第二話 文化図書館にて
※(2020/04/28)一部修正作業いたしました。
帰宅の足で公衆浴場に行き、その後に真っ直ぐ最寄りの文化図書館へと向かった。今夜は時間をかけて勉強に取りかかりたいから、先に風呂を済ませたのだ。ちょうど寒くもなく程良い涼しい季節、湯冷めの心配はあまりない。
地方都市とは言え、古来より学研地域を自負している故か、書物に関わる施設だけは時代を問わず潤いがあり、器も中身も浮くほど豪勢に充実している。白い漆喰で塗り固められた天井に浮かぶ小ぶりのシャンデリアなど良い例だ。背の高い重厚な装飾の彫られた木枠の自動ガラス戸を透かして煌めく緻密な房々を眺め、つくづく思う。
古典様式を取り入れつつ、実用の面では一部現代的な調度品を配置していた。椅子や閲覧卓はデザインを極力削ぎ落したシンプルなラインで象られていて、滑らかな触り心地をしたヒノキ製だ。安心をもたらすような優しい木目が印象的である。
ICゲートを通過した右手すぐに、奥の方までU字に曲折しながら伸びたカウンター卓も同様の素材が用いられている。
吹き抜け屋根の高い中央部にある雑誌・新聞のブラウジングエリアに設けられたソファも、背凭れの付いたものや楕円形のもの、一人掛けの円形のもの等様々な形が用意されており、遊び心が交えられた自由な雰囲気で並んでいる。少子化の影響か、数十年前は立派な絵本コーナーも傍にあり児童の集い場所という役割も持っていたらしいが、やがて絵本も隅の方に移動し、次第に暇を潰しに来る年寄りの姿が目立つようになった。
エクトルは、左脇にアルファベットのUの字のごとく縦長に連なるカウンター卓を横目に、半円窓に沿って並ぶ数人掛けの閲覧席のエリアを目指そうとする。
狙うのは無人の箇所だが。誰もいない広いテーブルを確保して、気兼ねなく大幅に資料を置きたいのだ。
「エクトル。エクトルの坊やじゃん」
ふと左方向の辺りから自分を呼び掛ける、若く高い声が聞こえた。つられて視線を巡らすと、窓際に並行して並ぶ長方形型の閲覧席の一角で手を振っている痩せた長身の影がある。
「イ、イローニ君!」
図書館のルールに反しない程度と思える小音で相手に応えると、やや小走りに該当の閲覧席を目指す。 イローニと呼ばれた青年は、卓の四分の一ほどを占めて積載された書籍の山か
ら怜悧な面長の顔を覗かせていた。彼の斜向かいに席を取る形でエクトルは腰を下ろす。
「オタク、やってる? 〝免試〟のベンキョ」
クラシックな縦長の半円窓を横目にして机に肘をつき、顎で拳を抑えるという行儀の悪いポーズを取りながら、友人は何気ない調子でエクトルに問い掛ける。彼の口にした〝免試〟とは、「免許試験」の略で、すなわち〝非正式者〟が〝正式者〟になるための免許を取得する試験のことだ。体験者の身分である〝見習い人〟の段階でも、将来を見据えて免許試験の勉強を行う者は多い。
何故か彼は、親しい相手を二人称で「オタク」と称する。少々変わっていると思うが、さばさばとしたイローニが口にすると嫌味がなく不快ではない。
彼は、エクトルがこの上京先の街で知り合った三歳年上の友人だ。自分のことを「善意の虚言師」という意味不明なキャラクター付けをしていて、淡白な口調で常にシニカルな文句を吐き掛けて来る。感情の起伏が少なく、滅多に笑うことがない(本人曰く、不機嫌なのではなく破顔するという動作が面倒なのだそうだ)。加えて、相手の急所を突きたがる癖を持っている。
慎重に過ぎるほど相手に言葉を選び尽くし、及び腰が基本姿勢のエクトルとは異質な性格ながら、こうして親しく打ち解けているのは、同じシリーズの図書が好きという理由で熱烈に盛り上がったというたった一点に起因している。互いに友達を作るには難儀な気性を有する面で共通していたから、成り行きで親友になった間柄といえるだろうか。それで二人には充分だった。
他の共通点を強いて挙げるとするなら、極端に視力の悪い眼鏡友達だということだろう。
昼に会うハクビシン先輩が相談をするための相手なら、夜に会うイローニは後ろめたい愚痴を屈託なくぶつけられる相手だった。
彼女は甘えられる先輩であるとはいえ、職場における年の離れた相手というのは弁えなければならない一線がある。しかし眼前の青年はプライベートな友であり、年も近く遠慮する必要がない。もとよりイローニが遠慮を柄としない気質であったため、エクトルも気持ちを曝け出しやすかった。
イローニは、身長百五十五センチである小柄なエクトルより十センチ程背が高く、エクトルが丸い狸目で幼顔であるのに対し、顎が尖り気味で線が細く、平時でも軽く睨んでいるような鋭い吊り目をしている。髪は水色がかった白銀で、性格を裏打ちするかのようにいつもワックスで七三型に整えていた。
「半分諦めたよ。やっと理解したんだ、僕程度の脳ミソの人間にとっては、途方も無い時間の無駄使いに等しい行為だってね。文学や哲学の書を片っ端から読んだ方がずっと有意義だよ、年齢制限だって気にしなくて良いんだからね」
早口に言い訳を連ねることによって、相手のシンプルな質問に応じる。目は斜め左方向、ろくに見えない夜闇に染まる窓の方へあからさまに逃げるようにして逸らしつつだ。
「それに、本来なら今日中に完成させなきゃいけないはずの課題を残しまったんだ。基本さえ片づけ切れない体たらくなら、仮に〝正式者〟になれたところで周りに迷惑を掛け通すだけだよ。第一、僕は今の職種を大学卒業後まで目指すつもりはない。別のまともな職種に就けるなら、〝非正式〟だって構わないさ。〝正式者〟を目指すための学習自体が、仕事と両立させるには厳しそうな量だもの。古い諺に時は金なりとある、低賃金でも地道な貯蓄に邁進しようと決めたってこと」
「若造のくせに悟るのが早いな。キミ、まだ一年坊主だろ。せめて二年目で決定下しなよ」
イローニは平坦な声音のまま、溜息交じりに呟いた。
「若造って……君も僕と同じ若造じゃないか。三歳違うだけで。いつ悟ろうと自由じゃないか」
相手の立場と発言の釣り合わない可笑しさに吹き出しつつ、内心は自らの強がりな嘘に、心臓をわし掴まれるような悲しみが溢れていた。
(愚かだ僕は、毎度強気な言い訳をして済まそうとしている)
心の中の独り言に、強く首を振って自分を責めた。
「そ、そういう君はどうなのさ。人類の歴史を裏打ちする品を扱う専門家じゃないか。僕みたいな大量生産品を作るだけの単純労働より、ずっと名誉ある貢献をしていると思うけどね」
自分の欠点に集中攻撃されそうな雰囲気になるのを打ち消そうとして、友人自身のことに矛先を逸らす。イローニは初対面の時より、自分と比較して遥かに達観した思考力と老成さを兼ね備える人間ではあったが、だからと言って一方的に説教を仕掛ける資格があると思ったら大間違いだと辟易するような心地でエクトルは思う。
「名ばかり身分だよ。誇りを持つどころの話じゃないね」
イローニは自身の職分を〝雑芸員〟と皮肉って自嘲している。実際に設営するとなると、学識の面で専門の力が必要になるから、監修として名を連ねる権威ある研究者を引っ張ることになり、自分達は補佐、助手程度の要員に回るのが現実だという。
彼の文句を吐き散らす様は、怨嗟と呪詛に塗れたエクトルとは異なり、どこか清々しく吹っ切れている口調だった。自分より数年先を生きていることも関係しているのだろうか。十六になれば同じように達観できるかもしれない。
「考えてみ? 特殊形態の資料に触れたりするなら、携る研究者でも指導を受けたらすぐに出来ることなんだよ。それなのにさ、わざわざ素人の子に触らせといて気に入らなかったらクレームのスパイラル……どんな羞恥プレイなわけ?」
毒舌で友人の卑屈さを日々非難するイローニだが、実は彼自身がエクトルを遥かに凌ぐほどの歪んだ愚痴を吐き散らす癖を持っている。何気ない会話の合間にも己の不満を挿入する。たいていの内容は、自らが〝見習い人〟として務める博物館に苦情を持ち込むアカデミー関係者への愚痴である。
ただし、仕事自体は好んでいるという。ネックなのは対人絡みのみで、その他では不満はないらしい。彼が免許試験の勉強に取り組んでいるのもその意志によるものだろう。
「何だかんだ言って、エクトルの坊やはまだ良いもんだよ、裏方で物こさえてりゃいいんだからさあ。矢面に出される者の身にもなってごらんさ。ある意味、天国だろ?」
「なんて語弊塗れの言い方なんだ。隣の芝生は誰にだって青いさ。イローニ、君はふざけた仮装集団に、日毎罵倒の雨を浴びせ続けられたことがあるかい?」
「仮装してるか仮装してないか、だけの話だろ? 知ってるよ、オタクの工房が委託してるBPO職員の身だしなみ崩壊なんて有名な話じゃない。それに、芝生に憧れるということならオタクも同じじゃん。なんてったて、〝正式者〟という芝生に憧れている」
嘘はいとも簡単に見破られていた。エクトルは言葉に詰まる。
「初めに憧れがなきゃ、諦めなんて生じないんだよ。この先、別の職種に就いたところで、多分オタクの場合、幾ら周りが親切でもいつか耐えられなくなるんじゃない? 所詮はオタクがやりたいことじゃないんだから」
「やりたいことと、仕事は別だもん。やりたいことだけ願ってても、食べていけないもんなんでしょ? 見習い始めたばかりの僕でもわかってることだよ。なんでイローニは、やりたいことを優先順位にすべきって言い切れるのさ」
背伸びしていたエクトルの口調が、不意に年相応の幼いものとなった。声量は、言葉を絞り出す都度に萎んでいく。
幼子が拗ねるようなその有様を見つめていたイローニは、微妙に悩ましげに表情を歪ませた。同時に、静々と諭すように語り伝える。
「まあ、こりゃ身内の例え話だけどね。親戚のオッサンがさ、ビジネスマンと兼業して〝見習い人〟の時から夢だった人形の造形技師やろうかなって思ったんだって。ところが、技師の資格は取得してるけど、ほとんど〝非正式〟しか募集がなかったから諦めたんだってさ。〝正式者〟試験は職業資格取るより倍率高いし、〝非正式〟でひもじくも踏ん張ろうが、いつ入れるかもわからない〝正式者〟合格のための勉強続けようが時間が勿体ないってね。ところが、途中で癌がみつかってね。こんな目に合うくらいなら、渋らずにどっちの方法もやってみりゃあ良かったって後悔してんだってさ。今もまだ、治療のために入院中だよ」
エクトルの脳裏に、否応なく先輩の顔が過った。
彼女は言っていた。例え過酷でも好きだから続けるのだと。
病身を加速させる環境を選ぶのは現実的ではない。
しかし、他に考えられないと断言させるほどの魅力が彼女の携わる仕事には確かにあったのだろう。
脆弱ながらも、どこか満たされたような笑顔が思い浮かぶ。彼女なりの覚悟が備わっているに違いない。
自分には同じような覚悟を持てるだろうか。また、眼前の友のように、周囲に構わず愛好故に打ち込まんとし続ける情熱があるだろうか。
「……謙虚に現状を見据えてるつもりかもしれないけど、自分を卑しめるのって、改善する道筋を思案することを放棄しているだけの行為だからね」
追い打ちのような指摘が脳天を差し貫いた。
「生活のために、身の丈に合った選択肢取るってのは今の社会状況考えりゃあ、誤りではないよ。けどさあ、有り余るくらい若いんだから、免許の勉強続けてみるだけでも損はなくね? テキスト見てたらさあ、他に職人業選ぶとしても役立ちそうな事柄沢山載ってるぜ? 兼業も禁止されてないんだし」
「……前から言ってるだろ。僕が最低な言い訳小僧だってのは認めるけど、ほぼ同じ年数だけを生きて来た人間に説教されるのは嫌いだって」
憎まれ口を叩くものの、この瞬間には内容と裏腹に然したる嫌悪感もわだかまっていなかった。許せる相手故の、悪足掻きによる言い返しである。また、実際にたかが三年の歳の差で上下がつくのかという自論もあっての台詞だった。
兼業についてエクトルは、友の指摘通り検討してみたことがなかったわけではない。だが、今の段階では除外する気でいる。
自身の特性を踏まえた上での進路設計だった。エクトルは幼少期から十代前半の現在に至るまで、一つの物事が目の前にあったら、やり遂げるまでそれ一点にしか集中できない。
並行して複数着手しながらの取り組みは、彼には絶妙に器用な真似とも思える技であり大いに苦手としている。本日分の課題終了が間に合わせられなかった原因の一つもこれだ。
「……それに、僕だけに言える話なのかい? 君の学校の友達はどうなのさ? 捻くれもせず、心身健やかに〝見習い人〟期間を送っているというのかい?」
別段、友が何も言おうとしない様子でいる隙に、反撃とばかりに新たな問いを放つ。
「なんとも言えないことを聞くなよ。困るだけじゃないか」
「電子メールには、近況の話とか来てないの?」
苦情を無視して続けた。
イローニは飄然とした無感動な顔つきのまま彼の隣席に置いていた鞄に手を突っ込み、多機能小型携帯通信機を取り出すと、画面に指を這わせ始めた。言われた通り、着信履歴を漁ってみることにしたらしい。
「来てるけど、君にとってはあんま参考になんないよ。パン屋修業が大変だけど、雇い主の娘さんが美人なお姉さんで可愛がられてくれるし賄いパンも美味しい……とか、由緒ある豪邸で執事の補佐だから、常に身なりに配慮しなくちゃいけなくて骨が折れるけど、金持ちの家だから使用人部屋も超快適……とか」
尋ねる方が愚かだったのかと思うような話ばかりだ。読み上げる方の声が淡々としているため、呆れるよりも強い脱力感が込み上げ天井を仰ぐ。
「次元が違い過ぎる。妬むも羨むもないな。端から不公平論とは関係ない世界だよ。僕のような他人からも、武運をお祈りしていると伝えといておくれよ」
「うむ、そうだな」
力の抜けた苦笑を浮かべる年下の友とは対照的に、メールの情報を伝えたイローニの方は至ってさばさばとしていた。同意を示すでもなく只短く頷き返す。
「あ、重たい空気になってきたし話題をカラッと変えよっか」
唐突にイローニは話の転換へ舵を切った。この点もエクトルとは対照的である。まるで一つの事柄に執着しない切り替えの良さ、見方によっては気紛れにも映るところだ。こんな掴みどころのない男と自分もよく友人でいられるものだと秘かに苦笑する。
「今日がいよいよだってさ。ちゃんと知ってた? 五百万年に訪れるのが一度って言われてる伝説級の大流星群」
「ああ……」
エクトルは時事ニュースに疎い。興味があること以外には、強制的に義務感でも課さないとまるで触れる気が起きないのだ。電子新聞にも目を通していないし、テレビのニュース番組は空想半分で聞き流してしまうことが多い。言い訳といえばそれまでの怠け度合いだ。悪癖を放置しているから、単純業務にまで影響が及ぶ羽目になるのだろう。
「南天にある二等星を中心にして火の粉が降り注ぐ勢いで流れ出るらしい」
イローニもイローニで、あまり相手の反応を意に介さないところがある。友の生返事にも障った素振りを見せず、親切にも具体的な説明を添えてくれた。正確に言えば、自身が講釈を垂れる時は一方的であれ、最後まで詳細を言い切らないと気が済まないタチなのだ。
「火の粉!? 物騒なイメージだねえ、何だか大火災を思わせるんだけど……」
「いんや、映像資料とか天体事典のオールカラー写真見てると、危険な印象でもないよ。僕も詩人じゃないけどさあ、何かこう、沢山の灯篭に一斉に明かりがつくような優しい感じなんだよねえ……。これね、この惑星で初めての観察記録があるのが一千万年前なんだけど、この時期って、惑星の人類が映像記録技術を一度喪失しちゃった時代だからね。入植の際に、人類文明発祥惑星からのテクノロジー移送が上手くいかなかったらしくてさ。まあそれは歴史の教科書読み返せばいいからいいとして。ガイア上において明確に映像記録装置が存在しなかったとされる時代の文明には、彗星にしろ、こうした流星にしろ、不吉と解釈する思想がままあったって言うし。技術退化による揺り戻しで、そんな占星術みたいな見解が天文学会で出されたりもしたらしいね。僕が今用いた〝火の粉〟って比喩表現も、初めて観測された一万年前に編纂された事典の文に由来するから。徐々に技術の復活と進化を経て、客観的な撮影に基づく文が添えられるようになったけどね」
「詳しいなあイローニ君。博物専攻のくせに、やけに深く調べてんじゃない」
「博物専攻だからだよ。博物というように、本来取り扱われる範囲は無限といってもいいんだ。関心が湧けば、簡単な背景くらい見るよ」
エクトルも今気付いたことだが、イローニの前に積み上がっている書籍や雑誌の何冊かは天体に関する内容だ。写真付きの取っつき易い一般書に混ざって、何冊か立派なハードカバーを備えた学術書が並んでいる。
「学術書はボクもまだ苦手でね、画像の豊富な資料を主な助けとしているよ」
「それで、ずっと関連書を集めてたの? 勉強家だな~」
「まあ専門外だし、天文学には全然詳しくないんだけど、雑誌コーナーの天体雑誌をパラパラッと見たら、無性に気になり出して収集つかなくてね。一種の癖みたいなもんだよ」
こと関心事への集中においては、友人がエクトルを遥かに凌ぐ。一度嵌り出せば、難解な側面の接触さえ辞さぬ程に強い探究心が発揮されるのだ。加えて、公的な部分――仕事においても、巧みにその集中力を行き渡らせる器用さを併せ持つ。エクトルとの決定的な相違だ。
「あとオタク、ついつい自分の妄想で組み立てた世界に籠り切りになるからさ。思い遣りも兼ねて、使えそうな情報揃えといたんだよ。僕のメールにいつも反応遅れる奴じゃないか。さっきの生返事だと、やっぱろくにニュース聞いてなかったんだろ?」
「失礼だなあ。それくらい把握してるさ。荒んだ心根の僕には、美しい星の話題くらいしか癒してくれるものがなかったんだから」
口を小さく尖らせ、軽く一睨みしながら悔しがってみせた。結局は世間知らずを指摘される始末となる。ちょうど、イローニとして重要な長台詞に区切りをつけるタイミングになったということだろう。
「揺り戻しと言えばね、ある意味、神話・伝承を半分史実扱いする時代になってたってことだよね。天体神話の解説書を見てみたらさ、こんな逸話残ってんだって」
理数科学は食わず嫌いで成績も振るわないエクトルだが、フィクション性の高い分野ならある程度得意だ。前向きな意識になって、今しがた友が広げた該当欄を、乗り出し気味に覗き込む。
約五百年前のかつて、現在エクトル達が根を下ろすこの惑星には、人の姿を取りながら神格を司り体現する高貴な存在が降臨した。彼は、背中にまるで不死鳥の如く美麗なる異形の翼をいただくことから、〝不死鳥の神人〟と呼ばれたという。神格の者は、不浄と化した下界の惨状を見て嘆き悲しみ、その時に落した涙が、まるで炎の矢の如く熱く激しい光の礫となって地上に注いだ。すると、〝不死鳥の神人〟の願う通りに大地は浄化されて恵みを取り戻し、生命の循環が永劫に約束されるようになった――。かいつまんに語ればそのような由来に基づくそうだ。
「以来、〝不死鳥の神人の落涙の礫〟とか大袈裟な名前つけたんだって。悲憤の面を強調した“フェニキアの咆哮”っていう呼び名もあるらしいけど。そう言えば、文明発祥惑星には“鳳凰座”と名付けられた星座が存在するらしいね。ホウオウって、文明発祥惑星で言うところの東洋文化圏で不死鳥と同義の存在らしいけど。ただ、味気のないことに、神話に基づく命名じゃないんだって」
エクトルが提示された神話全集に目を通している間、イローニは他の資料からも拾った関連事項を絡めて砕いた説明を添える。彼の目は捲るページから離れない。
「多分、例え話の一種だよ。宗教上の奇跡と結び付けられたんじゃない? 名誉ある眉目秀麗な神官とかが来て、大事業で変革してくれたのを有り難がって称えたんでしょ。それがちょうど天体現象が見えた日と重なったってたんじゃないかな」
読むのに一段落したエクトルが顔を上げつつ、合いの手を打った。
「その勘は当たってると思うよ。確かにその年、各地で収穫量が倍になったらしくてね。行政記録にも残ってるらしい。いつもと実り具合が異なることに、真っ先に気づいた農耕従事者の一人が役所に報告しに来たんだって。専門家が確かめてみたら、流星が最もよく観測できた地域の畑の土が、よく肥えて良い感触になってたということだ。五穀豊穣と結び付けられて、祈祷儀礼の祭神とした文化地域もあるみたいだしね。そこではこう言われたらしいよ。永遠を司る実りの星雨ってね……」
「永遠を司る実りの星雨ね……ロマンチックな言い回しじゃない」
ついぞ今まで暗い気分に胸中の大部分を包まれていたエクトルも、思わず感慨に耽るような心地となった。
「君の話を聞いてたら、気になってきたなあ。確か大家さんの旦那さんが、天体観測が趣味で録画機能の付いた望遠鏡持ってたって、言ってたっけ」
「へえ、お洒落な旦那さんだね。良いじゃん」
イローニも無表情ながら感嘆してみせる。
「課題が無事に済ませられたら、頼みこんで借りようかなあ。って、そうだ、肝心なこと忘れてた、時刻は何時って言われてるの?」
「ごめん、ボクも時間あんま確認してなかった。実を言うとボク、調べるのは好きだけど、星空見るのそんな興味なくて。明日テレビで天文台が撮った綺麗なの見れたらいいかなあって」
「学芸士の卵がなんてことを……すごく収集してるから、てっきりそうだと思ってたのに」
これにはエクトルも、拍子抜けというか落胆した。根が淡白な人物なので強く期待していたわけではないが、言い切られると虚しいものである。
「オタクだって、足伸ばすのは大抵嫌がるじゃん。まあボクも出無精だから君のこと言えないけどね」
彼ら二人は、揃いも揃ってインドア派の青少年であった。そこはとどのつまり、似た者同士ということなのだ。ロマンチズムという物差しを介入させるか否かで趣向が別れるが。
「お、そうだ。良いこと思いついたわ。ちょうどニュースの時間だから、ラウンジのテレビで確認してみない? 休憩にもちょうどいいしね」
またもや鮮やかに切り替えのターンを取られてしまった。さらに〝休憩〟という単語が出たのに至って漸く少年は本来の目的を思い出した。
そもそもは、持ち帰りの残業を片づけるために図書館へ足を運んだのではなかったか。
もはや焦りはなく、諦めから来た冷静さで心中ぼやく。
(肝心の課題には一ミリも取りかかれなかったから、休憩もくそもないけどね。結局、雑談の相手しただけだし。仕方無い、下宿に持って帰って追い込むか。僕ってば、常に相手のペースに引き摺られてばかりだな……自分のペースが持てるようになる日は来るんだろうか)
エクトルは椅子を引いて席を立つ際、ふと思いついたようにあることを口にした。
「考えてみたんだけど……今年がちょうど流星の来る五百万年目に当たるってことだよね。さっきの伝説が何らかの史実に基づくなら、奇跡を叶えてくれるような聖人らしい存在が来てくれたりするのかな」
「……こんな世の中だから期待したくなるのは不自然じゃないけどさ……とりあえずボクらみたいな人間はまず、神さん頼みはダメな気がする」
敢無く否定される。 現実主義者らしい態度は無下にも感じられたが、事実としては妥当であるため仕方がない。
「そうなんだよねえ。そこなんだよ。虚しいけど、努力するだけするしかないかあ」
退館した足でラウンジホールへ移動することとなった。イローニはエクトルを先にゲートに行かせて、数冊ほど今日の話題の関連書籍を借りてから後に続いた。
ラウンジホールは文化図書館のエリアに隣接した別棟にある。厳めしいアーチ型の廊下を通り抜けると一気に解放的な空間に出た。高い支柱が何本か天井を貫く吹き抜けとなっているのだ。入口正面には、壁の前半分を覆う極薄の大型モニターがある。電源が入っていない時はアートとして画家の絵を静止画で展示しているのだが、視聴可能時刻になるとテレビ機能が作動し、ワイドモニターに映像が灯る。施設の役割を考慮し、放映されるのはニュース番組である。
現在で言うところの最新型のテレビとは、大都市部にて当に浸透している舞台の形をした立体映像のテレビ機だ。程良い大きさの楕円状の台の上に、あたかも事物がそこに実在しているが如く映像を浮き彫りにしてくれる。
エクトルが地方育ちで慣れていないから思うのかもしれないが、遅れているとはいっても、2Dの絵を好む彼の価値観からして今のところ特段欲しいと切に感じたことはない。不気味の谷を突破してくるようにも思えたからだ。
インテリアも、クラシカルを基調とする図書館部とは正反対な様変わりをしており、カジュアルモダンで統一されている。
夜間に訪れる者も多いのか、二人が入るより前にも幾人かの似たような面持ちの者達が既に過ごしていた。談笑するなり、黙々と飲むなり、映像を眺めるなり、めいめいが好む形で寛いでいる。数時間を跨ぐ 長居や大騒ぎは禁じられており、元より図書館を主要目的とした比較的大人しい真面目な層で固められるため落ち着いた雰囲気が保たれている。
二人は床に敷き詰められた絨毯の柔らかさを踏みしめつつ、壁面に沿って立てられたジューサー機へ向かう。電子パネルに並ぶドリンクの画像の中から好きなものを選んでタッチすると、下のホルダー部に紙コップが装填され、選んだドリンクの液体が自動的に注がれる仕組みとなっていた。〝温かい〟か〝冷たい〟かを選んで、更に各場合で程度を調節することも可能だ。〝冷たい〟のカテゴリではもちろん、氷の有無を選ぶこともできる。
それぞれジューサー機で好きな飲み物を買って、半円形のソファに腰を下ろす。イローニはホットのカフェラテ、エクトルはフルーツオレを入れた。口に流し込みつつ、ちょうどモニターに正面から向き合う位置であったため、自然とテレビモニターを見上げた。
確かにイローニの言う通り、流星群の特集がやっていた。女性アナウンサーの滑らかな声と共に銀河の映像が流される。夜空の風景だ。
モニターに今あるのは、神話時代より五百万年後、つまり現在五百万年前に撮影されたと言われる映像資料だという。神話時代の現象もれっきとした事実とすれば、二回目に当たる五百万年前の観測によって、五百万年周期であることが証明されたことになるらしい。放送局から派遣されたインタビュアーの質問を受けた名のある天文学者がそのように解答していた。
立体映像の発達途上にあった時代のものであるため、現在から見ると画素数は滅法荒く平面的な印象が際立つものの、なかなか動的であり緻密な箇所まで映し込まれているといえた。狭い世界に籠りがちなエクトルには案外新鮮なものに見えて、純粋に心が揺さぶられるようだった。
星が流れている映像など、特撮CG映画・アニメーションを彷彿とさせるような、ヴァーチャルの中で演出されるリアルに等しい感触だ。 滅多に見れないものという常識理解があるためか、実物にも勝る不気味なほどの迫力が漲っている。実感を伴わない生々しさがあるようだ。よく、人形の顔つきを極力人間の顔つきに近づけて作ろうとする時に起こる不気味の谷を思わせた。
燃える星灯りは、あまりに鮮やかで目の神経を刺激するほどに眩く、雨というよりは火の礫のように見える瞬間もある。
赤く、黄色く、白く明滅する数千個にも及ぶ光の大群……。
不死鳥は火の鳥とも呼ばれる。フェニキアナの伝説が生まれたのも納得できる光景だった。
実際には人の肉眼で見渡せる範囲では、このようにリアルな炎のように見えることにはないだろう。滴程度に見える可憐な輝く欠片が落下していく風でしかない。
だが、宇宙空間飛行により観測・撮影されたフィルムを通すと、こうも違った物体として見えるものなのか。
どこか優しげで可愛らしくもある、大勢の天使が降臨するようなしとやかさだ。 肉眼を通した夜空は只管静謐な瞬きだが、拡大された視界に捉えられた世界では、力強く、畏れさえ感じさせる発火の軍勢だった。
音は録られていないにも関わらず、ごおっと爆ぜるような迫真の自然音が響きわたってきそうである。
「曾お爺さんが言ってたな。ニュースで騒がれるような大規模なものでなくても良い、一つでも流れ星が見えたらそれは吉兆の徴だから大切にしなよって」
ふいにイローニが呟いた。彼らしからぬロマンチズムに満ちた台詞だ。最も、曾祖父の伝言を関連する事柄として思い出したに過ぎないのだろうが。
しかし、それを受けたエクトルの中にある思考が閃く。
(今日、時間きっかりに天体ショーを目撃できれば……僕もどちらかと言えば伝説は迷信扱いしちゃう方だし、真に受けて胸を高鳴らせるほど夢見る子どもとは自分のことを思っていなかったけれど。流星の風景に、幸運の前兆を期待してみたいかもしれない)
途端、まるでエクトルの思考を速攻読み取ったような絶妙なタイミングでイローニが口を挟み込んだ。
「鬱屈している友よ、チャンスじゃないの? 僕も君もロマンチストじゃなかろうが、運気への不安を、人の手の届かない領域に委ねてみるのも、悪くなかろうぜ?」
「な、何さそれ? 星に願いを、って奴? さっきは〝神さん頼みはダメな気がする〟なんて抜かしてた癖に、映像美に当てられて気が変わったのかい?」
言い方の妙さに吹き出ししつつ、手の平を返したような態度に突っ込みを入れる。
現実主義者らしい思考の彼にしては珍しい。さらに言えば、散々自宅でヴァーチャル体感ゲームに没頭している友からして、今更テレビジョンの記録映像如きで動揺するもないだろう。
「いやあ、それはさあ、オタクの言うような、目に見える形で尊いお方が直接現れてほしい……っていう即物的な価値観とは違うって意味さ」
そう言えば図書館棟から退去する直前に自分は、奇跡を叶える聖人の降臨を期待してみたいという趣旨のことを口にしていた。本格的な願望として表出したつもりではないが、求めても構わないかと第二者に問う行為こそが真意の表出として解釈されたのだろう。
「ふーん? じゃ、君のはどんなもんなんだい?」
やや仕返しの意図も含めて、意地悪気味に促す。
友は後ろめたげな素振りも見せず、さらりと答えた。
「ゲン担ぎくらいは良いんじゃなかろうかと思うてね。流石に聖人様を請うのはおこがましいかなあと思うけど、オタクの訴える通りさ、足掻いてもどうにも難しい状況てのはあるんだから。例えばさ、今だったらクレーマー無き平穏な文化の発信に打ち込める日々を願うね」
「なるほど。まずは全体の平和への祈りか。殊勝且つ無難な感じだね。それでいて、決して善人ぶった言い回しをしないところが、君特有の皮肉屋らしい率直さだ」
「オタクもいよいよ屈折さに磨きがかかってきたね? 褒めずとも貶さずの意見は中間的で石橋を突いて渡る君らしい」
喧嘩にはならずとも、下手に凝らした悪口の応酬合戦に行きつくのがこの友のとの会話の常だった。しかし、雰囲気の険悪化とも映りかねないこの過程こそが、エクトルにとって徐々に楽しくなっていく瞬間である。平穏な温度感の中でスムーズな言い合いが行えるということは、対等と認められている証なのだ。まさしく、正真正銘の知己である。
今し方評した通りに皮肉屋ながらもイローニという人物は、こうして僅かな瞬間でもリラックスさせる腕前を発揮する有能な存在なのだ。他愛ない一時に、いつも救われていると恩義を感じている。照れ臭くささから、本人に対しては決して口が裂けても言い辛いものだったが。
ここでエクトルは、持っていた多機能小型携帯通信機を開き覗いてインターネットを検索した。放送されている番組との照合を思い至ったのだ。
ネット内の報道記事でも、モニターに映されたものと同様の内容を確認することができた。各通信会社から発せられるそれらは、文言や取り上げられる識者に多少の差異こそあれ大体の情報は被っている。
合わせて今夜の天気も調べる。気象台の見立てだと、今夜は問題なく快晴。雲一つない秋の夜空が眺められるだろう、気温も下がるため澄んだ冷気に洗われた好調さの中、くっきりとした満天の星に会えるはず……ということだった。官庁ではなく民間会社からの発信では、「南の方角に絶対注目!」と賑やかしのような軽い煽り文が宣伝のように付けられたものも見られた。
流星の始まる予定時刻は今夜10時頃だという。二人が文化図書館のロビーに滞在している現在時刻は七時半だった。
「二時間半後じゃん。早く帰って待機した方が良いんじゃね?」
モニター内の右上に表示されているデジタルの数字に目敏く注意を払っていたらしいイローニが、居並ぶ友に提案した。そこでエクトルもハタと気付く。今日は全体的に予定管理への認識力は鈍っているようだった。
「残念だけど、僕には無理そうだ。僕は見習い先で片づけられなかった課題があるから残るよ」
文化図書館自体の閉館時刻は二十時だが、付帯施設に二十四時間開室されている自習ルームがある。
「うひゃー、持ち帰りで仕事か、精が出るねえ。つーか、そういや最初にオタクから言ってたのにね。ボクの方こそ気配りできなくてゴメンよ」
「今更だよ、白々しいなあ君は」
淡々と他人事のように嘯く友へ、冗談めかす調子で苦言を呈する。本気で怒らないのは、イローニならではの心から励ます態度なのだと承知しているからだ。
「じゃ、ボクは先に帰るわ。頑張ってチョ」
端的に告げてイローニは、空になった紙コップを軽やかにダストボックスへ放り入れると、そのまま通路の向こうへ消えていった。
ふとエクトルがロビー内を見まわすと、ソファに着座した時に比べて人の姿が疎らとなっていた。
僅かな寂莫を感じつつ、一度緩んだ意志を奮い起すべく、気合いを入れて重い腰を上げた。
☆多機能小型携帯通信機とは、我々の生きる現在(2020年)で言うところのアイフォン・スマートフォンに類似したものです。