第一話 見習い先にて(下)
建物のすぐ近所に安い食堂があるのでそちらに足を運ぶ者も多いが、息抜きの時間にまで虫の好かない連中と群れるのは嫌いだ。
自分には、下宿先の大家さんがこしらえてくれる弁当があるのだから、それを大人しく控室で食べていればいい。幸い、大半の工房員が食堂へ流れていくので、エクトルにとっては静穏に過ごせる空間だった。弁当組の常連は彼を除くとあと一人しかいない。
「そっかあ。エクトル君は今の職場での新人としてのあり方と、みんなとの接し方に困っているわけなんだね」
控室内に置かれたテーブルの斜向かいに腰掛けた彼女は、後輩の吐き出す取り留めのない鬱憤を聞き取った後、殊勝に返してくれた。
先ほどの工房における状況から考えればまるで孤立無援の様相だが、実は彼にも唯一無二の人格者たる先輩がいるのである。
レイリ・ハクビシンという女性だ。名前の発音の感じといい、やや黄色みがかった肌色と扁平気味の骨格といい、この地方では人口の少ない旧文明発祥惑星で称するところの東洋系地域を出自としているらしい。髪の毛は、毛先のカールしたセミロング丈の灰色で、前髪の両サイドに焦げ茶色を入れた配色だった。ツートンカラーなのは、面積の多い方か少ない方を染めたためかと思い尋ねたら、なんと両方地毛だという。
二十代前半と思しき若い先輩であり、昼食時はよく彼女と席が同じになる。
絶望的な職場内において、只一人安心して頼れる人物である。体型はややぽっちゃりとしており、どういうわけか狸を彷彿とさせる丸みを帯びた顔つきで飾り気も無く素朴だ。しかしながら全体は端整でなかなかの美人である。柔らかい要素を渇望するエクトルにとっては、申し分のない清らかさであった。何しろ装飾華美は胸焼けがするほど腹一杯なのだから。
おまけに自分と差異のないローブを基本とした服装だ。ローブの色については伝統的に決まりがないので、彼女も自分の好む色を選択してか、エクトルが紺であるのに対し、彼女は臙脂色である。外観で自身と共通点が見出せることは充分な安堵感を誘うものだ。
今のところ、エクトルの所属部門に巣食う珍装団の中に加入されていないのが悲しい。清廉な人があの空気に同化、あるいは穢れに染まって傷付いてほしくはないが、頼る者がいないのは心細いのだ。常に側にいて、支えになってほしいのに。初めての電話対応事件にて助けてくれた別部門の先輩とは彼女のことだ。
担当する作業工程が異なる関係で、残念ながら現場では中々共に会うことができないのだ。休憩の時間が初めての出会いであり、唯一の顔合わせだ。
短くささやかだが、修羅の環境においてエクトルにとっては貴重な癒しの燃料補給となっている。
仕事時間においても縋ることができるのなら、もっと状況は変わっているだろう。
しかし現実では困ったその時に彼女を頼れないし、彼女もエクトルを助けられない。
だからエクトルは、この掛け替えのない時間を先輩との雑談かつ、彼女への悩み相談の時間としている。
「新人がどうのという次元じゃありませんよ。先輩は平気だったんですか? 評価基準が定かじゃない妙な環境の中で、今の僕は為す術も無く振り回されているような気がしてならないんです。この先、三年間もあるのに、やっていけるか不安で不安でたまらなくて、辛いんですよ」
先輩は仄かな微笑を湛えて、少年の長広舌を静かに聞いていた。しばらくは反応を紡がず、辛抱強い態度で相槌を打っている。
というより、少年の調子があまり相手の反応も待つという配慮を介さない一方通行のため、疲れが生じて勢いが落ちるまでは返す隙がないというのが実際であろう。
「本当にネックで……。僕が世間慣れしていないから、あまりにメンタルが脆いのはわかっているんです」
エクトルにとって、彼女だけは職場内で唯一の心底より嫌われたくないとしている人間だ。故に表面上は、まるで己の克服すべきポイントを健気に自覚しているかのような、謙遜している後輩を演じてみせるのだ。
しかし、舌に載せるにつれてヒートアップしていき、次第に怨恨を込めた非難の愚痴と化していく。
「みんな、ずるい感じがするんです。絶対に、僕の知らない約束事とか勝手に工房の中に敷いている。確かに僕は〝見習い人〟に過ぎないけれど、同じ場所で働いている一人に変わりはないんだ。なのに、重要な情報を下っ端に対して隠匿するなんて、陰湿且つ悪質にもほどがありますよ」
先輩もそのような姑息な仕打ちに晒されてきたに違いない。そう確信してまくし立てる。
「まあまあ。落ち着きなよ。誰しもスタートダッシュの地点なんて、技能ももちろんだけど、メンタルまでなかなか立派にできないんだから」
ペースの衰えが現れ、息継ぎのため一呼吸吐いたところで、案の定まずは高揚した状態を窘められた。と、同時に、とりあえずの慰みも得られた。このような思考回路で悦を請わんとする自分は充分に卑屈で卑怯だと内心自嘲する。
「エクトル君の捉え方が卑屈っぽい感じがするなあ。少人数制で頑張って回してるから、致し方ない部分もあるのは当然だし。上のみんなが忙し過ぎてバタバタしてたら、どうしても連絡網が上手く行き渡らない場合はあるよ。別に、エクトル君を苛めたり仲間外れにしたりしようとして、言ってない話が出て来るわけじゃないと思う」
「……まあ、考えてみればありそうな事情ですね。気のせいだったら良いですよ。でも、内輪のよしみであっさり通る場面を僕は目撃してしまっているんです。班長の不手際を、友達だからという理由でピエーロさんは笑って受け流した……。僕の場合は、自尊心を傷つける文言まで手繰って責めたのに……。絶対に怪しい。差別と言わずして何と言うんですか」
先輩の表情がたじろくように真顔になると共に、困ったようになった。それから、どこか申し訳なさそうに言葉を継いだ。
「ごめんね、具体的に君の遭遇したシチュエーションが掴めないから、断言できないけど。古い関係だと、依怙贔屓とまでは言わないけど、優遇しちゃう甘さは出ちゃうもんだよ」
「先輩、まさかですけど……彼らの側に立つんですか?」
人間、長いつき合いだと多少の緩みは生じるものだろう。しかし、現状それが新参者の被る迷惑となっているのだ。仕方無いということを理由に放置しておけば、間接的にも汚職を蔓延らせる温床になるのではないか? 先輩にはそれが見えていないのか。それとも、見て見ぬふりをしているのか。非常識な連中を庇う行為ではないのか。義理立てが美徳という結論にやはり陥るということなのか。
急激に嫌な予感が押し寄せ、脳内を推測が駆け廻る。
「そ、そういう話じゃないよ。カリカリしちゃいけないって。こう言うのはね、別にエクトル君の見方も間違ってると思うからじゃないんだ。君の視点が、狭まっちゃうんじゃないか……。つい老婆心で、そこが心配になっちゃってね」
先輩は慌てながら、訂正するように言った。恐らく、目に見えない相手側の心情を想像する意識を持たねばならないということだろう。
だが、心傷を抱えている今、すんなりと呑み込むことはできない。
(僕だって、視野狭量になるのは嫌だ……。〝自由の枠〟を目指したいんだから。でも、一度傷つけられたのに、柔軟に切り替えて受け止める余裕なんて持てると思うの?)
「ねえ、ひょっとしたら、エクトル君が、激しく思い込みをしちゃってる可能性もあるかもしないよ?」
いかにも呑み込めないという不満げな面持ちが剣呑に現れていたのだろう。先輩は、おずおずと遠慮がちな物言いで問い掛けてきた。
その気遣わしげな態度に、エクトルは自分が熱くなり過ぎたのではないかと一時顧みる。
先輩に対しては申し訳ないと思うが、だからと言って疑念を振り払うことは不可能だった。
「だって、君に見せた様子が、その人の全てなわけないよね。実際のところは、思わせるほど酷い人達でもないと思うんだよ……厳しい人達だけど、決してバカにしているわけじゃない」
「パレードみたいなぶっ飛んだ格好してるのに? 俄かには信用し難いですよ……」
エクトルは会話の傍ら、ふと、先輩の持参した弁当の中身を一瞥する。四角い四つ折りの箱に入れられたサンドイッチだった。大きなパンで作られたものが全部で三個詰まっている。間に挟まれているのは、細かく刻まれたサラミやチキン、豊富な種類を誇る緑黄色野菜だ。聞けば、お気に入りの手作り惣菜屋が地元の駅にあるらしく、出発前にそこで昼食の調達とするらしい。ハクビシン先輩は実家通いだ。
毎回、美味しそうだと思ってつい会話の途中でも注視してしまうのだが、下手な相槌だと思われぬようにと慎重な発言は心掛ける。
「〝統括人〟さんも班長さんもピエロさんも、エクトル君の敵じゃないよ。むしろ、味方になってくれる立場なんだよ。あたし達、民間委託業は、〝正式者〟と同じ空間で働いていても所属は別だし、労働の内容も別なんだ。だから、むしろ〝正式者〟さん達がおかしなことを急に言い出して来ることもある。班長とか統括さんとか、こっちの責任者に当たる方に確認も取らず、急にヒラのあたし達に不当な要求や依頼をしてきたりね。そんな時に守ってくれるのがヘシオドスさん達だよ。見えないところで、交渉や相談に精を注いでくれているの」
依然として納得いっていないという表情を頑固に続けていることを見て取ったのだろう、彼女は聞かん気な幼児の態度を解きほぐすように噛み砕いた言葉遣いで説いた。
「水面下で労力を割いているんだろう、というのは認めます。けれど、部下への罵倒とは別問題でしょう。成長に繋がるなら耐えますよ。だけど、本当の事を面と向かって打ち明けてくれないなら、頼るに値すると思えない」
「難しいねえ……だだ、何だかんだ言って、エクトル君はまだ半人前になるんだし。清濁併せて受け入れていくしかない面はあるよ。だから、未熟な間はこっちから、力を貸してもらうことをお願いする意識でいなくちゃいけない」
エクトルは強硬に顔を顰めながらも、従わざるを得ない不条理があるらしいということを頭の片隅では理解しかけていた。
語っている先輩は経験者なのだ。経験を積んでいる者から紡がれる言葉には、例え聞く方が納得いかずとも、重厚に裏打ちされた意味を含んでいる。下の者が不条理を指摘する資格を授かるには、彼らを乗り越えるつもりで技能向上に打ち込むしかないらしい。実力がない段階で訴えても、我儘としか判じられないのだろうか。ひょっとしたら、先輩も、何度か越えられない壁に抑えつけられる目に合ってきたのかもしれない。だとしたら、納得如何に関わらず前進する他ないということだろうか。
「だいたい、隠してるってほんとうなの? それって、エクトル君自身が確かめたの?」
口調は柔らかいままながら、嫌疑を抱く姿勢に対し不意に咎めるニュアンスが現れ出した。気の置けない存在だからと、すっかり気を許して疾しい思いまで吐露したのは流石にやり過ぎだったらしい。油断を反省しつつ俄かに気を引き締めて、言い訳のような答えを繕う。
「いえ、そういうわけじゃあ……。でも、怪しげな行動を時々見るんです。僕にはどうしようもないことで目くじら立てて注意しておいて、同僚のよしみだからと許し合っているんですよ? それって度し難くないですか?」
「上の人達のことは……私達で何とかできる話じゃないよお……」
朗らかな声が、悲観するようにしおらしくなる。
先輩も工房の中では大分と若い部類らしく、モヒカンの班長やピエロよりは年下らしい。
厚化粧と、見本に足る大人となり得ない言動から若く見えていたが、徒に歳だけは食っていたのだ。
先輩のように優秀と認められている人が下手に出る立場で自分に助言しているのは、そのためだと思われる。
しかし、止むを得ない事情があるからと言ってエクトルは、お行儀の良いその姿勢に賛成はできなかった。
何故もこうして、謙虚で誠実な先輩という生き物は、いとも容易く上からの圧力を従容してしまうのだろうか。寛大を通り越して、不条理に屈服しているだけではないのか。班長やピエロの行為は明らかにハラスメントだ。
未熟ということは弱いということだ。弱い立場の者が居心地の良さを守るには、たとえ技能が足りずとも理不尽を指摘しておかしくはないはずだ。
己は卑小な存在であることに疑いはない。エクトルは充分に承知しているつもりでいる。とはいえ、最低限の礼儀を受ける権利はあるだろう。
露骨なまでにないがしろにされているから合点がいかないのだ。
決して口に明かすことはないが、先輩に敬愛を抱く裏側で反発心がある。真面目な先人達が横暴に対して奴隷のように殉じてばかりいるから、改革も刷新も起きていないのではないか。経済構造が変化としたことを理由にするにしても、その変化から約四十年以上も経っている。いい加減、後進のために若い大人達が行動してくれていても良い頃だろう。
好ましい先輩の優しい性分も、好ましい方向へ作用するとは限らないようだ。下手に出ることで状況が幾らでも好転するなら、とっくに露骨なほどの謙虚な態度でピエロやモヒカンに愛想を振り撒いている。 品性を意識して低頭しても、敬語に気をつけて声を掛けても、まともな応答など返ってきたことはない。だから、模範的と仰ぐことができない。
最も、肝心の自分は抵抗が順調に叶っているわけでは無論なく、巧みな言い回しに舌が働かないから「下手に喋るくらいなら黙っている方がマシだ」ということで、がむしゃらに沈黙を貫いているに過ぎないが。
「やり方に文句を言っても仕方がないよ。確かに理不尽だし、苦しい状況だけどね。目の前の課題を、忠実にクリアする努力をまずはしなくちゃ。自分の腕が未熟なままじゃあ 話は、それからしか進まないと思う」
旧態依然とした空気に圧迫された結果、新人のミスも相次ぐと思うのであるが。それを的確に指摘し教え導くのが、上の者達の役割ではないのか。
「こういう工房みたいなところは……。事務を中心にする普通の会社とは、どうしても違うところがあるから。励ましを送れなくてごめんなさい。技術性第一の職人の働き場故の性質も関係してる。〝見習い人〟の子でも手加減しないといけないところがあるのは、ある意味しょうがなことなのよ。あと、だんだん売れなくなっているものを扱っているわけでしょ? エクトル君に当たっているように見えるのは、それほどに切迫している証なんだよ」
先輩の詫び入るような断りは、少年の義憤に油を注ぐだけだった。――ならふざけた仮装はどういう理屈の産物だ? 先ほど触れた時も、答え苦しい話題なのか、先輩は逸らしていた。コストカットに追い詰められたストレスで精神を病んだ証拠であり、哀れんでやるべき結果だとでもいうのか。必死なら、〝見習い人〟という組織の中で最も下っ端となる弱い者に、右も左も区別のあやふやな迷える弱者に挑発や揶揄は交えないはずだ。嫌がらせが手加減をしない厳格な指導の項目に含まれるなんてあってはならない。まずは僕より経験の長い貴方が立ち上がるべきなんだ――
口をついて出そうになったが、あえて引っ込めた。どういうわけか、遣り切れない苦悩を抱えているらしい先輩の口調の端々にも、なおもヘシオドス達への慕情を寄せている気配が漂うのである。
先輩は良い人だ。慰めてくれるし、助言もくれる。けれど、“現状が間違っている”という声には歯切れ良く同調してくれない。
別に運動を発起して、同志を募りたいというほどではなかった。 そんな余裕と堪能さを兼ね備えて賢しくなるためには、まだまだ勉強が必要だろう。それまでは諦観に苛まれながる日々も多少は致し方ないと考えているが、苦境の中で、せめて信頼する先輩が働き掛けてくれれば、少しでも未来が照らされるのにともどかしさに歯噛みする。
「それに、エクトル君にも非がないわけじゃない気がするなあ……」
唐突な逆襲だった。ヒヤリとした。
「ほら、どうしたってさあ、わからなかったら自分から聞くしかないんだから。私に言ってみるより前に、自分の口から尋ねてみた方が良いと思うのよ。結局、エクトル君自身の痛みは、エクトル君にしかわからないからね。」
おっとりした物腰でありながら、実はなかなかに油断できない人である。調子に乗り出すとピシャリと歯止めを掛けるべく、決まってお灸が据えられるのだ。エクトルには、常に優しさに委ねてしまい、相談事も度が過ぎてつい露悪的になってしまう嫌いがあった。
これには流石に非があって間違いない。糺していかねばならない部分だ。
しかし、己の甘え癖には反省する一方で、やはり反論はあった。確かに自身の痛みは自身にしかわからぬだろう。だが、先輩に再三話を持ち掛けるのにはれっきとした理由がある。管理者にできるだけ近い距離にいる人ほど提言を図ってくれなければ意味がないと考えているのだ。
「あ、勘違いしないでね、エクトル君。突き放してるわけじゃないの。ただ、そう……。何も、現状の間違いを認めてもらおうとすることだけが、付き合い方を改善する方法だとは思わないんだよね。尖らなくても良い、別のやり方があるよ」
「……え? 何か、打ってつけの解決策があるんですか?」
少年には虚を衝く考えだった。苦闘に臨む気構えでいたのだ。平和に行える絶好の手段があるならぜひ知りたい。
険しい目つきを忽ち期待に煌めかせるエクトルに向けて、とっておきとばかりに彼女は告げた。
「根本的にはやっぱり、そもそもエクトル君が上の人達に心を許してない点が問題な気がするの。まずは何より、相手と仲良くなりたいと思うところから始めなくちゃ」
口元まで運び掛けていた携帯ボトル入りのお茶を、息の大きさで吹き溢さずに堪えるのが大変だった。突然、先輩は何をのたまうのか。
「心を開くことが大一歩だよ。親しみを持つ気でいれば、ゆっくりでも自然に伝わって行く。エクトル君の方から願えばいい。
目上の人相手にこちらから催促しようとするのは難しいし、すぐにできることじゃないから。でも、心の持ち様を変えるだけでも状況は変化してくるはずだよ。相手が思っていなくても、気持ちを寄せることで変わっていったりするものだからね」
「ハアッ!? ちょ、ちょっと待って下さいよ、そりゃないです!! 根本的にないです!!」
仰天するよりなかった。仲良しになる願望だと!? 冗談ではないと戦慄した。
奴らは、自らへの埒外な軽蔑に勤しむ連中である。態度を反省し、改めるというのなら、彼らへの軽蔑をやめても構わない。
だが、心根の腐り切った者共に対し、誰が努力でも好意を寄せ得るだろうか。相手は自身を嫌っているとはっきりわかっているのだ。ならば、こちらも嫌い返すしかないはずだ。
第一、元来コミュニケーションそのものが不得手なのだ。難関の障壁に、難関の手法で挑むことを勧めるとは。
親切な目の前の先輩にさえ、初対面の際に声を掛けられた時は、当惑の余り大仰に手足をバタつかせながら一気に背後の壁に背中から貼りつくという、滑稽極まる醜態を晒した程だ。
無論、ありったけの焦燥感と共に直ぐ様反論を重ねた。
「高度な技能習得に励むより無理難題ですよ! 何度も言っているでしょう、暴言まがいのことしか浴びせて来ないんです。僕が祈ろうが祈るまいが、好いてくれるわけありません……。だいたい、酷い仕打ちをする相手をどうやって今更信じられるんですか……」
要は、性善説を前提にしなければいけないのだ。性善説を信頼するためには、様々な困難の壁が立ちはだかっている。
とりわけ少年の場合、改善を望むより先に生理的嫌悪というものがあるのだ。エクトルは、ピエロやヘシオドスの連中を心底非常識であると毛嫌いしている。不倶戴天の敵と言っても差し支えない位置付けだ。
自分のことが邪魔者扱いされている状態で、いきなり安穏な方向性から挽回が試みられるだろうか。
こんな希望的観測の見込めない中で、平和的譲歩など到底不可能だ。
(そんな呑気な真似してらんないよ。僕は被害者側じゃないか。歩み寄れだなんて、格闘技の初心者が免許皆伝を成し遂げた奴に挑むような無謀さだよ)
そもそも、最下層の立場に位置する時点で不利だ。何より、自分に対する侮辱の数々がまず許せない。とっとと離れたいとすら思っているのに、友好関係を築いてどうするというのか。
「無理矢理にやろうとするのは、流石にしんどいと思う。でも、尖った感情を持ち続けるよりは、柔らかくなるように、こちからから相手を許す感情を持ち始める方が、絶対に悪化を防げる……。わたし、簡単に言うだけの人に見えるかもしれないけど……やってみたら少し、変わったことがあったんだよ。一から終わりまで任せてもらう仕事が増えたりしてね」
(それは単に裏目に出て、厄介な分量を押し付けられただけじゃないの? 先輩が文句を言わないことに付け込んで)
先輩のような人までもが腑に落ちない思いをさせるようだ。どこから疑問点かすらわからず、孤独感の中で苦悩しているのに。
純粋真っ直ぐな方法での打開など絵空事だ。先輩はもともと人柄が良いから、花畑のような結論を導き出せるのだ。どうやら、後輩なりの屈折した情念は受け止めてくれそうにない。
エクトルは穏健な視点への切り替えなど求めないし、達成できなくて構わなかった。
彼があくまで求めているのは、宥和ではない。
相手からの心からの謝罪と自己の尊厳に対する他者からの認識だ。
恐らく彼女は〝良い子〟でいたいのだろう。
それと同時に、エクトルとしては導き出したくない答えだったが、彼女の思考がお目出度く能天気な証ということに違いない。
先輩の逐一の答え方は、世間基準の認識に照らすのならば社会人の態度として〝正しい〟のだろう。しかし、いつもそのような曇りなき言葉を選ぶ彼女の口元に浮かぶ笑みは、蓄積した痛みを堪えて遣る瀬ない〝苦笑〟にしか見えなかった。
一体、レイリ・ハクビシンという女性は、外道共に何の恩義があってフォローするような真似をするのか。
(先輩は、常に僕の味方であるべきだ)
そう、決してエクトルは必ずしも目の前の先輩の有り方には満足なわけではない。しかし、何故か自分はこの先輩を慕っていた。
柔然たる雰囲気の為せる技か。あくまで漠然とした感覚に留まるもので、まともな理由は見出せない。ただ、不思議と心地良い。他に理由がなかった。
だが一方で、どうやら論理では説明のつかない面での好慕と憧憬があってのものでもあると気付いている。情緒面から発生している魅力に取り憑かれてのことだろうと、自分でも案外素直に認めていた。
会う都度、体内に踊り立つような血流を感じするのだ。なるほど、この有様では反駁しつつも関係を断ち切れないわけである。
結局は、巡り巡って、ポジティブな受容に落ち着くのだった。
(そうだ。僕は常に大切なことを忘れがちだ。僕にだって、真っ当に味方と断言できる存在がいるんだ。だから心に決めているんだ。不良連中のためなんかじゃない、この女性のためだけに僕は頑張っているんだって)
納得のいかない部分はあるものの、おしとやかで的確な処理能力を有し、器量にも恵まれた彼女は紛れもなく業界の優等生であり良心だ。どうして〝正式者〟でいないのだろう。会った時からずっと不思議に思っていたのだ。本人から話してくれた事情に依れば、試験勉強が苦手なので〝正式者〟応募を諦め、〝非正式者〟の身分に甘んじているというのだ。
経験の貧富で判定し、昇格を約束する制度を作ればいいのに。自分はともかく、公明正大な者まで苦労させるなんて。エクトルは先輩の頑張りを思う都度、世の不公平をなじり倒すのだった。
先輩は、ふと両の眉を下げ、毛布で優しくいたいけな生き物をくるむような、ぬくぬくと温かい笑みを口の端まで広げた。
優しい眼差しで後輩の少年を見つめながら、あやすようにアドバイスを送る。
「何てったって、エクトル君はまだ〝見習い人〟なんだから。学生の身分でもあるわけだし。進路が決まらない内から、ひがんじゃだめだよ」
後進の者を励ます際に万人が用いる常套句だ。聞いても仕様が無いのだから、よりによって貴女ほどの人に使わないでほしい――。
そう言いたかったが敬慕している相手だ、とてもではないが出来ない。比較的気楽に接し合える関係であるにもかかわらず、軽薄にまで振舞える度胸はなかった。「うーん、すぐ先輩方って簡単にまだこれからって言いますよね」と失礼にならない程度の軽口なら叩いても良かったのかもしれないが。思い切った踏み出しを起こせないのは目下の悩みだ。
「私の勧める方法だって、やり方の一つに過ぎないわけだし、エクトル君はエクトル君で、自分にあった最高の方法を見つけてね」
今回も最終的に、素直に頷いておくことにした。何はともあれ、純粋に気遣いをもらえるのは嬉しいものだから。
「はい、とにかく今日も頑張ります」
自分もとやかく人のことを言えない現実に変わりないのだ。捻りの効かない紋切り型の返答でしか意志表示できないではないか。
たおやかに微笑み返す先輩の顔が、眩しく麗しかった。
しかし、安穏な時とは儚く短い。次の瞬間に襲いかかった異変が空気を刹那に緊迫させた。
泰然としていた先輩が、突如狭い部屋を震わせる勢いで咳を漏らしたのだ。
「! 大丈夫ですか!?」
単に噎せただけとするには嫌に激しい咳き込み具合だ。必死に口元を塞いでいる先輩の横へ、椅子から立って駆け寄る。
「平気。いつもの症状だよ」
発作が治まったのか、絞り出す返事の中に軽い喘鳴を残すのみになった彼女だが、顔面はやや青白かった。額には微小な脂汗が見える。
唇が苦笑の形を描き出しているのと裏腹に、様子は芳しくなさそうだ。
先輩には確か持病があると聞いている。個人情報を引き出すことになると躊躇するエクトルの口からは、詳しい病状は尋ねられていない。工房内の者も具体的に言わない。
「ごめんなさいね、また急に……。驚かせちゃって。どうも、今の部門で使用する薬品が身体に合わないみたいで……」
「それなら、あなたこそ、どうしてこの仕事を続けているんですか?」
及び腰なエクトルに似合わず、割と間髪入れずに問いを投げ掛けていた。業務上必要な物質が肉体に合わないなんて、命に関わるレベルだ。
人間関係や経済状況どころの話ではない。切羽詰まった事態と隣り合わせながら、しがみ付かなければならない程の理由はないのではないか。
「好きだから。生き甲斐だから。それ以上でもそれ以下でもないよ。私そのものなの。他に思いつけないや」
やや険しい顔つきで見守る後輩に対し、一拍の間を置いて切り出した。
「逆に、また私から君の方に問い返すよ? 君は、なんで裏切られたと思っているようなのに、逃げようとはしないの?」
はたまた意表を突く質問だった。大慌てでエクトルは言葉を連ねる。
「いや、だってそれは……。質問からしてあり得ないですよ。できるわけないでしょう。学校から定められたものなんだから、規約違反になっちゃうし……」
「ううん、それだけじゃないからだよ。私程度でもこれだけは断言できる。君の求めてるコタエは、そこにあると思うんだ」
先輩の言い方には隙がなかった。
一方的な決めつけだと怒っても良かったのかもしれない。はぐらかされているようだと不審感を抱いても良かったろう。ところが不思議にも、哲学のように神妙な響きを伴って少年の脳内に溶け込んでいった。
彼の身体に実際に現れたのは、即座に句が絞り出せず息詰まる反応。
(卑怯だ、こんなタメになる王道漫画みたいな問答……。ただ先輩が好きだから、なんて口が裂けても言えない。理由にならないだろう、これは。〝自由の枠〟を目指すための踏み台として嫌が応でも最低限必須だから? 先生のことを思うと怖い? でもそうだ、最終的には慕っている人も学校のことも、選び取る将来に直接影響してくるわけじゃない……)
その時、覆い被さるように休憩時間終了のチャイムが鳴り、頷き返すのを済んでのところで免れた。
先輩は素早く先に弁当を片づけると、軽やかに挨拶をして部屋を出た。サブのリーダーを任されているらしく、一早く流れを思い出して取りかからねばならぬという。扉を開けて振り返った時の顔色には、幾分か生気が戻っているように見えた。
今日もまた、一時凌ぎのような慰撫を味わえながらも、煮え切らぬ後味を残す有耶無耶な幕切れとなった。
工房に戻ると、淀んだ気配が湧き起こり、鼻を侵すようだった。二十四時間稼働の換気装置があるが、それとは別の精神に関わる問題である。
少なくとも、栄養補給と一時的な休息で気を取り直せたような感じはした。リフレッシュの効果というのは確かに存在するらしい。もどかしいやりとりを終えて来た後でもあるので、素直に感じ入れないが。
作業机に着席するのと前後して、一番最後に戻って来たヘシドス班長が、腐り掛けのセロリのようなモヒカンを揺らしつつ、皆に向かって切り出した。両手には何か書類を数枚抱えている。
「みんなにお知らせがあるわよお。別の工程に入ってるハクビシンさん、来月からこっちに異動ですってえ」
危うく実際に飛び上がるところだった。浮かしかけた腰を落ち着かせながら、エクトルは自身の胸の内が歓喜に包まれていくことに嘘がつけなかった。
晴天の霹靂と言わずして何と言おうか。唯一無二の心を開ける工房員、ハクビシン先輩が自分の近くに来てくれるというのだ。より距離が縮まる。
しかし、少年の心が浮き足立ったのも束の間だった。水を差すような言葉が付け足されたのだ。
「……という予定になってるけどお、延期になるかもしれないのよねえ。ほらカノジョ、体調が良くないから。今日も午後、早退することになっちゃったてえ。統括さんに聞いたわあ」
止むを得ない事情と考えればそれまでだ。先輩が持病の危機に瀕しているという情報ぐらい、例え以前から確信しているように、一部共有すべき事柄の蚊帳の外に置かれている中にあっても、紛れもなく把握している。ただエクトルにすると、発信側が発信側だけに、自分に優れた味方をつけさせまいとする陰謀なのではないかと勘繰りたくなってしまう。心なしか、連中の表情がほくそ笑んでいるように見えた。ピエーロなどは道化師メイクにポーカーフェイスが常態なので一層容疑が強い。
ますますもって、先輩が彼らに恩義を感じる必要性が薄まった。
(となると、今のメンバーだけで耐え切らなきゃいけない時間が長くなるのかあ。 気が滅入るなあ)
あの先輩が緩衝材になってくれれば、現在、直入に〝見習い人〟の自分に向いてくる矛先は未然に防がれるだろう。
制定された見習い期間は三年間。遅くなっても構わない、一抹の寂寥感は禁じ得ないが、自分が学校に戻るまでに間に合えば充分だ。
待 ち遠しいが、辛抱だ。せめて辛抱強ささえ高めれば、親切な雰囲気にやや反して厳しい彼女もいつか賛辞をくれるだろう。
第一、案ずるべきは病気と闘う先輩の方だろう。我が身可愛さばかりを気にしてどうするのか。
学位取得以後、自分と同じように滅茶苦茶な世界へ身を投じ、肉体の不安も抱えている。彼女はどのように前途を切り開きながら生きて行くのだろう。
互いに同情しあうべき哀れな時代の申し子なのかもしれないと感傷が湧いたこともあった。しかしきっと先輩には先輩の、自分とは絶対的に埋まらない辛苦の溝がある。先輩は自身の父親を知らないと言っていた。母親も契約会社BPOの系列で、証券業務のデータ入力に従事しているという。幼少期から、彼女の世話のために訪れる叔母と過ごす時間が大半だったらしい。下衆な取り巻きはともかく、本当のことを言えば彼女の一切に関して批判する筋合いも資格も少年には持ち得ないのだ。
工具を握り直しつつ窓辺に目を遣って、気分転換を図る。憂鬱な仕事場だが、ここから見える景色だけは常に美しい。煉瓦建築を誇って来ただけあって、並立する家々や通りの路面は温かな色彩に飾られており、束の間、優しい気分にさせてくれる。際立つのが大部分の建物の屋根を飾る赤い瓦だ。太陽の似合う明るい色味が心の澱を洗い落とすかのようだ。得体の知れない妖怪集団の跋扈する風景とは天と地の差がある。
一言で赤瓦と言っても、使用されている赤の色にはそれぞれ微妙な濃淡等の違いがある。焦げ茶、薄茶色、橙色、紅色に近いもの……。
出来上がったばかりの新しい色合いに輝いているものもあれば、長年雨風に晒され経年したが故の渋い色みに落ち着いているものもある。幾種もの近似する系統の色が、疎らなグラデーションを描いて鮮やかなパッチワークを織り成している。以前、自身の気性に不似合いな赤毛を持つ悩みを先輩に打ち明けた時、「この町の赤瓦みたいで素敵じゃない」と褒めてもらえたことは、さりげなくも宝物に等しい思い出だ。
大国の領土に組みこまれていた悠久の時代には準首都として扱われていたくらいだから、それなりに良質な名残を留めているのだ。今では無駄に広いと思える石畳の街道も、交易に利用されていた重要なものだったのだろう。
領土が変わる際に首都が遷移して以来、さして物もないのんびりした空気が取り柄だけの文化小都市に格が下がったようだが、空中高速鉄道の駅が設置されている分だけ、まだ高度な文明圏から切り離されていない希望があるのだろう。年甲斐もなく、しみじみとエクトルは思い浸った。
空中高速鉄道のようなハイテクノロジーの産物が行き渡っている一方で、旧文明発祥惑星の歴史用語で言うところの中世的な文化財が混在している――互いに相反する要素のように見えつつ、不思議と調和した空間を形成している。その半旧態依然とした有様を何故か嫌いになり切れなかった。ただ文化資源の方面だけではなく、社会構造にまで残っているのはどうかと思われたが。
世の中を大まかに俯瞰した時、産業・技術面では発展していても、細かく市井に目を転じた時、風俗面・文化面では変化に乏しいような気がした。
その一つがこの工房における雇用形態ではないか。エクトルは因習に等しい代物だと考えている。
途端、またもや耳障りな不協和音が鼓膜を掻き乱した。振り返らずとも音源は判明している。ピエーロとヘシオドス、反吐の出るような蜜月時代の最中にいる悪辣な男二人組の話し声だ。
作業の時間だというのに、ここにいない誰かの悪いゴシップを囁いているらしい。井戸端会議中の御婦人方だってもっとマシなものだろう。
エクトルも知らない人に関して喚いているらしかった。 自然と正義感を刺激されてメラメラと憤怒が込み上げて来た。
(なんて下品で最低な奴らだ! いない人の陰口を叩き合うなんて!)
若干距離があるため断片的な情報しか聞き取れなかったが、既に職場に籍を置いていない辞職した人間を槍玉に上げているらしかった。
「あの人、信用できない人ザマスからねえ。アタシが工房入りした頃に就いた部門に彼もいたけど、途中でここにいたくなさそうな顔をしておりましたワ」
「何か優等生っぽい丁寧な態度取る癖して、正味やる気ない感じだったわよねえ。休憩室で泣き言呟いてるの、隠してるつもりっぽかったけどお、こっちはしっかり耳に挟んでたわあ。態度なんかより、まずは手で示せって感じよねええ」
(顔もわからないその人物を追い詰めた犯人は、間違いなくこいつらだろう。僕もいずれ同じ目に合わされるかもしれない……)
いつしかまた彼らへの批判に思考が没入した。だんだん他人を哀れんでの正義感よりも、明日は我が身かもしれぬという恐怖で自らへの危機感が募っていったのだ。自己本位な性分では、結局自愛に帰結するのが常だ。
その時、室内の隅に立てられた柱時計が鳴り響いた。反射的にその方向を振りかえると、業務終了時刻の十七時だった。
何という失態、迂闊だった。内面でうじうじ罵るのに集中し過ぎて、時間内に作品が仕上がらなかったのだ。体内を駆け回っていた燃えるような苛立ちが冷や水を浴びせられたように、一瞬で鎮静した。職場追放以前の問題だ、未来への憂慮どころではなく目先の危機へ追い遣られてしまったではないか。
今日の自分は、いつもより卑屈になり過ぎたか。悪態に精を注ぐあまり、仕事がおろそかになってしまったようだ。恨みの念を胸に抱くとろくな目に合わない。気の毒な人のため、大切な人のためと自分なりの大義名分をつけてみせてどうなろうか。災厄を被る第一被害者は、決まって自分自身だ。罵倒は自虐に行きつく。
目敏く見咎めたらしいモヒカンの班長が、自身の持っていた道具を収納棚に戻しがてら、これ見よがしに嫌味を浴びせかけてきた。
「あらぁあ~ん❤ ヘマをやらかしたわね~ 半年も経って時間管理もロクに出来ないなんて☆ なんて笑い事になんないでしょう❤」
意地汚く、芝居がかったようなシナを作りながら、わざとらしい大袈裟感を出す。無駄話に数分でも時間を浪費していた野郎に子分を断罪する資格があるのか。まともな問いが意味を成すことのない場であると覚悟はしている。だが、理解に至ることは永遠にない。
一体、今まで何人の新人達が早々に辞めていったのだろう。見習いの制度がなかった時代であれば、短期間の現場研修でしか知る機会がないのだ。恵まれない状況で長く務められる者など、よほど我慢強いか、独自に才能を開花させられるマイペースな天才ぐらいだろう。或は、あるべからざる先輩像として居座っている現役の連中と同程度に人格が螺子曲がっているかだ。
いや、本当に才能のあるものならとっくに〝正式者〟の〝見習い人〟として招かれたはずだ。
自分はまだ、体験しに来ているだけの身分だからとタカを括っていられるからマシだと思っている。
実は見習い中の学生には、ハラスメント被害があったとして教員に掛け合い訴える資格があるのだ。しかしエクトルは踏み切れない。
エクトルの希望する業種が存続している職場は、大都市圏を除くともうここしかない。学校からまだ近い地域だからと選定されてしまった。
だが何より、絆のできてしまった存在が繋ぎとめていた。
「クフフ、たかが体験者の身分だからって舐めてるんですかあ? 一応お給与もらってるんだからさあ、少しはものになるくらいのお勤めしてくんなきゃ困りマス」
追い打ちをかけるようにピエーロからも無遠慮な指摘が飛んでくる。口には相変わらず下卑た嗤笑が張りついている。エクトルは、恥辱と怒りで顔中が熱くなるのを感じだ。
弁 舌巧みでない自分は、言い返すという手は永久に控えるべきだろう。うっかり滑れば何もかも失う。
辛うじて可能な抵抗手段は、心中でひたすら「今に見ていろ」と唱え続けることだけだ。兎にも角にも、歩み寄りなど夢物語の産物である。
だが、何を「今に見ていろ」なのだろうと理性が囁いた。威勢良く気を奮い起したところで何の助力にもならない。次の瞬間には急速に虚しさが込み上げて来た。展望を描くほど徒労を誘うだけの職分なのだと、ここ半年間の就労でわかったのだ。ポジティブになれなど今更無理な話なのだ。
本格的な就労先として計画を立てるのは止そう。俄然決意した。
自分は未だ十代だ。ずっと若い。まだまだ大丈夫だ。先輩はいつも正しい。
そう思いたかった。将来性のある年齢を理由に楽観的に構えていたかった。
(知り合ったばかりの友人なら……清々しくやり返せるのかな……)
偏屈だが常に颯爽として自己を見失わない友の顔を思い浮かべた。それから、温かさを忘れないハクビシン先輩の顔も。
同様の境遇の中にいながら、冷静に事を見据えて受け入れているような勇ましい彼女の威容を。
一度でも好ましいと思った存在は、必ずいつも一歩先よりずっと彼方にいる。
ふと背中に視線を感じた。また険悪な〝非正式〟連中かと思い、精一杯の反感の意を込めて睨み気味に振り返る。
だが立っていたのは〝正式者〟の青年だった。別ブースで勤労している彼らをいつも憧れのように眺めているから、よく顔を覚えている。
通りがかりにこちらの無様さを意図せず目撃してしまったという様子だった。
彼は、少年の無体に敵意を満載した瞳に気圧されたのか、怯えるような目つきを呈した後、やや駆け足気味に班長デスクの方へ向かっていった。
所属部署の上司からの通達を任されたのだろう。打ち合わせらしく、二言三言交わし合っている。
数秒後、デスクから離れた青年は〝正式者〟のブースに向かうスロープに差し掛かったところで、もう一度エクトルの方を見遣った。
僅か一瞬の間だったが、彼の双眸にか弱い者への憐憫に似た揺らめきが灯る。同時に、〝正式者〟として隠せない優越感が滲み出ていた。
(勘弁してほしい。わかりやすい上からのセンチメンタリズムなんて御免だ。ボクはあんたらの世界すらも飛ばして“自由の枠”にいくんだ)
同じ職分でありつつ、どうにもできない差別とやらに縛られた身では落ち着いて事に専念できない。こんな下らない線引きをしている場所など願い下げた。人生経験の勉強代を払っているんだと思って開き直ろうとした。
だが果たして独立を確保できるだけの道に至れるのだろうか。現にこうして初歩的な単純業務でさえ短時間にやり遂げることができなかったのに。学校の勉強にしたって特定の科目を、除き成績の向上が見込めていない。
どこもかしこも自信の落ちる方向にしか転がらない。
(せめてハクビシン先輩と「お疲れ様」の挨拶をして今日を締めくくりたかった……)
個人の荷物がある控室に入ると、押し込むように〝宿題〟をショルダーバッグに入れた。
逃げるようにして、そそくさと職場を後にした。