第五話 観光(1)<下>
※2020/9/28 紳士の所有する時計のような道具を「腕時計」としていましたが、不自然な印象がしたので「懐中時計」に変更しております。ご迷惑をお掛けいたしました。
※2020/11/4 上記の懐中時計について、新たな描写を付加しました。
街は既に、マーマレードのジャムを溶かしたようなオレンジ色に染め立てられていた。
熱で顔中が火照り、背中が汗に濡れていくのを感じながらもエクトルは力強く地面を踏み込んでベヌンを先導する。優雅な歩調を保ちながら紳士は、微笑を湛えつつ黙って穏やかについてきた。
街道を西沿いに進むと、途中で緩やかな斜面となっていた。高台に建つ住宅街へと続く坂道である。
「こっちです!」
エクトルは手招きして、後ろの紳士をほとんど振り返り見ることなく一目散に駆け上がった。運動不足で弛み切っている足腰に構わず勢いで突っ切ったので、頂上に着いた瞬間、肺を潰されたような音の汚い洗い息が溢れた。
下界の景色が広がる手前には、漆喰で塗装されたレンガの低い塀が張り巡らされている。
住宅街の入口付近に位置する広場だが、ちょうどここは展望台のように西方向の坂下の町の方へ緩やかに迫り出しているのだ。
塀越しに見下ろせば、数少ない名物である赤褐色の屋根群が、町の西端に横たわる湖まで連なり渡る風景が一望 できる。
夕焼けが大空に広がる時間、降り注ぐ陽光を反射した屋根が照り映えて、小さな宝石箱を作り出しているようだった。
純粋に見事な美しさだが、エクトルが重要視しているのは夕空の景色ではない。ここまでのみなら、日常内のある一定時刻の自然現象として認識される範囲だ。
平凡な町の一角で、少年が特異的に扱う理由は他にある。
エクトルの呼吸が落ち着いた頃、彼と、隣にそっと並び立った紳士の頭上より前方の空中に、無数の煌めきが突如としてぶわりと舞い出た。微小の光の粒が、羽ばたくような動作を見せて大群を成している。
蝶だ。いや、正確には蝶と良く似た形態を持つ人の形をした生物だった。
上下する左右の羽の隙間に、目を凝らすと妖精のように小さな人間の姿がある。
樹木から一斉に花弁が散るが如く、キラキラと個体を明滅させながら宙に拡散して乱舞している。
眩く燃える夕陽と重なるが如く、不思議な色合いと光輝を載せた燐粉のようなものが、幾重にも空を塗 り替えるようにして空中を大きく舞い踊り、前列の集団から次第に東の遠くの空へと霞んでいく。
光の色は一定しておらず、濁り気のない純白から薄桃色、山吹色、橙色と羽ばたく都度にグラデーションを描いて繊細豊かな色の変化を見せているようだ。
彼らの纏う色彩が、暮色に塗られた空と雲に新たな色を添えてまた違った夕景を織り成しているのである。
飛行の過程ではらはらと地上へ散落する光の滴は、しばらく風に乗って漂ったかと思うと、人の立つ高さまで降りてくることはなく消えていった 。
この場所は、落陽の頃合いになると、一定の周期で惑星を渡る季節を迎えた蝶人種達が飛翔していく通過点となるのだ。決まって、夕日の沈む方角である西から東へと移動していく。
エクトルは、そのことを紳士に伝えた。
「渡り鳥のように移動性で、この地域にも渡ってくるんですけど。短命だから生れる子どもの数も相当多いらしくて、天候の良い日なんかはほぼ毎日のように現れるんです。どうしてここを通過点にしていくのか、理由はよくわかっていないんですが」
「……あれは、自ら光を発しているのだろうか」
旅の経験が豊富らしい紳士でも初めて見る種類だったらしい。エクトルは、当惑星国家の大都市部における高名な昆虫学者が解明した研究内容に則って、蝶人種の構造を説明する。
「恒星の光を受ける衛星のようなものですよ。日光を浴びて羽の煌めきが増す仕組みなんです。元は透明の羽の上を、太陽を受けて自ら発光しているような状態になります。時折、羽の色が変わるのは、日の当たる加減や羽ばたきの程度によって起こるためだそうです」
蝶人の群れは尚もエクトル達の真上を飛び進んでいた。毎回、大規模な群れを形成し、数分間はこの光景を展開する。
夕空の色と混合して暖色のオーロラを織り成す羽々のヴェール。幾つもの小さな空景色がシャボン玉のように浮揚して映し出されているようであった。
更に、それらの羽々から華やかな燐粉が振り撒かれる。燃え盛る絶頂の太陽の朱色を吸い込みながら、輝きに満ちた花弁を舞い散らせ世にも特殊な光景を静かな町中に点描するのだ。
こうして夕刻は彼ら異形の美々しい能力を持つ種族達の来訪によって、普段は何の変哲のない展望台を値打ち高い景勝地たらしめているのである。
「これは圧巻だ……。まるで、朝露の白玉のように、どこかしら朧げかつ儚げでありながら、飛翔の勢いは力強く勇壮だ。また、私の知らない生命の循環する姿を確認することができた。ありがとう、エクトル君」
感慨に満ちたような声が、空気を震わせるように深く吐き出される。真剣に見入っている様子であった。
幾多の惑星を周り、何度も異なる大地を踏んで見聞を収得してきたであろうからこその貫録を纏う旅人の目にさえ、群を抜く特別な光景として燦然と映り込んでいるようだ。黄昏の翳りによって暗紫青色を帯びた彼の双眸は、何となく物思いに馳せる時のような哀愁を滲ませて、ゆらゆらと淡い輝きを湛えていた。
「誰かの視点によって、社会で取るに足りないと判断されるものに至るまで――生きとし生ける者全てが必ずどこかに足跡を刻みつけていく。これほど価値の高く尊い事象があろうか。故に、足元からその根本の有り方が崩されることがあれば、どんなに惨いことかと悲愴せずにはいられない」
不意に紳士は、相手を目の前にしないような体で胸の内を語り始めた。文化図書館を退館する間際に、どこか憂慮するが如く呟き漏らしていた時の雰囲気と何となしに似通っている。まるで、詩文の一節を暗唱するように独りでに並べ立てるのだ。ベヌン氏はまた、何を思い入れ始めたのだろう。
隣に佇むエクトルは、異様には思わなくとも、不思議な気分で麗然とした横顔を仰ぎ眺めながら耳を傾ける。この頃には、蝶人種の最後の列までが、溶け沈むように東空の彼方へと飛び去っていた。
爽冷な夕暮れの秋風にそよぎ、時折絹糸のようにほつれて空を舞い泳ぐ鹿子色の髪に撫で掠められる薔薇色の唇が、陶然と言葉を紡ぎ流す。
「旅の道程で、生の手応えを得た感謝に祈りを捧げる都度に、改めて気を引き締めながら己にこう誓うのだ。
――私は……恒久の平和を守護し抜けられるような引導の者になりたいのだと……」
結びの一言は、一層に唐突であった。拝聴していた少年の思考も時間も停まる。
舞台の芝居台詞のように、俗世から掛け離れた遠い世界の視点より生み出されたのではないかと思えるような異次元めいた思念の吐露だ。
ここは実は映画館の中で、対する人物は銀幕の向こうの主要演者、そして自分は漫然と受け取り観賞する客。
急に、そのような間隔にまで紳士との距離を引き離された心地となった。
「あくまで君には関係のないことだが、一つ、個人的な身の上話をしよう。私の故郷は今、存亡の危機に瀕している」
「えっ……」
違和感があると思った直後、現実味ある重い話へと切り替わって振りかかってきた。突然、何を切り出されたものかと目を瞠って隣の顔を凝視しつつ、無言で次の言葉を待つ姿勢になる。
ベヌンは今回、特に少年の反応を待つ素振りも見せず、滔々と続けた。突拍子もない事柄を投げ掛けたと自覚しているからかもしれない。
「周辺惑星との紛争が一段と激しくなってね。防壁には自信のあった我が星も直接的な侵略を受けるようになった。故郷に眠る希少な天然資源を巡る争奪戦に星中が大混乱を起こしている。曾祖父の代より、危うくなり得る状況は幾つもあったのだが、いよいよ潮時が迫って来たらしい。現代表を統べる父が奔走しているのだが、正直間に合う保証はない」
エクトルにしても、深刻な事情を話しているはずなのに、淡々として聞えたのが不可思議だった。紳士の視線も相変わらず、陶製人形の如く真っ直ぐに西の夕景へと貼り付けられたままである。
聞き手としては当然ながら戸惑いを隠せず、叫び放つ調子で問い掛けていた。
「えっ、そんなっ、じゃあ良いんですか? 旅なんかしている場合じゃ……」
確認するように、相手の表情を穴が開くほど見つめた。同時に胸中では、まるで超大作のSF映画の粗筋みたいな話を、正面から真に受けて大丈夫なのかという妙な気が起こされる。凡庸な生き方しか知らない少年の価値観では、フィクション性を孕んだ出来事としか処理することができない。
しかし、語り手の両の瞳に浮かぶ、夕凪の如く静穏ながら微かに張り詰めた眼差しと、花弁のように柔然としつつも堅い具合に結ばれた口元には、紛れもない真剣さ が表われていた。
決して虚言を弄しているわけでも、自分のような青少年の好奇心を満たすためにSF物語を聞かせているわけでもないのだろう。
「むろん、時の流れは悠長ではない。父の許しを得て、貴重な日々を勉学の欲求のために割いている」
当然の質問だと言うように、紳士は幼き者の疑念を悠然と受け止め流暢に答えを編んだ。
「父も期待してくれているらしいのだ。脚色や作為を介さない、真の見聞を高めて戻って来ることを。私は、いずれ、永久的な安寧秩序のために、あまねく銀河を統治し調停する地位に立たねばならない。それが人生に課せられた最終的宿業だ」
暫くはエクトルも、大きく目を丸めつつ、ポカンという擬音が実際に転がり落ちそうな程、間の抜けた風に口を開けているしかなかった。
だがいつまでも唖然とばかりはしていられぬと、深呼吸をして気を糺す。そして、逆に得心がいったという面持ちでこの瞬間に生じた確信をはっきりと声に載せた。
「うすうす感づいていましたけど……いいえ、最初は子どもの空想家に過ぎない僕の見た目の判断だと思っていました。でも、やっぱり正体は、きっとどこかの国から来たお忍びの王子様だ。しかも、大帝国レベル…そうでしょう?」
子どもの発想の限界から捻り出したような、陳腐な推測の表現だと己の語彙力の不足を嘆きつつも、直入に問い掛ける。
「その所作、立ち振る舞い、口調……庶民の一人にしては品格が高過ぎるんだ」
すると紳士は、お手上げ だと言わんばかりに、両手を低く掲げて降参を示すような仕種を披露した。
「隠しているつもりは更々なかったんだがね。ご明察だ、少年君」
続けて、僅かに肩を竦めつつ、美しい髪を耳の後ろに掛け添えた。毅然とした態度は全く崩れていないものの、今し方のどこかおどけたような身振りには、高貴さよりも茶目っ気を匂わせる。
「自身の生い立ちの証は、小手先の術では簡単に誤魔化せぬものだな。図書館で出会った司書達が、誰も彼も落ち着かない態度を見せていたのもそのせいかな?君の指摘は正しかったわけだ」
その点に関してはまた意味合いが異なるとエクトルは思うのだが、根っから純真で真面目な人柄なのだろう。むしろ、微笑ましさが湧いて、ついにやけるのを堪えるのに必死となる。
「光栄ですよ。これで推理だなんて恥ずかしいし」
半笑いなのを愛想笑いのように取り繕いながら、わざとらしく謙虚ぶってみせる。空想まがいの当てずっぽうが成功したことではない。
一般人の小僧に過ぎない自分が、本当に大人物と親しい交流を成し遂げたのだということが誇らしかったのだ。
「私のクニの概念や制度に照らすと、王子という身分とはやや異なるかもしれない。だが、相当する位置と考えてくれて構わないよ」
「んー、難しいなあ。では、お名前ではなく、肩書きでお呼びする時は、何と称したらいいんですかねえ?」
いずれにせよ貴人という立場に変わりはない。ややこしく込み入った印象の事情からか、明言は避けている様子なので、少し話し合った結果、間を取るような形で、単に貴公子と認識することとした。世襲政治制度の残る銀河社会間では文化によって多少の語義の差異が発生することを考慮し、高貴の子息とされる者には男女問わず〝貴公子〟と位置付けることが共通の方法とされているらしい。
「貴公子様ということは……。いらっしゃるんですか? 許嫁さんとか」
不作法なのは百も承知だったが、無鉄砲に切り込みをかけた。 どういうわけか紳士に対しては心より警戒心が希薄化し、からかいたくなるような悪戯心が働くようだ。
永久的に越えられぬ垣根の向こう側に君臨する相手だと、重々意識しているはずなのに。
「許嫁の方式は無いが……。皇立大学機関にて知り合った侯家の女性と縁ができてね。交流を重ねるに連れ不思議と息が合って、契りを結ぶ約束を交わした。彼女も、我が家の務めに賛同してくれた。遊学期間を終えれば、婚儀を迎える手筈となっている。つまり、現在は婚約者という関係だ」
少しでもはにかんだ反応を呈するかと思いきや、意外にあっけらかんと肯定した。抑揚も控え目な、落ち着き払った口調である。
恋愛事に関する話題を振られてさえ、動揺皆無で冷静沈着に応じるとは、どこまでも人間性を裏切らない。骨の髄まで、大人の紳士であり、やんごとなき存在なのだ 。
「いいですよねえ……かっこいい紳士はすぐにお相手がみつかって……僕は女の子とろくに会話したこともないんですよぉ」
行儀悪く塀に片腕を持たせかけて明ら様にふてくされた真似を取りつつ、嫌味たらしく口角の左側を上げて見せた。通常のペースを越えた程度に打ち解けた会話が可能となっていく勢いに、我ながら恐ろしく感じる。
「皇家の繁栄のためだ。彼女は妃にならなければならない宿命を背負っている。要するに、共に国の統率・銀河の調停を担っていく責務を課すことになるのだ」
揶揄するような少年の言葉を平静に受け流し、淡白に事実を告げる。エクトルの自虐にも冷やかしの言葉は一切差し挟まなかった。
エクトルは、自身の恥を覚えると共に、真っ当な義務感に固められたベヌンの意志に驚きをもって感心させられた。
夫婦の関係を築く上では情よりも、命運を共に担う覚悟の方を重要視しているようだ。生まれながらに授けられた統率者としての使命感がそうさせるのか、根元より観点が違っているらしい。
数秒の間を置いて紳士は、ふと先ほどに少年が呟いた台詞の中の一句を反芻するように呟いた。
「大帝国ね……。脆く崩れかかった砂上の楼閣に等しい場所でも、確かにまだそのような面影は残っている」
気を緩めていたエクトルの内心に、不味いという警報が鳴る。もはや常習犯の域というか、懐の広い態度に甘えて傷口に踏み入ってしまったらしい。
「あ、ごめんなさい……。僕ったら、つくづく軽率で……。さっき、とても危険な状態に晒されて辛いとおっしゃっていたのに……」
「いや何、こちらこそ、失敬。部外であれば無理もない。謝る必要はないよ。歴史の上で、同程度の規模の隆盛を享受できた時代が存在していたこともまた事実だ。最も、今では郷愁を誘うだけの栄華の記憶と成り果てているが……。おっと、いけないね。懐古を糧に現状の悲嘆に陥るのは。未来ある若者の前で、晒すべき態度ではないな」
意外だった。生の感触が実存しているだけで尊いと説き、少年の後ろ暗い思考を励ます向きであった麗人が、あろうことか自嘲と評しても差し支えない言動を取った。常時泰然として揺るぎそうにない彼にすらも、弱みを零したくなる瞬間が訪れるのかもれない。
しかし、言葉を吐き出す際の口調は、余裕綽々とした響きを孕んで陽気さを損なわなかった。とはいえ、今度は鈍感な少年も確たる証を見逃さなかった。面貌は依然として風雅を保持して見えるが、瑠璃の如く鮮明で深い眼差しには、母なる海が万の生命を憂思するような翳りが漂い浮かんでいたのだ。
エクトルは只管話の密度に気圧されるばかりで、返すべきリアクションを見出せない状態にある。
所在ない心地で対応を思案していると、紳士は前を向いたまま、己の両肘に指を添える動作で腕を組みつつ独りごちるように囁き始めた。
「私も今年で百万光年歳だからな……。成人を迎えた者として、本来ならそろそろ身を固めなければなければならない。君の心配は間違っていないさ。パートナーのためにも、故郷のためにも、早々に旅を済ませるべきなんだ」
「光年? ……歳??」
急転直下の剛速球。直前までとは百八十度、別の意味で大胆に方向性を転換させられた。
「それって、星と星の距離の単位じゃないですかっっ!!」
辛うじて相手のペースに喰らいつき、ストレートに驚嘆の声を上げた。次はどこから構え立つべきなのだろう。当惑に駆られながらも混乱にまで陥らないのは、脳内の片隅がジョークの一種の可能性を疑わずに半分笑っていられるからだ。相手の口調も、茶飯事でも話題にするかのように平坦であったため、雰囲気に釣られて危うく通常処理で済ましかねなかった。
「おっと、これは私の種族の年齢単位だった。失礼」
またもや彼は何ということのない風で謝ったが、もちろんエクトルの不審感が急速に消え去るわけではない。うっかり口を滑らせたという程度の軽い感覚というのが怖かった。
単位の件に収まらない。合わせてこの貴公子は他にも妙なことを口走った。 彼のような人物に限って、妄言ではありえないだろう。だが、エクトル達人間の基準で考えるなら、生命維持活動が続いている等有り得ない年数だ。下手をしたら、原生林に生えている老巨木と大差ない。
それにも関わらず、美丈夫の瑞瑞しい外観は、二十代から三十代後半程度のものだ。とても老齢の者が出せる艶と潤いではない。
しかし、そこまで推量したところでエクトルは、あっさりと理由を解するに至った。
(ああ……。でもよく考えたらあり得る話だよなあ)
銀河系全域に生命の活動範囲のネットワークが敷かれている現在、人類にとって知的異種族の存在は無限に現れて当たり前というのが今日における生物学の常識となっている。
また、若々しく張りのある容姿に反比例して落ち着き過ぎた人物像からも、別段違和感が生じるわけではない。
自分の世界が極端に狭かっただけだ。大袈裟に受け取り過ぎではないか。即刻に気を取り直し、てきぱきと詫びを入れる。
「いや、失礼なのは僕でした。宇宙は広いんです。幼児でもわかる当然のことを、すぐに思い至らないなんて。本当に頭が悪くなりつつありますよ」
ここのところ、近隣する惑星で確かに小さな紛争や内乱が勃発しているという。ベヌンの生まれ故郷周辺に留まらず、頻繁に飛び込む事柄と化している。新聞やニュースでなんとなく気にとめている話題だ。
その影響か、国力が衰弱化した地域から人に似ていて非なる生命体の出入りが見られるようになり、若輩で無学なエクトルも亜人種達の存在を目の当たりにするようになった。文化図書館の人狼司書達も漏れなくその一つである。
だが、まさに伝説の如き神に等しい長生の寿命を誇る人型種族など、聞いたことがなかった。自分の居住する惑星区域とは全く交流がなかったために、知り得なかったのだ。しかし〝神に等しい〟という表現も、所詮人間側の価値基準から導かれるものなのだが。
「それで、ど、どこの種族、なんですか…?」
無礼の不安から躊躇いはあるが、逸る好奇心から恐る恐るでも問うた。
「訳あって特定の名前は挙げられないが……。先ほども言ったように、一万年の月日を経て初めて成人期に入ったという認可が下りる。長老会からね」
「い、一万年で初めて大人……。僕ら人類の世界だったら、文明レベルが石器時代から電子機器に変移するくらい歴史が動いちゃいますよ……。いや、もう地形が変動する長さだ……」
もう何と捉えていいものやら、話のレベルの桁が段違いに上り過ぎて思考が追い付かないどころか、現実感がさっぱり湧かない。
三日前、端麗に過ぎる 容姿に踊らされていたのは衝撃度としては序の口だったのだ。見た目が異様に優れているというだけなら、高度な化粧技術、あるいは美容外科手術でも駆使すれば凡人にも可能な領域である。
正真正銘、紛れもない事実。それでも、未だ夢心地だった。スクリーンを通して遠巻きに、自分が観客となってファンタジー映画の事象を見ているような気分は拭えない。
「僕ら人間で言えば、玄孫がいるなんて年齢間隔じゃ収まらないですね。失礼ですが、そんな気の遠くなるような膨大な時間、何をして過ごしてきたんですか?」
今度は臆することなく、率直に尋ねる。紳士の答えは打てば響くように、淀みなく潔い。
後ろめたげに躊躇する方が、場の空気に良くないと悟ったのだ。
「私としては、日常の行いと務めを積み重ねて歩んで来たに過ぎないから、難しい質問だね。強いて、これまでに長い時間を要する経験があったとすれば、皇宮武術の修練だろうか。百光年で師範に免許皆伝を言い渡された。修業仲間の友らに些か棘のある視線を向けられたりしたが、落ち度があったのだろう。じっくり磨くべきところなのに駆け足だとね……。丹念に時間をかけて取り組んだつもりだったのだが、よほど慌てていたのだろうか」
(あ、そうか。時の流れの感じ取り方が違うのか)
理科の授業で聞いたかもしれない。鼠のような寿命の短い小型動物と、象のような寿命の長い大型動物では、体内時計のリズムが異なる。地殻変動を何度も経験するほど恒久の年月を手にすれば、思い出作りに悔いが残らなくて事足りそうだと思ってしまいがちになるが、時間感覚に差があるのならエクトルら人間が心地良い時間ほど過ぎ去るのを勿体なく思うのと全く同じ理屈なのだろう。至極、単純明解だ。
それはそうと、自身の優秀さにまで無自覚とは紳士の純真さも空恐ろしい。友人方はさぞ付いて行くのに苦労したのだろうと、エクトルなりの感性で同情を禁じ得なかった。
「でも、他と比較するなら秀でて長生きなワケですよね? 全体的に見れば、百歳を越える生物の方が、数が少ないんですから。そうだと、あれじゃないですか? やっぱり、旅先で出会った子どもが再会したら御爺さんになってたとか、首都が他の地域に移動したとか、新しく島ができたとか……壮大な風景を本物として、見て来られたって、ことですかね??」
「あらゆる惑星を巡っていると、短いスパンでも大きな出来事に直面することはある。だが、君の言うように、時流の幅を思い知らされたことがないとすれば真っ赤な嘘になるだろう。
他の種族と接するからこそ、自覚できる違いだ。もし、同じ種族の間一辺倒の交流を続けていれば、視野は閉じたまま。己の育ち持った時間間隔こそが基本なのだと、錯覚する危険性があったわけなのだから」
視野という言葉は、エクトルの胸に大きく響いた。現在、自分の中で比重を占める人生課題だ。高みに立つべくある者ほど、視野の拡大に努めようと迷わず精進するらしい。
「まず、月並みな例示になるが、如何としても普遍的に味わざるを得ない出来事として、自身の成長速度がどうやら周囲より格段に遅いらしいと気付かされる状況との出会いがある」
思いを馳せるような眼差しが浮かんだ。
「遊学を行う以前にも、我が宮廷における幼年教育の一環として、一定期間、周辺種族の高位の子らと合宿行事を営むことがあったが、その時より衝撃を経験する羽目となった……。私にとっては、三泊四日と思える時間を終えた後、何人かの友の中に突然学童期に突入した時期の外見にまで成長の達している者があったのだ…。
後で父上から聞かされた話では、種族によって設定された期間が異なっていたらしい。成長の早く見えた種族の子らにとっては、約一年間の合宿行事と認識されていたようだ。意図的な計らいだったのだろう、物心が出来上がって間もない段階で、己の立ち位置を知っておけるようにとね……」
「うわー……。先に図体が大きくなってる奴がいる、抜かされたって気分になりますよね」
生れついての才人らしい彼には無意味に等しい共感の表明だろうが、エクトルの感覚理解の及ぶ同調ではこれが精一杯だ。
「先に成長されていたことは別に気にならなかったさ。ただ、一人取り残されたような寂しさだけが辛くてね……」
苦笑を交えて応じつつ、更に思い出語りを続ける。
「遊学期間に入って以降、取り分け印象深かったエピソードがある。巨大な勢力の脅威と闘う若い学者グループがあってね、私は彼ら・彼女らの姿勢に非常に共鳴と感心を持って、一時期協力しながら生活したことがあるんだ。私は今回、君の住む惑星、厳密にはこの町に滞在する期間を約二週間と定めているが、他どこを訪れる際にも必ず滞在期間を決めておくようにしている。彼らと協同期間の期限を迎えた時、後ろ髪を引かれる思いを噛み締めながらも離れなければならなかった。しかし、ある別の惑星国家での用事が予定より早く済んだ際、余裕があって再び訪ねることにしたんだ。
学者グループの旧拠点があった地区も、当時は弾圧の憂き目に晒されて荒んでいたんだが、美しく整備された学研都市に生まれ変わっていた。数日でかなり発展的な復興を遂げたものだと彼らの能力に感心しながら歩いていると、向こうから一人、見慣れた顔がやってくる。
その時は、瞬間的にも仲間だった者と再会を果たせたのだと、無心に驚嘆し感動したものさ。何しろ、命の危険と隣り合わせの闘争だったのだからね。
しかし、共有できるはずの回想で、噛み合わない点があると気付き問い質したら、愕然としたよ――。
相手は本人ではなかったのだ。生き映しのように似ていたのは遺伝の為だった。つまりは、その友の子だったのだと……。丁寧に頭を下げてこう挨拶されて確信に至った、『二十年前、父がお世話になりました。あなたのことはお伺いしております……』」
「幼き頃に一度体験したはずなのに、不思議なことだ、大きくなると初心が鈍るものらしい。時の流れる感覚の落差に改めて驚かされ、私はまたもや置いてけぼりにされてしまったのだと悟ったのだ……」
宝石に似た双眸の艶やかな瑠璃色が、一抹の寂寥感に濁る。無理もないことなのだろう。エクトルには永久に理解し得ない感覚の開きだが、少年にとってはこの差が侘しい。
おまけに逸話を聞いている間、どちらかと言えばその惑星国家における激動の革命史に感じ入ってしまった。不純な意志だが、物語のような面白さに胸の踊る心地がしたのだ。紳士の気分が安らいだ時に、ぜひ詳細を教えてほしいものである。ただでさえ凛然と流麗なる聡明な貴公子が、思想の自由を守る闘いに身を投じる姿など格好良過ぎるではないか。
加えて、少年自身が停滞による鬱屈とした環境に変革を待望しながら生きているからかもしれない。
「時を経て再来する、というパターンとは逆に、初対面でも遥かな相違を思い知らされることもままあるのだ。威厳ある髭を湛えた老人が、我々の年齢間隔に換算すると、実は何世代も年下の子ども同然の年齢差だった……などということも、枚挙に暇がない」
外見年齢で言うならば、自分より年上のはずなのに実際は年下。この現象は、ガイアで高名だったらしい西洋圏発祥のファンタジー小説でもよく描かれたシチュエーションだったらしい。大勢の人型種族が登場するが、不老不死は一握り。彼らを取り残すように、他の種族は一早く歳老いていく……。必然的に、切ない孤独感に苛まれる。
作家による仮想のシュミレーションに過ぎないと思っていた。実際に起こり得る現象だったのだ。
「何とも、言えないですよね……そんなのって……」
「人によっては、笑い話のように聞こえるかもしれないな。だが私には、大勢から疎外された時のような悲壮的虚無をまざまざと思い知らされる。だが、この壁に耐え得ない限りは、継承の試練は乗り越えられぬだろう……」
静謐な森の泉の如き眼には苦悶の澱が沈殿し、葛藤して渦巻いているように見えた。エクトルは、思い切って心の底から湧き上がる言葉を素直に投げ掛けることにした。
「あ、あの……真に恐縮ですが……ボンクラ者からの拙い言葉で良ければ、その節痛み入りますと、申し上げさせてください!!」
同時、かしこまって低頭した少年の姿に対して、呆気に取られたように美しい目が瞠られる。一瞬間があって直ぐ、紳士は噴き出した。
「おやおや、これはまた変な気遣いをさせてしまったね。ありとあらゆる生命間で、時間の間隔差があるのは当然のことだ。嘆いてしまえば切りがない」
穏やかな苦笑を湛えて告げつつ、次の台詞でどこか神妙な口調となる。
「ただし我々も、他の種族のことを言えるような優越した境遇の持ち主では決してない。我ら種族とて、長命だが定命ではある。特殊な事情で惑星と同等の長命を授けられているが、寿命はあるのだ」
流石に不老不死ではないようだ。もしそのような夢物語の如き生態が実在していたら、もはや生物の範疇ではないだろう。エクトルは距離が近づいた気がして、無根拠な安心感を得た。
「高貴な方が、お忍びで市井に紛れ込む。そこで偶然、一般人と恋に落ちる……。定番のお伽噺展開のようですね。おっと、これはお姫様の場合の話だ」
全く脈絡のない調子で、適当に関連づけたような他愛もない一言だ。特に深く考えることもなく、エクトルは吐き出した。
すると紳士はどう解釈したものか、茶目っ気を瞳に煌めかせ、悪戯っぽく破顔した。
「がっかりしたかな、定石の展開ではなくてね。残念ながらこの図体では、変装術を凝らしたところで可憐な姫君にはなれない。魔術の使役者ではないからね」
ははっ、と、軽快な笑い声を小さく洩らしながら告げる。
日常的に表情の堅いエクトルも、これには思わず噴き出した。
「ベヌンさんてば、面白いことおっしゃいますね。姫君をねだるなんてとんでもない、既に見目良き立派な殿方がおわせられるのです。これ以上何を望みましょう」
気取って大袈裟な謙譲語を使ってみせる。この変に背伸びした口調に紳士も可笑しくなったらしく、緩めていた口角をより豊かに押し広げた。
「滅相もないことだ、少年君」
あらゆる銀河系を旅しているというベヌン氏。魔術や魔法は空想上の産物であると刷り込まされているエクトルだが、彼の言葉を聞いていると比喩ではないように思えた。好奇心を突かれて問い掛ける。
「それにしてもベヌンさん、 今の口振りで思ったんですけど……まさかですが、魔術や魔法が実際の技術として存在する星も、実際にあるということですか?」
「実際? ああ、そのような認識で捉えられている惑星も多いね……。君のところもそうらしいな。ふふっ、その通りだよ。ある文明圏では絵空事と認識されている事物が、生活の必需手段として当然のように利用されているところもある」
豊富な見識を獲得した者は着眼点が違う。では自分は、常識に支配された犠牲者だったと言えよう。
(けれど、常識って何なのだろう)
仮初の約束事と言えるかもしれない。法律のような国の決まり事にしてもそうだが、時代も所も変われば枠組みには当て嵌まらなくなる。通用する世界が限定される代物であれば、呪縛を引き起こすほど強固に思えて案外脆いものなのだろう。
そのような理屈で考えてみると、できれば浮かべたいパターンではなかったが、普段エクトルを取り撒く不条理空間にも通じる面があることになる。
工房の連中にとっては、ひょっとしたら破綻し堕落して見える姿こそ〝常識〟のスタイルなのかもしれない。認める気はないが。
しかし、こちらに認める気がなくとも、別の第三者から見れば頗る正しい有り方なのかもしれない。ハクビシン先輩にしても、彼らに一理あるという態度を取っていたのは、真っ当な勤め人の社交辞令として気を遣ってのことではなくて、通用する常識が逆転し得る可能性を知っていたからではないのか――。
まさか、とかぶりを振る。新たに僕の味方となるべき紳士に、僕を苦虐に追い遣る者共を容認する要素などあってはならない。
奴らを肯定することは、弱者に不利な待遇を肯定することになるのと同義なのだから。
ふと、紳士の瞳が下界の方へと向けられた。眼下に屋根が広がる町のある一角に目を停めたらしい。
何となく目線の先を追ってみると、どうやら裏通りに当たる細い通路に向けて集中して注がれているようであった。
狭い町の中だけに、エクトルにも心当たりはあった。全体的にのんびりとした町環境であり、表から逸れたというだけで治安が悪化するわけではない。
ただ、退廃の迫る田舎特有のやや裏ぶれた空気が、他にも増して早まっている箇所ではある。燃えるような落日が射す間でさえ、薄闇が凝り固まったように一段と暗く、普段から取り分け日の当たりの芳しくないことを伝えていた。
静かに黙って見つめていた紳士だが、途端、泰然としていた麗貌が難渋の表情を呈した。
より思いが強まるように、細く整った柳眉が苦悶するように歪み寄り合う。瞳は驚嘆を呑むように見開かれて、豊艶な睫毛が大輪を咲かせるように鮮烈な広がりを描く。眼球の紺碧色は強い輝きを増した。
そのまま深く思い巡らせるように、彼は一旦微動だにしなくなった。口を利く気配もない。
美しい顔つきはどこか悩ましげだった。何か、重く噛み締めるが如くに、深呼吸をして尖り気味の顎を僅かな角度に反らす。
痛切、悲壮、煩悶、葛藤――辛い意味を持つあらゆる感情が、白皙の上に浮上しては掻き消える。同時に、哀愁や恋慕――淡い風味の感傷的な色合いも綯い交ぜに滲み出ているようだった。胸の内を聞くわけでも聞き出せるわけでもない故、恐らく黄昏時の景色が醸し出す雰囲気が作用しての錯覚なのかもしれない。
どうして急に裏通りなどに目を留めたのか。何やら観測所跡以外にも注心しているものがそこにあるのか。
文化図書館で情報を得て、新たに気の向く箇所が見つかったのかもしれない。ピンポイントで視点が定まっているということは、地図で正確な位置まで把握しているということだろう。エクトルとしては、裏路地界隈自体、あまり推奨する気になれない場所なのだが。
と、突然、ハッと大きな息を吐いて緩やかに口を開いた。顔中がどこか感極まったように恍惚として見えたのも夕暮れの為せる技なのか。
次の瞬間、唐突に発生した現象は、少年には即座に理解の及ぼせるものではなかった。
黙然と下界を眺め下ろしていた紳士の身体が、小さく風を孕んで浮き上がったように見えたのだ。
羽織っているコートが軽く膨らんだと映った時には、石畳みにしかと降ろされていたはずの革靴の足が離れて宙を踏んでいる。僅か数ミリという距離だ。
「ベ、ベヌンさん!?」
紳士の足元と顔を交互に見比べながら、エクトルは慌てふためく。ただ、軽く跳躍したというだけならわかるのだ。いや、何の前触れもなく飛び上がるというのも当然奇妙な行動なのだが、エクトルが困惑したのはその様子がいたく超常的であったためだ。
なんとベヌン氏は、文字通り空中に浮かんでいるのである。偉丈夫の肉体が全く体重を感じさせない。
しかし、浮揚したことに唖然とするのも束の間だった。次の瞬間、己にも驚愕に値する現象が襲いかかったのである。
「わっ!」
脇の下から瞬時に起こった強い力に引き寄せられ身動きが取れなくなった。どうも自分が紳士の片腕に抱き上げられたらしいと理解した時には、視界の夕景がより高く上昇して空に近づいている。
気を疑った。紳士は肉体を浮上させるに留まらなかったらしい。思わず彼の方を見遣れば、位置する高さは展望台の街灯よりも上にある。
馴染み深い石畳の地面が急速に遠ざかり、眩い橙色に染まり輝いていた石の面も無機的なほの暗い色に包まれていた。
(えっ、まさか……。この人、飛んでるのか!?)
他に思いつく答えはなかった。正解を求めるように相手の顔を除くが、アルカイックスマイルの如き不思議な微笑を湛えた彼は依然無言だ。
そこからは怒涛の勢いだった。素早く一気に出来事が連続する。
腕の中で呆気に取られたままの少年の顔色には構うことはない。紳士は上空に暫く浮遊していたかと思うと、眼下に裾野を広げる町に飛び込むが如く、傾斜しながら一直線に下降した。
まるで、ピーターパンのようだとエクトルに思わせた。
塀も軽やかに越えて、水平な姿勢を保持しながら颯爽と飛翔する。
直ぐにどこかの路地へ降り立つものかと思われたが、紳士は低空飛行を続けた。
町で一番高い建造物となる尖塔の屋根に触れるか触れぬかの高さで、器用に進み行く。
急激な速度ではない。動作はベヌン氏らしいしなやかさで、タンポポの綿毛が漂う様まで彷彿とさせる優雅なものであったが、人間が走るよりは明らかに早いだろう。風圧に叩きつけられながらも、薄目で辛うじて見下ろせる建物の隙間の通りには夕方のジョギングをしていると思しき人影が認知できたが、並走するどころか瞬く間に引き離していく。
高度何メートルほどになるのだろう。風が頬を叩く。皮膚が痛いほどに冷却されていく感覚が滲みる。
しかし、大きな腕の中は、力強く温かい。頑丈に守られた安心感に支えられ、信じられない時を過ごしているはずなのに不思議と一切の恐怖は湧いて来なかった。
現在のエクトルは、前置きなく身を掬われたためか、やや真上に頭を反らし、仰向けに寝転がるような雑な体勢でいる。その恰好でもって 視線を上げると、一心に飛ぶ方向を見つめ続ける紳士の顔が目に入った。
熟考しているようでもあり、歓喜しているようでもあり――何とも表し難い、正負綯い交ぜになったかのような中間的で曖昧な表情が泳いでいる。
青金石にも匹敵する流麗な双瞳の内側には、細かく砕いた真珠を散りばめたように無数のハイライトが燦然と湛えられている。
たなびく鹿子色の髪は、鈍く弱まりつつある夕光を薄く吸い込んで新たに上等な織物を形成するかのようだ。風の中をはためく都度に、煌めきの波が滑り流れる。
彼の美貌を背景に広がる天空のカンバスは、夜を迎えるべく色模様を刻一刻と塗り替えられていた。
塀の前で最初に見た時より、夕景の変化を更に刻みつつある。
明るい暖色部分は、徐々に下へ下へと溶けて行く。上空から次第に闇が連れて来られるのだ。
高い位置より順に、紺、藍色、群青、紫紺、アメジスト 赤紫、蘇芳、薄紅 茜 朱色、琥珀 橙……
明暗の異なる色みが接触して滲む都度に、また次々と濃淡のコントラストを効かせた色みが生ずる。
時にせめぎ合い、時に交合することで、劇的なグラデーションが織り成される。
まるで、色の行き交い麗しく肥ゆる高い天という大海原を潜水していくような感覚だとエクトルは思った。雲間を染め抜きながら、放射状に走り抜ける陽光の筋は、海底を照らすそれを彷彿とさせる。
疎らに点在する千切れ雲は、海間を漂う小島のようだ。暗色に覆われ行くスクリーンの中にあって、微かな夕映えを彩りにし燃える色を放つ。雲の群島間を掻い潜ると、お伽世界の旅に似た爽快な幻想感が込み上げる。
横たわる湖上の山々の尾根を、残照が縁取っていた。もう日は少なく消え去りつつあるが、儚げな眩さで空間を堅固に明るさで浸している。
情緒的な景色の中を渡って行くために、じっくりと感じ入るようであったが、実際には瞬速で展開されたに違いない。
どこまで飛んで行くつもりなのだろう。ひょっとしたら、尾根も越えて遥か彼方まで向かうのではないだろうか――
勢いに任せるまま、呆然とそんなことを思い巡らせた時、ふとエクトルはもう一つの異変が伴われていたことに気づいた。
紳士が飛行しているのは、魔力か超能力のためかもしれぬと考えていた。魔法を社会的慣習としている世界もあると聞かされたのだ。ならば、紳士もその一人であれ不思議ではないと受容できたのだ。
だが、そうではなかったらしい。
いつの間にか、紳士の背後で、何やら蠢く物体が幾つかある。 繊細かつ鮮烈な青い色彩を纏っていた。
形状で即座にわかった。翼である。長身な紳士の背中ほどの丈を誇るそれが広がっていた。
おまけに普通の鳥と同じ二枚ではない、六枚にも及ぶ数の清蒼の翼が一斉に紳士の背後ではためいていたのである。
しかも、翼の色は一定に留まらなかった。進むに連れ、青から緑、黄色、橙、赤、紫、藍……と変化を起こしている。以上の七色がこの順番で循環していた。
瞬時に切り替わるような変化ではない。夕空のグラデーションと似て、段階的な淡い移り変わりを描き、爽麗な明暗を呈している。明滅するように揺らめいて、輝きながら次の色に身を包む。
幾度も幾度も七色の変貌を繰り返す様により、翼面は玉虫色に染まり切ったようであった。ダイナミックな宙景色を背に、夢幻性が強調される。
「ベヌンさん! なんですか今の手品!お忍びの高貴な身分ってだけじゃなくて……まさかあなたは特別な異種人類の! 」
次の瞬間には、反射的に問いを迸らせていた。非日常的な行為が後押ししたのだろうか、自ずと躊躇は控えている。
肉眼で負いきれない速度でも判明したことがある、翼の滑らかな羽ばたきは決して機械的産物とは思えない。
どれほどの精巧な技術が凝らされた特殊装置でも、紳士が披露したほどの域に達したものは知らない。
極秘に生み出された飛行道具の可能性もあるだろう。
だが、生の質感を充分に匂わせる羽の躍動感は、間違いなく自然的なものだ。
「お、教えてください! あなたは一体、何者なんですか、ひょっとして、あなたこそが……」
エクトルの中で根拠はないが閃いた事柄があった。三日前のイローニの話と関係している。文化図書館で見せられた天体神話集のある一節が脳裏を過ったのだ。
自分達の時代から数えて千万年前にも及ぶ太古の昔、この惑星に人の姿を取りながら神格を司り体現する高貴な存在が来臨した。彼は、背中にまるで不死鳥の如く美麗なる異形の翼をいただくことから、“不死鳥の神人”と呼ばれたという――
友が聞かせてくれた流星に纏わる伝説に登場した不死鳥の神。
ひょっとしたら、今まさに自分と共に過ごし一つ屋根の下で同じ竈の食事を口にしたこともある、雅美なる偉丈夫、彼こそが正真正銘のそのものか末裔なのではないか――。
神経が昂りかけて、最後まで言葉を舌に乗せようとしたその時。
下方で、タンッ、と堅い部分に軽く当たるような音が鳴った。
いつしか、視界には商店と思しき建物や人家が入るばかりとなっている。
どうやら、地面に着地したらしい。
感覚は、未だに空の中を漂っている。ぼんやりと思考停止している少年の身体を、紳士は優しく地面へ下ろした。
おぼつかぬ足取りのエクトルではあったが、何とか踏みしめる。靴裏から歩き馴染んだ路地の感触が伝わってきた。
降り立った場所は具体的に、何の変哲もない、中心通りの商店街に距離の近い中間的な幅の路地だとわかった。無人ではなく、夕暮れ時ならではのやや賑わった人気があった。
「迂闊な真似をした。すまない……そうだ。私の種族ならではの軽度な幻術の一種だ。ちょっとした驚きの体験だと思って、深く考えず忘れてくれたまえ」
穏やかながら深刻な声音で、後悔するように紳士が呟く。
確かにベヌン氏にしては軽はずみな行動だった。加えて、後ろめたげに詫びる姿が一層らしくなくしている。
エクトルもそこで、ある現実的な思考が頭をもたげた。自分達が飛んでいたのは、時計台や教会の塔など高層建築物の頂上に届かんばかりの位置だった。
町民に目撃されて、事件的騒ぎが発生していてもおかしくないのだ。何故、これほど当たり前のパターンを想定しなかったのか。
翼はとうに見えなくなっていた。降ろすと同時、瞬時に仕舞い込んだのかもしれない。だとしても、壮大で華美な目立つ代物を目に入れずにおれた者などいるのだろうか?
危機意識に突き動かされてバネ仕掛けのように周囲を見渡すや、別の意味で目を疑わされることとなった。
結果は意外なものだった。付近を通り過ぎる誰も彼もが、自分達の存在を全く気に掛けていないらしい。最高層建築物の屋上に触れる寸前の高さを飛んでいたのに、気付かれていないというのか。
ひょっとしたら、可視出来てすらいなかったのか?
犬の散歩をする人、夕飯の買い出しに向かう人……。
視界に入る道行く人全てが、異様に映ったはずの光景には目もくれなかったようだ。何事もなかったかのように通り過ぎて行く。突如路上に出現した状態となった彼らを一顧だにしない。
エクトルは状況を上手く処理できず、団栗眼で口を半開きにしつつ佇んでいた。
「お詫びの印というのもなんだが、君が素敵な光景を紹介してくれたお礼も兼ねて、こちらからもこんな一品を見せよう」
当惑している少年を宥めつつ、ふと紳士はコートの懐に手を入れた。何やら金属性の円盤状の物体が一つ顔を出す。
色は黒を主体としつつ、銀色が斑模様のように混合している。鉱石を思わせるボディだ。
円盤の上部分からはネックレスのようにボディと同色の鎖がきらきらと延びている。
懐中時計のようでもあったが、何やら特殊な造形で出来ていた。全く未知のデザインをしている。
驚くべきは、中心となる円盤部分だった。
大きな黒い円の内側で、更に幾つもの大小様々な円盤が複雑に重なり合いつつ、連なっている。何種類もの幾何学模様を描き出しているようだった。目を凝らすと、大小の針を持つ普通の時計盤もあれば、星座早見盤のような円盤図まで存在している。
円盤部の底の色はミッドナイトブルーだ。金・銀・銅・白のラインが文字や図となって絡み合い、青みを帯びた日没直後の星空を連想させる。さながら、ミニチュアのプラネタリウムだ。
「わあ、すごい……。ただの時計じゃなさそうですが、どんな機能が付いてるんですか?」
素直に感嘆する。この頃には幾分か呼吸も落ち着きを取り戻していて、冷静に次の展開へ切り替えられていた。
「時計でもあるが、そうだね……。主に星間移動を行う上で重要な機能を有するアイテムだ。私の故郷の惑星と旅先の惑星の時差を把握することも、ワープ飛行を行う上での距離と時間を計測することもできる。行く先の銀河系における複数の惑星間の時差や距離を同時に計測することも可能だ。飛行機のモニター上で処理できなくもないが、私にとってかなり時間は大きな意味を持つものでね……。常に、あらゆる角度から帰郷のために要する期間を処理しておく必要がある」
エクトルの脳裏に、蝶人種達の飛翔を見上げていた時に語り聞かせた台詞が過った。逼迫した故郷のために急がんと焦燥の念を抱えながら、遊学に賭する我が身であると。
恐らくこの機器は、紳士の属する文明圏におけるウェアラブル端末の形なのだろう。だが、職人の手による一点物の如くに豪華な作りのものは見たことがない。エクトルの認識における端末装置とは、シンプルなデザインを追及した工業生産の品なのだ。
「だが、備えているのは実質的なものだけではない。滞在中の惑星から観測できる星座の種類を教えてくれたりもするのさ。その惑星において星座という概念があるか否かに関わらずとも、どのような見え方や配置になるのか提示する機能がある」
「素敵ですね。ロマンチックだ」
「他に、携帯機械としての副次的な機能も備わっている。立体映像で通信している相手やその場所の風景を出現させることもできるし、録画・撮影機能もついている。君達の惑星区域で普及している携帯通信機に近い部分もあるだろうか」
「なるほど。当惑星の大都市部だと、立体通信の機器は浸透しています。でも、発信側の人物は映写できても周囲の風景を切り取れるものは出来ていません。僕、ぜひともベヌンさんのその装置で、相手のいる風景まで出現するところを見てみたいです」
「良いだろう。滞在の間に、誰かとやりとりすることがあれば、ぜひね。あと、通信相手のいる風景だけじゃない、今までの旅で記録した風景を立体映像で出すこともできる。君には近い内に、こちらの方をお披露目しよう。再生すればかなり長くなるだろうから、改めて時間を設ける必要がある」
どちらに関心が強いと言えば旅行記録の方だ。ベヌン氏の豊潤な声音で聞いているのも気分が踊るものだが、口だけではなく実際の映像で接するのは臨場感が段違いだろう。
「はい、お願いします!楽しみです!」
しかし心の片隅には、手放しで称賛できぬようなもどかしい気分がうずくまっていた。
この美丈夫は、次々と未知と新鮮を届けてくれる。だが、先ほどの大掛かりな体験の直後での用意は、タイミングとして妙な感触がしたのである。
はぐらかそうとしての行為ではないだろう。ベヌン氏の人柄から、絶対的な信頼感を寄せていたいという意思がある。
後ろめたいわけではないのなら、翼を広げて見せた理由を明解に述べればいい。ただ、敢えて伝える程の大仰なことではないという認識なのかもしれない。
魔術や魔法を社会常識とする世界や虫の生態機能を持つ人型の種族があるように、エクトルが常識としない事柄であるからと言って異常として取り沙汰にしない。
超然とした寿命が最初に示された良い例だ。訳も口にせぬまま、飛んでみせたことが何だというのか。
紳士の飛翔も、この超技巧的な時計的機械と同じ、初めて出会った時に見た星間用飛行機のような超常文明の一種として理解すべきなのかもしれない。〝不死鳥の神人〟への連想など、衝動的な結び付けに過ぎぬ。史実か伝説も曖昧な存在に類似する面があるだけだ。
第一、事情を確認したわけでもないのに、相手に責任を問えるだろうか。
紳士の方にも、気不味さに似た気配が纏われているようだった。確実なのは、何とも言えぬもどかしさが二人の間を横たわっているということだ。
気づけば、路地の中で街灯の輝きが明瞭に際立っている。空の色も路面も建物も、薄い青みをぼんやりと残して暗く塗られていた。ほぼ完全に日が沈んだらしい。
程なくして、重い空気を打ち破ったのは紳士の方だった。初日に遅い時間まで付き合わせてすまない、大家殿に心配をかけているだろうから急ごうと肩に手を添えて促した。家路を目指し、歩を揃えて並ぶ。
何だか遣り切れない、このしこりが残る気持ちは何なのか。一方で、深追いは諦めるべきだと囁く心の声と湧いてきた空腹感に、次第に気になる感覚が薄まっていく。今はただ、静かに黙する端整な横顔を伺いつつ、帰路に着くしかなかった。
★第六話につづく。
2020/12/11追記 紳士の持つ時計盤が重なりあうような懐中時計型端末ですが、イメージモデルは古代ギリシャの計算機と言われる「アンティキティラ島の機械」、それを再現したヘクライドンミュージアムの展示品です。