第四話 訪問
・令和二年十一月二十一日、背中の描写追加
・※(2021/4/2)また大幅な加筆を行いました。具体的な箇所については後書き部分に詳述。
エクトルの下宿先は学校側によって決められたものだ。学校側が、生徒が見習い先で赴く地域にホームステイの募集広告を出す。この地方小都市で名乗り出たのが今から向かうところだった。
突然の来客に許可が貰えるか不安だが、止むを得ないという結論以外にないのだ。確か下宿の大家をしている婦人は美形の俳優に目が無い人で、彼らを目当てに都市部のミュージカルを観に行く趣味があった。彼女のような相手ならすんなり通るのではないだろうか。
ぼんやりした楽観的予測を浮かべつつ、目的の方向へ足早に先導した。
美丈夫が優しい微笑を湛えたまま落ち着いているのと対照的に、未だ強固に緊張の解けやらぬ少年は、案内の際に時折振り返りつつも、その間、随分身長差があることを抜きにしてもろくに目を合わせることができなかった。
下宿の前に着いた。どこか儚げに突っ立った街頭に照らされ、夜闇に淡く浮かび上がっている。白壁の素朴な二階建ての一軒家だ。
個人経営のホステルよりは小さいが、こじんまりとした空間一つ一つに家庭的な温かみがありエクトルは気に入っている。
裏切られたと思っていた町で、文化図書館と並びエクトルが安心できる場所の一つだ。
エクトルは、ドアの右手に取り付けられたインターホンをそっと押した。
「はい、どなた?」
深夜にも関わらず、数秒と待たずに小柄な妙齢の女性が木戸を押し開けて顔を出した。
十代半ばにも満たぬ者がなかなか帰って来ないのだから、音沙汰があればすぐ迎えられるよう待っていてくれたのだろう。最も、遅くなる日は別に珍しくなく、婦人が夜更かしを好む体質でテレビを長見していたらエクトルがまだだった……というパターンが実際は多かった。
「お帰りなさい、エクトル……あら、かっこいい人! ど、どうしたのその方?」
前から居候させている少年の姿に視線を定めた直後、見慣れない長身の人影がやや後方に佇立しているのに気づいて目を瞠る。
「その……旅行でたった今この地域に辿り着いたそうなんですけど、当然ながら宿が見つからなくて……」
おずおずと機嫌を窺うように許可を催促するまでもなかった。言い終わらぬ内に、婦人は蒸気を発するように興奮の声を上げて歓喜に小躍りしたのである。
「あんらまあ! 良い男じゃない! ちょ、やだ、新年が来る前にこんなビックな幸運授かっちゃって、きっと一生分使い果たしちゃったじゃない!」
落ち着きを無くすのも無理はないだろう。なにせ、遠く離れた世界からしか見ることもないはずの極限なる美男子が、突如として眼前に現れたのだから。殺風景な日常の光景を一箇所だけ鮮やかにくり抜いて浮かび上がっているのは、退屈に埋没する者の心を問答無用に奪わずにいられない。
先ほどの自身が、まさしく心を奪われた人間だったのだ。
最も、エクトルと対照的に日頃から陽気な婦人の反応には、同じ恍惚でも元気の迸ったものだったのだが。
一方、婦人の只ならぬ様子を前に美しい訪問者は甚く冷静だった。怜悧な美貌には一切の動揺を浮かべず、涼しげな表情のまま帽子を胸元に当て、慇懃に頭を垂れる。
「夜分遅くに失礼を申し上げます。重々の不躾は承知しておりますが、雨露凌ぐ宿もない頼りない身です。一欠けらの御慈悲でも賜われれば、至上に有り難いことはございません」
「いやあねえ、御丁寧に。上等な紳士様が水臭いことお言いでないよ❤ どうぞどうぞ、お入りくださいな、こうしちゃいられないねえ、奮発して毎日御馳走作らなくっちゃ!」
深夜の時間帯であることを忘れた上機嫌さだった。まるで真昼間の青空の下に立つかのように燃え盛る意志を全開にしている。
大家の婦人に対し美丈夫は、相変わらずの恭しい口調で改めて希望する条件を口にした。
「できれば、二週間ほどお時間をいただきたいのです。費用は弾みます」
「とんでもございませんわ、あなたみたいなエレガントな方が泊ってくださるだけでも充分なお値打ちですのよ! お代は結構です」
やり取りを見守っていたエクトルは密かに苦笑する。やはり異性ほど美形の来訪という事件は効果絶大らしい。今の婦人は明らかに慣れない口調を用いて無理をしている。日常生活では誰彼構わず砕けた物言いで接しているのだ。恐らく本音では“紳士様ご自身が財宝です”などど俗っぽい賛辞でも言いたくて堪らないに違いない。
「寛大なお心遣いに感謝いたします。では、お言葉に甘えて……」
一言一句紡がれるだけでも、聞いている婦人は昇天しかねない有様であった。一度だけ会ったことがある夫と一緒にいる時は、ここまで気分上々にしていた様子はない。
玄関口から中に入ると、紳士はコートを脱ぎ、二つ折に畳んで左腕に掛けた。明るい室内では、服の質感が手に取るように伝わる。見るからに高級そうだ。朧な夜光の中では無機質な黒も、細やかな布面を見せて濃厚な風味である。上等な生地が用いられているに違いない。
コートを取り外したことで、中の服装も明らかになった。
現れたのは、軍服を彷彿とさせる、黒で揃えた堅い形状の上下。生地はベルベットのようで滑らかな厚みを誇る。裾丈が腰までに及ぶトップスには、銀のボタンが合せ目に並び、鋭利なアクセントとして輝いていた。焦げ茶色のベルトに絞り巻かれ、均整の取れたラインをより引き締めて際立たせている。
内側までも堅実な雰囲気で決めていて、隙なく様になっていた。
婦人は紳士に、暫しその場で待機してもらうように頼むや、脱兎の速さで中折れ階段を上昇した。緊急で空部屋を探しに行ったのだろう。
その後、割と早く降りて来た婦人は、どこか自信満々な面持ちで、紳士に待たせたことを詫びつつ階段の方へ案内を始めた。どうやら、急用ながらにあてがわれたのは一番広い部屋だそうである。全く抜かりないことだ。
紳士は、婦人の先導を受けて用意された部屋へと向かう。
再び一階へ戻ってきた婦人に聞いたところ紳士は、食事についてはこの惑星に来る前に星間旅行者用の休憩所で済ませていたらしいが、入浴は未だだという。
自分は外で風呂に入ると伝えてしまっていたから、現在浴槽は空っぽのはずだ。
急ぎ風呂を沸かしてもらうようエクトルは頼もうとした。否、言い掛けるより早く自主的に婦人から行動していた。
配慮もあるのだろうが、彼女個人の私情によって衝き動かされているらしい。美丈夫のチャームは風の無い月夜の如く静かでありながら、まるで一陣の旋風のごとく婦人を翻弄していた。恐るべしである。
下宿の建物内は、婦人の趣味と肌理細やかさで外観・内観ともにお洒落に整えられているが、部屋数が少ない上に、各部屋を総合した全体の床面積も小さかった。各階の通路も大人一人分通れる幅ではあったが、ゆったりした余裕は不足している。従って通路を挟んだ部屋と部屋の距離が結構近い。
エクトルは、居間のパーソナルソファに腰掛けた状態で、目の前のミニテーブルで作業をしていた。職場の残り課題自体は文化図書館で処理し切れたものの、焦りながらの進行であったため、改めて点検する必要があるのだ。居間を隔てた通路の斜向かいには浴室がある。脱衣所も広くない。脱衣所の手前に木製のドアがあるが、入浴者は湿気が籠らないようにという配慮をして三センチほど開けていた。ザーッと心地よい湯の流れ落ちる音がする。
大家の婦人はと言えば、早々にお行儀よく自身の寝室に引き上げていた。階段の踊り場より向こうに消える間際まで、あからさまに鼻の穴を膨らませていたのが奇妙だが。
「有り難く頂戴させてもらっているが……本当に君は良かったのかな? 疲れているだろうにすまない」
通路が狭いため、浴室越しの声も案外明瞭に届く。元来瑞瑞しく通りの良い彼の低音は、蒸気の満ちた曇り易い空気すら割り裂いて震え響くようである。水気を孕むことで、どこか艶然ともしていた。
目上の人間ならではの子どもに対する気遣いだろう。紳士の声色には純粋な労わりが感じられた。
エクトルは今、内職を行いつつ、会話に応じる形となっている。
「僕は良いんです。今夜は忙しくなると思って、大衆浴場で済ましてきましたから」
どこかぎこちない声音で答えた。何やら疾しい念のようなものが脳裏を掠めるのは、どういうメカニズムだろう。姿が見えないという状況が返って気を駆り立てるのだろうか。繰り返し自身に言い聞かせるが、相手は男性なのにどうかしている。
途端、こちらの台詞に対して返って来た紳士の声音が妙に弾み出した。
「この町には大衆浴場があるのかい? どんな様式の浴場なのかな? 少し教えてもらえると嬉しいね」
エクトルは片眉を上げて、紳士がいるであろう方向を一瞬見遣った。
(お風呂屋さんに興味があるのかな、この紳士。やんごとない感じの成りして、意外に庶民的なんだな……まあ、あっさり庶民の家屋を宿泊先に認めちゃうぐらいだし)
気に入らなかったら、調査の目的地であれ所詮はこの程度だったのだと、さっさと見切りをつけて帰り去っても良かったのだ。根元から人が良いのだろう。
予想外の俗っぽさに半ば呆れながら、エクトルは淡々と返す。
「まあ、温泉街ではありませんから、文字通り電化エネルギーによる給湯なんですけどね。地域に火山がないので、天然では湧かないんですよ」
「なるほど。それも長い歴史が築き上げた立派な文明の利器の一つだ。後ろめたく言う必要はないさ。私もこの町に来るまで、様々な形式を目にし、堪能してきた。趣味の一つが温泉・湯屋巡りでね。旅先が温泉の湧く地域、湯屋ある地域であれば、必ず一風呂浴びて帰るようにしている」
少年の素っ気ない台詞内容に対して、紳士の声音は生き生きと饒舌になった。滔々と彼は、今までに足を運んだ惑星国家での風呂文化を述懐していく。
サウナ式の大浴場や、湯水を使わず、温めた岩石の上に直接触れて汗を流すもの……
語るに連れてその口調は、年端も行かぬ少年のようにはしゃいだ活力を帯びていく。
対照的にエクトルは傾聴する内、波風立たぬ海面のように白けた心地と化していくのを感じていた。
紳士の気を悪くしてはいけないと、口では儀礼的に「興味深いですねえ。僕もいつか行ってみたいです」などと応じる。
エクトルは、工作や読書といった自身が得意とする内向的な物事以外にはさほど興味を抱かない。第一、不特定多数の人間の前で裸になるのは苦手だ。大衆浴場に寄るのも、効率的にスケジュールを処理するための判断の結果に過ぎない。
ふと、浴室のガラス戸を開く固い音が耳朶を打った。紳士が風呂から上がったらしい。軽く衣擦れの音がして程無く、木戸を押す鈍い音が鳴る。反射的に顔を上げた矢先、危うく、夜食の代わりとして傍らに置いていたチョコチップクッキーをばら撒きそうになった。慌てふためく少年の視界には、生れたままの上半身を堂々と晒して立つ美男子がいたのだ。
エクトルは、生れてこの方、一級の美術品を直で観賞したことはない。絵画、彫刻の類は今まで無関心に等しく、授業等で写真や映像を通してしかロクに見た記憶はなかった。
教科書には、説明として品々の美点が綴られている。だが、どれほど言葉を駆使しても、文字を頭に入れるのと実物を目の当たりにするのとでは、理解も感想も大いに異なるだろう。説明内容と鑑賞者自身の感じた美点が乖離していることもあり得る。
エクトルの場合、社会見学の一環で美術館を訪れた時でさえ、端整であるとは受け取りこそすれ、それを特別優れていると強く認識したことはなかったのだ。
しかし今、眼前に屹立するたおやかな湯気を漂わせた麗人はどうか。
同性同士であり、腰回りは品良くタオルで覆われているとは言え、美貌の主が裸でいるというのは際どく思えないこともない。だが何より、理想的な肉体美そのもののである――古来より美芸にて至高とされたであろう躰形が顕在化していると言えた。
幾多にも刻み込まれた線という線が明瞭に浮き彫りとなり、生の人体であることそのものを強く主張しているのだ。
まさに根源的な迫力に満ちた姿。生命の熱を雄々しく発散させている。同時に、間近で露わとなっている肌色によって色香さえ醸し出されていた。
まるで雨上がりに浮かび上がる立派な彫像のようだ。天の神の御技ではないかと疑いたくなるほど精巧な筋肉が全身に貼り巡らされている。
騎士の鎧を連想させる厚く張り出した大胸筋、その大きさに反して腰元は内腿の筋を鮮明に浮き上がらされて適度な塩梅に括れている。 整然且つ均質な枡目を刻んで絞られた腹部は、弛みを解消できぬ者にとってこの上ない憧憬の対象ではないだろうか。筋肉を生む猶予が俄然足りない貧弱な自身にとっても、永久に無理であると諦めつつ頭の片隅では拭いきれない願望として存在している。初めて直接お目にかかったが、やはり本物はインパクトがある。
子鹿色の滑らかな髪は、煌びやかな曲線の輪を描いている。濡れたことで、より一層優艶に匂い立たせていた。このたおやかな天然のシルクと究極美として象られた裸身が共演することで、天上の者に喩えたくなるまでの魅惑を実現させているといえるだろう。そうエクトルは分析・賛美せずにいられない。思わず、文学調めいた表現が浮かぶほどの威力だった。
事前に予測していたことではある。格調高い外套に固められていても隠せぬ均整の取れた体格から、剥いてしまえばさぞかし緻密な彫り込みが露になるであろうことは――しかし、それは美術品に付けられた文字の説明と実際の観賞が与えるものに相違があるのと同じ論理である。
「良いお湯だった……。すまないがエクトル、しばらくここで涼ませてもらっても構わないだろうか 」
紳士は、少年の気不味そうな面持ちにも、自らの裸身を露呈していることにも深く気を払っていない様子だった。喫茶店にいるのと変わらぬ調子で会話を続けようとする。筋肉で覆われた肌に上品な手つきでタオルを這わせながら、僅かに残った水気を緩やかに吹いていく。
「だ、大丈夫ですよ。大家さんも寝ちゃいましたから。僕は引き続き作業に取りかかりますので……」
意識していると悟られるのも体面が悪いので、再び俯いた姿勢に入るや、いかにも専念している印象を演出すべく手つきを忙しくしながら必死で真顔を繕った。手の動きがわざとらしく増えただけで、実はそろそろ確認作業も終盤に差し掛かっているのが実情だったが。
紳士には全くの非はない。遥か年の下った子どもの前だと思って根っから頓着していないのだろう。自然な振舞いだ。目のやり場に窮して、勝手に困惑しているのはこちらなのだ。おまけに振られている会話の内容も至極当たり障りない。
それだというのに、変な気分は一向に納まらなかった。
(冗談じゃない、年頃の女の子ともまともに目を合わせたことがないのに)
瞬間、ふと脳裏を過ったのは心の縁としているハクビシン先輩のことだ。自身でも不思議だったのは、異性として意識しているはずなのに蟲惑されるような下心が湧いたことはなかった。いや、これは相手の性質による問題だ。清らかで穢れのない、愛らしい無害なマスコット然とした彼女からは、扇情的要素を連想し難い。
対照的に同性である眼前の美丈夫には、神経を生々しく高揚させるものがあった。もはや性別という概念すら超えた官能を蓄えているのだ。
しかし、衝撃的な動揺に見舞われつつも、当たり前だが別段不快なものではなかった。
鮮やかな肉体的美しさには、純粋に憧憬の念が湧いて来る。
エクトルは、気不味さとその相反する感覚を同時に抱きつつ、同性の若輩として羨ましく思うもの
があった。
(もし彼のように神々しく理想的な肉体美を手に入れることができたら、劣等感に二度と苛まれないような誇らしい心地に浸れるのだろうか?)
身体面では、一つコンプレックスからの脱出が叶うだろう。鍛錬を積めば頭脳の回転も良くなり、嫌味な連中を黙らせる程の働きを成し得るかもしれない。だが実際は思念するのみで、行動に及ぶには遠いだろう。運動嫌いの癖は簡単に抜けるものではない。
ともかくもエクトルは、邪念を振り払った心持ちで、今一度裸形の美男子を仰ぎ見る。
(でも、僕はそうだ。こういう、こういう同性の大人と会いたかったんだ。理知的で、魅力的な素晴らしい人に決まってるもの。彼となら、本物の友人に……いや、彼のことなら、敬うべき上司、この上は人生の師だと仰いだって良い)
会って間もない上に、突き詰めればたかだか親切な言葉を数回かけられたに過ぎない。しかも、ありのままの肉体を見たことによって加速するなど本能的思考にも程がある。
とはいえ、少なからず生理的な面が心根に作用することがあり得るのは事実なのだろう。今や熱烈なほどに、信仰心に似た敬愛心、依頼心が芽生えていた。
独り熱く思いを滾らせているエクトルを余所に、紳士は尚も髪の滴を静かに拭っていた。毛先の隅々に及ぶまで、極小の真珠を通しているようでもあり、さながら小粒の宝石を縫い込んだ絹織物を眺めているような美しさだ。エクトルは微妙に横目で視線を上げて、盗み見るような気分で眺めている。
その時、ある違和感の存在が脳裏をもたけだ。
(あれ?そういえばこの人、替えの私服はどうするんだろう? さっきは特殊技術で乗り物しまっちゃったし、トランクらしき持ち物も見えなかったんだけど……いつの間にか運んだのだろうか)
思い当たるタイミングが実に今更だ。荷物らしき物体のことに、当初の内に思い至らなかったなど愚鈍を通り越して不自然である。たいてい肝心な物事に後から気づくことが多いのだ。
(男物でも、まず絶対僕のものは着れないしな……大家さんの旦那さんは肥満体だし……)
本人の方から、荷物を忘れたから借りるつもりだと申告していないにも関わらず、エクトルの脳は替えの服を提供する方法を勝手に思案していた。
「見苦しくて済まないね。熱が引いてきたから衣服を身につけに行こう」
空気を、流石に読み取ったのだろうか紳士は気を利かせてきた。ようやっとは火照った身体を冷まし終えたらしい。無造作に垂らされていた髪は、いつの間にかタオルにひっつめられていた。
「め、めめめめめ滅相もございませええええんっ! こ、こちらこそ、お、お気を遣わせてしまって申し訳ないです……」
形の良過ぎた体格は目の保養となる素材も、一歩味方を変えれば副作用の強烈な劇薬へと変じてしまう。
鯱鉾張ったエクトルはバネ仕掛けのような動きで立ち上がると、奇声じみた勢いで言葉を重ねた。
少年の心中を察したものか否か、紳士はクスリと微苦笑を滲ませつつ、半身を露なまま二階へと消えていった。昇り行く際、今度は背中を真正面から捉える格好となった。髪を上げたことで満遍なく晒け出された濃い項のラインから、盛り上がる三角筋や広背筋――優美な艶を描きつつ、確かに男性的立体感を匂わせる。眩しさに目がくらんだ。程なくして足音が遠ざかる。
溜まっていた緊張が砕けたことでホッと息を吐き出した時、エクトルは直前の紳士の台詞に違和感を差し挟まず応えていたことに気づいた。
てっきり自前の日用品を持って来ていないと思い込んでいたところに、彼は何と言ったか。遅れて悟る。
(〝衣服を身につけに行こう〟? ひょっとして、僕が見逃しただけでちゃんと持参していた?)
推測の時間も束の間、数分後、再び階段を軽く響かせて降りて来た時には身体を藍色のガウンで包んでいた。襟元は動物の毛皮でも使われているのか、ふわふわとした大きな膨らみで縁取られている。これまた非常に高級そうだ。
身なりの良い紳士なのだから、賛嘆させこそすれ、さほど驚くに値しない。問題はそこではないのだ。
大きく開いた襟から胸板の見事な割れ目を覗かせ、器用に巻いて結い上げられた洗い髪には未だ艶やかな光沢がたゆとうている。
肌面積が七割減少したとはいえ、先ほどの生れたままの麗姿が焼きついて間もない上にこれらの要素が扇情を二倍増しにした。悶々とした心地に変わりはない。
それでも幾分か冷静な思考へ切り替えて、つい先ほど浮かんだ疑問を口にする。
「あの~……そう言えば私服ってどこから取りだしたんですか? 僕、僭越ながら、ベヌンさんがお荷物持ってたところ見た覚えがなくて……」
何となく間抜けな質問だ。これでは元々あった場所から大家の宅の持ち物を無断で拝借したのかと疑ってかかっているようなものだ。
しかし、紳士は至ってにこやかな表情のまま、親身に応じてくれたのだった。
「おや、ここでは旅行用具の運搬方法が違ったのかな? そうだ、この機会に私の鞄をみせてあげよう。一緒に部屋へおいで」
「え゛」
安堵した直後に硬直させられてしまった。思わず喉を潰したような無様な声音が零れ落ちる。どうやらここでも文明の相違があったらしい。しかしエクトルも驚愕と無知への羞恥を感じたのは刹那のこと、素直な興味に駆られて付き従うことにした。
「どうなっておりますのでしょう!? ぜひお教えください!」
またもや大仰且つ使い方のおかしい敬語表現が口を継いで出る。再び苦笑を宿した紳士の優しげな眼差しに見守られながら、エクトルは座りっ放しで強張った下半身に喝を入れつつ起立した。
姿勢の良い背中を追う格好で階段を昇り、紳士が与えられたという部屋へ通された。位置は廊下右手の奥である。
中に入る寸前にエクトルは、紳士のために用意された部屋の本来の用途を知って、悟られぬ程度に吹き出すような息を漏らしてしまった。
出張中で不在の御主人の私室だったからだ。彼の趣味で掛けられた車のポスターに対し、露骨なやっつけ仕事で貼られた白画用紙で気づく。不器用な隠蔽工作だ。
元より部屋数に乏しいのに、頑張ってもVIP待遇に見合うものなんか、しかも速攻での準備は不可能だろう。運良く御主人の帰還予定日が紳士のチェックアウト予定日より一週間遅いからセーフだ。部屋の面積が最大だったために白羽の矢が立った結果だった。
とはいえ、もし万が一明白な痕跡が残ることがあれば、後であらぬ疑いなど発生せぬか心配だ。居候の子どもながらに、大人の事情に邪推を働かせずにいられない。宿泊客の性分からして、しょうもない粗相や忘れ物は〝飛ぶ鳥跡を濁さず〟で生じ得ぬだろう。故に懸念は薄いのではあるが、どこかのタイミングで婉曲的に念押しをしなければと決意する。
エクトルが独り不安を募らせているのを尻目に、紳士は優雅な動作で壁に掛けられた漆黒のコートの内側を探っていた。出て来た手に握られていたのは、薄いポーチのような布地の小物だった。
布の表面は不思議な色合いをしていた。薄い紫紺色をベースに、まるで銀河の星空をありのまま落し込んだような多彩な色の煌めきに染まっている。受ける光の加減や傾ける角度によって、散りばめられた色の内、強調されて輝くものは異なるらしい。詳しい製作技術のことなどエクトルには知るべくもないが、工業製の金属箔とは違う気がした。
星間個人飛行機と似た収納機能なのだろうか? よく見ると、旧文明発祥惑星において東洋圏と呼ばれた地域の資料にあった“蝦蟇口”に似た形をしている。
「見ていてご覧。金属の出っ張りを軽く握ると自然な状態になるんだ」
次の瞬間、素早く展開されたのは、まさに高度な魔術の種明かしの披露だった。
紳士の言葉に一切の嘘はなかった。本当に彼の指先が突端に優しく添えられただけで、大胆な変化が起きたのである。
合わせ目が起動スイッチとなっていたようだ。掌に納まる程のサイズだったポーチは、秒速で風船のように膨らんでトランクに等しい大きさと形状になっていた。気付けば握り部分らしいものも生じており、紳士の逞しい手からぶらさがっている。
あまりに超越性の高い光景に、目が接着剤を塗られたが如く吸引される。
「わお! これはすごい!!」
軽く唸って、感嘆の声を上げた。
この様子はもはや、エクトルの居住区域の文明圏の標準で見れば紳士の宇宙飛行機と同様魔術の領域にある凄さに他ならない。折り畳み式ならエクトルにとっても馴染みある日用品だが、これは新たな出会いだった。いとも簡単に行われながら、決して当文明圏の科学理論では解明できない技能を思わせる複雑さに満ちているのだ。
「自前の小型旅行機に乗るに当たって、荷物がかさばると困るのでね。私の惑星のものは長期で宇宙へ赴く際、これを用いている。記念として君にもぜひ贈呈したいところだが……申し訳がない、残念ながら予備が無くてね」
「な、何をおっしゃるんですか。見せて頂いたことこそが、何にも勝る宝物ですよ……」
紛れも無い本音だった。見習い先としてこの町に滞在以降、僅かな事柄を除けば鬱屈の繰り返しでしかないと思われていた日常の一端に迷い込んだ華麗なる訪問者。
現れただけではない、次々と飽きぬ奇跡をも披露してくれる。偶然でも必然でもどちらでも構わない、確かなのは、ベヌンという紳士との出会いは、期待感の高まりを増幅させると同時、素晴らしい出来事の幕開けを甚く予感させるものであるということだ。
※(2021/4/2)コードを脱いだ時の服装の様子という、肝心な点の描写が今日まで抜けておりました!(汗)既に十一話までアップした時分にやっと気づいた始末、申し訳ありません!! 十二話部分のある場面を書く上で、エクトルが既に見ているという前提でコートを着ていた時の服装を描写したようとした時、「そう言えばちゃんと入れていたっけ?」となり漸く思い至りました(笑)。危うく齟齬を来すところでした……。
と、いうことで、ぜひこの日に加筆した状態の四話に目を通していただいた上で、最新話として上げる十二話をお読みいただければ幸いです。