第十話 湖にて~少年の癇癪と紳士の思い~
滞在時間が終わり、引き上げる頃合いとなった。
別れを惜しむ院長や子ども達と会釈を交わした後、手を振って和やかに歩き去る。
出ようと門扉に向かった際、同伴していた少年が忽然と姿を消していたことに気づいて、やや足を早くした。
紳士が階段を下りると、先に道路の上で待っているエクトルがいた。
彼の様子は妙だった。きつく紐を引き結んだように唇を閉じ、面持ちは堅く目つきには険がある。
紳士は気づいていないわけではなかった。この異変は何も直前から始まったわけではない。自分と歩いている時は、普通に口を利いていたのに、養育院で子ども達と触れ合っている最中、急に憮然と黙り込んでしまったのだ。彼自身、幼い生命の輝きの群れと接するのに夢中で、失念しない瞬間がなかったと言えば嘘になるが、それでもしっかりと視界の傍らに認めていたのである。
ベヌンが声を掛けようとすると、不意に少年は身体を反転させた。そのまま無言を保ちつつ、スタスタとどこかへ歩き始める。ベヌンはやや胡乱げに瞳の瑠璃色を瞬かせたものの、異を唱えず従順に小さな背を追った。
日陰の多い通りを抜けて表通りを進む。太陽の辿る道筋からすると、どうやら北北東の方角へ向かっているらしい。
少年を連れず度々一人で散策しているベヌンも、その方角にある区画だけは未だに赴いたことがなかった。
やがて少年の両脚がピタリと停止した。通りに敷かれた石畳はそこで途切れている。
前方に目を遣ると、一気に開けた風景が広がっていた。
長く張り巡らされたステンレスの欄干を隔てて、明るくも深い広大な青がある。湖だった。緑の山々を背景にして物静かに横たわっていた。
観光名所としては扱われていないのか、山紫水明の美しさを湛えているのに寂寞とした水辺だった。遠くに小船を浮かべて釣りをしているらしい老人が一人見受けられる程度だ。
広場の時計が指し示す時刻は養育院へ向かってから約一時間後程度だ。秋の日暮れの早さを告げるように、空と水の二分する背景に濃い青を残しつつも、薄暮の気配が忍び寄り暗色の重みが滲んでいた。
少年のくすんだ赤色の髪がさわさわと揺れていた。釘で固定されたかのように身体はそれ以上動かない。
紳士の表情も微動だにしない。だが、遂に口を開いた。
「どうしたんだい? さっきからずっと静かに黙ったままで。せっかく貴重な場所を訪れたというのに、君は子ども達と交流しなくて良かったのかい?」
様相の異変を不審がったベヌンは、当然の作法というように気遣わしく尋ねた。少年の唐突な場所の移動には意を介していなかった。
「……どうして、旅行で来た人がわざわざあんなところへ足を運んだんですか」
呆気なく親身な問い掛けをエクトルは無視した。それから振り向くと、幼童の面影が抜け切らない丸みを帯びた瞳でもってキッと睨み刺す。
紳士の方は一瞬、何を言われたか解釈できぬと言うように、ただ少し驚いたという感じで両の眉を大きく広げる。
彼がこの地域に舞い降りて来て以来、変わらず羨望の的であったはずの邪気を孕まない端整な造形を維持するその面が、今は少年の苛立ちに拍車を掛ける要素でしかなかった。
「見せ物じゃないんです、あの人達は。表に出たらいとも簡単に危険さらされるから、何とか忍んで生きている。僕みたいな青臭いガキが言うのもなんですがね、世の中には明るい日向に出ても健やかでいられない存在だっているんですよ!!」
この時には身体ごと真正面へ視線を転じている。
本来は体内の深奥に恐れがあった。畏怖と憧憬の象徴として、見えない境界線の先に燦然と屹立する神々しい麗人なのだから。
だがこの瞬間には、高貴の相手にさえ噛みつかんと衝き動かす蛮勇が漲っていた。
「調停者を課せられた純粋培養の貴方なら御存知でしょう。あの身体の節々に見られた特徴は“短命な亜人種”のものですよ」
もはや謙虚ぶる良い子の態度はかなぐり捨てられていた。引き取られている種族の実情について乱暴な端的さで言い明かす。
「財政赤字の小都市でギリギリ面倒が看れる範囲だからと預っている。あなたはそんな気の毒な施設の子ども達に対して、たった一日だけ高級なお世話を焼くサービスを提供してみせたんです。歓びに溢れた美麗な世界で一時的に夢に溺れさせて……冷やかしにしかなりませんよ。
……ねえ、それって多面的に恵まれた素質を与えられている者特有のエゴじゃないんですか?」
不条理極まりない屈折した怒りが噴出していた。
反応を待つという気遣いは思い起さず、一方的に言いたい台詞をひたすら放出する。
「英雄譚を取り上げたアニメーション作品と同じです。鑑賞者側が到達できるはずもない主人公のヒーローに自己を投影させて、さも同じことができるはずだと気分の高揚を錯覚させる。何より、前途の儚い彼らに精一杯の優しさなんか掛けて、あなた自身が虚しくならないんですか? どれだけ美しい演出をしてありもしない期待を抱かせるんです、残酷な仕打ちだと思いますよ……!」
貴公子とは俄然目を合わせられない。高みへ逆らうことへの恐怖であり、無性の苛立ちに塗れた自尊心からの強情だった。
「……事情を、予め把握していないわけじゃなかったさ。地域には地域の育てる上での事情がある」
溜めに溜めた激情を発奮した末に襲来すると予想された報いとなるべき反応ではなかった。
八つ当たりを受けた貴公子が最初に切り出した言葉は、驚くほど手短で自省的だった。
花弁を思わせる柔和な唇には、悲しげな笑みだけが些細な怒気をも孕むことなく湛えられていた。
この段階でエクトルは、すぐに我に返るべきだったろう。経験不充分な小僧が、さも正論的に仕上げた戯言を際限なく吐き続けても、勝ち目など得られるものはない――収拾が効かなくなり、大きく喪うだけであると。
しかし、今回ばかりは意地を貫きたいという要求が主張した。相手の言葉が言い訳の綺麗事のようにしか聞えぬと逆撫でされるような感覚もあったのだ。
それはもう一方で、口を止めることが逆に恐ろしいという観念も進行していたが故の結果であった。
「偉い王子様だから、通りすがりの石っころのように無価値な子どもに説教をしても良いってことですか!?」
理性も正しく警告してはいた。感情を暴走に任せるな、既に会話がかみ合わなくなっている――
「いくらカッコ良くて立派な人だからって、説教する権利も、同情する権利も、必ずあるわけじゃないんだ!
――そうですね、憐憫のような話の種として一つ、僕の方から本当の話をしましょう。今朝、仕事の繁忙期に対する不安について口にした時、ベヌンさんは〝仕事そのものではなく己を取り巻く人間関係への不安〟ではないかと指摘しましたよね。あなたは恐るべきけい眼の持ち主だ、一発で正解を言い当てたのだから――〝職人がたきな先輩達の足を引っ張る迷惑を思い遣られるから〟だなんて、優等生面の口から出任せも良いところです。実体は、周囲の環境――毒された人間関係を病巣として嫌悪しているからに他ならない! どうです、御覧なさい、ホームステイ招待者の汚らわしき有様を!卑屈で臆病な内面を棲まわせた餓鬼こそが僕の正体だ!」
盛大な開き直りだった。全部吐き出したことで、仮面の重荷から解放された清々しささえ湧いた。
と、思い掛けて、瞬時に苦みに捕われる。
先程から、一身に無体な非難を浴びている男の表情に何の濁り気も浮かばないのだ。
ただ静かに黙して、無茶苦茶な癇癪に呑まれた哀れな少年を忍耐強く見守っている。その眼差しは、さながら大悟の境地にある聖者の面差しに似て、安らかささえたゆとう。彫像のように綺麗な姿勢を保つ姿が、信仰を集める神格者を連想させた。腕は胸より下辺り、異なる腕の肘先に優雅に指を添える形でもって、緩やかに組まれている。
動揺の気配が微塵もない超然たる無私的佇まいが、却って少年をより窮地に追い込むような息詰まりを与える。
しかし尚も衝動的乱心の方が優先される。気押された程度では、長広舌は規制できなくなっていた。
「僕の上司や先輩方はねえ、あなたとは段違いに劣る破綻した人間なんですよ。敬意なんて大鋸屑ほども抱けるわけがない、上の者共が僕にして来ることと言ったら、指導にも叱責にもなり得ていないお粗末な中傷だ!! 僕は毎日毎日毎日毎日、無益なそれに晒されて地獄の苦しみを味わされている。どう客観的に見ても被害者は僕なのに、一分一分を無駄に費やした責任は全て僕に回るんだ!
お前が苦言を口にするのに時間を割かせたから、自業自得で宿題が出来たんだと――冗談じゃない、ふざけるな!!」
サッカーボルをろくに蹴り飛ばす脚力も持ち合わせない片足を、無造作に踏み鳴らす。固い石畳の底から伝わる反動は、普段なら結構な痛みと感じていただろう。乱心が五感を麻痺させていた。
「理解してはいるんです。酷い状況が生まれた原因は何も彼らそのものから発したわけではない。社会変化の歪を被って規範が揺るぎ、風紀は乱れに乱れ、問題ある人材ばかり集まるようになったんだ。だが、そんなものは先を生きる大人一人一人が心掛け次第でどうにかできる話じゃないか、来を担う後輩達を、劣悪な環境に対する八つ当たりに利用するなっ!!……不当で理不尽な環境に、何の親切な説明もなく放り込まれた僕の気持ちが、あなたにわかりますか!?」
その場にいない存在への憤りでしかないのに、ベヌンを無理矢理矛先の的に縛り付けている有様だ。
呆れた醜態である。駄々っ子の孤独な滑稽劇でなくてなんと言うのか。
一体、ベヌンに何の責任があるのだろう――旅人という第三者である上に通りすがりに過ぎない。彼はこちらの被害者意識丸出しな愚痴から、状況を推理しただけだ。真相を知らされていない立場の者まで、日頃の鬱屈に巻き込んでどうするのか。
最低な餓鬼の屁理屈だと自認する意識も作動していなくはない。
しかし、防波堤が決壊したように一度放水されたら留まらない。
努めようともしない。傲慢に放射され続ける。
決壊した劣情の波はもはや押し留められなくなっていた。
スーザン女史の狂態同然に行きついた自分に、もはや彼女を批判する権利はない。
「……彼らは、確かに君の思うように褒められた人柄ではないかもしれない。会ったことさえないのだから、元来断じる資格は持ち合わせぬのだがね」
エクトルが、質問とも共感の要求ともつかぬ叫びを上げた時だった。傾聴に徹していたベヌンが、やおら口を開いたのである。
「いずれにせよ、関係を築く相手が、自己の望む完璧な有り方を呈することは絶対に有り得ないのだ。 他ならぬ自己という存在さえそうだ。誰しも、満足を与えられる資格を持つことなどできないんだよ」
エクトルの脳内に、再び理性をぐらつかせるに充分なアドレナリンの刺激剤が注入される。このエリートを気取る貴人は、またもや格言めかして万人の咀嚼可能な尤もらしい普遍性を説く。最前まで神性さえ帯びて見えた端麗な面差しに、聞かん気を発症した幼児を宥めすかすかのような配慮が過った気がした。血の沸騰した思考回路でエクトルは更に牙を剥く。
威厳ある麗しき知恵者だって? そんな見栄の良い看板が延々と機能するものか。適当に語託を並べているのと大差ないじゃないか。
「そう言うベヌンさんだって、恵まれた立場の目線で優越感から哀れみをかけているんでしょう? 万人をあやそうとする発想は優越感と同義だ!! 可哀想っていうお情けで、恵まれなかった者を侮辱しているんだ!! 猥雑で歪曲した気質でしか関係性を構築できない、害と迷惑の作用しかもたらせない悪質な人間は、その輪で生きるしか道がなく、その輪からは永久的に抜け出せない!! そして、認めたくないが僕も、彼らとはまた異なるベクトルで同列の人間なんだっ!」
吐き散らす理屈がおかしいことは当にわかっている。だが、百も承知の上で叫び放たんとする我が身の理由が、文句を支離滅裂にも空間に現す内、徐々に明確な言葉に組み立てられる状態で見えて来ていた。養育院の子ども達のことなど当然ながら無関係だ。彼らを前提の理由に使って鬱憤晴らしをしているだけだ。一から十まで個人的怨嗟で一貫している。見当外れも良いところのお笑い沙汰だ。
ただ養育院で体感した居た堪れなさを引き金に、突如、むくむくと理不尽だと思うことへの理不尽な苛立ちが湧きあがってきたのだ。自分を取り巻く、世の中のありとあらゆる不満に対して思念が凝縮した。
内奥に蓄積されていたそのマグマを、遂に外側へと爆発させたのである。当たり散らし、癇癪を爆発させる。
自分でも大層幼く最低だと思った。けれども、ありふれた簡単な言い回しだが、どうしていいのかわからない。精神破綻以外の何だと言うべき状況下で、叫喚する以外の手立てを見失った。
――日常の中で、理性を温かく繋ぎとめるための新たな寄る辺となるはずだった、美しい紳士と邂逅したというのに。
脳裏の片隅では、辛うじて冷静な思考の一片が稼働していた。
そもベヌン・エーテルヌスという人間とは、本人の言に照らして辿るならば、育ち良き高貴の出自でありながら存亡の危機に見舞われた苦境の者。
まともな感受性があれば、彼の辛苦をこそまずは思い遣るべきである。
だが、もたげて来るのは、幾ら危難の渦中にあるとは言え、高貴は高貴に変わりないという僻み。
とはいえ、平素であれば絶対に極度の臆病さに圧されて、凶暴な強気さなど表面化することはなかった。
無意識の内に弛んだ依頼心が根深く植わっているせいだろう。彼は所詮、紳士的に優しい紳士だ。無様に我儘をぶつけようと、神のような包容力で鷹揚に受け流してくれるだろうと甘えが。
故に制御したくない。制御できない。
矛盾に塗れた葛藤だ。
「後悔から学ぶことは、間違った方法でも、悪い方法でもない。いつからやり直しても手遅れではないのだ」
予想通りと言うか、紳士の口から紡がれるのは相も変わらず教科書的指南だ。
筋金入りの辛抱強さだと今度は一種の戦慄が芽生えた。魅惑的な声質にも関わらず、どことなく抑揚に欠けた印象すらあり情緒面を抹殺した不気味さが匂う。
道徳的正しさによる真摯な諭しなど、逆に、針の筵の如く辛いものでしかない。
「それは樹齢を遥かに越えるほどの長生きできる種族の人だから言える台詞でしょう! 悠長に怠けてるのと一緒じゃないですかっ! 紋切り型の“有り難い説法”なんて聞きたくありません!!そんなもので、僕を健気な人間に成長させられると思いますかっ!?」
苛烈に拒絶の声を叩きつけた。得体の知れない凄まじいエネルギーに後押しされている気がするが、相手を攻めている手応えは一切感じられなかった。攻撃をしても、自分に跳ね返り更に自身がダメージを受けるデメリットな構図しか浮かべられない。
声音も、吼えているというより、ほとんど泣き出しそうな調子に近かった。精一杯絞り出しつつも聴覚が捉えているのは、咥内で感触の悪い水分が溜まり詰まって、むせぶような荒い響きだ。
主張にはなり得ていない、叫喚という獣じみた奇行に思えた。
「成長するかどうか決めるのは君自身だ。私はただ、生きて来た年数を倍に重ねる者として、ヒントを投げ掛けているに過ぎない。いや、言い換えよう、投げ掛けることしかできないんだよ」
あくまで説得を止めようとしない。非論理的な狂乱の吐き出しでしかない少年の言葉に対し、忍び入るようなタイミングでさっと一言放つ。
言いながら一瞬、自嘲するように顔を歪めたように見えたのは、少年の荒廃した胸中が引き寄せた錯覚だろうか。
〝生きて来た年数を倍に重ねる者〟という文言に、何となく、再び優越感からの哀れみをかけられたような気がして、苛立ちが加熱する。残忍な嗜虐心が迫り上がってくるようであった。次はどんな激白をぶつけようかと奥歯に勢いを溜める。
「……君は、頂点に立つ者が、本気で“最高の自己満足”を得た者だと思うのかね?」
唐突な切り返しだった。勢いは熱冷ましのような速さで削がれる。
エクトルの胸底で、氷のように冷え切った手に心臓を鷲掴みにされるような感覚が起こった。
息苦しい。
またもや、行き過ぎてしまったのか――。
今度こそ、一環の終わりだ。鬱屈と劣等感に苛まれる日常の中で、折角手に入れた掛け替えのない関係性を、下らない癇癪の暴走でついに失うのだ。
殴られるかと思った。遂に単純かつ物理的な暴力が襲い来るのではないかと、かつて発想の選択肢には無かったり恐怖が突如湧き上がる。どれほどにエレガントで人格の完成された高貴な紳士であろうと、臨界点を越えない瞬間の皆無はあり得ないはずだ。
永劫に等しき生命力とは関係なく、喜怒哀楽のパターンがあるという点だけは自分達と平等に共通しているのだから。
肩から足の指先まで、全身を震える緊張感に浸し、構えの姿勢を固める。
しかし、最悪の形の報復は訪れることはなかった。
急に、温度のある平たくも厚い感触が頭頂部を包み込んだのだ。
それが、紳士の大きな掌であると認識するより早く、優しい動作によって納まりの悪い赤毛が揺さぶられていた。
頭を撫でられていたのだ。
「こ、子ども扱いしないでくださいっ!」
反射的に赤くなって叫ぶ。
だが、抗議にも涼しい態度は変わらず、ベヌンの特徴とも言える微笑が穏やかに広がっていた。
先程までは叫び喚く少年にやや同調してか、紳士のポーカーフェイスにも堅い色が見え隠れしていたが、元の姿勢を取り戻したらしい。
数回程度ひたすら撫で回した後、至って落ち着いた口調で問うた。
「……私は、ただ君に教えてほしいんだ……。君が今、マグマのように吐き出す不条理に対する怒りの奔流の源を…… 激情の出発点を、私に聞かせてくれないか?」
落ち着いてはいるが、どこかしら懇願を含む響きに、エクトルは胸を突かれた心地がした。
確かに、今し方の不満の晒し方では、具体的な背景を明かした状態になっていないため意味不明に等しい。
よくぞ根気良く、読解に臨まんとしてくれたものだ。底抜けに寛容で聞き上手な貴人には、少年の方が根負けせざるを得ない。
「ははは… 確かに不公平ですよね。何の前情報も提供せずに、一方的に放出しているのでは埒があかない……。幾分か、冷静になれましたよ」
腹を括る合図として、一つ深呼吸を入れる。羞恥を混ぜた苦笑を零しつつ、首を振りながら淡々と訳を話した。
「スタート地点が未熟なのは当然過ぎることなので、どうだって良いんです。技能の高低がジャッジされて、役立たずだと烙印を押されても、気にならない。僕が割り切れないのは……能力とは無関係の基準によって、意味不明の境界線が引かれていることなんです。
たった今あなたを慕った子ども達も――種類は違えども、典型的な、意味不明・解明不能の境界線による犠牲者です。
僕の曽祖父より何世代も前――いや、三千年もの大昔に自由憲法が制定されてから、僕の領国では平等な社会的身分保障が施行されてきている――はずなんです。なのに、誰が決めたんですか?世の中を動かす賢しさを有する人達の都合で、一般の就労資格者にも認められないなんて……」
はらりと一滴が流れ落ちていた。悠然とした紳士の双眸に、波に似た光の揺れが浮かんだ。
「僕が今お世話になっている見習い先の人達は、非正式者なんて言われて一ランク下の扱いを受けているんです。所属先も正確には工房なんかじゃない。工房が、人件費を抑制してでも働いてくれる職人労働者を確保するために、契約を取り結んでいる人材専門会社です。何やら業種を問わず、片っ端から受託しまくっている。もう何年も前から始まった線引きらしくて、その影響でしょうかね、服装規定や互いにかける言葉遣いまで乱れに乱れまくるほど、堕落の一途を辿っていたんですよ。バカらしくて本気なんか出せないでしょ。さっきみたいに、思わず狂暴な感情で罵りたくなる程、劣悪さを平気でひけらかす人間性になり果ててしまったんです」
一度溢れるままに、言葉の羅列という体でしか並べ立てられなかった不満点を整理して口にすると、説明らしい状態に近づいて幾分かマシになった。悪く思える上司がどのような人物なのか、一切根本から問い掛けて来なかった聞き手の親切性に、感謝するより他ない。
だが結局は、苦痛そうに社会事情の説明を添えた窮状を紹介しようとも、所詮貧弱な知識をひけらかしている様でしかなかろう。浅学な学童には関の山だ。しかし、自らを苦難と隣り合わせの人生を前にした子どもであると知らぬ程に愚かではないという主張を、モノになっていない状態ながらも訴える格好を取りたいという欲の方が前のめりに働いたのだ。
自分で口に出してみて漸く気づいた。エクトルには、どれほどカーニバルの如き逸脱した装飾で職人をやっている連中がいようとも、思い遣りが根底から欠如した人間共に囲まれていようと、叱咤ともならない腐った私言を吐き掛けられても、心底ではどうでも良かったのだ。
最も不安で仕方なかったのは、いつ無用の存在へと堕ちるのかという恐怖であった。
この段階になって、エクトルは去る二週間前の夜に図書館で友人が言っていたことを思い出していた。
彼の指摘はことごとく的を射ていたのだ。
イローニの言葉が指摘する通りエクトルは極度の怖がりで、真相を言えば逃げ口上を探すのに躍起になっているだけだった。職場では、内心にて毒の入った文句を吐き散らす陰湿さを発揮しながら、深層では周囲の先輩の存在よりも己の将来に臆していた。一種の強がりだったのだ。毒舌家を気取って、芯は脆い我が身を防衛しようとしていた。
最も、元来より酷い人間環境に関わりなく打ち解けることは苦手だ。ハクビシン先輩に踏み込んだコミュニケーションを切り出せないのも、根本からの不得手が絡んでいるからだ。
見下すように突き放す態度を取っているものの、本当は「請負形態の安い労働力であるが故に、いつ捨てられるか、または、つれない態度で振舞っていることによって、いつ雇用側から見切られるのか」ということに心底脅えている。
内側に踏みこまれるのは苦手とする癖、反面嫌われるのを恐れる寂しがり屋という矛盾。始まりは、やはり個人的問題だった。
また、エクトルの事とは別に、まだ言っていなかった事実を言い連ねるべきか、もはや迷う段階ではない。
紳士の浮かべる表情を見て、そう受け止めた。
何か、プラスとなる方法論を言わんとして耐えているのか、無言でただ続きを促しているのか、今の長広舌にも健気に余計な口を挟まない。
表情の読み取り辛い神妙な真顔のまま、だが眼差しは穏和に語る少年を眺めている。
恐らく後者だろうと即断した。
とことん優雅で見本的振舞いが、憎く眩しい。
エクトルは、吐き出せるだけ吐き出してしまって良いらしいと解釈した。
「あなたが出会った司書の人狼達も、雇われているかもしれませんね。僕、この町の資料の館で正式の就館試験案内が出ているのを一度も見たことありませんよ。えぐい安上がりのルートがあるんでしょう」
ただし、自分の真に恐れるものを言う代わりに、ベヌンが親しく交流した者達を取り上げる形で伝えた。
紳士のことだ、相手の前途多難を理解していても、内心で応援の意志を寄せているに違いない。心優しき彼には、残酷な真相を知らせて彼女達に未練を抱かずにいてもらいたかった。
「キャリアクラスには一生なれない。使命感を奪われた犠牲者なんですから!かつて全ての地域の文化書物館には、日々司書が腕を高め、研鑽するための塾教室が設置されていることもあったんです。それくらい司書が特殊な知識職だと尊重されていた。開催されるのは閉館時間後に20時を過ぎてから、つまり業務終了後なんですけど、ちゃんと勤務時間に含めて数えられていました。必要最低限の福利厚生として正しく機能していたんです。本で読んで、僕は司書達がこの町で守られていた歴史を知りました。ところが、民間運営に委ねられる流れへと変容して、利益偏重の風潮が高まりました。公共の文化施設であるはずが巻き込みから逃れられず、結び付いてからというもの、営利優先に転換してしまったんです。 大本の基準で満足な稼ぎが得られさえすれば、継承や育成なんて二の次ということなんでしょう。二つに重きを置くことこそが知識業の根幹だというのに……。経験未熟、知識も未熟な未成年の見習い人ジュニアスチューデントという、胸を張れない分際の僕でも間違っている現実だと指摘できる権利はあると、信じて疑っていません。
軽い意識で就く人まで出て来ました。次のまともな職を目指すまでの踏み台という見做し方が裏にあるんでしょう。採用方法も厳格な試験を廃止して杜撰になり、低賃金労働の待遇と化したことも関係して入れ換わりの激しい自転車操業の一角にまでおちぶれました。人狼さん達は立派です、酷な扱いでも故郷にある選択肢よりは恵まれていると、希少な間に勉強しながら支えていてくれるんです。彼らのおかげで、僕の憩いの一時も、ベヌンさんの観光も、充実したものとなっている。だが献身的な従業員の意志を裏切るように、そんな短期間に出て行ってを繰り返すような安価な環境を課して……。
この小都市は、資料の館をどうしたいんでしょうね? 文化継承事業の従事者は、下層の位置付けなんですか? イローニや彼の先輩が微妙な立場に置かれていた遠因は言わずもがなでしょう」
紳士にも宛てていない、力ある誰にも届かない、空虚な問い掛け。
だが必死になって吐露せずにはいられない惨状だ。人狼達のことばかりは自己中心気味のエクトルにも、我が事のように嘆きが込み上げる。
効率性社会で余剰的存在と言わんばかりに低待遇へ押し込められる悲劇は、安価な生産者の一員へと貶められた工房職人と同列であり他人事とは思えぬのだ。
また、境遇の位置付けのみではなく、少年自身にとっての安らぎの空間が破壊されていくという未来にも関係していた。
「司書の仕事が、単純労働と見做されるなら、意欲に燃えようが彼女らの存在意義なんてなくなる。究極のケースは、人力でなくとも良いと見做され、同じ役割機能を組み込まれた機械に代替されてしまうことです。こんなので、貴方が肯定的に見ていた機械の社会から希望を見出せる構造になり得ますか? 機械との共生どころではない、不遇としか言いようがない」
流石に紳士も、うろたえはせぬが暫くは押し黙るだろうと思われた。同機能を持つ高度な人工知能を導入した状況で、猶人力を必要とする例を上げて見ろと内心挑戦的にまで凄む。
だが、相手の応答は間断なく鮮やかだった。
一呼吸のために語り手が間を置いたのを見計らって、紳士も沈着に口を開く。
「私も知っていたさ。素晴らしい慣習があったはずが、過去のメモリーになってしまっているとね。電子データでも紙の図書でも拝見した。金銭的事情という現実性を優先するなら、ヒトの知能労働を尊重し確保する手法を切り捨てる選択を取るかもしれない。決まり切った知識を伝達するだけなら、機械に一任しても問題ないやも知れぬからな。生物的な情緒を知る立場だからこそ、導き出せる良きサービスも存在するというのにね。課題に何度も躓いた結果、縋る思いでまずは相談的話から始めたい時には、〝共感〟という安心を提供し得る余地がある」
遣る瀬無く、惜しむような響きが芳しい声色に籠められている。
「しかし、またもや私の前向きな解釈を加えて恐縮だが、それでも希望があるとは思えるんだよ。訴える言論を伝え置く術が許される環境の範囲内にあるのだからね」
意外だと思っていたわけではないが、汲み取ってはいたのかと胸を打たれる。純粋無垢な温室育ちからの楽観視とは思えない。当然じゃないかと今更ながらにエクトルは得心する。自由獲得の武力闘争にも参加したと衝撃的な体験談を洩らしていた。時に闘いも避けられぬ旅路を潜り抜けたはずの男が、理想的な観測だけで捉えることなど有り得ない。
「私が新たな惑星を訪れる上で大切にしている旅の習慣がある。プライバシーに障らぬ程度に、必ず相手の立場を調べておことだ。人狼種の司書達もだが、君のこともね。だから、私からの一方的な身の上話を伝えた上で、君の話も教えてもらおうとしたんだ。勘違いしないでくれたまえ、誘導尋問ではない。深淵まで晒す訳にはいかずとも、ある程度の人と成りを踏まえれば、関係の構築が円滑になる。それを常に最低限の礼節であると肝に銘じて、会う者会う者、全てに対して等しく行うようにしているよ」
鎮静していたエクトルの心根が、再び不吉にざわめき出した。唇を噛みそうな強さで口を堅く引き結び、俯く。
成程、と合点した。承知していたことであった。少年にとっては青天の霹靂の如し至高の出会いでも、ベヌン氏からすれば自分との出会いはさほど特別なものではない。初対面の相手に、親身に接して胸の内を引き出すことは、誰彼構わぬ生活行為の一つに過ぎない。
大家の婦人も良い例ではないか。何故フラワーアレンジメントの苦悩を知り得たのか。司書達に関しては不明だが、エクトルが同伴せぬ観光時間の内に利用者の域を越えかねぬ親切な振舞いをしていれば、一歩踏み込む交流があったことなど想像に難くない。
彼は旅先において、どこまでも平等に温かく、たった一つは決めぬようにしているのだろう。そう言えば図書館に共に寄った時、刹那の交流で思い入れは危険だと溢していた気がする。博愛的且つ人道的心掛けと取れる反面、深い救済には加担しない残酷性が表しているとも言えないだろうか。
「エクトル、敢えて僅かだけ、君に伝えておこう」
突然、改まった物言いで紳士は語り掛けた。
エクトルは口を噤んだまま、どんな言葉が授けられるかと一心に待つ。
「例え斜陽の世界であっても、成りたくて選んだ道なら――まだチャンスが存在していると、見做してもいいのではないかな」
耳朶がピクリと音を立てる嫌な感触が走った。まさか、親友のイローニと同様に、彼も免許試験のことを挙げようとしているのではあるまいか。
思えば、昼間カフェで談議をした時も、彼は近似する助言じみたことを言い聞かせていた。
〝挽回を試みようとは思わないのかい? 自分の選んだ業には、誇りを持ちたいだろう? 厳しい展開にはなるが、物事に不満点があるなら、解決・解消できるように工夫を凝らしていくしかない。有り合わせのものを使ってもね。見習いの時期を過ぎて学生帰れるのなら、学問を通して不足と思う知識を身につけておくこともできるし、それを活かして対策を練ることもできる。今挙げた惑星社会でも、知的自然生命の減少という悲惨な事情が差し迫るが故に、新たな一員を加えることに試行錯誤の末踏み切った。君には君の猶予が残されている。全機械化の訪れが、憧れの場から追い遣られる危機に繋がらぬ手段を発見できるかもしれない。なんなら、思い切って全方位から着手し得る領域を目指してもいい――例え小さな一歩からでもね〟
吐き気を催す予感が到来する。悪いケースの一つだ。立ち返ろうとしている。
駄目だ、そろそろ抑制の目途を付ける時だろうと理性が呼び掛けている。
だが、この場合があるのなら嫌だ、という想定に対する反駁が浮かんで仕様がなかった。
機会を大切に利用しろという説得は、耳に蛸という厭感を促したのだ。
何だ。こうなったら、確実に相手の貴人とやらにも非があるじゃないか。胸糞酷い苛立ちの狂相に逆戻りだ。
「言うと思いました。つまらないです、そういう〝大人〟の慰め。何です、わざわざ改まりまでしたのに無意味じゃないですか」
堂々と不遜に腕組をしてみせ、瞼の筋肉に力を込めて無遠慮に睨みを利かせた。だが、真っ向から視線を交差させる勇気を振るうには及ばなかった。霞んだ視界を湖の夕景という虚空に貼り付けながら口だけは忙しなく躍動させた。
「与えられた土俵で戦うしかない論も嫌いです。なら、改革を考えればいいというアドバイスも迷惑です。僕みたいな小僧だって明白にわかっていることがあるんです。人類の生命は、情報が暴力的に氾濫する現銀河系社会においてさえ、身の程知らずにも及ばない短さだ。だから僕は我儘でも言いたい。この短い命を燃やせる内に、安心して生活できる土台ぐらい固められる展望を思い描きたいんだっ!」
いい加減匙を投げて、とっとと先に下宿へ引き上げても良い頃だ。見切りをつけて、物も言わずに華麗な歩調で立ち去れば良い。
幾ら指導熱心な教師でも、見込みがなければ冷徹に処断するものだ。むしろ、桁外れに情けない卑小の自分等彼と一緒にいるべきではない。経歴に泥を塗る仕打ちだ。
ところが、全てを翻すが如くにベヌン氏の徹底振りは甚だしかった。どう見ても取り返しのつかぬ段階に及んでさえ、なお、言い募ろうとする。
「一つ、疑問に思っていることがある。君の言う境遇は、必ずしも不幸せに繋がるのだろうか……」
いつまで哲学の講義を行うつもりなのか。責め苛む攻撃的意思で次の展開を窺っていると、彼は唐突に幾つかの例えを口にした。
「生れた時から檻に繋がれて外を知らない児がいた。庇護者と生まれた時から過ごさざるを得ない児がいた。拾える選択肢を考える猶予があるのなら、拾い続けた方が良いと思うのだが……」
気のせいだろうか、歯切れ悪く言い淀む調子に聞える。紳士らしくもない。持ち前の冴えが鈍り始めたのだろうか。だとしたら、化けの皮を剥いでやる好機だ。気の毒な境遇と並べられても、だから自分には余裕があるとやる気を漲らせる意思には繋がらない。
「まさかですけど、自分より不幸な存在と比べて満足しろっていいたいんですか? 見損なったのはこっちですよベヌンさん、紳士だと感じた僕の目は節穴でしたね。最低極まりないですよ!」
だが吼え猛りつつも、完全に理性は押し潰せるものではなかった。良心は、再びスイッチの入る当の数分前に悲鳴を上げていたからだ。
もう止めた方がいい、いい加減に歯車を制御すべきだ。寝た子を起こすような悪循環が無限に続くだけだ。
苛立ちを開放したいと息巻く口と裏腹に、ストップをかけたいと精神は請願している。そう、どう唱えようが弁じようが喚こうが叫ぼうが、堂々巡りに変わりない――絶望の底無し沼だ。
「……私は、故に彼らの行く末も永遠の暗夜だと断じるつもりはない。ただ、選択肢の数が多い内は、悲嘆に没頭するのは勿体ないと思うのだ」
不意にまた呟かれる諭す声。ドキリと何度も早鐘を打つのを如実に感じつつも、全く感じていないふりを続けろと心は強制した。
つまり、虚勢を頑固に張り続けた。強硬に悪罵を吐き倒す。
「激励の説得なんてどんなに重ねても僕の耳は受け付けない! あなたも偽善で子どもの傷を慰撫する詐欺師だったんだ!」
どうしてそれほど粘り強くしていられるんだ? 何故決して救いの手を振りほどこうとしない?
(止して下さいよ王子様……。それ以上、僕の理性を、良心を……罪悪感に気付かせようとするのは……僕には一生できるように思えない立派な態度でこれ以上接さないでくれ! 普通なら、キレてしまうんだから!)
相手の顔など、視界に入れることはできない。どこを向いているともつかぬ所へ、叫び掛けていた。
表情を眼にした瞬間に、自身の醜悪さを思い知らされるだろう。
秘境的森の中に出現する天然の青色を湛えた水鏡の如き瞳が、隅々まで映し取ってしまう――。
「……安心して欲しいことがある。私はまだ一度も、偉人の器など体得してはいない。私も本当は……苦しんでいるのだ。大人に至るべく器を育む修業にね……」
沸騰した血潮が引いていった。最前までとは、別の意味で思考が停止する。
「ベヌン……さん?……」
呆けた声音で、疑問形に意味のない名前の呟きをする。
恐らく数十分以上かけて、再び対峙する人物の方へ正面から視線を飛ばすことができた。
男の美貌は、沈鬱と言うほど暗く翳っては見えなかった。
しかし、どこか口惜しげなように片側の歯を噛み締めている。エクトルが俄かに驚かされたのは、懐の厚い聞き手となっていた紳士の目線が自分の方をあまりはっきりとは見据えていなかったことだ。何かを悔やむが如く苦み走った瞳は、まるで紳士自身を射抜くかのように自罰的な色合いを帯びていた。
「私のことを〝恵まれた立場〟と言ったね、まさしくそうだ。どれほど表現を凝らして謙遜してみせようが、拭い去れぬ事実には変わりない。私もまた、歴代の先人が築いてくれた揺り籠の中で、守り育まれたのだ。だが、盤石な土壌も、年月を経れば劣化の一途を辿り、脆くなる。手入れをすれば息を吹き返すのかもしれないが、放逸すれば、元が優れていようと錆びていくだけだ。もし国が崩れても再興できなければ、私の〝保証〟もなくなるだろう」
電流を直接脳に放たれたような痺れがエクトルの体内を貫く。
続けて閃光が煌めくように、脳裏で一つの記憶が蘇生した。
肝心な問題を、根底から忘れ去っていたことを劇的に思いだす。
いや、正確には失念ではなく思慮の範囲外に置いていたのだ。当時、確かに耳と心で受け止めていたはずなのに。
ベヌン氏こそが、危険と隣り合わせの今日と明日を生きる探検家であると。
そうだ。何故、見落としていたのだ。
いや、覚えていた。言葉の羅列としては。
ただ、相手の視点を想像しての受理は出来ていなかった。
重要で大切な言葉。彼が聞かせてくれた自身の半生で、一番初めに明かした身の上。
ふと、さりげなく零すように刹那的で、決して幾歳も年下の子どもを不安がらせるようには告げなかった。
エクトルが、徐々に悪癖である保身思考に陥落し、自己の哀れさへの同情を訴求する流れに突き進んでいったのにはそのような彼の配慮も関係しているかもしれない。後は少年が無意識下につけ上り、勝手な依頼心を増幅させたのだ。
そもそも、この貴公子は、ある意味エクトルの出会った誰よりも大事変とも言うべき窮地に晒されていた。
〝私の故郷は今、存亡の危機に瀕している〟
スッとそよ風のように染み通る軽い呟きが、優美な声色と共に重大な響きを孕んで再生される。
帰る場所すら喪いかねない土壇場で、〝優越感〟から弱き他者を労う発想など有り得ないのだ。
病身でありながら奮迅する父を思いつつ、自らの視野を拡張するための航海に乗り出した。
勇者の行いでなくて、何であろう。
彼こそ、あやふやな地盤の上の岐路で、彷徨い懊悩する苦難の身ではないか。
身の上語りと言えど、氷山の一角を溶かしてみせたに過ぎないだろう。
彼の本音を半分以上も知ったことにはならない。
真に辛きは紳士の方なのだ。さりげない程度の囁きとは大きな嘆きに他ならない。なのに、いつしか我が身の哀れみへと集中して忘失していた。相手の方がずっと、瀬戸際を綱渡りしている。
養育院から去る間際、年長者の少女に対する挨拶の中で自身がはっきりと口にしていたではないか。
〝私もまだ修行中の身なんだ。成し遂げられるのが何時なのか、今は自信を持って断言できない〟
紛れもなく本心を打ち明けていたのだ。高貴の誇りに依らず、堂々と己の未熟を曝け出していたのだ。
その時、エクトルも印象では認識していた。紳士は決して嘘をついていないと――
明らかに、先刻の自分は語義の咀嚼を怠っていた。現在の場面に至るまで、正しく結び付けることができなかったのだから。
自分には、免許試験の機会があり得るにも関わらず、進路を奪われた不幸者の一人だと決めつけた。同情と哀憐を乞おうとしているようなものだ。チェリル達や人狼司書達のことを、同じ土俵に巻き込んで自己憐憫の裏付けに利用しようとした。
だから自分は自己中心的で視野が狭く、他人の思いを考えられない人間なのだ。漸く合点がいった。
これを〝身の程知らず〟というのだ。
遊学を、本人は趣味の範疇だと言った。エクトルも、彼の物持ちの豊かさから半ば道楽であると踏んでいた。
実情は、本気で外世界の見識を収集し視野を広げ、故郷の再生に繋げるためだったのだ。趣味と謙遜することで、他者からの哀れみや同情を誘う流れを作るまいとした。物腰や身なりの上質さは、泰然と確立した個人であることを周囲に伝えるためだ。
遊学の先が安全地域ばかりとは限らない。彼自身が口にしていたではないか。言論弾圧が敷かれ、命をかけた闘争を繰り広げてでも自由格闘に奔走する人々のいる惑星にも出向いたと。虜囚の如き劣悪な成育環境の子を社会の計画的裏事情のために黙認している地域も存在したと。
彼が偽善者であるものか。詐欺師であるものか。彼は、確固たる豊かな見聞を蓄えた仁徳者だ。見たからこそ、知ったからこそ、裏打ちされたように成熟した重厚な声色で、世の辛苦を、幸福を、絶望の中に眠る可能性を説くことができるのだ。立派な権利者だ。
「堪忍してください、もう、もう……」
罪悪感を受け入れろと迫られている。
いや、自覚を否定するな。自覚している己を素直に認め、頑迷を脱出し次の段階へ踏み出せと。
抗弁は懇願に、仕舞いには嗚咽という弱り切った音の繰り返しへと崩れる。
猛烈な嚇怒の後には、反動で痛烈な悲しみが押し寄せて酷く泣きたくなるとは、よく聞くことだ。いまや少年は、滂沱の相を偽りなく呈していた。
「君に、一流の人間のように信じさせてしまったのなら、こちらこそ大変な罪だ。謝り切れるものではないが、ただただ、申し訳ないとしか伝えようがない……。ただ、不肖の大人からも、確実に言えることがある――真の後悔はこれから待ち受けているんじゃないだろうかということだ。私は、待ち受けている向こう側の煉獄へ渡りたくないのだ。恐れるしか術ないからだ。現に、遊学、遊学とかこつけて見識を吸収し続けていなければ、まともに落ち着けぬまでになっている。故に君にも、投げ出すのを堪えて欲しかったんだ。もし、君の教師を任されることがあるとしても、私は君の反面教師としてしか導くことができない。……君は、前途多難を理由にして、せっかく人生が設けた闘いの道を投げ出そうとするのかい?」
ハクビシン先輩は逃げようとしなかった。病魔の迫る重身にありながら、立ち向かおうとする。
違和感なく、彼女の静かな勇姿と紳士の言葉が重ね合わされた。
(なんだ。先輩。解答はすぐそこにあったんですね)
同時に少年は悟る。内省と自虐の連続によって自己評価を低下させる行為は、謙遜にも値せぬどころか、思考錯誤からの放棄と逃避に匹敵する。怠惰に甘んじるための言い訳に等しい。前進の模索に労を費やすのを厭うのは、思考の停滞を却って意味するのだ。
〝好きなこと〟が、生きる目標だから、多少悪い環境であれ背かない。彼女の行く手も前途多難だ。
人生が設けた闘いの道――すなわち、生まれながらに与えられたチャンスそのもの。手放すまいと執念を 燃やして縋りつくのは当然だ。
ある意味で彼女と同様に、薄氷の旅路を切り開く勇者を前に、もはや反駁は一句も持たぬ。
目尻に浮かんだ滴を拭い、無言で頭を垂れた。紆余曲折の果てに、折れたというサインだった。
少年の殊勝な態度を認め、紳士の面持ちも温かい色を灯す。そして、決然と意思を固めるように告げた。
「よし。この数日間、観光案内人を買って出てくれた君に、最後の付き添いのお願いだ。……いや、辛いわだかまりを吐き出す勇気を殺さなかった君への謝礼として、ぜひ、共に分かち合って欲しいモノがあるんだ」
<自己満足のための蛇足にしかならないようなコメント>
或る意味、もう二度と書きたくない内容ですね(笑)。
自分の中にもないとは言い切れない幼稚で青臭い、もどかしく結論の出ない負の内面をどう形にするかと取り組んだ下り。
正直、切り捨てようかと迷いましたが、それはそれで不自然な流れになる気がして現状上記の通りにすることに。
最終回まで載せた後に添えるつもりでいる長い後書きに、また詳しく書く予定ですが、エクトル少年は狂言回しです。