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星空(うちゅう)から来た〝先生〟  作者: 鞠宮 果泉(まりみや かせん)
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第十二話 出立前の日々

 帰宅した日の深夜、晩飯と入浴を済ませたエクトルは独り、与えられた自室で黙々と作業に取り掛かっていた。

 週明けに必要となる図面をこしらえているのだ。デスクのスタンド一台のみが照らす淡い明かりの中、定規を当てて線を引いては繋ぎ合わせたり、修正したりを繰り返していた。

 大家さんもベヌン氏ももう寝たのだろうか。決して大きくはない一軒屋では、自分の手元から意外は音らしい音が聞こえてこなかった。何気なくドア向こうに耳を澄ますも、静寂があるばかりである。囁くような夜行性の鳥の鳴き声が響くほどに屋内の人気(ひとけ)は感じられなかった。

 あれほど毛嫌いしていた工房の風景まで、周りを取り巻く全てを受け入れたいような安らぎが心根を満たしている。はっきりした根拠はない。 

 夜の帳がもたらす静穏な空気がそうさせるのだろうか。

 確かに彼の言葉は立派だと心を揺さぶられつつ、照れ隠しのような気持ちから肝心の終局面であげつらってみせた。

 しかし、現在の寝静まる時間では、不思議と素直な感覚に彩られていくようだった。

 いや、漸く本心が勝ったのだ。自分自身を、自分自身であると認めたかったのだ。本当は、他者に肯定してもらえること、背中を押してもらえることを待っていたのだから 。

 自分は、批判されることを恐れていたのではない。批判されることを咎められることが怖かったのだ。

 だが紳士は、指摘に立ち向かい続ける姿勢こそが生きることなのだとエクトルの不器用さを受け止めた。認められたのだ。

 ならば、今度こそ確実に、うしろめたく恥じる必要は無い。

 批判されることは、苦い薬として、己の糧へと為せることがわかったのだから、もう恐れる必要はない。

 罵詈であれ雑言であれ誹謗であれ中傷であれ、みな、勝手自在に自分の力へと活かせる方向へ曲解して呑み下せば良い。

 だからもう、連中の刃などにいちいち気を荒立てることはないのだ

エクトルの心奥は、見習い先の町に来て以来、初めて優しいもので包まれていた。


(そうだ。頂点にある最高には到達できなくてもいい。けれど、やっと、やっとだけど……今更の遅過ぎる気づきだけど。僕が目指すべき真っ当な“満足の境地”が見えてきたよ)


 一番星のように至高の地位を占めているかに思えたベヌン氏は、背負った業の苦しさに闘い傷ついていたのだ。自分には羨ましいはずだったのに、いざ同じ目線に立てたとして、命運が投げ掛ける難題を遂行していく自信がまるでない。

 もし、最悪自分自身が同等の贅と引き換えに世界規模の使命を約束された出生にあったとしたら。想像するとゾッと寒気がする。幾度にも噛み締めることで、己の生きる道にある有り難さを理解し得る気がした。


(“着実に研鑽を続ける”。その行為そのものに値打ちが満ちているんだ。その中から、僕自身だけの“最高の領域”が得られるんだ……!!)


 そうと決意すれば、滑らかに手は踊り続ける。

 停滞していた望む心が、捗り始めている。

 室内は暗くても、気分は突き抜けるように清々しく晴れやかだった。まるで、初めて異星の紳士と出会った日の満天の夜空のように。



 三連休が終わり、厳密に言うところの三週目を迎えた。 

 ベヌン氏の出立の日が迫っている。次の日曜日までは滞在することに決めたそうだから猶予は生まれたが、七日間というのは思いの他短いものだ。無難にゆるゆると過ぎて行った。

 無為には消費されたわけではない。あの日以来、エクトルの意識は積極的に外側へ動いている。

 例えばある平日には、ベヌンに頼み込み、養育院の子ども達に語るために披露されていた旅の記録映像をじっくり個別に観賞させてもらった。養育院の時よりも取れる時間に余裕がある関係か、一つの映像に対し丁寧に掘り下げた解説を堪能することができた。

 独占、などと傲慢な発想に及ぶわけではないが、特別な人とまた二人きりの談議を楽しめたと一種の優越感に包まれる。

 聞き終えた後にエクトルは、新たな目標が確定したことを紳士に告げた。将来は、星間空港のある大都市圏に上京し、旅費を溜めてベヌン氏が巡った銀河系や惑星を全て踏破すると。

 紳士は快い笑みで絶賛した。


「それはまた一つ私にとって楽しみが出来た。応援しよう。ぜひ、君ならではの旅の記録集を作り上げてくれたまえ。そして、もし完成したら、私にも送ってほしい」

「もちろんです!」


 瞳を煌めかせて、力強く頷いた。初日に、アドレス交換は成し遂げている。


「しかし……」と紳士は優美な声音で言い添えた。


「私の歩んだ道筋を辿るのも良いが、君ならではの発見も加えてくれたまえ。視点によって、事物の有り方は十人十色に変化する。私はそれを多く知りたいのだ。それと、星間の旅を目標の内に据えるなら、いつかこの町に、再び星間空港を蘇らせる活動をするというのはどうだろうか? ……私はまた、異なる星との交流を取り戻したこの町を見てみたい」


 エクトルに期待される人生の課題が、格段に大きくなった気がしたが不思議とプレッシャーを覚えることはない。むしろ、ベヌン氏の望みならと俄然、意欲が燃え上がる。将来の設計図に加えられる部品を増やせた意味でも、有り難いではないか。


「約束できるとは言いません。けれど、無理難題とは思わない。自身の最高の領域を()()()ためにも、挑むことを投げ出すつもりはありませんよ」

 


 土曜休日、出立の二日前を迎えた。

 この日はベヌン氏からの提案で、町にある大衆浴場に行くことになった。最後の短い時間に、せっかくだから紹介がてら寄らせてほしいと懇願されたのだ。

 そう言えば彼は、風呂屋の文化にも関心を持っていたのに、肝心の観光案内に組みこめていなかったと気付く。いや、仮に思い出していたとしても自ら計画することはないだろう。

ベヌン氏と浴場に入る。文にすれば単純極まりないその行動が、エクトルにとって、どれほど複雑で盛大な意味内容を孕むのか。


(い、一緒に入浴するってこと!?)


 まるで、初な新婚者のような心境になって驚愕した。初日に生まれたままの上半身を目撃しただけでも重度の緊張に苛まれたのに、自分まで生まれたままの姿で彼と時間を共にするなんて。どんな顔をして過ごせばいいのかわからない。

エクトルは気取られないように、わざとらしい口調でもって、内心確認のためと称し問い直す。


「いいでしょう。それではどんな建物か軽く見学して帰りましょうか。大家さんも気が早い人ですし」

「そんな、勿体ないじゃないか。湯屋に足を運ぶということは、決まっているだろう? 風呂に浸かるんだ。一緒にね」


 にっこりと無邪気な微笑みを浮かべて呟く。平常なら最高の至福に感じる表情が、何ら他意のない物言いと相まってエクトルは眩暈を催した。


「風呂は、身体に蓄積した凝りを解きほぐし、心の澱を溶かす……。身も心もリセットさせてくれる、最良の療養法だと思わないか」


 言っている理屈は全て筋が通っていて真っ当至極だが、少年にとっては入浴の効能に関する問題ではない。この無頓着な善意が数々の困惑を誘うのだ。

警戒心の強いエクトルは、裸になった状態で顔の知った人物と入浴することに苦手意識がある。同性でも変わらないし、特段の容姿を持つ相手なら尚更だろう。


(それは誰の視線もシャットアウトして、独りになった時に訪れるリラックスなんですけどねえ……絶対に埋まらない感覚差だなあ)


紳士は、少年の打ち明けられぬ苦悩を余所に、入浴の利点を尚も悠々と説く。 


「気分転換にも最適だと思うのだがね。大家の御婦人にも聞いてみたら、絶賛するほど良いプランだと言ってくれたよ」


厄介な伏兵が先回りしていたらしい。エクトルは顔中が火照るのを感じつつ、思わず頭を抱え込む仕種をする。

大家さんが乗り気になるのは当然だろうと思う。実の旦那と倦怠期の時に、余所から来たプロポーション抜群のダンディな美男子が口にすることだ。ベヌン氏にとっては何と言うことのない日常行動でも、ある人物にとっては刺激剤と化してしまう。婦女子らしい妙な妄想に掻きたてられているに違いない。


「何か、また気に障ることを言ってしまったかな?」


 紳士は真剣に不安げな面持ちで、気遣わしげに尋ねてきた。整い過ぎた美貌がこちらを覗き込むように迫って来る。


「いえいえいえいえいえ滅相もございませ~~~~ん!!」


挙動不審な有様で大急ぎに否定した。

素っ頓狂な返答具合に、ベヌンはやや唖然とした後、沈着とした面持ちでホッと胸を撫で下ろす仕種をした。


「良かった。友となった印に、ぜひとも湯船を共にしたいと思っていたんだ。入浴文化のある地域では、できるだけ公衆の場で知り合った人々と交友を深めるようにしている。温泉(スパ)を有する宿泊施設でもね。解放的な広いところで、疲れを洗い流そうじゃないか」


 正真正銘の満面の笑みで断言されてしまった。

 気さくな調子に、却って緊張感が抜け切れなくなる。

 美形の放つ清涼な微笑で、ますます恐縮に駆られる思いがした。

相変わらず動揺には感づいていないらしい。エクトルはさりげない手つきで、額を押さえるポーズを取った。


(これだからカッコイイ天然な貴公子は困るなあ……。ボーリング場に行くような感覚で言うんだから)


 断固として確信した。公明正大な紳士でも弱点は確実に存在する。それは、先日彼が自分に打ち明けた、人生の葛藤に対する克服に難儀するという普遍の点ではない。

どうも、凡人に備わる種類の繊細微妙な感性については鈍感だということだ。 無論、見事な気配り上手であることは実証済みである。故に、機敏に感じ取ることには長けているはずなのに、肝要な部分が綺麗に抜け落ちているとはこれ如何に。


「そうですとも、もう二度とは訪れぬかもうしれぬ絶好の機会! 貴方たっての頼みであり、折角の記念です。潔く入りましょう!」


 もうやけくそになって宣言するように同意した。

裸眼になれば全てがぼやけてしまうほどの視力の悪さを持っていたことが救いだ。

輪郭の生々しさは半減するだろう。


「変な言い方をするね……。まあいいさ。準備を万端にして向かおう」


どこか不自然な風の勢いに気押されたのか紳士は、心底不明というように苦笑しながら小首を傾げつつ、意気揚々と少年を促した。 



夕方六時半が出発時刻だった。食事を済ませてから目的地に向かうことになっていたので、一時間前が晩飯となった。九時まで営業しているから余裕がある上に、紳士も何時でも構わないと言ってくれたがエクトルが、未成年であることで大家さんがうるさい。彼女も紳士の予定に配慮して早く支度をしてくれたのだ。 

紳士の服装は、素朴な空間に行くにも関わらず、抜かりなく洒落ていた。フリルを適度にあしらったリネン地のようなシャツに紫水晶(アメジスト)のネックレスを添え、黒いスラックスを通している。髪は清潔感を際立たせてか、まとまり良く右の首元に流し集めて大きな琥珀石のヘアピンで留めていた。出で立ちを整えることが、息を吸うのと同様の感覚で習慣に刻まれているのだろう。耳朶には涙目型(ティアドロップ)の乳白色を帯びた翡翠のピアスが光っていた。

 麗人が耳にアクセサリーを付けると、得も知れぬ香しい艶が漂うものだ。今日に至るまでの間、当然のようにファッションの一部として耳飾りを装着することは度々あったが、今夜の件を思うと特別妖しげな風情を醸すようである。


 図書館を横切って、やや東の方へ進むと、町でたった一軒の公衆浴場がある。

 公衆浴場は、その名の通り庶民向けの施設でありながら、割と立派に作られている。宗教施設の聖堂ほどの巨大なドーム状の屋根を戴き、左右にこじんまりと両翼を広げている。左右の建物が、男女各脱衣室となり、中央のドーム屋根の部分が浴室だ。ドームの中央で区切られた構造となっている。

 図書館同様、潤沢だった時代の建築物を引き継ぎ、改装を加えて利用されているものなので、侘しい町並みから浮くほど豪勢な外観だ。

実は、当惑星国家に点在する地方小都市の中では、一番規模が大きいとされているらしい。

 内装も悪くない。紳士と二人、赤褐色の柔らかい絨毯張りの廊下を踏みながら、白いレプリカの大理石で作られた無人受付のカウンターに進む。設置された指紋認証システムのパネルで入場許可を得、男性用更衣室へ向かう。魚が泳ぎ回る海底の風景が描かれたカーテンが入口だ。静止画ではなく、電子を利用した布で作られた動画機能を備えたカーテンで、めくってくぐり抜ける合間にも、魚達は躍動し、両端からまた新たな海の生物が入り込む。田舎の風呂屋で、高くつくようなインテリアの設えは珍しい。

 更衣室の備品も整っている。面積が充実しているため、木製のロッカーは、隣との間隔がゆったりとしており、混雑時の気遣いの心配がない。床には廊下と同じ、足裏が心地良い絨毯が敷かれている。恐らく風呂屋を大切に支えたいという有志の人々が懸命に尽力しているのだろう。

 そこまで思った時、自身の脳の働きの意外さに気づいて驚いた。この町に来てからというもの、鬱憤晴らしの感情が湧くことがあっても、敬意を念ずるような感慨などとんと湧いたことがなかったのだ。紳士と過ごして来たことが、やはり自分を新しい方向へ突き動かしている気がしてならない。

 老人を中心としてそこそこ人がいるという感じだった。年寄りは風呂好きと言われるが、時間帯に関係なく主に老人や定年退職を迎えた世代で賑わうのだ。週末ということもあってか、子どもや孫と思しき小さな姿を連れた人も見受けられる。

 二人並んで、奥より手前のちょうど良い位置を確保し、荷物を置く。

 エクトルはできるだけ挙動不審にならないように、視線をひたすら下に向けながら急ぎ脱衣を開始した。

 隣から、優雅な衣擦れの音が囁くように聞こえるが、まともに集中しないよう意識的に遮断する。

 自らの下着に手を掛けたところで、指先が強張り震え、緊張が臨界点に達するが、覚悟して目を瞑りながら脱ぎ下ろす。隣人はわざわざ気を払っていないだろう、これは少年個人の心持の問題である。脱衣籠に突っ込んだ直後、素早くタオルを巻いた。

 ふと、紳士の様子を確認しようとして視線を隣へ這わせる。もし、まだデリケートな状態なら申し訳ないなと思いつつ、慎重に瞳を上げていった。ほんの僅かな一瞬、視界の片隅に黒い紐状の影が羽虫が飛翔する速度で掠めたような気がして、ふとあるアルファベット文字の形に似た衣類を連想するが、しっかり横に目線を宛がった時には、既に腰元以外を晒してバスタオルに包まれていた。

 堂々たる立ち姿勢を前にすると、入浴のために肌を剥き出しにしているというよりは、シンプルに簡易な布を巻いただけの姿を平服とした古代文明人を思わせる。

 布に覆われていても、凝縮されて引き締まった形状の良さは、露出した背中に刻まれた深い筋から推察可能だ。

 彼の目線は、ロッカーの開き戸に貼り備えられた鏡の方を向いていた。優美に筋肉の隆盛する二の腕を掲げ、一旦解いた髪を後ろでまとめていた。器用な指つきで、長い幾房を頭頂部で団子状に仕上げる。一切の乱れや縮れに濁らず、澄んだ光沢の曲線を孕む鹿子色が美しい。

 暫し状態を点検するように、切れ長い瞳を真っ直ぐ微動だにしなかったが、ややあってエクトルの方を穏やかに見下ろす。


「待たせたね、じゃあ、いよいよ入ろうか」


 曇りがかったガラスの引き戸を開くと、ふわっとした湯の湿気を透かして、吹き抜けの浴場が広がっていた。ドーム屋根の半円部の裏面に当たる天井には、渡り鳥の群れの絵が描かれている。

 美術知識のないエクトルには、いつ、何の画材が使われたのかは分からないが、湿気の影響からか惨くも数羽の色が剥げかかっていた。

 入り口から、二、三歩ほど進んだ手前付近には個別に仕切られた洗い場、奥には広い円形の浴槽が配置されている。

 扉を開けた段階から、先頭を切るのは雄美なる偉丈夫だ。エクトルは、裸身であることが気後れに拍車を掛けて、無意識に一歩下がったペースで跡に続いている。

 自然、高貴な雄々しい肉体に象られたベヌンは好奇入り混じった衆目の的となるが、対する本人はどこ吹く風という涼しい面持ちで湯屋の環境を満喫しているようだった。ドーム状に吹き抜ける天蓋の絵装飾や、近隣の地域特産の岩石が使われた浴槽を丹念に観察するように眺めつつ、タイル張りの床を大股に闊歩していく。完璧な歩行姿勢で、進む都度に胸板が綺麗に反った線を描く。


(特別にトレーニングでもしてなきゃ、こんな美術品みたいな体型できあがらないからなあ……。そりゃあ、注目集めるよね)


 隆々たる肩を両脇に備えた上半身でありながら、豊かな睫毛のあるやや繊細な美貌と相まって、髪を上げて露になった項の艶が女性らしさをも演出する。いたく男性的な肉体部分と相反するようでいて、不思議と麗しい調和を呈していたが、中性的な要素は観衆にやや複雑な感情も寄与したようだ。

 一部に色めき立つ気配が窺える。しかし、どのような周囲の反応にも紳士は目を遣ることはない。

 エクトルは合点がいった。滞在初日の夜、別に相手が子どもだったから平然としていたわけではない。生来、裸身を呈することに抵抗感の薄い人なのだろう。それは湯浴みの世話をする従者の存在を当然として育ったためだけではないと思われた。

 少年にとっては、気恥ずかしさもありつつ、偉大な王に仕える側近のようなどこか誇らしげな快感がある。

 実際に彼の大臣や執事、家政婦を務める人達はさぞ落ち着かない心地だろう。自分なら絶対にいくつ目があっても足りないから務まりっこない職分だ。


ブースで仕切られた洗い場に辿りついた際、紳士はその構造に対し残念そうな感想を呟いた。


「おや?洗い場が仕切られているのかい?君との会話が遠くなるな」

「と、隣の人にお湯がかからないようにするための工夫ですよ」


 実際そのような用途で設けられたものだったが、口には見せ合いになる場面が減って助かったというニュアンスを含んでいる。洗っている間、裸の皮膚を直接目にせずに済むのだ。止むを得ずタオルを捲る瞬間もあろうに、もし仕切り場がなければ正常でいられたか定かではない。

紳士が右側へ、エクトルが左側に位置を決めた。

エクトルはとりあえず、備え付けのボディーソープを濡らしたハンドタオルに一滴落し、よく擦り合わせて泡立てると身体に塗っていった。

隣のブースからは涼やかな雨滴に似た音が響いて来る。

何気なく見遣れば、各ブースの真上に嵌めこまれたオーバーヘッドシャワーにて身体を洗う紳士の姿があった。

ブースの仕切り壁より遥かに高い長軀に備わる筋肉質の肌を、斑状に流れ這う液体の軌跡が瑞瑞しく彩る。温もりを溜めた肉体は仄かな桜色に染まっていた。


(うおおお……いよいよ僕は真近で見てしまったのか……)


風呂上りの上半身に遭遇した初日以降より約二週後になるが、現在進行で入浴している状態に接するのは出立二日前の今が初めてとなる。

留めなく放出される湯水の雨によるカーテン。淡いベールを纏い、浮上する肌色の影。迫力は段違いだ。

せっけんの香りが鼻孔をつき、目の前の光景と絡みどこか甘く蕩けたような心地となる。

ベヌンは結い上げていた髪を一度颯爽とした手つきで解いた。髪は水気に浸す都度、額から掌にて滑らかに掻き上げていく。

後方に濡れ髪が押し流される動作によって額の肌色も露になるチラリズムも加わり、図らずもまた官能の気配を覚える。気不味さで顔が熱くなり、即座に俯いて貧弱な己の膝小僧を凝視した。つい、相手に吸い寄せされて自分の体を洗い出すのが遅くなってしまう。

洗い終えると紳士は、上質な品の包装を行うように髪をタオルに押し包んだ。

毛先が布に浚われる最中、隙間より滴る湯粒が水晶のように鮮やかだった。滑らかに動く背筋上の皮膚や、首筋から肩を伝い落ちる様子が、さりげない色香を匂い立たせる。


やがて、両者共に洗い場の作業が済むと、二人共々並んで湯船に腰を下ろした。

周囲には何人か既に居座っていたが、浴槽は空間の半分以上を占め、悠々と幅が取れる。

恐縮感が拭い切れないエクトルは、変に行儀を意識して窮屈な三角座りを作った。得意な動作ではないため出来た形はぎこちなく、運動不足で凝り固まった背骨が微かに痛い。

一方ベヌンは、長い両脚をゆったりと前へ伸ばしつつ、優雅に組み合わせている。腰に巻いたタオルの裾から、微弱な動きによって肌蹴る太ももの筋肉質な張りが眩しい。

以前、下宿の風呂場から引き上げて来た彼の上半身を目の当たりにした時も、胸板を始め、細身に締まりつつあらゆる部位が克明に立体感を主張していた。

雄々しい厚さを誇っていることは手に取るようにわかったが、いざ裸になる空間に共に入り、至近距離で小柄な自分が居並ぶと、まるで頑丈な二枚の岩壁が立ちはだかっているような感覚になる。胴周りから水中より上にある紳士に対し、自分は胸上から突き出た高さだ。身体を縮めても格段の差は埋まることなく、ひたすら見上げる側となる。

勇壮な身の丈も無論だが、整い過ぎた顔と裸形の肉体美の取り合わせが気恥かしさを伴って矮小な己が身を圧倒する。

だが同時に純粋な心による観点で捉えれば、壮麗であることが感動的でもあった。大いに頼もしく、絶対的な安心感も与える。


少し臭いような例えをするなら、偉大な父性の象徴とも表現できるかもしれない。

ずっと側にいてくれるなら、以後どれだけ心強いだろうか。

励ます時も、叱る時も、感情的な苦しさや刹那的な快楽ではなく、有意義な構築へ導くような確かな実りを伴わせる……。

不思議なのは、そのような考えを思い巡らせた時、ベヌンと接していて一度も過ったことのない面影がふと重なったことだ。


「ベヌンさん、貴方は滞在中、常に与えてくださってばかりでしたね。それなのに、貴方は何度も丁寧にお礼を言ってくださる」


しおらしい面持ちで、ふとエクトルは切り出す。豊潤な叱咤激励を頂きながら、まともな感謝を伝えられていないことに気づいたのだ。

改まって、じっくり謝意を示すなら、のんびりと温かい空間に浸かりながら時間を過ごせる、今しかないだろう。


「おや? 何故、君が申し訳なさそうにするんだい? 私から君への礼は、紛れもない本心だよ」


尋ねつつ小首を傾げた際、軽く髪を耳の裏に引っ掛ける仕種をする。僅かな反動か、大海に面した絶壁の如くそそり立つ胸板に湯飛沫が小さく弾け散った。

エクトルは、苦笑しながら呟いた。


「いやあ、多分……故郷の父を思い出していたんでしょうね。なんとなく。ベヌンさんを見て……」


輝かんばかりに威厳を放っている彼と異なり、見るからに物静かで大人しく、線も細かった。

外見だけなら重なる点は少ない。

それでも、親身に思い遣りから助言をくれるという有り方では、間違いなく共通する。異相なれど、信頼できる大切な存在であることに変わりはない。


「私が、君のお父様に?」


 当然ながら不思議そうに訊き返された。


「真に光栄なお話だが、お父様に対して恥ずかしくない行いができている自信はないな」


やや気恥かしそうに頭上の髪を梳く紳士に、エクトルは慌てて目の前で両手を振りかざしながら言い繕う。


「僕の父にあなたが遠慮する必要なんてありませんよ! 恐れ多いのはこちらの方です。何というか、相対した時の僕自身の立場が似通っているように思えて……。

 振り返れば、親に与えられて、慰めてもらってばかりいる毎日でした。今も、帰れば会えるとわかっているから、愚痴ばっかり吐いていても、仕事場に通い続けるしぶとさは残っているんでしょう」


「……それを言うなら、私だって同じさ」


 薔薇色の唇に自嘲気味の苦笑を滲ませながら目元を伏せ、紳士は静かに応じる。


「幼き時分は誰でも、一番身近にいる人生の先行者に、甘えも求め、安易な救いをねだってしまう……。父上には、どれほど迷惑をかけたか、数えれば切りがないな。遊学の件も、その一つだ」


 白い喉を逸らして浴槽の縁にもたれながら、やや深い嘆息を鼻孔から吐く。

 どことなく、懊悩に似た色合いが麗しい横顔に見え隠れした気がして、エクトルはふと問いを発した。


「そう言えば、ベヌンさんのお父さんってどんな人なんですか?」


 何気ない話題を振ったつもりに過ぎない。だが場合によっては、触れられたくない琴線に関わるのではないかと、窺うように反応を待つ。


「父か……。ふむ、そうだね……」


 考え込むように、短く呟いてから数秒間を置いた後、発声のために息を吸って再び口を開く。


「父上は、端的に言えば几帳面で執務に忠実な(ひと)だ。誇り高く、常に一族を重要な主軸に据えて責任感を抱いている。究極に統率の長らしい……。彼との間にある溝を埋めていくには 、まだまだ遊学期間が必要だと実感させられる日々さ。追い付き難い、理知の彼方に父はいる」


 言葉を紡ぐと同時、両の蒼瞳に薄らと翳りが覗きはしたが、声音は至って平穏だった。

 だが自分の物差しでは測り知れない、背景事情が横たわっていると思わせる。会話の相手であるエクトルではなく、ベヌン自身の心に語り掛けているような口調に、切実さが表れているようだった。

 それ以上、彼が話を広げる気配はない。しかし、ある意味で非常な収穫となった。不遜な思考かもしれないが、超越の位置に君臨して見えた彼にも、乗り越えること、引いては同じ目線に立つことすら容易ではない上位の存在がいたことは意外であり、少年の抑圧感を和らげた。偉人になど未だなれていないという、身につまされるような呟きの理由には、この事情が一つあるのかもしれない。

 故郷での苦悩を抱えているのに、出会い先の後輩の苦悩解消に真摯に取り組んでくれたベヌン氏。その時点でエクトルにとっては、もう十二分に徳の高い偉人で間違いなかった。人間臭く、もがき足掻いている面をあるなら、尚更に尊い。寄り添うような理解に近づき易くなるではないか。

不意に可笑しさが込み上げて、エクトルは噴き出した。


「お節介なんですよ、ベヌンさんは。貴方ほど親切な公子様と会ってしまったら、次は誰を参考に頼れば良いんです?」


 また唐突に、わざと嫌味めかした冗談を投げ放つ。今度は鬱陶しがる態度ではなく、気恥ずかしげながらも親しむ態度で言葉を備えた。

 受け取るベヌンの目も、少年の真心を理解したことを物語っていた。


「……放っておけなかったのさ。何となく。後輩となる相手を、時期相応の悩みにも触れずに看過するのは後味が悪いと思ってね。相手に寄り添ってこそ、交流であり、旅の醍醐味だ。自身の欲求に基づく目的のみに没頭するなど、かの戦場記者殿への侮辱にもなるからね」


人差し指で、そっと自身の頬を撫でなから微笑を含んで囁いた。


天蓋まで濛々と吹きあがった湯気が、羽ばたく鳥達を雲海のようにゆるやかに包みこんでいく。  


笑い合う大人と少年の声が、高い空間の中でのびのびと気持ち良さげに響いていた。




翌日は日曜だが勤務日だった。何やら次の博物館の展示に向けて、工房員が駆り出されることとなったのだ。外部の非正式要員まで掻き集めたくなる事態とは、よほど大規模なものを企てているのだろう。さぞ、家電の歴史を上回る煩雑な準備になるに違いない。自分達は準備のため、休日も交替のシフト制でしばらく入るのだ。


〝悪いね、君も巻き込むことになる。またあの色チキお(つぼね)をよろしく〟とイローニより事前のお詫びメールが来ていた。始業前、ローブを纏うため休憩室に入った直後に着信する。

 だが、さほどの狼狽はもたげなかった。むしろ、前面から受け止めんと涼やかな調子で返事が溢れ出た。


〝構わないさ。先が思い遣られて胃が痛いのに変わりはないけど。でも、特等席で心の持ち様のコツを学んだからね。以前よりはどうにかなる気がするんだ。〟


 即刻受信ボックスに到来した「何気取った悟りなんぞ身に付けてやがんの」という皮肉満タンな突っ込みは無視して、鞄に通信機を突っ込むや少年は軽快な足取りで休憩室を飛び出していた。仕事開始の一歩がこんなに清々しかったことはない。

 ベヌンからの言葉を真摯に受け止めるようになってからのエクトルは、工房でも心身共にどこか違っていた。癖のある苦手な上司らに嫌悪感をちらつかせるような幼稚な態度を取らなくなったのだ。未だ愛想には乏しいものの、突っかかるような口調は引っ込み、一歩下がった丁寧な物腰で接するようになったのだ。

 遠巻きに、彼も賢明になったと温かい気持ちで感心している先輩の眼差しもある。

 これに気づいたのは、通りすがりにふと、甘く優しい囁きが掛けられたからだ。


「エクトル君、笑顔が良くなったよ♪ 大人びた表情ができるようになったね」

 

 耳朶が快くくすぐられ、照れから来るこそばゆさと熱いエネルギーが体内に湧き上がる。

 嫌な連中からの反応は乏しいものだったが、元よりエクトルも期待していない、むしろ欲していないので毛ほども気にならなかった。

 また、業務時間終了後になって思い至ったのだが、あれほど憧憬に仰いでいた正式者のブースを今日は一度も顧みなかったのだ。

 素敵なひとから教わった方法で目指せばいい。

 何より、尊敬している女性の先輩が成長への賛辞をくれたのだ。

 胸の奥からジンワリとささやかにこみあげるもの――それが、彼が仕事を行う場で味わった初めての充足感であった。

 ただし、先輩に関する事柄においてなら喜ばしい話ばかりが続いたというわけではない。

 工房の業務連絡を通じて悲しい知らせがもたらされた。

 彼女の容態は、処方された薬を受け取るだけでは難しくなってきたらしい。来週より入院が決まったとのことだった。

 工房のあるこの田舎とは、また違った色合いの田舎に引っ越すらしい。長期療養のため、自宅よりも自然の多い長閑な地域が望ましいようだ。

 エクトルの反応は以前なら、当惑と悲嘆に胸中を塗り潰されるばかりであったろう。しかし今は、胸の片隅に寂しさを覚えつつも冷静に行動を起こしている自分がいた。


「あの、よければ成功祈願のために、受け取っていただきたいものがあるんです」


 休憩に入り、部屋で二人きりになった時だった。

 エクトルはローブの内側から、あるものを一つ取り出す。右の瞳形に、漆黒に金色の縁取りがなされたブローチ。魔眼を象った代物だ。

 実はこれは、先日ベヌン氏から自分宛に手渡された品なのだ。風呂の帰宅後、かげかえのない旅で出会った記念にと差し出された。


〝え、いいんですか? そんな大切なもの……〟


 自らのコートから躊躇なく取り外す紳士に戸惑いながら声を掛けると、彼はいつもの深みある優しい口調で語り聞かせた。


〝旅の守護の意味が籠められている。人生は旅になぞらえられるものだが、故に君が進もうとする道もれっきとした旅と言えるだろう。よければ、これを心の支えの一つとして持っていてくれたまえ〟


 手術成功のための困難な道のりも、また一種の旅路だ。紳士の理論を尊重してそう考えたエクトルは、恩師たる先輩へと差し出す。大切な人への旅路を祈っての行為なら、紳士もきっと喜んでくれるだろう。


「わあ、エキゾチックなデザイン。素敵だね」


 綺麗な指使いで両手から受け取った先輩は、好奇心を瞳に躍らせて顔を綻ばせる。


「僕を支えてくれているのは貴女です。だから、どんなにささやかな形でも、気づいた時にすぐ、僕からも貴女を支えられるようになりたいんです」


 照れ臭いのを堪えて、最後まで言い切った。時折、つっかえてどもりながらであるが。彼女は、少年の不器用な振舞いにも黙って温かい笑みを送る。

 聖母のようだとエクトルは小さく感激を覚える。

 さらに贅沢を言えば、口に添えたかった台詞があとワンフレーズ残っている。しかし、忍びなく感じられ、心の内に押し留めた。今度は、照れ臭さや恥じらいとは意味が違った。

 力強く、胸底から念じ掛ける。


(だからどうか、できるだけ早く良くなって。できるだけ長く、傍にいて)



 帰宅後、紳士の部屋を訪れると、彼は荷作りをしていた。クローゼットに吊るしていた私服を綺麗な手つきで畳みながら、あの不思議なトランクの中へ収納している。トランクはさほど大きくはないのに、丈が長くそれなりの数のある衣服はブラックホールにでも収納されるように片づけられていった。

 入口に立っているエクトルに気づいた紳士は、切れの長い瞳を滑らせて視線を寄越す。


「やあ、お帰り。エクトル。いよいよ引き払う頃になるとはね。分かっていても、名残惜しいことだ」


 口にする内容は寂しげだが、顔つきは冷静沈着として、涼やかな微笑を口元に添えている。

 繰り返して来たことだからだろう。彼の能力があれば、また、素敵な出会いを見つけるに違いない。

 未練を漏らさぬ落ち着いた佇まいに、エクトルは純然とした格好良さと貫録を覚えた。

 ベヌンは、旅行用のコートの下に着けていた物を身に纏っていた。軍服のような、しっかりとした堅いデザインの漆黒に染まる上下。銀色のボタンが小さな刃のように、鋭い光沢を見せて煌めく。日常を送る時の装いは、比較的明るめの色を選びつつ、砕けた印象のものが多かった気がするが、旅路に赴く際となると百八十度雰囲気が変わる。決して、安全が約束された場所に毎度行けるとは限らない重い行動であることとが、危機意識を高め、装いを改めさせるのだろうか。

 花弁のように優美な耳朶には、昨日とは異なる装飾品が施されていた。

 プラチナのリングを通し、大ぶりの六茫星(ペンタグラム)が揺れている。

 全体が月長石(ムーンストーン)で出来ていて、六茫星を形成する線の部分には紺碧を帯びた天河石(アマゾナイト)が使用されている。

 星の中央には、球形の青金石(ラピスラズリ)が納まっていた。綺麗に丸く削られて、滑らかな艶やかさを纏う。シンプルなデザインの翡翠のピアスより、華美で重厚な印象があった。

 また特別な意味を持つ品なのかと踏んで問い掛けると、快い笑みで肯定した。


「御守りを兼ねたツールの一種さ。また長期運航に入るから、万が一船を失くす事故を想定して、通信機能を備えたこれを装着したんだ」

 

 答えながら、指先で軽やかに宝石を弾く。


 エクトルは、右目型のブローチを職場の女性に譲ったことをまだ伝えられていない。

 渡した際には、元の贈り主の人柄を思慮し、堂々と自らを納得付けられたのだが、いざ本人と向かい合うと若干後ろめたさが募る。

 それを誤魔化すためという訳ではなかったが、罪悪感に似た感情を宥める目的も兼ね計画していた次の行動に移る。


「あの、ベヌンさん。これ」

 

 もぞもぞと腰の後ろに組んでいた手の片方を、握った形で前へやった。


「お別れの前ということで (せん)別の品にと、どうしてもお渡ししたいなと思って」

「ほお。どれ、見せてごらん」


 ベヌンは大きな手を差し出し、開かれた少年の掌にある物を受け取る。


「おお。これは……」


 微かな感嘆に似た声を洩らして、ベヌンはそれを眺め入る。

 それは、贈呈の品は、一本のペンだった。金曜日に文化図書館から帰宅した後の夜、一晩で作成した製図を元に組み立てた手製の万年筆だ。

 本体を宇宙を想起させる宵の青(ミッドナイトブルー)で彩色し、金属箔の糸を散りばめている。

 ベヌンとの出会いを連れて来た流星群と夜空をイメージしたのだ。

 キャップ部分の両サイドには、翼型の羽飾りが取り付けられている。極薄のクリスタルを使用して作られた翼だ。上に頼み込んで、余所の町にある希少な硝子専門細工を扱う工房に外注して取り寄せたものである。超軽量で、筆の操作時に負担を感じさせない。


「インクは黒です。遊学のために、少しでもお役に立てればと思いましたね」

「なるほど。それは心強い。感謝するよ、エクトル」


 眦を下げ、嬉しげに礼を言った。

 しばらくの間、紳士は、角度を変えて、贈呈品を観察することに没入する様子を見せた。ペンのグリップになる箇所や、先端を、指で押さえたり握ったりして、丹念に感触を確かめているようである。

 また、一度顔の前まで掲げ持ち、目を細めて本体の模様を注視していた。

 まさか、動かすことに応じて、見える模様が変化する仕掛けでも望まれているのだろうか――腕前を指摘されることがふと気になり、不安による軽い恐怖感が芽生える。

 今し方、動作の上では普通に手渡した。前置きに「つまらないものですが」等と、謙遜するような文句も添えていない。自らの卑屈さを出来るだけ克服しようという意味もあったが、内心は地盤が崩れそうなほどの震える緊張感でいっぱいだった。本当のことを言えば、肝心の出来は綱渡りにも似た脆さであり、相手の高貴さを思うと差し出すのは忍びない代物だ。旅行の記録のための道具なのに、耐久性が乏しければ意味がない。

 いや、ならばせめてガラクタ扱いでも良いから、傍に置いてほしいと藁にでも縋るような心地で贈ることを決意したのである。

餞別の謝意を示したいという想いと躊躇心が複雑に鬩ぎ合った結果だった。

 修行中真っ只中のド素人なのだから、当然と言えば当然の完成度だ。紳士の人物性を思えば、不出来な品を前にしても、文句を言わず、到って好意的な感想をくれるだろう。

 だが、エクトルの心持はそれで満足しない。相手の親切さに甘え委ねようとする依存心も克服したいと考えているのだ。

 また、良い生まれで教養深く、一級の審美眼を備え持つであろう相手が、気休めの評価を下すべきではない。

 約一分は経過したと思われた頃合い。不意に動作を停めた紳士が、破顔して囁きかけた。


「上出来だ。私に旅の味方をくれると同時に、君自身の道のりにあるステップが上がった。この調子で糧を増やしたまえ。遠くから、祈るのが、楽しみになってきたよ」


 温かな返事ながら、判断に悩む内容だ。可も無く、不可も無くと言うことか。それとも、彼の親切として、婉曲的な賛辞に留めて腕前について触れるのを控えたのか。 いや、そもそもエクトルの技能の程度を見ていないのだから比較しようがなく、まともな評価に悩んでの言葉だと言うことか。

 だが、どうあれ別れの直前なのだ。自分自身の頭で、意味を熟考し、成長に繋げられるようヒントを探り当てれば良いだろう。紳士の言葉は、いつも深く考える機会をくれる。


「それは光栄です。こちらからも絶大な御礼を言わなければ……。そうだ、あと翼を付けてみたのはですねえ、貴方が羽を広げた時をイメージしたんですよ?」


 ベヌンのコメントへの感謝を示しつつ、贈呈品について新たな説明を加えた。


「おや? そうなのかい?」


 切れ長い瞳を丸くして、紳士は問い返した。


「何か、その……後悔されていたようなんですが、僕には純粋にあの姿がとても美しく、素敵に思えるものでした。それで、敬意を込めて……」


 言いにくげに声を濁らせながら、今度は前に組んだ手をもじもじと握って振る。 

暫し間ベヌンは、意外だとでも言いたげに目をしばたたく。直後、唇を緩めて軽く噴き出すや、快活な調子で笑い掛ける。


「これはまた気を遣わせて申し訳ないな。悪く思ってなどいないよ。事前に何の説明もなく、軽い思いつきでの遊びに突き合わせた私が迂闊だったのさ。敬意とは、勿体ない。私の特性の一つに評価をありがとう」


 素直な感動を偽りない敬意を込めて発した言葉というのは紛れもない事実であるが、本当は二重の意図も含まれていた。翼の秘密を、あわよくば答えてもらえないかと衝いてみたのだ。

 だが、流石は本物の大人だ。やはり察したものか一枚上手に、曖昧模糊にも美しい言い回しでやんわりと返されてしまった。

 だが、結果がそれなら構わないと潔く割り切るつもりでもあった。好きになることができた客人に、プレゼントを贈ることができた。

それを、喜ばしげに誠実な態度で受け取ってもらえた。悔やんでまで追及したい事柄などない。


「大切にするよ。エクトル。新たな旅の記録の友として連れて行こう」


 これで、エクトルの願いの一つが達成された。(ことば)ではなく、初めて(からだ)による成果によって相手に誠意を送ることが叶ったのだ。



2021/4/10加筆。紳士の下着描写について追記あり。我ながら際どいとは思いますが、おわかりいただけたでしょうか(笑)。

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