第九話 養育院へ
イローニは、この後また別の展観ガイドの用事が入っているからと一旦別れる運びとなった。見送る時のイローニは、滑らかな動きで何度も紳士に頭を下げていた。
紳士は優しく頬笑みで応じ、エクトルは気さくに片手を上げて友の挨拶で返す。
紳士と連れ立って、再び広い街道に出た。
エクトルが二十四時間区切りの腕時計に目を落とすと、短い針が「十五」を指していた。大家さんが夕食の席を予告していた時刻まで三時間ほどの猶予が残っている。
「どうします? 秋だから日が傾くのも早いですし、観光はそろそろにして切り上げますか?」
顔を紳士の方に向けて提案した時、相手は声を聞いていない様子だった。端整な横顔を向けて、どこか一点の方角を見つめるのに集中している。清蒼の瞳は、やや堅い真剣な色を帯びて揺れていた。
「ベヌンさん?」
怪訝に思って名前を呼ぶと、彼は落ち着き払った表情のまま、振り向き様に答えを紡いだ。
「そうだな。確かに日の落ちる頃だ……。だがすまない、この周辺で、あと一つどうしても気になる場所があるんだ。疲れているかもしれないが、もう少し、付き合ってくれて構わないかな?」
口元には穏やかな微笑がある。エクトルは変に罪悪感のような意識が湧き、うろたえた口調で賛同した。
「いえ、そんな、もちろん大丈夫ですよ。詳しい場所は、御存知なんですか?」
「ああ。君が仕事で出かけている時の散策中にも、自身の目で下見はしてみたんだ。だが、まだ中身を窺っていない」
淡々と言いつつ、紳士の足はコートを翻して歩き出していた。遅れまいとエクトルも小走りに駆け寄り、横並びに街道を進む。
誘導されるままに考えず歩いていたが、ふと横脇に林立する建造物を見ると、一軒も商店が立っていないのに気づく。道幅も狭くなりつつあることから、いつの間にか表通りから逸れた路地に入ったらしい。家々の壁に貼りついた窓からはあまり人の気配が感じられない上に、自分達以外には往来も確認できず閑散としている。真上に浮かぶ細く狭められた青空は克明に澄んでいるのに、人工物に囲われたこの箇所は一面の日陰で薄暗く塗りたくられており、多少の圧迫感を覚えた。路地の広さには大の大人二人が並べる余裕があったが、雰囲気のせいで窮屈さがある。
エクトルは不気味さを凌ぐように、ベヌンとほぼ密着せんばかりの距離を保った。まるで、頼れる男親を盾にして縋りながらお化け屋敷の中を行く子どものようだ。
しばらくして、建物が両脇に聳え立つ路地から、横に走る路地に交差する位置に出た。
エクトルは何気なく通りの風景に目を転じる。
今進んで来た道よりは幅があり開けているが、完全な裏通りらしい。カーテンを締め、堅く門扉を閉ざした無機的な色合いのビルや民家しかない。しかも表通りの建築物に比べて様式がやや古く感じられた。活けられた花や飾り窓など多少華やかな添え物はあるものの、いずれもあまり手入れされているようには見えず、窓枠は色あせて花弁もどことなく萎びている。
初めてこの田舎町に来た日、美しいが心寂しいところだと思っていたが、より中心から外れた区画ではその色合いが増していた。
立ち止まらずに、左折してその路地に踏み出した紳士に従い、とりあえず跡を追う。
(ベヌンさん、どこまで行こうとしているんだろう……)
真意を請うように先導者の顔を窺おうとするが、ほとんどを立て襟に遮られている。縦に波模様を描く滑らかな後髪と、美しく筋の通った高い鼻梁しか見えない。
やがて円状に石畳が敷かれた広場の中に出た。表通りのものに比べて随分小規模な広場だった。
ベヌンは二、三歩足を早めて進んだところで、ゆっくりとある建物の前で立ち止まった。
「ここは……」
ところどころ色あせているが、堅牢に聳え立って広がる高い建造物。鉄扉の門の右隣の壁には、長方形の表札が打ちつけられている。
〝我ら、隣星の愛に基づき守り育まん〟と標語のような文句が書かれていた。
「養育院だ。上京してきた最初の日、友人との散歩道で通りかかったことがあります」
それとなくエクトルは呟いた。
養育院の施設は、開拓初期にあった貴族制度時代の洋館を改装して造られたものだ。古風ながら立派な建物だったが、立地箇所は、やや町外れで人通りが少なく寂しい。悲愴さを強調するようであるが、極力衆目から逸らすために適度な場所だと言えるだろう。
ベヌンは、今し方のエクトルの呟きに呼応してか、ふとこう零した。
「いつの時代の、どんな子どもであれ、誰かの助けが必ずなくては……これも希望の一つだ」
美しい言葉遣いだ。この人が口にすると、取るに足りない物事やありふれた現象も深みのある哲学的なフレーズとして響く。
しかしエクトルは不思議と、今この瞬間からはその良き特徴が空恐ろしいもののように感じられた。凡俗の反論を許さない、隙の無さがある。
エクトルはこの区画に居心地の悪さを感じていた。自分の中に、偏見を捨て切れない不公平な価値基準がしがみついていることは百も承知している。だが、上からの哀れむ感情を催させるような雰囲気が自然とあって耐えられないのだ。
「あの……場所も建物も分かりましたし、引き返しませんが? 流石に日の暮の早い時期に、奥まった路地にいるのはどうかと……」
寄りたいと言い出したのは紳士なのに、中断させようと些かの焦りを滲ませて切り出した。ベヌンの目が、感慨深げに眺め入っているようでしばらく建造物から剥がれないのだ。不安になってつい躍起になる。
しかし、エクトルが最後まで言い終わるより紳士の行動の方がワンテンポ速かった。ついと一歩ブーツの足が進み出るや、右手のしなやかな人差し指が表札の上のインターホンを押している。
〈……はい〉
数秒の間を置いて、落ち着いた女性の声が応えた。と同時、どこの建物にも備え付けられている来訪者受付用の小型壁面モニター内に、ベージュのセーターを来た妙齢の女性が映し出される。院の管理者だろう。
〈お客様でしょうか? あの、どのような御用で……〉
丁寧だが、どこか遠慮がちな口調と物腰で尋ねかける。 首元で一本に結わえられたシルバーの髪に縁取られる細い面には、平素から穏和であることを思わせる柔らかさを宿しつつ、多少の警戒色を滲ませていた。
「突然の訪問、まことに申し訳ございません。恐縮ですが、この施設の見学をお願いできませんか?」
エクトルは耳を疑って紳士の方を見上げる。その間に、受付の女性が淡々と言葉を紡いでいた。
〈見学ですか? 基本的には事前の申し出があった方しかお入りいただいてないのですが…〉
女性は、やや思い悩むように細い顎に指を押し当てる仕種をする。表情は柔和だが、眼鏡が掛けられた真面目そうな瞳には僅かに探るような気配がある。
より驚いたのはエクトルだ。同伴者の秀麗な顔とモニター越しの女性とを交互に見遣る。
(まさかベヌンさん、今からここに寄せてもらうつもりなの?)
見学を希望しているからには間違いない。どういう風の吹きまわしなのか。まずい……。エクトルの体内の危険感知センサーのようなものが明滅し始める。しかし一方では、無理で断られるんじゃないかという安堵の予感があった。
と、ベヌン氏がふとコートの懐から一枚のICカードを取り出していた。顔写真とプロフィールのような文字の羅列が窺えたので身分証とわかる。圧倒的に差をつけられた低身長と視力の悪さのせいで読み取れない。だいたい、身分証など自分も初めて目にした。
親しくなった自分よりも先に、会って間もない見学先の人間に見せるなんて――詳らかには明かせないと言っていたじゃないか。どこか妬みの交った悔しさが込み上げるが、瞬時に頭を冷やして渋々納得した。
(無理な頼み事をする場面だからかな……。事情が事情だし、仕方ないか)
そわそわと静観する前で、紳士は何も言わずにそのカードの表面をさりげない手つきでモニターに翳した。
途端、モニターの向こうからハッと短く息を呑む音が聞こえた。エクトルも数日前のやりとりで紳士が特別な身分だとは知っていたが、何となくそれ以上の意味合いを持つような明らかな動揺だった。電子製のパネルを通じてなのでくぐもっているものの、驚愕していることは確かに伝わってきたのだ。
〈すみません、これはこれは。急だからと、とんだ御無礼なことを。どうぞ、歓迎いたしますわ。同伴者の方も一緒にぜひお入りになってください〉
決して威圧したのではない、純然たる公正無比なジェントルマンが肩書きを脅しの材料に用いるはずがないだろう。にも関わらず、掌を返したような鮮やかな折れ様だった。げに紳士の表情には、相手への深い尊重と謝罪を両立した態度が浮かんでいた。
「無礼はこちらの方です、院長殿。 慎み深く、学びにあやからせていただく所存です。 お互いに、貴き機会とならんことを」
鉄の門扉から、ロックが外れる音が響く。外部者の入る許可が下りると、建物内部から機械で開く仕組みらしかった。重く鈍い軋む音を立てて、内側の方へ格子扉が開く。
玄関内に入って直接対面した女性の顔色には、意外なことに華やいだ喜びがあった。モニターで会話していた時のおずおずとした調子とは打って変わって、冬の終わりに初めて春の温かさを感じたような弾んだ声が零れる。
「ようこそ、お出でいだたきました。早速、子ども達をお呼びいたしますわ。皆さん聞いて下さい、嬉しいニュースですよ。公子様が私達の家に遊びにきてくださいました。さあさあ、御挨拶にいらっしゃい」
院長が後方に向かって呼び掛けると、がやがやとした幼い声と騒々しい気配が瞬時に集まる。寄って来た子ども達の反応は十人十色だった。恐る恐る壁の曲がり角から顔を覗かせる者、接近しつつも、はにかむように口元を両手で押さえ隠す動作をする者、積極的に前を陣取り興味津津という顔つきで見つめている者。
他、彼らを追う形で数名中年の女性職員が身体の前で手を組みながら並び立つ。どこにでもある関連施設の平均的な風景と言えるだろう――職員達と被養育児童達の間に、あからさまに際立った身体的特徴の差異がなければ。
院長と職員は人間だったが、彼らより数を上回る子ども達には肉体面で形状の異なる部分があったのだ。
顔面が鼠に近似しているのである。鼻先が突き出て長く、丸い耳が頭部に近い位置にある。しかし手足は見るからにエクトルと同様、ヒト科のそれなのだ。ヒト科と言っても肌の色は濃い灰色の体毛に覆われていた。所々に現れた獣的性質が、純粋なヒト科とは別の種族であることを裏付けている。
預けられているのは主に、近隣の惑星で紛争の被害に合い、身寄りのなくなった亜人種族の青少年だ。体力・体質・寿命など種族ごとに差があることを考慮し、小地方都市であるマシューの上京先では“予算で救える程度”という条件のもとに、人間よりも短命であり尚且つ人間の子どもの平均身長を越えない範囲の種族のみを受け入れている。彼らがそうなのだった。
原則として生物界では図体が小さくすばしっこい程、平均寿命が短いと言われている。彼らは外観通りの生物的特徴を備えているため、本来の鼠と変わらない。見事に適合したわけだ。
挨拶のために集まってきた子ども達の中で、最前に進み出てきた少女がいた。目測で一メート二十センチはあろうか、他にいる子らと比べると抜きん出て背が高かった。エプロンドレスをまとった知的な顔つきの彼女は、品良くドレスの両裾を抓んで腰を屈め会釈した。
「はじめまして公子様、ご機嫌麗しゅうございます。私、年長組のリーダーをやっているチェリルです」
健気な仕種を前に、紳士はにっこり微笑みながら一瞬目線を下げて挨拶を返した。
「はじめまして、お嬢さん。一日ですが、御厄介させていただきますよ」
簡単にやりとりを済ませた頃合いで、院長が養育院の概要を説いた。
「最近、私どもの住んでいる惑星の近所では、どういうわけか百年ほど前から紛争が絶えませんでね。当惑星国家の福祉政策として、迫害されて身寄りのなくなった子ども達を引き取っておりますの。代表して挨拶をしてくれた最年長の子は、現在人間の年齢に換算すると十二になりますわ」
鼠型の亜人種は最も高くて一メートル二十センチまでしか伸びない。エクトルも資料で知っている。では今のリーダー格の少女は種族中でも高身長かつエクトルと年齢が違わないということだ。この先より向こうへの進み辛さがより増した感じがした。
院長は、やや声を小さく低めてベヌンの耳元に何事か囁いきはじめた。頷いた紳士が口を開く。
「よろしいでしょう。子ども達に語り聞かせるのは好きです、ゲストの特別講師を引き受けましょう」
どうやら一日限定で教師のボランティアをやることになったらしい。
院長の引率で、教室として使われている部屋に案内される。エクトルもひとまず付き従った。ベヌン以上に正統な肩書も理由も当たり前だが持ち合わせていない彼は、単独でいればただの不審者だ。連れ子を偽るにしても不自然だろう。何より、ここでは身の置き所がない。
挨拶で集まってきた子ども達の何人かもワイワイと付いて来た。エクトルはもともと何であれ子どもと接するのが苦手な分、横脇で走り抜ける小柄な体にひどく気を遣いながら歩いた。
教室は素朴な造りだった。カーペットを敷いた床に、黒板。予算の関係か電子製ではなく、中古で仕入れたと思しき旧時代的手書き式でチョークの消し跡が疎らに残る。扉のある反対側の壁は上半部がガラスの大窓で、やや傾き出した日が淡く室内に差し込んでいる。白い壁と天井を仄かに黄色く染めている風景は温かみがあった。
教室の席は座卓らしく、低い楕円形のテーブルが点々と並び椅子の代わりに何枚かのカラフルなクッションがある。
このモダンな空間と元貴族の館だった外装が合わないので、子ども達に合わせて部分的に改装されたものと見て良いだろう。
授業のない日は遊び場として使われているらしく、中で何人か児童用の画材道具やゴムのボールを握っていた。
扉を開く音を合図に、一斉にこちらを見つめくる子ども達の瞳には、好奇心と見慣れない人物を探る警戒的色合いがないまぜに漂っている。
院長に付き添われ、銀幕の向こうの俳優のように端然とした大人の男性が現れたのだから一斉に落ち着きを失くすのは当然だ。
「御機嫌よう、諸君。はじめまして。急にやってきて、驚かせてすまないね」
紳士は子ども達の目線に合わせられるよう、膝を落とした姿勢でにこやかに挨拶した。見事に心得た仕種だった。
中にいる子ども達は、大人しい子が半々、健気に活発さを出している子も半々という印象だったが、真っ先に口を開くのは決まって物怖じしないタイプの後者である。
見るからに悪戯好きの小僧という顔つきの少年が一人、ニタニタと目を光らせながら紳士の膝元の前まで近寄ってきた。
ベヌンに対し堂々と、子どもならではの生意気なちょっかいを掛ける。
「ひゅう♪ 色男って奴ですか、先生。若いハンサムなお兄さん呼んでくるなんて、太っ腹ですなあ」
「おや、おませな少年君だね。私には恋人がいるから、残念から君の予想は大外れだ」
子どもらしい横柄な冗談に対し、ベヌンは軽く左目を瞑って悠然と微笑んでみせた。
「私が色男なら、君は快男児かな? 前へ前へと進み出る力があって元気がいい、実に将来有望だ」
気の効いたジョークでのお返しに、子ども達全員が和やかに湧く。大受けだったようだ。
「こらいけませんよ、あなた。申し訳ありません公子様。もうすぐ十歳になる子なんですか、生意気盛りで……抑えるのにいつも苦労します」
紳士が寛容に平然とした態度で受け止めていても、院長の立場としては気が気ではないだろう。すかさず少年を叱りつけ、紳士に謝罪した。
「構いませんよ、院長殿。厳しい生を越えて、余裕を手にすることができた証だ。 彼らの言葉には、情があるとわかります。むしろこれほどの勢いが備わっているのは、喜ばしいことです」
「そんな、すみません……勿体ないお言葉です、ありがとうございます……」
院長の女性は恐れ多そうに、美丈夫の懐の広さに只管感服している様子だった。
しばらくして場の空気が落ち着いた時、客人に視線を集中させる子ども達に向けて、当人であるベヌンはおもむろに切り出した。
「さて。私は今日、院長先生に特別なゲストとして招待されたんだ。何のゲストだと思う? 一日授業の先生だ」
子ども達は遊戯も好きそうだったが、同時に勉強熱心でもあるようだ。歓声を張り上げ、意欲的な眼差しを紳士に向けて次々に注ぐ。遠巻きに見ていたより顔つきの幼い数人――多分年少組なのだろう。彼らも、積極的に前にいる年長らしき子らの背後から覗くようにしてだが、しっかりと近くへ寄っている。
「院長先生から、授業の中身はなんでも構わないとお言葉をいただいている。そこで今回は君達に、私の旅の話をすることにしよう」
直ぐ様、子ども達の顔色が輝かしい期待で色めき立つ。ここまでの打ち解け具合は、紳士の言葉遣いが流暢かつ柔和という技巧と特性に依ったものだけではないからだろう。
初めて会った者にも、不思議と心から思い遣り寄り添い易くなる信頼性が感じられるのだ。
姿形は超絶した美しさに象られているのに、接する者との間には安らいだ親近感が生じる。
だからエクトルも、紳士となら生きる楽しみが探求できると望みを抱いていたのだ。カフェとの些細な談議で変な疑念が湧いても、次の博物館における颯爽とした活劇でその感情は回復したはずだった。
――この空間に踏み込むことになるまでは。
何やらまた、穏やかではない違和感のようなものが内側で疼き始めている。
しかしこの瞬間には、それを明解に表せる術は思い浮かばなかった。隅で佇む恰好となっていた彼も、その場では自然に紳士の話術に惹き込まれていた。
授業内容でベヌン氏は、自身がこれまで宇宙を行く旅で見て来たもの・聞いて来たものを物語のようにして伝えていた。専用のスペースシップで惑星間を渡ったこと、珍妙ながらも華美な動植物、奇跡のような色彩を多様に帯びた大自然の風景、異なる体系のテクノロジーで生まれた文化・造形・遺跡・景観――特別授業の時間として与えられた一時間半の中で、紳士は巧みに緩急をつけながら退屈させない広大な世界を描き出していく。
また口頭で伝えるだけではなく、記録した実際の映像を時折見せながら話を膨らませていた。
紳士の懐中時計型端末にはプロジェクター機能も搭載されているようで、黒板とは反対側の何も無い壁に向けて円盤を掲げるや、ワイドな長方形の画面が照射された。子ども達は機械製による進歩の恩恵に預る機会が少ないのか、エクトルより遥かに度合いの大きい驚嘆を示していた。
エクトルの惑星が属する文明圏のレベルでは、現在八百万以上の画素数を有する映像鑑賞はテレビでもネット上でも当たり前となっており、立体感を匂わせた有機性の感じられる平面映像そのものに対しては改めてさほどの驚きを感じない。
だが空中への照射式となると、有機的な高解像に至る規模までは一般的ではない。技術自体は普及しているが、業務用機器で出回る範囲に留まっており、家庭用の空中映像は依然画素数が不十分だ。未だ映像を透かして風景が見えてしまう状態なので、観賞用装置としては好まれていいない。
対して現在紳士が用意した空中照射式映像は、画面内における風景の遠距離までかなり鮮明に映し出す、一ミクロンの粗も残さぬ浮き彫り加減の映像美を誇っていた。さりとて、不気味の谷間のような生々し過ぎる故に酔いを催しかねないストレスは微塵もない。
画素数の濃さが高まるに伴い、個人差で気分の悪化する鑑賞者が生じる危険性を孕んでいるものだが、恐らく紳士の属する文明圏におけるテクノロジーの結晶なのだ。その点に気づいたという意味では、エクトルにも子どもらとは違うベクトルながら一抹の驚きがある。
紳士はこのプロジェクター映像を活用することで、過去訪巡した惑星での経験に臨場感を添えて子ども達に届けていた。簡素な教室の中に浮かぶ、躍動感を持って展開される映像と共に、無人地帯から生命棲息地帯まで幅広く紹介される。
強い磁力を持つ地面を活かし、建造物全てを数メートル浮遊させた無重力のような性質のある惑星の都市。巨大な宿木が茂り、そこを住居として営む森と一体化したような民族。一日を通し、青空と夕空が同居したような淡い天穹に覆われて暮らす、神話的衣装に身を包んだ鳥頭人身の種族。古代ガイアに存在した動物崇拝の神話世界を彷彿とさせて、惑星外交流が無かったとされたはずの時代でも実は秘かに繋がっていたのではないかと想像が膨らんだ。他には、惑星の表面全てが海水で包まれた環境により、海底に大都市国家を建造する人魚に似た美しい種族の世界、等々。
エクトルも陶然と呑まれざるを得なかった。膨大だが、恐らくほんの一部に過ぎぬのだろう。魔術使用を国体とする惑星について話す際には映像を持ち出さなかった。神秘的技術として尊重する法律により、外部に漏えいしてはいけないため撮影が禁止されたからだということだ。
だが、そのような僅かな制約も意に介さぬ程に、視聴者の子ども達は発見の連続で感嘆に尽きなかった。脆弱体質と診断されている上に、忌まわしい経験がもたらす記憶から怖がって外に出たがらない彼らにとって、豊富な思い出の記録は眠っていた好奇心を揺さぶったに違いない。及び腰で見守っていた幼年組も、ぼんやりとした目を徐々に大きく輝かせていった。豊穣な彩りに満ちた物語の数々に、子ども達は次から次へと手を上げて新しいもの或はアンコールをねだる。
親身な彼との交流は、凍りついていた子ども達の心をたちまちときほぐしてしまった。
「私、院内の本全てを読んだけれど、私たちのように命も短くて体は小さい、おまけに家を追われた種族の中にも、成功して、夢を切り拓いている子がいるなんて知らなかったわ」
読書好きの少女らしい子が両目を煌めかせて隣に座っていた少年に呟いた。
「俺もだよ。自分は少年兵にまで駆り出されずに済んだけど、大人に爆弾を持たされても健気に踏ん張り続けて、最後には逃げ切れた奴がいるんだ。俺、院を出てたらどこかの農家に弟子入りしたい。認められるようにちゃんと知恵をつけて、実家に昔広がってた農場を復活させるんだ」
「ベヌンさんが紹介してた変わった惑星に、乾いた土地を高速で潤す植物があったよね。行って手に入れる方法、教えてもらおうよ」
境遇の関係から厭世感を宿していた子らも当然のようにいたのだろう。ベヌン氏の授業は、好奇心と同時に、内に眠っていた生きる気力に火を付け呼び覚ましたらしい。
しかし希望が生まれ始めたその光景の微笑ましさを、エクトルは頭では理解できても素直に受け入れられなかった。
授業時間が終了する頃、養育院では定例の〝おやつ時間〟が始まるらしい。ベヌンが好意で呼ばれたものはもちろんのこと、成り行きでエクトルも呼ばれることになった。
食堂の長机に、ベヌンは子ども達に両側から挟まれる形で着席した。既に子ども達の中でも懐っこい者が手早く目をつけて手を引いていたのだ。エクトルは席を勧められるより先に、反射的に人気のない端の方を選んでいた。
ベヌンが両隣りの子ども達に愛慕の感情を寄せられ、快く笑顔の応酬をしている傍らで、向かい側が空席の一番端に腰を降ろすこととなったエクトルは、口に食物を運びつつ一人だけ浮かない表情を続けていた。
出されたものは決して粗末なものではない。少ない資金の中で、せめてものと院長女史が心を砕いて栄養のある美味しいものを作っているのだろう。飾り気は少ないが、野菜や果物を使った自然な色味のクッキーやパウンドケーキは口内を甘く癒す。ゲテモノ以外ならエクトルに好き嫌いはない。ただ現実では、脳が味を美味しいと認識しても、動作は淡白で機械的に繰り返されている。
とにかく現在の心中を圧倒的な気不味さが占めていたのだ。団欒を楽しんでいる紳士に、勘弁してほしいという気持ちが否応なしに溢れる。
自分など、ついでで呼ばれたのだろう。その意味でも無性に気が進まない。礼儀として食事の誘いに応えるのはいいが、大家さんの作る夕飯の時間が考慮すべきではないのか――
というように、最もらしい断りの理由を口にしても良かったが、それは最善の手とも思われなかった。反対的意思と臆病さの鬩ぎ合いで今のエクトルの心理はまさに矛盾していた。
〝おやつの時間〟の終了で見学は締め括りとなった。玄関口に向かう紳士を見送ろうと、年長達を先頭に子ども達が駆けてくる。
「本当に来て下さってありがとうございました。おかげで子ども達は、かつてないほどに素晴らしい時間を過ごすことができました」
子ども達の先頭に立って院長がお礼を言った。
「それでは子ども達の方からもお別れの挨拶をしてもらいましょう。さあさあ、リーダーのチェリル、お願いしますよ」
再び最年長の女子が前に進み出た。主張は強くないが意志を感じさせる、健気で愛らしい笑みを唇に載せていた。
後三年も経てば彼女も十五歳だ。制度では確か、十五歳を過ぎると大都市圏へ越させるための空中高速鉄道切符、ならびに稼ぎ先を得るまで最低限必要な日数を見込んだ生活費を付与される。
要するに扶養期限は成人を迎えるより早く、心身が充分ではない内に追い出されてしまうということである。長命で頑健な亜人種族の子なら、大企業が投資して建設した養育院で完璧な庇護を受けている時期だ。活用し得る人材の可能性がある種族であれば、身の上がなんであれ民間が金を注いで守るのだ。力ある者が使える者を決めている。
改めて少女チェリルの相貌を見ると、大人びた面持ちにどこか儚げな雰囲気が漂う。しかし覚悟を持って将来を見据えているかのような芯の強さをも讃えて瞳を光らせていた。それは養育院史上最も奇跡の降臨に訪れた聖者に逸れることなく向けられている。
「あの……よかったら、また来て下さいね」
はにかむような笑みで口元を緩ませ、精一杯の調子で丁寧な挨拶を絞り出した。
対する紳士も、優美な目と唇を綻ばせ、健気な少女に誠実な応えを送る。
それが、決して急拵えに取り繕ったような、社交辞令でも気休めでもない印象の文言であることが、エクトルの沈みかけた気力をより揺さぶった。
「ぜひ、再び足を運ぼう、とお伝えしたいところだが、私もまだ修行中の身なんだ。成し遂げられるのが何時なのか、今は自信を持って断言できない。だがいつか、恥じらいなく修行を達成したと胸を張って言える時分に、君達にもわかるような証拠を掲げよう。皆の成長に負けぬよう励まなくてはと、教えてもらったのは私自身の方だからね」
少女の笑顔が明るさを増して、パッと光を弾けさせたように見えた。周囲も意欲的に高揚した様子だった。
また、少女が挨拶をしたことを皮切りに、後方に控えたり、疎らに散ったりしていた他の子らも口々に言い出した。
「じゃあね、おじさん、また来てね」
「おじさんなんて失礼よ。素敵な人、王子様って呼ぶべきだわ」
てんで好きなようにわいわいと騒ぎ立てながら、楽しそうに紳士を見送る子ども達。
本来なら祝福を祈るように、慈しむべき光景なんだろうなと相変わらず片隅に位置してエクトルは考えていた。
紳士に続いて挨拶をする様子を見せることなく、直立で仏頂面をぶら下げながら佇んでいる。
だが、子ども達との交流に夢中な紳士も、言うまでもなく紳士しか相手にしていない養育院全体も、特段不愉快とは捉えていないだろう。
はっきりした挨拶を交わし終えた直後も、二言三言締まりなく雑談を添えている彼らを認めたエクトルは、無言で身を翻すと一人で扉を開けて門の外へ歩いて行った。
*第十話へ続く
(捕捉)
懐中時計型端末の機能については他に、滞在先の時間の区切り方を自動算出するものがある。エクトルの文明圏は地球社会より引き継いだ二十四等分の定時法であり、紳士の使用する端末内にある複数の円盤の内の一つが現在、その数値の並びを呈している。惑星によっては、自転速度により、一日の終始の区切り方が異なったり、生活リズムに応じる不定時法で単位時間を決定する文明圏も存在するため、〝彼ら〟のオーバーテクノロジーによって如何なる場合も適応できるようにと生み出された。