第十一話 文化図書館にて(2)
ベヌンが誘ったのは文化図書館だった。この町において、彼とエクトルのとの観光の始まりの場所。
紳士は人狼種の女性司書達と打ち解けるようになった初日の夕刻、古文書室である写真集を発見したという。それを、今のエクトルと是非一緒に見てほしいと言うのだ。直前まで確認していたという蔵書目録検索の画面では「貸出可」となっていたから、確実に閲覧できるだろうと紳士は告げた。湖前の広場から図書館の位置までは、さほどの距離もない。
「あったぞ。この一冊だ」
ベヌン氏はエクトルを連れて古文書室に入ると、「写真」の分類で配架された本棚から黒い背表紙のそれを抜き取った。
黒く見えたものは、夜空の写真であって、背表紙だけでなくカバー全体に使われていた。タイトルは白抜き文字で「Salve ex acie perfugerant / Prayer for cosmos」と書かれている。
「奇跡のようだ……まさかこんなところで巡り合うとは思わなかったよ」
感慨深げに目を落としながら、緩やかに頁を手繰っている。
横合いから覗き込んだエクトルは、目に飛び込んだその場面に引き込まれた。
「戦争の風景だ……」
見開き一杯の枠内で、巨大な戦車が向かい合う。
一種、モニュメント的な鋼鉄の二台周辺に、蟻の子が群がるような体 勢で兵士達が銃口を交わしていた。
戦車より後方には、見たことのない植生の樹木が点在して聳えていた。
聳えると言っても、銃火の巻き添えを喰らった後のようで、立ち姿は不安定だった。無惨な焼け跡を纏い、枝葉の大部分を消し飛ばされている。
「ひょっとして、旅の中で行ったことのある惑星なんですか?」
「ああ、そうさ。湖の前で君の思いの丈を聞いた時、この本を是非君に見せなくてはと思ったんだ。一度、読んだ経験があればすまない」
「いえ、この本は知りませんでしたが……何故そんなに?」
「この写真集に取り上げられている惑星の戦地は――私が旅に出て間もない頃に訪れた中で、自分の側にある銀河の世界観 を揺るがす出来事に見えた場所だからだよ」
ベヌンは一度瞼を伏せて、唇を結んだ。一拍の間を挟んで、訥々と静穏に語り始める。
「現地で偶然仲良くなった青年がいた。彼は出自の関係上、苦しい立場に置かれていたが、私の滞在中、更なる悲劇が起こった。迫りくる脅威を防ぐことはできず、自分は無力だった。悔しさを呑んで、苦渋の別れをするしかなかった」
当時を鮮明に思い返しているのだろう。落ち着いた声に、自責に悶えるような震えが微かに混じる。
その時彼が開いていた頁に載せられていたのは、街の風景を切り取った写真だった。
一頁につき、上下に並ぶ構成で二枚ずつ配置されている。
建造物のほとんどが原型を留めておらず、半壊するか崩れ去った状態である。辛うじて隙間を残す通り道を、襤褸を纏った老若男女が行き交っている。
紳士がとりわけ注視しているのは、左頁の下にある少年兵の一団が映る写真だった。何かの施設らしきコンクリートの壁を背景に、一列に並んでいる。いずれもヘルメットから覗く表情は険しかったが、年相応のあどけなさも浮かぶ。
印象深いのは、武装している点を除けば人型の子どもと変わらぬ群像の中に、一人特徴的な身体的外観を備えた者が混ざっていることだ。
右端の方に立つ、一際小柄な影――やや下膨れ気味の丸みを帯びた愛らしい顔の両側には、刃を逆さに向けたような形の赤い刺青が刻まれていた。
「あ、注釈文のようなものが入っていますよ。何々……」
エクトルは、好奇心を押し出した不自然な声音にならぬよう気を遣いながら、写真下に印字された撮影対象の説明を読み上げた。
〝かつてこの惑星国家が未だ幾分が平和だった時分、既に度重なる紛争で荒廃していた惑星国家から避難して来た難民を受け入れる体制が敷かれていた。しかし根強く社会に蔓延る差別的観点から貧困から脱出できる者は少なく、三世以降の代でこの惑星国家も紛争地帯と化した時、難民を祖先とする出自の貧しい子ども達から不足する戦力として駆り出されていった〟
〝例えば、右端の人物は小人型種族の一人である。実は彼の種族では既に成人した年齢だが、法律の定める成人の軍隊加入身長に限達していないため、少年兵団の枠しか認められなかった。顔に刻まれた刺青は出身種族において成人した者にしか与えられないため、彼を成人と判断することができる〟
「この人が、まさか……」
「いや、確かに刺青の模様が似ているが、色が違う。彼は青だったんだ。恐らく子孫だろう。私が来訪した時は、不安定な治世だったものの、紛争には巻き込まれていなかった。と言っても、その数十年前にはクーデターがあったそうでね、所々に爪痕が残されていたよ。
私と出会った青年は日雇いの工事に従事していてね、永住権を取得できるまでは踏ん張りどころだと、屈託なく笑い飛ばしながら逞しく生きる陽気な子だった。だが交流したのも束の間、まだ一週間も経たぬ時に、事故が起きたんだ」
そこで、一旦紳士は口を噤んだ。白磁色の眉間が、悔恨を偲ぶように皺を刻む。
「彼の入っていた工事現場が、過去に反抗勢力を潰すために地雷が仕掛けられた地帯にあってね。摘出作業が進んでいないにも関わらず、運営側が強引な事業計画を行使した最中、不運にも作動したんだ。ニュース中継で知った私は、宿から急いで現場へ駆け付けたが――警官隊に阻まれる中、人だかりに埋もれるようにして友の遺体らしきものが確かに見えたものの、私の滞在先における記憶は、そこで途絶えてしまってね……」
紳士が、当時どのような心境と勢いで群衆を縫って飛び込んで行ったのか目の当たりにした訳でもない。にも関わらず、エクトルには違和感なく切迫した動作を思い描くことができた。決して超然とした落ち着き失わないはずの彼からは、想像も出来ぬ程に取り乱し、慟哭を上げる姿――
凄惨な情景を想像し、胸が締め付けられる。
「まだ成人したばかりの甚く年若い者だった。私には彼を哀れむ資格もない。当時できたはずのことを、できなかったのだ」
呟く都度、持ち前の重厚な声は涸れるようにか細くなり、美貌は沈痛を帯びて翳る。わかりやすく、個人の苦悩を吐き出すのを聞いたのは今この瞬間が初めてかもしれない。
只エクトルは、気の毒な思いに駆られつつも、内心妙に感じてもいた。
仲良くなった友の死を嘆き悲しむのは、至極真っ当な感情の動きであり理解できる。
しかし、自分自身が助け上げる前提の意識が働くのは、ややおこがましい考え方ではなかろうか。彼が救命組織の一員だったと言うのなら止むを得ぬ痛感だが、所詮は旅人の身分だ。その地においては、持成しを享受する側でしかない上に一過性の外野である。
関係の改善が叶った直後に、決して口にこそするつもりはないが、敬愛すべき紳士である彼にも、やはり生業に基づく優越的な観点が根付いている。
本人からすれば重責の伴う使命感という崇高な意識なのだろうが、〝高貴さが義務を強制する〟という思想に似た、高位に就く者特有の傲慢的自信にも映る嫌いも否めなかった。無力を当然の結果であると悉く諦観で処理して来た、凡人である少年とは微妙に相容れない。
「当時、私はもう少し若かった。君の種族でいえば、エクトル、君より僅かに、二、三歳年をとった程度の頃だよ。そんな時分から旅を重ねていたんだ」
自分と同じ歳ぐらいに若かったというが、彼は今日の時点で既に万単位で時空を生きる超長命人種なのだ。実際には数世紀ほど前の出来事だろう。彼の感覚では、つい最近のように懐かしく感じられてしまうのも無理はない。旅先で寄った惑星の有様が、以前とは変わり果てていても、決して遠ざかる感覚はしないのだろう。観光の一日目にも教えられたことだ。
反対に、自分達人間にとっては、歴史という大河の一篇であり遠い時代の物語となってしまうのだ。
そのような観点から、エクトルはある一つの予測を口にした。
「そうすると、写真集を出した活動写真家の人は今……」
「ああ。種族はわからないが、もし君と変わらないのなら、会うことはもう叶わないだろうね。反対に、もう少し時を刻むことが可能ならば……静かに隠棲する暮らしをしながら老いの中を生きているかもしれない……」
凛とした眼差しで彼方の方向を見遣る。
紳士の視線の先には、縦長のアーチ型に切り取られた美しい飾り窓があった。組み木の彩りで面積を限定された空のが、果てない世界の有様を象徴する一部に見えた。
不意にエクトルは、はたと思い至り、ある行為を提案した。
「プロフィールを見れば、著者のことがわかるんじゃないですか?」
「なるほど、その通りだ。忝い、少年」
巻末に経歴欄はあった。しかし名前と出身地、活動内容の概要、主に出版してきた写真集のことが簡単に記されているだけで、種族を示す単語等はない。
出身地名は文明発祥惑星の旧西洋圏文字で「NIHONNKOKU SHIZUOKAKENN」とあるが、エクトルの知識では覚束ない範囲である。
顔写真も載せられていないため、容貌から窺うこともできない。何か理由があって非公開を望んだのかもしれない。
「ベヌンさんは、この地名でわかりませんかね?」
「残念ながら、頭の辞書に未だ蓄積できていない…。将来、統治の務めを頼まれる身でありながら、俄然修業が足りないね」
出版年でも類推が容易ではなかった。年数字の前に冠されている記号は「西暦」となっている。エクトルにとっては、ガイアから移航する前に使われていた数え方だ。
これでは、自分が生きる現代から数えても何年前なのか測りようがない。
エクトルは、紳士の渡り歩いてきた旅路の重みに、しみじみと想い馳せた。
ベヌン氏は、エクトルから見て超常の次元にいるはずだった。だが彼は彼の立場で、いまなお解決し得ない迂遠の懊悩に苛まれていたのだ。
少年にとっては遥か古代の年から、幾度もの苦難と遭遇し、解決の手立ての模索に邁進していたのだろう。彼は幾星霜を経た上で、自分と同じ時間軸に立っている。
「私を、長い旅路へと駆り立てた起源はこの出来事だったのだ。私は銀河の統率ならびに調停を司る特殊な王家に生れ、年少の頃は純粋に素晴らしい使命なのだと信じて疑わなかった。むろん、家庭教育で多文化のことや各惑星の情勢・歴史を叩き込まれている。だが、生で触れていない事柄など所詮どこまでも漠然とした絵空事に等しく、いつしか先入観や想像など個人の捉え方が混入して、凝固した思考と成り果てる。錯覚を通して対象を見続けることになるのだ。
自分の住む外の世界に散在する真の様相を知らずにいるのは、安全な柵の内側にしがみ付いたままでいるのと同列だと。それは罪だと考えるようになった。ただ言われるがままに役目を戴くことは、上から哀れみを抱くようなものではないか。無知の為政者に、皆を、守り、納め、調整する資格はあるのだろうかと、不安に掻き立てられた」
「だから、一度怖くなって逃げたりもしたんですね」
笑って応じてみせる。既に余裕を取り戻した証か、悪戯心が働いた。
紳士も、穏やかに苦笑を滲ませて続ける。
ベヌン氏はひとりでに語り始めた。その言葉は自然と染み入り響くようで、エクトルは真摯に耳を澄ます。
「まだ故郷が平穏だった頃、私も学童になり始めた時分から、仕来たりに倣って父の政務を手伝い始めた。当時優れた片腕として支えていた父の親友だった宰相や、議会の親族達に指導を受けながら身につけていったんだ」
(ちょっと待ってください、学童になった頃? それって、人間でいうところの初等教育機関に入り立てみたいな、幼児さん終わったばかりのほやほやの状態なんじゃないの?)
朝の会話で、繁忙のあまり王の父と大臣といった中枢格が担当する規模の用事にまで駆り出された経験があると言っていたが、政務そのものにはなんと学童期から関わっていたのだ 。
もう何度目になるかわからない、何気なく呟かれたカルチャーショックな背景に、またもやうっかり突っ込みを挿し挟んでしまった。エクトルにしてみれば、王族特有の英才教育の方針もあるにしても、元来ベヌン自身が抜きん出た才覚の少年だったというのが主な理由だったのではないかと思える。
「いつか本格的に任に就けば、全体を見渡し得る高揚感が待っているのだろうかと胸を高鳴らせていたのに、父の片腕として実際に体感するのは、出口のない道のりの峻嶮さだった。資源争奪にも巻き込まれ、心身には刻苦が強いられる。全体を俯瞰できるどころか、困窮の原因が掴めず己の視界が縮まるばかりだと気付かされた」
エクトルは、コメントを思い浮かべる余地もなく静かに聞き入っていた。当事者すら全体像を把握し得ぬ、壮大に過ぎる苛酷なドラマに、第三者が何かを念ずる隙などあろうはずがない。
「時には愛する父にでさえ、嫌悪の眼差しを向けていた。迷走し、立ち往生する様に耐え難きを覚えたからだ――だがそれは、箱の内側にいたからこその身の程知らずだったのだ。ヒトの偉大さとは、順風満帆に保たれるものではない。いかなる時も万全と完璧に徹することは至難なのだと往時は思いも寄らなかった。
故に決意に至った。父達だけではどうにもできぬのならば、私がこの苦境を打開してみせる、広い世界のありとあらゆる真実を探り集め、必ずや故郷の和平解決を完遂するための力になろうと」
この人にも、理想と現実の狭間に立ち会わざるを得ない幼い時期があったのか。成長過程で極当然に発生する心境と言えるが、ベヌンという秀麗無比な人物とは中々結び付けにくい、エクトルにとっては掛け離れた状況だった。自分は無責任にも、紳士すら持ち得る苦悩の存在を無視して過度な期待を押し付けていた嫌いがなかっただろうか。
ようやく染み入るように理解できた。なぜ、ベヌン氏が個人個人の見極められる範囲の大切さを説くのかを。
「だが星間旅行に赴く直前になり、各所の紛争処理に忙殺され頭を痛め、悲嘆に顔を歪めている父の横顔を見た時、進路への逡巡が鮮明に湧き始めた。私自身が遊学を終えて帰りつけば、どのような王を目指そうとするのだろう。どのような姿を目指すべきなのだろう。どのような王になりたいのだろう。己に対し根本的な問い掛けをしたのだ。――銀河の大海原に身を投じ、見識が増えたとて、それは根拠のない万能感に一人酔い、拡張するはずだった視野をより狭める結果に陥りはしないかと。
私は改めて統べる者の苦悩に触れて、悟ったのだ。最頂の地点に達した時、待ち受けているのは勝者としての満足感でも優越感でもない――相手を選別せず、許容できる強靭な覚悟の力と責任感を背負える忍耐であると。思えば、幼少より尊敬と憧憬の対象であった父は、必ずどこかで疲労と苦悩の色を浮かべていた。あれは栄誉に浸る暇なく、気を蝕むほどの重圧と日々格闘していた証だったのだ」
「ごめんなさい……。ベヌンさんほどの人が、恐ろしい苦悩に苛まれているなんて……逃れたくても逃れられない重さと闘っているなんて……考えもしませんでした……」
反射的に、謝罪の言葉が零れ落ちる。
上層に至れば、全てが黄金色に輝いて見える幸福が得られるとばかり信じていた。
非正式者の工房員に与えられたスペースから、低い階段を隔てて設けられた正式者達のスペースをいつも眩しく仰ぎ見ていた。
だが、事情の暗部を知り得ぬからこその憧憬の対象であったのだ。
理屈に照らし、高みの土を踏み得た時の代償を考えてみる。正式の身分を当然の採用としていた時代が過ぎ去った今、コストカットのために非正式者を増員した分、終身保障と引き換えに責任範囲が広がるハンディが生じたのだ。契約規定で、正式でない身分の者は処理に携われる範囲を限られている。かつては所属する者全てで助け合い負担していた労働を、必要以上に抱え込まなくてはならなくなった。
業務負担が増大するということは、順応能力の特別に高度な人材しか登用できない仕組みを敷くことは必然の流れだったのだ。
耐え切れなければ意味がないのだ。
今のところ、自分は平均的な工房員として人として普遍的自活を成立させることが目標だ。頭一つ抜ける意欲と努力がなければ辿り着けない領域を “正式”と定義する世であるのに、平均を満足として望む自分などが“正式範囲”の輪に端から入れるべくもなかったのだ。
ベヌン氏の生きる社会、つまり王族生活圏では、前者への到達が当たり前。それが正式。代償として、多くを束ね率いる責任の重圧を背負うという実態がある。
それにしても、一体何を基準に、正と非を分ける発想があるのだろう。
各文明社会で、線引きの方法は異なるに違いない。定義付けも一回で済まないだろう。
いずれにしても、現在の少年の知能では、考察しようとしても切りの無い課題だ。明後日の未来か、得意な誰かに預けるべきだと思えた。
「僕が妬んでいた人達も、知らないところで逃れられないプレッシャーと戦っているんですよね。理屈では簡単にわかっているはずなんです。いつも思うのに。どうして感覚では納得できないんだろう。身の程知らずの自己本位さと、思い遣りの怠慢を嘆きたくなります。何より、まず目の前にいるあなたに申し訳が立たない」
「無知を詫びる必要はないのさ。謝罪よりも少年、気づいた後に踏み出す一歩のことを考えてほしい。自己本位に嵌るのは、生きとし生けるものの宿命。生存欲を本能に持つならば、まずは自身の守りを優先しがちになるのは道理。他者と関わり共に歩む時、どう上手く対処していくかを、工夫し、思考錯誤していかなければならないんだ。でなければ――家族も、友も、想い人も、支え助けることはできぬだろう」
白皙の横顔は、悲愴を煩いつつも、堅固たる熱意と決心に彩られ燦然と輝いていた。
「初めて会った時から、ベヌンさんはかっこよくて、世の中を極め抜いて自己完結している素晴らしい偉人だと思っていました。さっき、みっともなく腹が立って貴方に八つ当たりしてしまったのも――貴方が壮麗で眩しかったからだ。
例え僕らと同じように、人間的苦悩に犯されていても、受難の旅路と向き合い続ける貴方は立派に映る以外にないんだ。身近なものと日常を思い遣らなくて、文句を言っても虚しいだけだと、そんな貴方が教えてくれた」
エクトルの回答に、どこか紳士は満足したような笑みを浮かべた。世話を託され受けた者が、一つの成長を認め得た時の慈愛を含んだ安堵感が漂っている。
その表情を描いてから間も無く、ふと彼は別の問いを口にした。
「もう一つ、君の心に関して気になることがあるんだ。エクトル、そもそも君は、他者そのものを、不信に思っているのではないか ?
脳天を稲妻が打ちつけてきたかのような衝撃が体内を揺さぶった。
出発前の朝の会話に記憶が溯る。エクトルは辛うじて取り繕ったつもりだったが 。
やはり看破されていたか。
「好感を抱くことに努める必要はない。好き、嫌いという生理的な感情は、努力で切り替えられるものじゃないからだ」
続けられた紳士の言葉は意外にも、欠点を責める内容ではなかった。それどころか、欠点さえ当然の形と容認する慈悲的態度に、観念して本心の吐露を促される気分となる。受け入れてくれた相手と受け入れられた自分なら、打ち明けるのは怖くない。懊悩の核に厚く被さっていたバリアの皮が、今剥がされていった。
「そうですよね。参りました。降参ですよ、降参。真相は単純なものだったんです……。僕は、そもそも他人と打ち解けるのが苦手な人間恐怖症の持ち主なんです。いわゆる人見知りってやつ。相手が、同学年の子どもだとわかっていても、信用を持つのに一年間手こずったなんてことも珍しくありませんでした……。だから、かろうじて親交関係を持っているのも、さっき博物館で会ったイローニ君ぐらいしかいません。
ここ二週間だって、本当は不思議なんですよ。あなたのような赤の他人の、しかも立派な大人の人と比較的リラックスして話せていることがね」
言いながら、頭二つ分ほど上にある、清純な二点の青に真っ直ぐ視線を注ぐ。返される眼差しは、こちらを抱擁するかのように温かい。
「もともと気が酷く弱いんです。だから、してやられてばかりなんです。ずっと思っていました。 こんな状況下に迷い込んでしまったのは、僕自身の存在がとても価値の低いものだから――でも、価値なんてそもそも決めなくていいんだ。いや、価値なんかで決め付けてしまう行為そのものが傲慢じゃないか。その理論が成立してしまったら、養育院の子ども達も価値判断で運命を握られることになってしまう」
紳士は、ただただ穏和な面持ちで見守りながら、黙って先を促す。予め、エクトルが自分自身のために出すべき意思表示を知っているかのようであった。
「僕だって……変えたいと言えば、変えたいんです。捻くれてばかりの自分を」
紳士は、優しく微笑みながら応じた。
「捻くれる行為自体は悪ではないだろう。それも生きとし生ける者の、確実に存在している感情表現の一種だ。願うことも悪いことではない。だが願うことに夢中になっていたら、私も周囲も君自身も永遠に変わらないのだ。願いとともに行動を起こすからこそ、それは真の願望成就となり得る」
こんなに真っ当そうな人が、“捻くれる”という負の情動を否定しない。好悪に左右される弱さと共に。
自分は救われて良いらしい。自己を救うための行動を考えていいらしい。
自分で自分を救えるようになるのなら、それで良いじゃないか。
「君が、自らを取り巻く状況を前に苦しみと苛立ち等、辛い感情を多く持ち合わせているということは、真面目に思い悩んでいるという証拠だ。どう清く正しくあろうとしたところで、若い内は個々の形でもって綺麗ではないところを露呈してしまうことはある。
――さあ少年よ、そろそろ、今しがみついている道の対極に、君の励むべき道が待っていることに気が付かないか?」
不意に紳士が調子を切り替えた。瞬時には意味を理解できず、言葉の中の単語の一つを反復する。
「僕の……励むべき道?」
「君の紡ぐ思いの丈に、素直な憧れ――目指したいとする目標が、余すことなく表されている。私が思う君の素晴らしいところは、強い憧れを包み隠さず口にできる純心さだ」
「じゅ、純心……? こ、この僕が?」
耳慣れない単語を聴いた瞬間に特有の不信感に震わされるが、刹那の不慮だった。再び救済を得たことを悟り、感服に浸る。
「何を自己嫌悪に陥る必要がある? 現状への悲嘆こそが素直の形のれっきたる一つだ」
思い込んでいただけだったのだ。現状を嘆いてばかりで、開拓を恐れている自分は愚かで成長の可能性などないと。
確かに愚かではあると思う。だが、逆手に取って、きっかけに変えようと思考することもできるのだ。
最も不健全で哀しいこと――それは、力不足な現状ではなく、どうしたいのかという欲求も抱かずに己を卑下し続けることだったのだ。
紳士は己の長躯を折って屈めながら、エクトルの方へ真っ直ぐ向き合った。
古文書室特有のやや控えめな照明の影響で黒みを帯びた青い双瞳の中 に、真珠の粒に似た煌めきが瞬いている。
ミッドナイトブルーの星空に包み込まれたような感触だ。
続けて、少年の両肩に掌を置いた紳士は、視線を逸らさず言葉を重ねる。
「究められるところまで究めればいい。 君の手に入る領域の最高を目指しなさい」
手袋越しの優しい温かみと共に、スッと鼓膜へ浸透する。
全身の神経という神経がはっきりと覚醒していくような爽健さが走り抜けた。視力の思わしくない両目も筋肉を張って大きく見開かれていく。何か自分の深奥に、未知の力が誕生するかのようだ。
謙虚な気持ちに包まれ、しおらしい挙動でもって居住まいを糺す。
次の瞬間には、勢い良く顔をもたげて宣言した。
「はい、そうします。そうさせていただきます!!」
やっと、腹の底から気合いの入った声が出た。
ようやく本来の言霊として受け入れることができたのだ。
紳士の説法に対し、居心地が悪かったのでもない。聞き苦しかったわけでもない。清涼な湖風のように、癒しの要素を蓄えた感触はしていたのだ。だが勿体無いことに、自ら勝手な先入観でバリアを張り、恐怖心から前に進めまいと決めつけていたために遅れたのだ。後押しの激励となり得る言葉の奔流を拒絶していただけだった。解除すれば、素直な良薬として優しく心身に浸透してきたのだ。
ただ、崇敬一辺倒にはもうならない。純粋に励言を呑みながらも、胸中に同居する対抗心を引っ張り出してわざと斜に構えた台詞を続けてみせた。
「でも最もな風に言ってどうですかねえ、ベヌンさん。それだって所詮は、貴方個人の老婆心に基づく格言なんじゃないですか?」
「もちろんさ。私の説く言葉が、後輩の行く末を保証するなどと、無責任で傲慢な確信は持ってないつもりだよ」
突如の生意気極まりない屁理屈も、紳士は涼しい表情で受け流した。彼の寛大な胆力には、到底叶わない。
(僕は詰まるところ、苦悩する振りをした生意気な悪童なんです。一生努力したって聖人になれっこありませんよ。ただ、貴方の言うように、手の届く範囲で、最良と最高を見つけたいとは、思います。だって、貴方のような人が未来を願ってくれたのだから――)
贅沢を望むなら、更にそのような長い文句を言い切りたかったが、さすがに言い回しとして臭過ぎると思えて、声に出来なかった。
胸の内の呟きとして、留めておく。結果的にその方が綺麗な締めにも考えられた。
大家の知らせていた夕飯の時刻が迫りつつあった。写真集は元あった配下場所に戻し、図書館を後にする。
紳士は、あと一日で発たなければいけないため借りることができないのが残念だ、と微苦笑を添えて名残惜しがっていた。
養育院に到着する前にエクトルが一度時計に目を落としてから、二時間半近くは経過していたらしい。外はもう夕闇の帳が下りている。今宵も、多彩な色の紗幕が微細に何層も折り重なって、優美なカンバスの一枚を大空に張り出している。残照を散りばめた茜雲の間に、燃え尽きようとする落日の躍動感が力強い煌めきを見せていた。
秋の夕空は重たい色みに垂れ込めることが多いが、僅かに明るさを控えた空模様が却って安らぎをもたらす気がした。
深い青紫が降りはじめつつも、下方では淡いオレンジが輝いている。紫と橙が混じり合う境界線では鈍い赤が生れ、優しい暖炉の火を思わせた。
この季節、太陽が隠れればあっと言う間に空気が冷える。下宿先のリビング内を照らすエタノール暖炉の揺らめきに恋しさを馳せながら、紳士に寄り添うように前を進んだ。
上記の白抜きタイトルについて:不勉強のためグーグル翻訳に頼って作成したものですが、何となく意図が伝われば幸いです。