第五話 観光(1)<上>
翌朝、朝食のために一階へ降りて来ると既にベヌン氏は着席していた。室内にいる時の彼は、初めて会った時と比較して随分寛いだ格好をしていた。昨日の堅く身を引き締めたインバネスコート風の出で立ちと打って変わって、現在は部屋着でいる。美しい逆三角形のラインを描く上半身は、いかにも手触りのよさそうな漆黒のブラウスに包まれていた。胸板の下のラインがやや覗くほど襟の広がったデザインで、喉仏の浮き出た首周りには銀のチョーカーを巻いている。下に履いているのは、やや暗みがかった色合いの青紫で染められたスラックスだった。
均整の取れた体格のラインを見て、昨日目の当たりにした裸身の記憶が鮮烈に蘇り、一瞬ドキリとさせられた。しかし、直後にわざとらしいまでに大きく首を振って、気合いを入れ直し正気にする仕種をする。
会って二日目に至る今も、紳士は少年の挙動不審の癖に感づいた気配はなかった。片眉を上げて、気さくに挨拶をしてきただけだった。
「おはよう、エクトル。お先に大家殿の素晴らしい朝ご飯をいただいている。彼女は植え木の水やりの用事があると言って外に出てしまった、私一人では心もとないから、早く席を共にしよう」
上品な静けさを含んでいるのに、まるで接する者の一日の行動における意欲を促す朗々とした響きを伴っていた。少年は短く返事をしつつ、尚もぎこちなく足つきで身体を居間に運んだ。
テーブルの前の長椅子に腰かけた紳士の姿は、庶民的な安物の調度品に囲われながらも、格調高い優雅さを固持していた。殿上の住人を思わせるのに傲然と気取る気配のない、視界に迎え入れる者を自然的に温かく落ち着かせる雰囲気であった。
エクトルも、紳士の左隣に置かれた椅子を引いて座るまでに至る頃には、いつしか羞恥めいた緊張も和らいでいることに気づく。紳士から流れ出づる穏やかな空気が、包容するように心根を癒すようであった。食後のものと思われる紅茶を片手に、紙の新聞を読んでいる姿も実に高級な絵となっている。窓辺から朝の陽光を吸って逆光気味になっている様子は、さながら旧ガイア期のセピアトーンを特徴とする映画のポスターを思わせた。
「地域の新聞を読ませてもらっているんだ。 郷土史家が開拓期の遺跡を発掘したらしいね。観測所の跡地を見つけたそうだ。これは興味深い。時間があれば私も訪れてみたいな……」
ベヌン氏の嘘偽りない好奇心を滲ませた声に、エクトルはどう返して良いか気の効いた相槌を思いつけなかった。史跡の類に関心がないわけではなかったが、跡地だけでは殺風景という印象しか湧かず、どこに心躍る要素を見出すべきかわからない。まずもって、うらぶれた田舎の範囲の出来事であるという先入観により醒めた事柄にしか捉えられないのだ。
昨日に聞いた風呂屋探訪の件についても感じられたことだが、味気無く感じられる面からも楽しみを見出せるタイプなのかもしれない。つまりは、豊かな視野を有する懐の厚い人物。自分は全くそうと発想したことがないのに――ここでも、己の矮小さが思い知らせて歴然と差が開くようであった。
答えあぐねている少年の様子には感づかぬのか、紳士は尚も言葉を継いだ。
「君は今週、今日から数えて二日後までは仕事だそうから、しばらくは時間を一緒に過ごすことは難しいだろう。惜しいことだが、私一人でも近辺を遊覧させていただこうと思っているよ。如何だろうか?」
皿上の目玉焼き載せガレットを開いたばかりの口に放りこもうとしていたエクトルは、電流に撃たれたように肩を震わせると同時、頭一つ上の美貌を見遣る。次の瞬間には、呆然としてしまった態度を隠すように目を伏せてしまった。矛先が向いたのは、不意を突くような事態である。
よくよく考えずとも当たり前のことだが、紳士の方から定めた日数の通りに彼はエクトルと一つ屋根の下で暮らすのである。
一夜にして立て続けに起きた衝撃の度合いに翻弄されるがままで、生活を一緒にする間どのようにして相手と過ごすのかという問題に少しも頭が回らなかった。
(そうだ……こんな特別な方が泊ってくださるのに、 何か計画する必要があるよなあ……。追っかけのファンみたいに遠くから眺めてやり過ごしているだけなんて、無愛想かつ失礼極まりないじゃないか)
即座にまともな案が浮かぶものではない。現実問題、平日は時間を共有できないのだから、紳士の自由に任せるべきだろう。
気恥ずかしさと惚けた態度を取り繕う意図でもって、口早に紡ぐ。
「お、お気になさらないでください。僕のことなんか構わずに、どうぞお好きなところを巡ってくだされば……」
「いや、やはりどうせなら君に頼みたい。私よりも若い目を通したものは、新鮮で豊かな主観を持って伝えてくれることがある」
何かとんでもなくご大層な期待を掛けられている。昨夜も含めて僅か二日目の頃とはいえ、割とあからさまに厭世観を込めた言葉遣いからエクトルの人と成りを推測できよう気もするが。裏切られる心配はないのだろうか。
「君の事を少し、大家殿から聞いたのだがね。基本的には週末の二日間を除けば仕事をしているそうだね。だからひとまずは、おおまかに近辺を散策して調べ歩くとしよう。図書館など文化施設も充実しているようだし、単独であれ、有意義な時を過ごせそうだ。まずは文献上の情報からだな、郷土資料にも当たりたいしね……。週末が来れば、ぜひ君と共に街を歩きたい」
「……は、はい。それでは、必ず! 是非お供させていただきます……」
案内に自信はない。しかし自分でも意外な程に、深く考えるより素早く答えを吐き出せていた。〝君と共に街を歩きたい〟――優しい微笑を添えつつ、熱を込めて同行を望まれたら賛成の他に示す意があるだろうか。一瞬想起された妙な不安は霞んでいる。ベヌンという唯一無二の麗人が相手となる時点で、純粋に嬉しさが湧き上がることに抗えなかった。
壁に掛けられたカレンダーに目を遣った。本日はまさに土曜日の二日前、木曜日だった。残された平日の二日間、地獄を耐え抜けば、紳士と密に過ごせる時間が得られる。
なお、彼は所望する滞在期間について、曖昧に〝二週間ほど〟と言った。つまり、厳密な区切りがあるわけではない。
もっと長く共有する時間を設けられるかもしれないのだ。平日が長くある分短縮されるとの憂慮は不要だ。
己の能力からして、優れた段取りを組むことはできないだろう。ぶらぶら巡りながら、都度に適当な場所に赴く流れでも悪くないとは思う。
取るに足りない寂れた町と断じつつ、下宿と図書館以外で値打ちがあると感じるものがないわけではなかった。予め一度目の観光を済ませた紳士が行った場所に、もし万が一エクトルにとっての数限りない推薦スポットが既に含まれていたとしても、気に病む必要はない。紳士は信頼してくれている。拙い子供の視点を介した物事にすら価値を置く心の広さを持っているのだ。
具体的にこちらから練り上げようと張り詰めなくても良い。何よりも、来客の意志を尊重することが第一だ。紳士が望むがままの地点を踏破できれば充分である。
掻き込むように食事をたいらげた後、身支度を済ませて玄関に立つ。親切にも、ベヌン氏は見送りに来てくれた。
「頑張りなさい、言っておいで」
簡潔な励ましと挨拶。なのに、何故胸の深奥が押されるようにキューンと詰まるのだろうか。頬も上気し、嫌悪する仕事を憂い萎え切っていた意識が高揚する。
たかが日常の出発において、これほど漲る瞬間があっただろうか。幸福感を抱きつつ、一つの決意に身を引き締めた。
待望の週末に、この小さな町から紳士の目に映ったものは何か。脚を揃えて出かける前に教えてもらおう。
そして待望の週末休み一日目となった。
紳士は本当にその風貌を裏切らない肌理細やかなお洒落上手である。今やエクトルにとって、毎回微妙に変わりゆくベヌンの装いは、楽しい注目の的となっていた。
ヘアスタイルは、初日の入浴後に披露されたものと同様、凝っていたものの、器用なことに多少のアレンジで仕上げられていた。
一度、前の髪を後方に撫で上げるように流し、アクセントのように額には二本ほど長さの異なる毛先を残して垂らしていた。降ろした髪の一部は、後頭部にて両サイドからビーズのような三つ網にして中央で結ばれている。初日に見た印象の強い豪奢な巻き毛部分は、大半腰元にかかる低い位置に集まっていて今回は脇役の佇まいだ。
服装はシャツに黒のベストとズボン、首元には青と白の羽模様をあしらったスカーフが巻かれていた。細かい装飾品にまで青鷺がトレードマークとされているらしい。
邂逅の日の装いを旅路の貴公子と表現するなら、今回の装いは休暇の貴公子だろうか。
間抜けなことに、まめな人だなと仕切りに内心にて感嘆するばかりで、口からの称賛を送りそびれてしまった。無意識に眺め入る内に、自然な流れで外出を切り出されたのだ。
「さあ、待ちに待った約束の週末になったね。君が不在の間、私一人でも幾つか気になる場所を拝見させてもらったが……やはり、一人では心細いものだ。今日こそ共に出かけよう」
「もちろんです! ぼ、僕も今日が待ち遠しくて待ち遠しくて、仕方ありませんでした……! い、いざ参りましょう!!」
肩を張って、かしこまりながら突っかえ突っかえ同意を表す。 毎度のことなので諦めているが、一向に気の効いた言い方が上手くできないのがもどかしかった。
紳士は、シンプルだが鮮やかな装いに更なる彩りを添えるように、甲の部分に刺繍の施された白手袋を優美な両手に通していた。外套姿の時も身に着けていたから、恐らく外出の際は必ず嵌めることにしているのだろう。
エクトルは光栄さに高揚しつつ、自分などが付き添う案内役で良いのかといぶかしむ。先日、誠実な期待を寄せられたにも関わらず、当日のこの瞬間に及んで不安がもたげてきた。
聡明な紳士のことだ。エクトルが把握している範囲も越えて、自身の足で活発に回る内に多くの有益な事柄を掴んでいそうなものである。
そんな彼に対して改めてナビゲートするのは妙に思えた。
念のため、ベヌンの立ち寄ったスポットを聞いておくことにした。親切な彼はきっと気さくに笑って、重なっても問題ないと答えてくれる可能性は充分にあるだろうが。そう予想しつつ確認せずにいられないのは、エクトル固有の心配性に基づくものだった。
「……とはいえ、行く前に予めお尋ねしておきたいことが。ベヌンさんは、僕のいない間の観光の日々、具体的にどこを巡って来られたのですか?」
「図書館に市場かな。主には図書館だね。なかなか蔵書が充実していてね、この二日間は通って読むことが中心になってしまったよ。市場はまだ深く入り込めていないし、何しろ外の様子自体をろくに見られていないんだ。昨日、書店に寄ってガイド本らしき一冊を買ってはみたのだが……」
紳士は懐から、カラフルな装丁がされた文庫型の書籍を取り出した。エクトルもよく知っている軽度の観光書だ。パラパラと数頁手繰る仕種をしてから、再び少年に目を向ける。
「小さな記事だけでは行くべきところを定め辛いね。ライター諸氏には申し訳ないが、やはり生の人間の目を頼りたい。それに、二日間とは充分なようで短いものだ」
エクトルの胸の内には安堵感が湧き上がった。案外に先立った観光のルートは狭く留まったらしい。筋肉量と体格から、てっきり肉体派の活動家だと推察していたのだが、意外と本の虫の属性が強い人物のようだ。まあ、理知的な面を兼ね備える紳士であれば当然とも言えよう。
めぼしいものもない小都市だと思っていたが、探せばゲストに紹介すべき箇所は存在する。入植期の観測所跡地に着目した紳士の視点ではないが、他者の意見が現れることによって広がるものらしい。
図書館の他に重要な文化施設と言えば博物館だ。〝見習い人〟として就業中の友人もいる。また、人口の少ない田舎でありながら、喫茶店には恵まれている。カフェの文化を好む退職後の老齢者が多いことも関係しているかもしれない。
だが、物珍しさを欠いた地方という事実は厳然としていた。言葉にして並べてみると思い知らされる。博物館にせよ喫茶店にせよ、質の高低はどうあれ、取り立てる程の個性や特徴を有しているわけではない。都市部にあれば紛れてしまうであろう、変哲のない一スポットだ。あくまで地域住民の暮らしを重視して形成された町で、観光に力を入れられることが然程なかったからかもしれない。
自信が後退しかけた少年は、くどいとも自覚しつつ敢えてまた問い掛けた。
「生の目を使ったって、あまり変わらないかもしれませんよ? 実際、二日間で見て来られたスポットが全てのようなものです……。ご期待に添えるか不安だ」
「なに。君自身が心の底からお勧めだと思うところで構わないんだ。そんなに気張らないでくれたまえ。二日前に言ったはずだよ。〝私よりも若い目を通したものは、新鮮で豊かな主観を持って伝えてくれることがある〟とね……。私はただ、純粋なそこにある風景を、そこに住む人の声を通して切り取りたいだけさ。物珍しらしさがあることや、どこか余所と比較して何か特性や差のあることは大事ではないんだ。
だから、例えば今から向かう場所が、私にとって二周目になったとしても支障はない。私よりは長くこの町を見ている、君と行くことにこそ意義がある。同じ箇所を映そうと、十人十色で別物になり得るからね。むしろ、再び対面することで新たな風景を吟味できる喜びがあるんだ」
かつて、ただ観光や遊覧を行うのみで、これほどに寛大かつ視野を拡げた心構えを示した人間がいただろうか。
人生経験の浅さ故に審美眼の磨き足りない己でも、ベヌンという人物には賛嘆と憧憬の念しか払いようがないと認識したことは正しかったのだと確信できる。交流を日々重ねる毎に、彼の紡ぎ奏でる言霊は音色の美しさを増す。
一陣の涼風に似た爽やかさが体内に吹き起こるのを感じた。
「……あなたは、歴史の研究者ではないんですか?」
ベヌン氏はやや詩人的な趣がある。華やぎのない田舎町の小規模な史跡に注目したり、外を回るより先に資料の類に気が行くところに歴史学者らしさを覚えたりもしたのだが恐らく主な理由ではない。彼は調べたいことがあるから、わざわざ当惑星の当地域を選んだのだと言った。事情からして、歴史絡みの研究以外にあるだろうかと思いもさせるが、ならば市井の素人ではなく専門家に先導役を頼むのが妥当なはずだ。
歓喜に浸りながらも、微妙な不可思議さを覚えて尋ねていた。
「ほんの遊学さ。研究という、本格的な務めではない。観測所跡が気になったのも、ちょっとした関心の一つだ。……さて、出発の準備は大丈夫かな? 大家殿に挨拶を済ませたら、午前が過ぎぬ内に向かおう。少年の君に、もし宵の近くまで歩き廻らせることになったら申し訳ないからね」
「初めてお会いした時は深夜の図書館帰りだった僕ですよ? あと二年で十五にもなりますし、お気になさることじゃありませんよ」
「おや、結構逞しいね。尚更、全幅の信頼を寄せて観光を楽しめるよ」
エクトルは軽口めかして応じつつ、さりげない流れにより外出前の確認に切り替えられる直前、麗艶な口元がどこか侘しげに揺らぐのが視認できて何となく気にかかった。しかし、その時は頓着する程でもないと振り返らず、財布の入れ忘れのチェック等に専念した。
玄関の木戸を押し開けて天を見上げると、日差しの強くない穏やかな青空が広がっていた。
なだからかな丸みを帯びた綿の雲が羊の群れを思わせて、清蒼の草原を風に沿いながら歩き渡って行く。
心地良い秋晴れと言えるだろう。その下には、簡素だが暢気で平穏な町並みが佇んでいた。
紳士が今回羽織る上着は、襟元が広くボタンで繋ぎ合わせぬ形状のオーバーコートだった。旅装として身に着けていたインバネス風のロングコートより生地が薄めでカジュアルな印象だ。さしずめ軽い外出用といったところなのだろう。上等な質感に溢れている点は揺るがない。
まず向かったのが、下宿の建つ住宅街より歩いて二十分程先にある小さな露天市場だった。街路の中心に屋台が並び、野菜や果物、アクセサリー装飾品の類が売られている。週末最初の休みということもあって、田舎の規模にしては普段より出店数、店の種類が多い感じである。
入口から、ぶらぶらと店先の売り台を見て回る。エクトルにしてみれば、休日の関係で些か華やごうが、何の驚きもない平坦な風景でしかなかったのだが、隣を歩く紳士の青い瞳には感銘の揺らめきが窺えた。当たり障りのない事物であろうと、立ち寄る場所全てに対し貴重さを見出せる性なのだろうか。
「どんなに高度な建築技術が生まれても、素朴な有り方が失われないのは素晴らしいことだ」
どこか感極まったように呟き洩らす。手短な概観への寸評でありつつ、真の深みが籠められているようであった。
三店ほど進んだ左沿いで、クッキーやフィナンシェ等小型の焼き菓子が売られていた。デフォルメ調にした動物や、地域の祝祭におけるマスコットキャラクターが模られていて工夫がされているようだ。屋外に出すという事情からか、透明の袋にラッピングされた状態でトレーの上に等間隔で陳列されている。
紳士は懐から現金のコインを出し、少し小腹の足しにどうだろうかとエクトルにも親切を利かせてくれた。
別段欲しいと思っているわけではなかったが、彼の誠意には素直に応えるべきだという律儀さがもたげ、甘えさせてもらうことにした。両者とも形に拘りは無かったため、襞状のクッキー地に縁取られたプレーンのカスタードタルトを選び取った。
大家の婦人が偶に手作りで振舞う以外ではスナック菓子ばかり食べているエクトルも、香ばしさと甘味が口中に充満すると純粋な美味の感動に身体が湧き立った。何より、ベヌンという特別な人物がくれたものであるということに重要な意味がある。
紳士は露天市場を通り抜けた後も、猶思い入れを抱いている様子だったが、次に彼の口から提案された行先は、既に二日間集中的に利用したという文化図書館だった。
「散々入り浸っておきながら、別の場所への探訪を試みる前に再度寄らんと欲するのは妙だがね。君の予定を若干狂わせることになるだろう、申し訳ない。ただ、用事の中身自体はすぐ終わるものなんだ。昨日借りた本を読み終えてしまったから、期限を忘れぬ内に返したいと思ってね」
多少の罪悪感を含めた物言いで断る紳士に対し、エクトルは至って構わないとすぐ様賛成の意を示した。少年にとって、最も落ち着き安らぎを感じる空間は断トツで図書館なのだ。逆に願ってもない流れである。紳士が返却に寄るついでに、自身も見ておきたい本が幾つかあったのだ。
この文化図書館は市立だが、申請書を提出すれば外部在住の者でも借りることが可能となっている。ベヌン氏のような期間限定の滞在者に対しては、その期間中に全て返却することを前提とする契約を交わせば、貸出の権限が付与されるシステムが存在する。
建物の前に二人で来ると、通い慣れた場所のはずなのに改まった心地になった。つい三日前の夜、親友と流星談議や見習いの苦悩を吐露し合ってたい所と同じだと思うと妙な気分がする。
久しぶりにカウンターに足を運んだところ、人狼種の若い女性司書達がやや黄色みがかった声で雑談しているのを小耳に挟んだ。同星系にある近隣の異星からの移民出身者達だろう。近頃は本当に種族・出身を問わずに至る場所で顔ぶれが豊かになってきた。三日前までは、異種族出身者でもこちらと類似する人型のみで占められており、目立つ形態があるとすれば、先天的な髪色にエクトルらの属する人類が持ち得ぬものがあるとか、額に第三の肉眼を有するという差異がある程度だった。
エクトルとしては、福祉も充分とは思えないうらぶれた地方都市を何故わざわざ選ぶのかつくづく理解に苦しむのだが。
話題の対象はどうやらベヌン氏のようだった。観光客という通りすがりのような立場でありながら、礼儀正しく気遣いをしてくれるハンサムな利用者ということで評判になっていたらしい。
(いやあ、美男子って憎いなあ)
呆れ半分に感心しながら、隣の人物に対し忠告めいた揶揄を投げかける。
「ベヌンさん、仕事中の若い女性達をはしゃがせるものじゃないと思いますよ。みんな、あなたに出会った途端、妙な期待を抱いてしまうんですから」
籠絡、という過激な言い回しは控えた。エクトルからすると、その単語の意味に匹敵するほどの威力を備えた魅惑感を放散しているようなものだったが、堅実な人間性を根底に持つ男に向かって身に覚えもない咎を指摘するのは非情と言えるだろう。
「おかしいな……。私は常に、会う者と同じ目線になって、語れるよう意識しているつもりなのだが。まだまだ傲慢さが抜けぬ程に、精進が足りぬのかもしれない」
飄々とした趣もある紳士には珍しく、やや心外だという悩ましげな意思が重厚な声色に滲み出ていた。
「そ、そういうことじゃないですよ。あなたの努力を見下したわけじゃない」
意外な様相に思わず苦笑しながら、相手の真剣さを庇うように言い繕う。
「ベヌンさんからは掛け替えのない魅力が溢れているということですよ。ただそれが、相手を虜にさせるほど、やや強力というだけで」
上手い慰めの文句を紡ぎ出せぬことを不甲斐なく思いながら、尻窄みに言葉を結んだ。
口では伝え辛い微妙な状況のニュアンスを汲み取ってくれたのか不明だが、紳士は少年の説明を受けた後、神妙な風に応じた。
「出会ったばかりの人々が、一介の旅人たる私を大きく好いてくれるのは非常に有り難いことだ。ただ、一瞬に過ぎない期間に思いが深まってしまうことは……時に双方に対して、辛いと言うにはあまりに深刻な反動を呼び起こさないか不安な部分があるがね」
言葉を並び立てる間、端整な横顔に微かながら哀切めいた色合いが射したように見えたが気のせいだったのかもしれない。やや重みを帯びた台詞の為せる技による雰囲気が、そう表情を演出してみせたのだろうと深く取り立てるまでに思わなかった。内容に関しても、恐らく旅の別れは辛いという普遍的な悲しみを仰々しい物言いで述べているだけだろうと判断したからだ。
退館後、時刻は午後一時近くとなっていたため、喫茶のできる店を探すことになった。午前中に寄った露天市場のある通りとは別にある商店街の方へと赴く。飲食店の数がやや多いのだ。
(大人ならお酒が飲みたいだろうけど、僕が未成年だからなあ……パブには連れて行ってあげられないなあ)
この地域では主に愛飲される酒はビールだった。昼夜関係なく、社交場として店に集まり嗜まれる文化がある。ただ、連れて行けたとしても、相手は別の文化圏出身者だ。口に合うか不安であると同時に、旅の経験が豊富であろう彼の満足できる品数が揃っているとは思えない。
紳士に問い掛けると、彼は鷹揚に笑って答えた。
「構わないさ。お酒のことは。私は茶の方が好きなんだ」
「チャイ?」
初耳である飲料の名詞について聞き返した瞬間「また立派な相手に己の無知を悟らせてしまった」と僅かに恥じ入りつつも、それに勝る好奇心で胸は早鐘を打つ。
「失敬。ここでは紅茶というのかな。事前に異なる言語は調べるようにしているのだが、どうしても自分の身の周りに昔からあった類似品の名称が出てしまうものだね」
紳士の方も、申し訳なさげに軽く咳払いをする。
「こちらこそ、すみません。構わないですよ、異なる文化圏の人が使う言い回しには関心があるんです」
少年の言葉を受けた紳士は、簡単に説明を添えてくれた。
「茶とは、ミルクと砂糖を加えたお茶に、生姜やハーブ等の香辛料を混ぜて味わう飲み物のことだ。幾つかの地域に同名の飲み物があるが、方言のように地域によって飲み方も、味も作法も異なるんだ」
香辛料を入れるとは、美味しそうだがクセがありそうだ。先入観から案じるようにそう返すと、確かに好き嫌いを二分する性質はあるが、香辛料を含む点が疲れている時に効果があって自分は大好きだと紳士は言った。
「安らかな気分にさせてくれる優しい飲み物が好きでね。だから、パブに入れずとも問題はない。それに、体内の神経を朦朧とさせるアルコール類の嗜好品は、実はあまり好みでなくてね」
優しい飲み物を愛飲する点はエクトルも大いに賛同できる。例えば彼は、苦みがあるカフェラテより甘みが濃いカフェオレの方が好みだ。酒類についても、学校のアルコールランプの実験で気分を悪くした経験があるぐらいなので、将来大人達と同じように何杯も呷りたい程嗜好できるか今から想像がつかない。
それにしても、百科事典やインターネットにおいて、普段から当惑星内における世界の文化や多惑星の文化、過ぎ去りし旧世界となる文明発祥惑星の各地域文化などはある程度調べてきたつもりだったが、これも十代前半で至れる程度の未熟な範囲ということだろうか。語調は何となく文明発祥惑星の東洋地域からのものを想起させるが、当惑星が文明発祥惑星の欧米地域出身者を中心として開拓と文明構築が行われた歴史もあってか、東洋系の事柄については資料に触れた頻度も少なく疎いと言わざるを得なかった。
そう言えば、ベヌンの口調には、異質とも言うべきイントネーションを感じる。初日の名乗りに含まれていたミドルネームも異国情緒性のあるエキゾチックな語感だった。透明化できるワイヤレスの携帯式自動翻訳マイクが当然に流通している世の中、彼も装着しているのかもしれないが育成環境で身に染みたイントネーションというのは容易く誤魔化せないものなのだろう。
やはり、かなりこちらの公用語圏からは離れた星系から来た可能性が高い。
一体、どんな道筋を経て当惑星まで辿り着いたのだろう。情報量の弱い辺境の惑星を目指すまでに、彼を駆り立てたものは何だったのか……。
ふと、そんなことに思いを馳せた。
しばらく歩いて、店前の立て看板から食事も雰囲気も申し分のなさそうな一軒を見つけ出した。気を利かせた紳士を先頭にして入ると、案外心地良い。
ドアベルの音が鳴った。
工業的ではない、塗り重ねた跡に手作り感が漂う黄色い壁が古風な雰囲気のインテリアだった。壁上には、青い絵の具で文様の描かれた陶器の飾り皿が、やや高い位置で等間隔に並べ配されている。ウェイトレスに注文をしてから二十分程経って、重厚な茶褐色のテーブルに頼んだ料理が運ばれて来た。
二人とも選んだのは同じランチメニューで、スモークサーモンとクリームチーズ、バジルソースを和えたグリルチキンを食パンに挟んだ二種のトーストサンドにサラダ、飲み物には甘いコーヒーだった。
エクトルは、本当なら食事の飲み物にはドリンクの一覧表にあったバニラオレを頼みたかったのだが、ランチメニューとは別料金になるとのことで諦めた。紳士は昼食を驕るくらい構わないと申し出てくれたが、焼き菓子まで馳走させてもらった上に小金を負担させるのは忍びないと思ったのだ。
紳士の方も本来は〝チャイ〟があれば良かったのだろうが、生憎とメニュー表にはない。しかし甘いコーヒーにも充分満足しているようで、にこやかな表情で舌鼓を打っていた。
「お昼御飯の時間までに、ザッと露天市場と図書館を見て回りましたが……。いや、図書館はあなたにとってもう三度目になりますか。はっきり言って、ベヌンさんにとってこの小都市は大よそどのような印象ですか? 僕という〝生の視点〟を通じて、何か新しい発見がありましたか?」
愉快な話題を切り出したいところだったが、長時間経つと生来の根が暗い思考が作用するらしく、今の少年には不安感からの確認しか提示できなかった。図書館にて人狼女性達を色めき立たせる紳士に対し、軽口を叩いていた肝胆さが嘘のように潜み、恐る恐るという調子で尋ねかける。自分に明朗な態度の維持は至難の技だ。
楽しげな様子に水を差すような振舞いだと自責の念を意識しながらも、後ろ向きな視点を前提とした感想を窺う。
食事に勤しんでいた紳士も、緩やかに双眸を見開いて視線を向けた。
「郷土史料に目を通されたというベヌンさんなら御察しされているとは思いますが……ところどころに現存している立派な様式の建築物や石畳の通り道は、当惑星黎明期の大国に組み込まれていた時代の遺物です。大半は数千年の内に老朽化して取り壊されて、町の威信を主張することに使えると判断された数少ない丈夫な物だけを寄せ集めて、何とか栄光の面影を留めています。しかし減少してくからといって、刷新が行われるわけでもない。
僕は図書館を愛していますが、所詮は過去の産物を増改築しているだけの存在の内だと判明して以来、虚しい目でも見てしまうんです。
あなたには輝かしく映ったでしょうが、僕にとっては、寂寥感のある町並みだ……。お気づきですか?露天に出店していた人々、図書館に滞在していた大方がお年寄りでした。田舎が直面し得る危機にこの地も漏れず、少子高齢化が進んでいる。僕は外部から来た存在ですが、若者ということで浮くぐらい珍しいんです。司書をしていた人狼のお姉さん達も、最近外部から来た移住者ですしね。厳密には近郊が越住地で、そこからの通勤者ですが」
つい、いつもの癖が露呈して、相手の反応を待とうともせず滔々と述べ立ててしまうエクトル。
だが、相変わらず紳士は寛大だった。ともすれば無礼と同義の態度だが、まるでそのような救い様の乏しい不器用ささえ慈悲を持って包み込むように、温厚な熱を帯びた眼差しを湛えつつ解答を律儀に編み出した。淹れ立ての甘い紅茶を思わせるまろやかな声音には感嘆があった。
「人によって見え方はそれぞれ……とは、古今東西、銀河系の端々までよく言われていることだ。ある程度接していると、なかなか前向きに捉えることが難しくなって、嫌でも欠点の方が目につくことが多くなる。だが、その意識は悪ではない。
……私自身の率直な感想を述べさせてもらうなら、素晴らしいとの賛美に尽きるよ。不思議だと思うかい?」
少年は特に異を唱える暇も見出せぬままに、微かに瞳を震わせて聞き入っている。一旦、問い掛けを挟んで相手の状態を確認したベヌンは、言葉を続けた。
「私がこの町に対して感心を抱いたのはね、直球に実感の伝わる生活の形が存在しているからなんだ。例えば、今私達がお邪魔しているカフェの内装からも、経営主の手による拘りが窺える。今日、最初に購入した小さなタルトケーキもそうさ。豪華であれ、ささやかであれ、人間の思いは彼や彼女が生み出したモノの中でしっかりと生きている。私はこの町が、それを確かに守り続けていることを目に映る一つ一つから感じ取った。平和に保たれた空間ならば、営みに栄枯盛衰は関係ない」
少年は、またもや負けを悟った。勝負を付けていたわけでもなく、挑みようもない相手を前にしているわけだが、頭を殴られたように視野の狭さを思い知らされたのだ。特別性を備え持つことが重要ではないと真摯に説いていた理由を、ようやく理解できるような気がした。完璧に呑み下すに至るのは大分先となるだろう。
理屈としては、唯ありのままの生活が存在するだけの尊さというものに得心が行く。しかし、この町の中でのことと少年の視点で考えた時、天敵扱いしている工房の奇人連中が止むなく過るため受け入れ辛い面があるのだ。
どうすれば、紳士ほどの心の広さを抱けるようになるのだろうか。目指したいと願うほどに遠のいて、果てない高みの領域として人生の道のりに立ちはだかっている。
会話と思考に夢中になっている内に、ふと店内の窓辺から見える道端が黄色く染まりつつあることに気づいた。
ガラス越しに空を仰ぐと、まだ淡くはあったが明瞭な小金色に滲み輝いていた。すっかり夕暮れ時を迎えていたらしい。店内の隅に置かれた柱時計を見ると、時刻はまだ午後三時半過ぎだった。冬が迫る時期故に、落日が早まっているのだ。
店主の壮年女性は諦観を胸にさぞ迷惑顔でいるのだろう――と、不安に駆られてレジの方を見遣れば本人は至って涼しげな頓着しない面持ちで、目の前に雑誌を翳し持っていた。田舎の個人経営の店主は客がいても自由なペースを崩さない者が多い。小心なエクトルは助かったと胸を撫で下ろした。
しかし、安堵したところで店主の仕種に妙な点があるのを感じよくよく観察していると、どうやら彼女は雑誌を読む振りをしているだけで、ページとページの隙間から少年の同伴者を盗み見ていたらしい。時折覗く円らな瞳がときめくように輝きつつ、肌の色が上気したように赤らんでいることから読み取れる。
またも何気ない旅の通過点において、美紳士は無意識の罪作りを犯してしまった。無論、本人には教えない。
長居の免罪符となったのはベヌン氏の端麗な容姿だったのだ。初対面時における店主の目つきには、愛想笑いの中にも気難しさが漂っていたため、紳士を連れていなければこうも上手くは行かなかっただろう。
「そうだ! ベヌンさん、侘しいこんな町にも、絶景のスポットがあるんです。素朴なものですが。ぜひ一緒に来てください!」
急に思い立ったように、エクトルは紳士に対し意気込んだ口調で誘いかけていた。沈み気味だった町の魅力の問答の際と打って変わって、揺るがない自信に漲った声が出る。
失念してしまっていたが、自分なりに大切にしていた部分が図書館を除いてもあったのだ。これこそ、敬愛すべき彼に紹介しなければならない。
非常に勇気の要る行為だったが、やけくそ気味に踏ん張った。一世一代の絶好のチャンスではないか。
※(下)に続く