電子ペンは使われないんですね……」
唐突な少年の問いに、紳士は不快さを感じた風もなく鷹揚に答えた。
「実地で動かす感触が素晴らしいんだ。実際に目で観たことは、手で作られたものを使って、できるだけ自身の手指を動かして記録したい。録画機能のある電子時計は便利だが、何となく旅の実感が伴わなくてね」
走らせていた万年筆を一旦停めたところで、紳士は新たな問いを投げた。
「ふむ……。学童期に相当する年少の内から、社会組織に入り修業を体験するか……。それは、同業組合の徒弟制度とは異なるのかな?」
「徒弟制度? なるほど、言われてみれば似てるかも……。う~ん、でもギルドの徒弟制度って言うと、何となく中世っぽいですね~」
エクトルは、端的な評価を耳にした瞬間のベヌンが僅かに眉根を寄せたのには気づかなかった。軽薄めいた受け答えと同じ調子の顔色で顎に指をあてて、一瞬空を見上げる仕種をする。
「徒弟制度は必ずしも時代的な制約にあるわけではないよ。一か月前に訪れた銀河系の地域では、強固で土着的な安定した暮らしが維持されていた。ある地域から見れば、それは発展途上の手法に映るのかもしれない。しかし、家族単位で代々産業を守り、繊細な技術を継承するのに成功していることも進化の有り方の内だと私は思うがね。一つの正しく素晴らしい形だ……」
不理解な態度を取るエクトルにも、ベヌンはあくまで穏和に辛抱強く意義を説く。
「本来なら、お互いに時間が許すのであれば、ぜひ君と旅行に出発し実際に行われている土地を見るのが一番なのだろうけどね。百聞は一見に如かずとは真実だよ、何時だって良い、何時か君自身が選んだ旅先に似た場所があれば、じかにその姿を味わってもらいたいな……」
尖った顎下を撫でつつ紡ぐ声音は、安定してまろやかだ。聞かせる時の表情もあくまで涼しげで、少年を責め苛む意図は微塵も感じられない。
説教をしたいというより、知らないままの相手に上手く伝えられないのが残念だと、むしろ自責の念を漂わせる口調である。
だが、劣等感に襲われる常癖の持ち主には、罪悪感のような居心地の悪さ催させるに充分だった。
(あ~くそ~。僕の不勉強と視野の狭さが浮き彫りになるばかりじゃないか……。大学生でもないのに、こんな問答に挑戦するんじゃなかった)
赤っ恥を掻いたことを隠すように、次の瞬間にはわざとらしく胸を張った。
「ベヌンさん。僕、今回の見習い業務で溜めたお金を見学旅行に活かそうと思います。貴方に負けないように有意義な計画を立てて、見聞を高めて見せますよ!」
表面では殊勝に頷く態度を取ってみせた。意趣返しというわけではないが、どうせ経験の足りない若輩者が工夫を凝らそうとしたところで下らない墓穴を掘り進めるだけだ。
また、往生際の悪い悔しさを感じる一方で、何か熱く刺激されるものがあった。今の台詞が決して出任せではなく、本当に実現させたい欲求として体内の奥底に眠っていたのかもしれない。
今日まで彼の旅話を聞く内にいつしか、自らも赴きたいと願う積極性がもたげたのか。メディアを通して得れば今まで満足だったはずなのに、微かではあるが、心境に変化が訪れているようだ。
「なんならベヌンさん、今度はあなたのおクニについて聞かせてもらう番だ。あなたの惑星国家の教育制度について、差し支えのない程度に教えていただけませんか?」
薄々気になっていた事柄だ。物のついでとばかりに問うてみる。
すると、陶製人形めいた顔立ちを困惑にやや緩めながら、答えた。
「難題だな。私の故郷の教育制度というのも、実に多様でね。属性によって仕組みを大幅に変えたりしているからややこしく、論じ切れるかわからない。政務を取る生まれでありながら、まだまだ浅学で申し訳ない」
「いや、厳しかったですね、こちらこそ申し訳ないです」
〝属性〟という言い方に内心で首を傾げた。ベヌン氏の住む惑星は、彼と同じ種族のみの法治国家ではなく多種族により形成された法治国家だということだろうか。デリケートな問題に当たると思われたので、触れることは控えた。
「強いて確かに伝えられることがあるとすれば、私個人の就学経験に基づくものになるが、構わないかね」
「構いませんとも! それこそ、最もお聞かせ願いたいです!」
妙に語気を強めて瞳を煌めかせている少年を前に、どこか眩しげに目を細めて微笑しながら紳士は続けた。
「皇族を始め、経世を生業とする位置の出身者は、君達の種族で換算した場合の十代を迎える時分までは、家庭教育を受けることになっている。以後は、親元を離れて相応の期間を寄宿制で過ごす。最終義務学府が皇立大学校となっているが、将来学者業も志すなら任意で大学院へ行くことができる」
「おや? 王侯貴族で学者を兼業することって、あるんですか?」
やはり惑星ごとの違いは面白いと興奮しつつ、冷静を装ってエクトルは尋ねる。
「あるさ。隠居側の身内が許可をくれればね。責任の重い身の上だから、決して自由な選択はできない」
「隠居? ご隠居さんが強いんですか? やっぱり身分の高い世界って?」
属性に続き、不思議な単語が飛び出した。上下関係の厳しい複雑さが付き纏うのは、こちらの惑星にも存在する形態と変わりないのだろうか。
「まあ、つまりはそのような意味さ。私も、昔は学者になりたくてね、大学院まで進んだんだ。勘当される危険を犯しても専業に就きたかったぐらいだ。父の病気を知って諦めたがね……。修了を迎えるまで千年は過ごしたかな。博士号は五百年いれば修得は容易かったが、個人的にもう少し究めたい事柄があって、あと五百年の在学申請を出したんだ。実家に対しても勇気のいる行為だったが、当時同じ進路を選んでいた現在の恋人が隣接する研究室にいてね、寄り添って励ましてくれたから、心強かったよ」
「大学院にいるにしても留年するにしても、在学期間が変に長過ぎなませんか? ……とは僕も、今更突っ込みませんよ、口には出しちゃいましたけど」
片手で額を抑えながら、呆れた心地で口元を歪ませる。教育制度の定められた期間にまで年齢感覚の違いが及ぶとは、つくづく恐ろしいという思いは否めない。
紳士は快い笑みで返した。
「君には莫大なスケールの話になってしまったな。だが誤魔化しようも無い実際にあった期間だからね。なにせ、一万光年歳を越えて初めて一人前の成人として認められるのだ。私にとってはあっと言う間ではあるが、確かに種族によっては幾回もの世代交代が行われる長さとなるだろう」
自治体の代表者が交替した程度の調子で淡々と告げられるのに、改めてエクトルは驚愕の声を上げたくなった。
「当然ですよ、以前、地形変化を例に出しましたけど、新陳代謝を気の遠くなる程繰り返すのは惑星だけじゃない。その中に一つの安定した人類の王朝があったとして、誕生から衰退を辿るまでに匹敵する長帳場だ。大雑把な計算ですが、だいたい王様が50回ぐらい継承の儀式を行っている間、ずっと学生やってったってことになりますからね!? どんだけ勉強すれば気が済むんですかと訊かざるを得ませんよ。僕だったら、絶対に御免です!」
大分、無遠慮且つ野暮な物言いだが省みる余裕はない。今度は両手で髪を鷲掴みながら頭を抱え出した少年にも、紳士は落ち着いた態度を崩さなかった。
「はは、確かにある種族の時間感覚で測るなら、地獄とも言えるかもしれないね。学問が苦手ではないなら最高の時間だが」
「あと、もうすぐ百万光年歳になるっておっしゃってましたよね。修了された時はお幾つだったんですか?」
「三千歳だったかな。修了してから程なくして、遊学期間に入った。そうすると、今日で約七千年目を迎えることになるね。年代計測器で調べれば、より精密な数値がわかるのだが面目ない」
自らの白い頬に長い指を押し当てながら真顔で語る。
エクトルは思わず軽い呻きを洩らしてしまった。大河ロマンのような時間感覚を生きていれば、次に再会した知人が知人の子どもだったという事件ぐらい、ざらに発生し得るだろう。相対的に寿命の長い生物の方が少ないのだから、ベヌン氏などはさぞ凄まじい苦労を強いられたと思われる。
だが、昨日掻間見た彼の特別な力のことを思うと、さもありなんとは頷けなくもない。というか、どうせ自分達普通の人間では掴める時間感覚ではないので、逐一驚嘆に戦くのも馬鹿馬鹿しく面倒になってくる感じだった。生物現象の一種として存在するらしいと気楽に受け止めより対処法はないだろう。数学の公式を覚える時のように、決められた世の中の事実として呑んでおけばいいのだ。
しかし、そのように処理仕掛けていたところで、ふいに、今し方自分と送る毎日が紳士にどう見えているのか気になった。以前は相手に映る己の人物像唯一点を心配していたが、紳士の属性に照らすなら、エクトルと過ごす時間感覚についても合わせて考慮すべきなのだ。
自分にとっては掛け替えのない観光の日々も、紳士には毎分、いや、毎秒の短さで倍速に流れている可能性がある。盛んに日常普遍の尊重を提唱する方針を裏付ける一つに、このような生物的特性も関係しているのかもしれない。
「言ったじゃないか。銀河は広いのだと。君が紹介してくれた星渡りの習性を持つ種族がいるように、私のような惑星と同じ長さの命を賜った種族もいる。ひょっとしたら、探せば他にもいるのかもしれない。かつて、君の言語で言うところの文明発祥惑星には、大妖精族という存在が伝承と残されているそうだ。私の見識の段階では、文芸においての確認に留まるのが惜しいが、単なる想像として済ますことは今や不可能だろう」
呻き声を上げて戸惑っている姿を気遣われたものか。紳士は念を押すように、一週間前に告げた事象を新たな言葉で説いてくれた。途中で急に互いの時間差について思いを馳せ、憂鬱じみた念を起したことは察しなかったらしい。
「そろそろ昼食時に差し掛かりそうですし、ランチメニューを頼みませんか?博物館は午後五時までの開館なので、まだ余裕があります」
紳士の同意を確認したエクトルは、皿の回収で歩いていたマスターを呼び止めて注文した。彼と話していると時間経過を失念しかけるほど面白く、他の事柄についても論じ合いたくなってくる。自然と長くなりそうなムードでもあり、このカフェにいる内に昼食を取っておくべきだと判断した。
友のイローニには予め来ると連絡していないので、待ち合わせを気にする必要はない。第一、相手は博物館にていつも通り勤務中なのだから、仕事の抜け出しを要求することにもなる訳だ。却って支障が出て迷惑だろう。
「話は変わりますが、ベヌンさんは、完全なる機械化動員についてどう思われますか?」
「機械化動員?」
ベヌン氏は、昼食の飲み物として頼んでいた紅茶のカップから目線を上げて聞き返す。
「実はぼくの働いている工房、社会環境の変化の煽りを受けて、働き手の境遇が悪化しているんです。とにかく人件費を抑えようって動きで。給金を減らすばかりか、職人全てがその工房からの直接雇用された者ですらない。正式に属するのは経営部門だけという有様。末端の〝見習い人〟も洩れなく同状です。このまま抑制が続けば、最悪、人を雇うことすら辞めて、全作業工程を機械化する体制になってしまうかもしれない。導入費用の問題から今のところ阻まれているだけであって……。僕は由々しき事態だと危惧しています。便利な機器の導入で仕事の効率が上がるのは必要なことですから、致し方ありません。でも、もし機械の調子が崩れた時、修理・整備・点検するのは最終的に人の力じゃないですか。専門のメンテナンス士がいない間は、工房人が機械を見張っていなければいけないはずです。ちまちま読み辛いマニュアルを手繰りながらで、知識も定かじゃないのに。だから人の目がある内は良いが、完全動員になってしまったら終わりだ。人の入る余地がなくなってしまう。僕は将来、憧れていた場を捨てなければいけないかもしれない……」
尻窄みに言い終わる時には、俯き気味にうなだれる。
その少年の様子を暫く真っ直ぐ見つめた後、紳士は一瞬の間を溜めて呟きかけた。
「そこが君の、大きな悩みどころの一つなのだね」
エクトルは俯いたまま、力なく頷く。
「私も、手作りの文化が消失していく流れには憂慮している。尊重されていた立場が冷遇されていくことにもね。だが、君の場合にはまだ希望が残されている」
「希望?」
「確かに、人の生活費の抑制など断じて好ましからざる行為だ。しかし、現状、機動人形に作り手を全任しようとしていないだけ、人を愛する風潮は生きながらえていると受け取れるのではないだろうか。 完全機械化の話も、あくまで現段階では予測されることであって、確定したことではない。現にまだ、人である見習いを募集する習慣がある」
「くさいですよ、そんな表現。愛ですって? 愛しようが冷たくしようが、生活が難しくなるのに変わりはないでしょ」
気づけば反射的に言い放っている。
急にそんな冷たい文句が飛び出すことに、自身でも仰天した。今時フィクションでも聞かないようなベタな甘い言葉を耳にした途端、咄嗟に勘を揺さぶられたのかもしれない。しかし一方で脳裏を過るのは、幾度となく紳士が繰り返していた想念だ。直球に実感の伝わる生活の形が存在していることこそ感心に値する――あの言葉には、愛の存在も意味として含まれていたということか。
「愛を悲観的に考えてはいけない。ロボットを権利者と見做し、共生を実現させた社会も見て来た。現実主義の君には、詳細なレポートを作っておいて渡すべきだったかもしれないな」
露骨に罵倒じみた言葉を受けても、紳士には一片の怒りも浮かばなかった。
表情も口調も、聖人のように穏やかで優しげなままだ。彼の一際なチャームポイントである青の宝石の如き双瞳は、清明に澄み切って淀みない。見つめられていると、僅かに罪悪感が炙り出されるような慄きが駆け抜ける。
「それはおおいに興味があるところではありますよ。純粋な関心事という点ではね。僕も、ぜひベヌンさんのレポートを読んでみたかったです」
平然とした態度を取り繕って答える。ロボットの共生社会そのものに対して素直な関心があるのは紛うことなき本音だ。ただそれは、あくまで夢に溢れた空想物語を楽しむ幼心のフィルターを通した場合である。現実中において、自身の環境を侵食し得るのなら別だ。
「レポートの代わりとして、一例に、ある文明惑星の歴史を紹介しよう。完全な身分平等と働き手不足の解消を実現するため、上位階級に対し使用人制度を廃止しつつ、代わりに人工知能搭載型機械人形を家事用機具として配備する習慣を敷いた。更には使用人だけではなく、莫大な人の労力を必要とする過酷な労働環境も根絶すべきだと、多分野に活用できる人工知能搭載のロボット研究が盛んになり、該当職種も自動人形が全て担うものとなった。膨大な機械人形の修理工員が必要になるという課題が浮上したがね」
僅かとなっていたジュースを一息に飲み干したところで、口を継ぐ。
「当然ですよ。本末転倒じゃないですか」
「その通り。しかし現在この問題は、この星において過去のものとなっている。
以後、新たな対策が打ち出されたのさ。 人口的知能だけではなく、人口的な人格機能を開発することに成功したんだ。すると、やがて労働力の補充だけではなく、社会に属する人権所有者の一員と見做す考えが生じた。人格機能搭載型機械人形の中に、医療業に就く者も現れたが、彼らが機械人形達を治療する役割を主に担うことになった。つまり、機械が機械を修理・整備する仕組みが実現したんだ」
「なんですって! そこまで進展している文明世界があるんですか!?」
かつて、文明発祥惑星においてシンギュラリティという現象が予想されたことがあると聞く。人間を凌ぐ知性を所有した人工知能が出現し、人間社会に影響を及ぼすというものだ。提唱されてから何万年も経過しているが、他惑星移植開始の時代まで実現し得なかったのか、はたまた技術開発が途絶えたのか、エクトルの惑星文明圏では未だに遠い話として位置している。エクトルからしても、空想科学物語を聞いている感覚だ。
だが一方で実際に、ロボットに意志を付与して自立させるテ技術クノロジー、果てはその下で製作された彼らに社会権も認める文明惑星も存在しているとは。
文明発祥惑星と異なる系列故に可能な文明圏が有り得たのかもしれない。
(あ、うーん、叶わないな。他惑星の文化技術の多様性にこうも疎いなんて。魔術が社会規範として実現している高度文明圏の実在を教えてもらったばかりだというのに、一体何度発想の乏しさを露呈するのだろう。よし、もっと図書館でよく知識が集められるような本を探そう。人狼種の司書さん達の活躍を支える一助にもなるだろうしね。裏方の痛みを想像する力が必要なんだ。誰かが誰かに寄り添わねば……)
意表を突かれてばかりの有様に悔しさは拭えぬ。だが未熟さを思い知らされる恥をかく一方、真に知的な美形の貴公子だからか、不快感は半減しているのだ。
「僕だって、大学に行けば社会学を専攻するつもりですから、下手の横好きでもそれなりに吸収してるつもりなんですよ……」
無知を咎められたわけではないが、口は強がりから牽制するような意思表示をしている。
「私の遊学と同じだね。専門ではないが、関連する見聞収集を遣らずにはおれない。結構じゃないか、
二人の食事が終盤に差し掛かった。エクトルも紳士も、皿に一切れ程留めた状態である。
ふと紳士が、言葉を改めて切り出した。
「残念ながら、情勢変化、経済環境の変化を受けて、どこかが損を被るのは如何なる時もあり得ることだ。今持ち出した成功例は、裏側に陰が潜んでいた結果の産物でもある。その惑星社会では、機械人形を人口に加えねばならぬ程に、知的自然生命が減少していたんだ。エクトル君が実感することは正しくはある。頭では知っていても感情で納得できるものではないからね。私の父も、跡を継ぐ私も、全事象に対し万全たる調停を成し得られない。申し訳ない話だ」
「……みんなでやらないといけないことです。ベヌンさんの一族だけが責任を感じなくていいですよ」
おこがましいとわかっているのに、頭で考えるより先に肉声ではっきりと出ていた。
「ありがとう。君にそう言ってもらえるだけでも、肩の荷が少し降りた気分だ」
安堵するように、たおやかな瞼を一度伏せる。直後、やにわに見開き、再び蒼の光輝を灯す。
「ならば、私の方からも申し上げねばなるまい。本当に、君の直面している現状と闘うには、諦観して日々を消化するしか為す術がないのだろうか?」
痛いところを突かれた――何度目の状況か計り知れないその気恥ずかしさと気不味さを、エクトルは息を呑んで噛み締めた。
ただ目を瞬いて言葉を探しあぐねていると、尚も力強く優美な声が紡がれる。
「挽回を試みようとは思わないのかい? 自分の選んだ業には、誇りを持ちたいだろう? 厳しい展開にはなるが、物事に不安点があるなら、解決・解消できるように工夫を凝らしていくしかない。有り合わせのものを使ってもね。見習いの時期を過ぎて学生に帰れるのなら、学問を通して不足と思う知識を身につけておくこともできるし、それを活かして対策を練ることもできる。今挙げた惑星社会でも、知的自然生命の減少という悲惨な事情が差し迫るが故に、新たな一員を加えることに試行錯誤の末踏み切った。君には君の猶予が残されている。全機械化の訪れが、憧れの場から追い遣られる危機に繋がらぬ手段を発見できるかもしれない。なんなら、思い切って全方位から着手し得る領域を目指してもいい――例え小さな一歩からでもね」
(よく言うよ。初めから執政者の地位を決められてチャンスがある上に、長期間の遊学まで認めてもらっている贅沢な環境にありながら。親から就職を約束してもらってるようなもんじゃないか。それで相手の不安を語るなんて、出過ぎてるんじゃないの?)
不意にまた如何してしまったのかと、自分でも不思議になる程に反発的な文句が長々と生じた。
紳士の提案を含んだ励ましは、整然として道理に適っている。しかし、この瞬間には容易に浸透せず、脳に理解が到達しようという寸前で跳ね返されたようだ。
まるで、誇大妄想じみた大言壮語を吹き込まれたような感触が聴覚を渦巻いている。
初対面以降、ある種崇拝に似た憧憬の感情が強く、清廉潔白な印象しかなかったはずなのだ。高貴な麗人だからと半ば陶酔感に占められた判断で受け止めていた。
ところが今では何かしら、心奥より異物の如く不穏に燻っているものがある。次第に、膨れ上がりつつあった。
常識として理解はしている事柄なのだ。確かに、恰好良さに見惚れることと人物の語る理論まで綺麗に一致するとは限らないが、急に嫌味が思い掠めるなど自身を疑う。おまけに、何故一瞬でも〝出過ぎている〟と感じたのか。相手の人徳と立場を考えれば、出過ぎた真似を犯し続けているのは明らかに自分だが、如何にして不意に抗いの欲動など湧いたのか。
しかし、少なくとも今の段階においては、苛立ちに似た違和感の正体は掴めなかった。
「私にも昔、恩師と言える存在がいてね」
エクトルが自らの思考の謎に没入していると、いつしか相手の口は別の話題を持ち出していた。釣られるように、自然、傾聴する構えに切り替わる。
「ベヌンさんの御師匠に当たる人ですか!? 気になります」
ベヌン氏個人の話なら純然たる興味がある。彼を指南した人物とは、一体何者だろう?
「専属の宮廷教官がいたんだ。忠義に篤く温厚だったが、自らの主君を一人前に育て上げるためには容赦のない手段に出ることも躊躇いの無い人だった」
〝宮廷教官〟――遠のく異界を現すが如き、耳慣れぬ単語が心根の片隅を穿つ。
「ベヌンさんでも、間違いをしたことがあるんですか?」
「あるとも、もちろん。何度でも大いにね。〝間違い〟の経験も大切な成長の糧だと思っていたから、特段辛くはなかったがね」
ニヤリと、却って愉快げに口角を押し上げつつ、彼は続けた。
「青年期を迎えた日、我が一族に課された命が万事の調停と知らされて無性に怖くなってね。日課の訓練から逃げてしまったことがあったんだ。それまで楽しんでいた教育も、由々しき大事のために行われていたのだと悟り、背負いきれぬと思った。たかだか一生物に属するはずが、その種族に生れ得たというだけで全ての生きとし生ける者のために審を下すべきなのかと。身に余る責任の重さだ、これ以上続けたくないと宮廷近隣の学研都市に何日か籠っていた」
学研都市を逃げ場に選ぶ当たり、勉強好きの紳士らしいと感心する。品行方正な彼にも羽目を外した頃があったのかと邪推に似た期待を抱いてしまったが、根本から逸れない頑なさが土台にあるようだ。
「捜索部隊に連れ戻された時、父は烈火の如く激怒したが、教官は終始、静々としていてね。だが、感情を露に叱った父の言葉よりも響く言葉を、彼は我が臓腑に刻みつけた。〝誰もが生まれながらに属性故の領分を持ち合わせています。多少、異なる道筋を選択しようと願うは心の自由ですからから大いに結構。ですが、重荷に感じる理由の分析すら放棄して、感覚が嫌悪を告げるのみで徒に逃亡するのは怠惰に堕する行いだ。苦痛ならば、克服する工夫を練り続けること。同時に、苦痛に立ち向かう覚悟を培うこと。いずれの領分にも苦痛が伴うのは当然なのです、苦痛と上手に歩む行き方を模索なさい〟とね」
〝領分〟の哲学は恩師から受け継いだものだったのだ。エクトルは改めて目前の偉丈夫を仰ぎ見る。
圧倒的な秀麗さを抜きにして、彼に対し感じていた〝壁〟があるような隔たりの感覚が、今度はやや異なる色合い帯びて立ちはだかっているように見えた。
少しだけ先刻の違和感の意味が掴めた気がした。出生により確定している身分保証(境遇)への妬みだけではない。
自分に対して自信が持てないのだ。正直言って、学業の成績も振るわない、頭の回転が遅いから見習い先まで苦労を引きずっている。
学問の機会が待っていると言われても、期待の歓喜が催さぬのはそのせいだ。果たして自分は紳士のように、指南者の諫言を柔軟に受け入れ、己の教訓として律することができるのか。親愛と信頼の情を寄せているはずの先輩にすら、反目しているのに。
ありとあらゆる事に対して鈍重な自分が、些細な工夫すら図れるのか。
感化されて勇気を起こすべきところを、圧を覚えて苦しくなる。
やる気すら引き出せない我が身に、気だるい疎ましさが湧いた。口で唯、「貴重なお話、有難うございました」と定型句で結ぶのが精一杯だった。
互いに皿が空になるのを見計らって、カフェでの談議は終了となった。店内の時計も自身の腕時計も、十二時四十五分を指示している。狭い街中では目的地まで大した距離もないので焦る必要はない。
会計のために屋内のカウンターへ足を運ぶと、いきなり老店主が記念撮影を申し出て来た。
「すみませんが、ご一緒に写真をお願いできませんでしょうか」
エクトルは無頓着だったが、老店主の方は少年の弁明をろくに記憶しなかったものか、紳士の麗然とした容貌から勝手に有名人であると思い込み、浮き足立っていたようだ。二人が会話している間にも、テラスコートへ出るガラス扉から、時折そわそわと窺っていたらしい。ちょうどベヌンが向いている方向と重なるため、紳士の方は少年との対話の最中でも聡く察知していたようだ。彼は快諾した。
「我々に御好意をお寄せいただいているようで、光栄極まりないことです。喜んでお応えいたしましょう」
礼節整う会釈に、老店主は子どものようにはしゃいだ笑みを広げて礼を繰り返していた。ミーハーな人なのだろう。憮然とエクトルは呆れ返りながらも、大いに同調していた。大家の婦人と言い、彼と言い、どうすれば素直に親愛の情を表現できるのだろう。同じように振舞えれば、もう少し真っ直ぐな意識で紳士と向き合えるのにと羨まずにはいられない。
老店主が撮影のために用意したのはデジタル式の一眼レフだった。当世ではレトロなマニアの間でのみ流通する品だ。彼も万年筆を愛用する紳士同様、旧式を重んじる側面があるらしい。
「今時珍しいかもしれませんがね、御先祖さんの代より修理をしながら受け継いで来たんですよ。今のものより不便に感じられる点もあるが、触り心地に嵌りましてねえ」
丁寧にも所有理由を申し添えてくれた。
老店主はタイマーを入れたそれを、テーブルの一角に置いて既に並んでいる二人の側に意気揚々と駆け寄った。無邪気な仕種がどことなく愛嬌を誘う人物だ。
左から老店主、中央に紳士を据え、右側にエクトルが立つ配置となった。
本来、老店主の相手は紳士のみで良かったはずだが、双方から進められてエクトルも加わっている。「せっかくの記念だから坊ちゃんも一緒に」と老店主が誘い掛ける。
紳士は、「そう言えば、世話になっている関係なのに、君と写真を撮ったことがなかったな。ぜひともこの機会に」と促した。
積極的に共同浴場に入るのも苦手だが、積極的に写真に映るのも苦手だ。しかし折り入って紳士が頼んでいるのだ、無下に断る訳にもいかない。
タイマーが鳴る僅かな瞬前、かなり至近距離に隣接する紳士の方をそっと見遣る。老店主が人懐っこく顔をくしゃくしゃにして身を寄せている傍らで、何時にも増して柔然と目を細めている美貌があった。常に微笑を絶やさない彼ではあるが、心底寛いで楽しむような笑い方を見たのは初めてかもしれない。いつも目の前にある微笑は、艶めいて美しくもどこか貴人の作法という色合いが漂う気がしていたのだ。
カシャリ、と軽妙な音が鳴り響く。エクトルは愛想笑いが不得手な上に、僅かな間でカメラへ目線を送るのが遅れたため無様を晒していないか心配だった。自分自身への不安というより、紳士に恥をかかさぬか否かという憂慮である。
紳士の希望で、彼の持つ懐中時計型端末に備え付けられた通信パッドに赤外線で転送される。
背伸びして覗きこんだ先の円形の枠の中には、朗らかに笑顔を弾けさせた老人の顔と、喜ばしげな微笑に綻ぶ麗人の顔、そして引け目を感じるようにやや目線を反らしつつ、仏頂面の範疇を出ない奇妙な表情をぶら下げた可愛げのない少年の顔が納まっていた。
予想通り巧みに笑顔を作れなかったようで、伸ばそうとした口端がただ不気味に歪んでいただけだった。非情に申し訳ない結果となったが、紳士はいたく満悦の態度だった。
「現像できたら飾っときます。ぜひともまた訪れて下さい」
ドアベルの音を奏でて出て行く際、老店主は鳥打帽を取って深々とお辞儀をした。茫洋としているエクトルの傍では、紳士がお辞儀に応えて軽く右手を振っていた。