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星空(うちゅう)から来た〝先生〟  作者: 鞠宮 果泉(まりみや かせん)
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第八話 博物館にて

(2020/12/13)大幅に追記を行いました。

 カフェでの談議と昼食を終え、次はいよいよ大きな目的となる博物館だ。史跡探訪を遊学の重要なポイントしている紳士にとって、切実な目的地の一つと言えよう。到着したのは十三時台、地域では割合広大な施設を見学仕切るには充分間に合う。

 町の博物館は、図書館より二キロ離れた場所に建てられている。通りから見上げると、なかなかに壮観な大型建造物だ。

旧文明発祥惑星(ガイア)の古代文明の一つにてドーリア式と呼ばれた形状の白い柱が等間隔に並立し、微細にレリーフが彫り刻まれた麗厳な四角い屋根を支え持つ。段面の広いなだらかな階段を昇り終えた先に、柱の波が途絶えた空間が広がり、奥の方に自動式の門扉を控える。

 それにしても、旧文明発祥惑星の公共施設に関する建築史を調べた時、キュビズム、モダニズムなど新しい様式が次々と打ち立てられていったのに、何故新惑星に移植後も王侯貴族が隆盛した時代以来の古典様式を一部引き継ぐことにしたのだろうか。内装には古典様式とモダン建築を混合させた作りが多いが、この町に限らず外装に関しては古典様式で固めた場合が大半を占める。

 良い物であれば永続すべきとはエクトルも思うが、古い空き建造物を改装するわけでもないのだから、植民惑星発の様式を編み出しても良さそうなのに目立った芸術革命が起こらなかったらしい。或は、「博物館と言えばこの形」、「美術館と言えばこの形」というように、単なる形式的なイメージで設計した可能性もある。この町の設計を担当した人物が懐古趣味なのだろうとエクトルは適当に片づけた。

 窓口で通常展示を観賞したいことを申し出て、大人二人分のチケットとパンフレットを購入した。支払いを担当したのは紳士だ。例の芸術品の如く装飾豪華な懐中時計型端末を取り出し、窓口横の壁に取り付けられたパネル型の決済機器に翳す。センサーが鳴って、銀河網共通(コスモネットワーク)電子通貨(デジタルマネー)にて受領したことが画面にメッセージで表示された。

 端末装置には決済機能も付随していたのだと知って、エクトルは軽く驚嘆の声を上げた。

 今回の訪問は自分たっての希望なので気兼ねする必要はないと、紳士は配慮してくれたのだ。

 頭が下がる思いだ。本音ではエクトルも救われた気でいる。紳士が来て以降張り切ってしまったせいで、少ない見習いの給料では財布の状態もそろそろ限界という頃だった。普段、端末を利用したコード払いと現金払いを併用しているが、いずれも備蓄は僅かである。

 当惑星においては、他の意思疎通可能領域に属する知的生命体生息圏内の星系に共通して定められた〝銀河網共通電子通貨〟にて売買の支払いをすることが一般方式となっている。

 ただし、現状は法律による強制ではなく義務だ。例えば、上京先のこの小都市における日曜の青空市は、経営各者の方針と嗜好にかなり委ねられており、紳士も焼き菓子の購入に現金払いを選んだのは屋台主の意向に従ったためだ。紳士は平日の間に、全銀河系各所に設置義務の敷かれた両替機で処理を済ませていた。

 この町では他にも財政的事情も関係し、一部の豊富に資金を投入された公共施設のみが、最新の良質機能を備えた電子決済機器を完備している。お年寄り人口が多いという需要に合わせ、図書館や博物館、公衆浴場における設備全般が満足と言える状態だ。

 金箔で動植物の模様が装飾された大きめの自動扉を抜けると、中央部が高く吹き抜けた大理石床のロビーが広がっていた。大理石は乳白色で、浅葱色の壁と相まって全体を優しく明淡な印象に染め上げている。由緒ある場ならではの威圧感を抑え、温かみ・親しみある雰囲気を漂わせつつも居住まいを正したくなるような高級感を保持した絶妙なバランス加減だ。お金をかけただけのことはある。

 吹き抜け構造の部分には、オペラの舞台を彷彿とさせるような大階段が聳えていた。踊り場の途中で階段が二股に枝分かれし、二階に向けて羽を伸ばしたような形を描く。

 友人はどこで業務をしているのかと、館内を見渡す。もしかしたら事務室でデスクワークに追われている可能性もあり、観覧者のいる前には現れないかもしれない。そう思っていると、視界の端――数名の老人方による集団ができている一角で、身振り手振りをこまめにしている青髪の痩せた青年の姿が捉えられた。イローニだ。普段着のパンク寄りなファッションと異なり、黒いベストにズボンというラフなスーツ姿をしているのが案外堂に入っている。1階にある展示室の前には、入口と出口との二箇所通路が設けられていたが、彼はちょうど出口側の外でガイド役の挨拶をしているらしかった。案内を終えて解散の段取りをしているのだろう。

 お年寄り達が緩やかに玄関口へ下がっていくのに合わせ、エクトルはそろそろと友人の付近まで歩を進めた。

 去り行く集団を見送っていたイローニも、新たな物音に耳聡く気づいたらしい。さっと入口方面を振り向く。


「あれ? オタクが博物館? 珍しいなあ、いっつも関心なさそうな癖して。先に言っとくけど、年間パスとか前売り券の優遇はしないから」


 突如友人が顔を覗かせようが、淡々とした自分の調子を崩さない。どころか、愛想代わりの毒舌を振るう通常運転の徹底振りに、エクトルはクスリと苦笑しつつ駆け寄る。紳士は後方で行儀良く、入る直前で脱いでおいたコートを片腕に掛けて控えていた。親友同士の水臭い挨拶にはいきなり介入せず、紹介があるまで待機しているという配慮なのかもしれない。


「当たり前じゃないか。君に大安売りの権限がないことくらい知ってるよ。今日は特別な知り合いを招待したくて寄ったんだ」

「……それって、あの人?」


 エクトルの頭越しに長軀の人影を発見して察しがついたらしい。紳士の方も、青年の目線に気づいたのか、微笑みを浮かべて目礼した。


「ちょっと、オタク、少しこっち来なよ」


 紳士の会釈を視認したと思われた次の瞬間、突然イローニは声を落として強制的に誘導した。エクトルの手首を掴むや、付近に立つ柱の一本の裏側まで引っ張って身を潜ませるようにする。格段に太い柱ではないから、人間二人分完全に隠れるわけではないが、そこは問題ではないらしかった。

 元より冷然としたガラスのような瞳を僅かに睨みで強張らせ、為されるがままで呆然としている少年に詰問する。


「人が悪いぞ、オタク。いつの間にパイプとか築いてんのさ。あれ、只者じゃないだろ? いかにも大尽風だし。何か凄いとこに手紙出した?昨日、今日の話じゃないだろ、絶対。普通、ボクに真っ先に経緯教えるものじゃない?」


 顔つきは相変わらず鉄面皮じみていたが、以前まで有り得なかった親友の状況に相当面喰ったのだろう。些か興奮を孕んだ声音で矢継ぎ早に捲し立てる。


「やれやれ、君らしい捻くれた視点での疑い方だな。なに、至って僕らしい運命の流れだよ。天からの気紛れなる幸運な授かり物さ」


 からかうような上目遣いでニタニタと笑いながら、ありのままの経緯を端的に説明した。

二週間前、図書館で別れた後、星間旅行でやってきたという彼に偶然出くわした。近隣に適度な宿泊施設が見当たらなかったため、好意から滞在を認めることになった。交流する内、具体的には明かせないが高貴な出自であり、お忍びで遊学に臨んでいると知り得たのだ。告げた内容は以上だったが、案の定威力はかなりのものだった。


「うそお、マジでっ!!」


 イローニにそぐわぬ、返り気味の高音が飛び出る。しかし、直後には元の調子を取り戻した。


「でもさ、どういうコネで拾ったわけ? 幾ら不時着だからって、本当に良いとこの紳士様が、どこの馬の骨とも知れない児童に世話なんか頼むかねえ」


 わざと疑いを続けるような、意地悪じみた問いを放つ。口元には決して笑みを浮かべず、目には濃厚に笑みを浮かべるという器用な表情をしながら。


「失敬だよ、そんな見方。本当にただ気の毒だから止むを得ずって流れだったんだよ。来星した時間が時間なんだし」

「てっきり要人の鞄持ちのバイトにでも応募したのかと思ったよ。将来性が見えないから、保険用の掛け持ちとして」


 疑うというより、信じ切れぬという衝撃が案外強かったのだろうか。偶然の知り合いとしか紹介していないにも関わらず、黙っていても風貌から滲み出てしまうものなのかえらく大袈裟な関係性を得たと思われているらしい。確かに、自然に見て釣り合いが取れていないのは重々承知だった。

しかしだからといって、変に個人の待遇の悩みと結び付けられるのは困る。余分に皮肉を添えるのがイローニの会話スタイルとはいえ、衝動で言ったような愚痴をこのような時にまで引き摺られるのは勘弁してほしかった。


「どこまでもシニカルな奴だなあ。この紳士(ひと)と僕なんかの懐事情を繋げて語るんじゃないよ」


イローニは毒舌の放流癖が収まったのか、身を潜ませた姿勢のまま、一旦柱の端から入口付近を垣間見る。

 やや逆光になるようにして、秀麗な紳士が佇んでいた。待つ間は、購入したパンフレットに目を通しておくことにしたらしい。手元に薄い冊子を広げ、捲る仕種が見えた。

 人物の様子をそっと確認するやイローニは再び柱裏へ顔を引っ込めると、エクトルに向き直り調子の良いことを言い始めた。


「こりゃまた大した紳士じゃない。辺鄙な田舎町には勿体ない風格だ。貴公子と言っても宇宙は広い、ピンからキリまで色んなタイプがおろうが、彼の場合は恐らく銀河中に辣腕を馳せる名士に違いないね。サインもらっといたの?」

「不謹慎だよ。確かに立派な人だけど……まるっきりのプライベートとして旅行に来てるんだ。遊学も、個人的な趣味によるものらしいよ」

「ふーん。でも、含みのある言い方って気がしなくもないね? 近頃一歩でも大気圏外を出たら危険区域にルートが繋がるって言うし、英才教育を叩き込まれているような高貴な人が政事まつりごとから離れて、航路をフラフラしてて問題ないわけ? 怪しくね?だいたい、徳の高い人って言うけどさ、実は嘘ついて逃げ回ってる脱獄犯かもしれないじゃん」


 エクトルは、かつて紳士が事情を伝えてくれた時に漂っていた繊細な心理を思い、彼の父親に纏わる部分は敢えて削っている。配慮に長けた物言いが優れているとは言い難いイローニでは、特別な人間が相手だと理解したところで心にない発想に結び付けるのではないかと不安になるのだ。当惑星では実現し得ていない超高度な飛行技術のある可能性も黙した。

直ぐ様冷汗を垂らしながら、焦った調子で釘を差す。


「毒舌もいい加減にしなよ。まだきちんと対面してもいないのに。海より深い事情をお持ちなんだ。学芸員を目指す立場なら、想像力くらい鍛えろよ。日頃の僕を説教できないぞ」


 イローニは、初めてバツが悪そうに目を丸くしつつ、唇から舌先を突きだした。


「ありゃま、オタクを怒らせちゃったか。悪いけど、ボクは昔から箱を見ただけでは、どんな種類の人間だろうと安易に評価しないことにしていてね。ボクにとって偉い奴ってのは、見返りを確約する奴に限るの。実際に触れてみて本物なら、尊敬に値すると認めても良いよん♪」


 口では依然悪びれぬまま、ようやく身を柱から剥がすと来客のいる位置に向かっていた。エクトルは心配の収まらぬ心地で追う。

「おや、親友同士の挨拶は終わったかな」


 紳士はパンフレットを閉じると感じ良く面を上げて、駆け寄る青年と少年を迎えた。


「いやあ、肝心の初対面だと言うのに、挨拶が大変遅れて真にすんません。ボクはイローニという者です。どうか御気分を害されぬよう。エクトル氏ってば要領悪いから、打ち解けた奴と話し出すと、中々まとまらなくてねえ。ほんと世話になってます」

 

よくも出鱈目な口八丁を手繰るものだと、傍らのエクトルは義憤よりも底無しの呆れを覚える。言い訳に自分を虚仮にした冗談を繕われるのは平気だが、紳士を相手に生半可な敬語で舐めたように応じるのは遠慮して欲しい。


「君が案内役の子かな? こちらこそ、私自身からの御挨拶がまだだったね。エクトル君、君に橋渡しを長くお願いしてしまって済まない」

「いいえ。僕の方は、そんな。待ちかねていらしたのは、ベヌンさんの方なんですから」

 

自身の事情について、伝えるのが難しく込み入っていたのだと解釈したのかもしれない。柔軟な彼の懐に申し訳なさと感謝を内心で捧げながら、二人を交互に見遣った。


「それにしてもイローニ君は、面白い話術を操るのだね」


紳士は、初めて会う同居人の友へ再び視線を向けて、柔和に相好を崩しつつ話題を振った。


「ある分野に特化しているようで見事だと感心させられたよ。しかしながら普段、隣にいる存在を利用するという手法については、博打に等しい難儀さがあるかな、残念ながら見習うのは厳しそうだ。友人殿を重んじる表現に拠った場合の話術をも研究されているというなら、これから知り合いとなる暁に是非手本とさせていただこう。何せ、エクトル君は、イローニ君だけの友ではなく、今や私の友でもあるのだがね」


 言葉を切ると同時に、美貌の紳士は至って和やかに右目を瞑ってみせる。

ところが途端、慇懃無礼に脱力した体でいたイローニの顔に、真面目な緊張が走った。自分の根幹とも言える毒性について指摘されるとは思わなかったのだろう。しかもやんわりと為されたことで、より驚いたらしい。友人の大きな反応をエクトルは意外に思いつつ、ふと込み上げてきた失笑に唇を抑えて静かに一歩下がった。


「あ、えーっと……こ、これは。大変、し、失礼しましたっす。では改めて、は、はじめまして」


最前までの滑らかな舌鋒はどこへやら、ぎこちなく固まった青二才そのもののどもり調子で言葉を連ねる。紳士が独自に有する超然としたオーラが、遂に屈折した皮肉屋の精神にも響いたのだろうか。


「こちらこそ、はじめまして。エクトル君から、この町で無二の貴重な御友人がいるというのは聞いています」

「き、貴重……スかね。買い被りですな、大層なもんじゃないっスよ……」


失敬を犯した上で、礼節の整った挨拶を賜るとも思わなかったらしい。急激に当惑している友の姿を見るのは新鮮だった。日頃、兄貴ぶって説教まがいの口調で攻撃をしているのだから、少し良い気味にも感じられた。


「へえ~。箱の中身も判明すればチョロイものだと言うことだね。実践と証明、御苦労さま♪」

「よせやい、お手上げだ。オタクと紳士殿の勝ちだよ、エクトルの坊や。この界隈じゃ、腐っても皮肉(シニカル)はボクの専売特許という自負があったのさ。チクショー、それを上品なカウンターパンチでかわされちゃあ、敵わないや。ま、全ての手並みを見尽くしたわけじゃないけどね」


 強がっているのが、妙に往生際の悪い言い訳を捨て吐く。


「あと、最初に敢えて触れなかったけど、あの容姿端麗さは卑怯だよ。もう一つ、怯ませたものがあるとしたら、()の破格な顔立ちさ。遠目で見た際は、あんまり意識しなかったんだけど……真近で向き合った時、まるで高級な宝石細工の瞳に覗き込まれているようで、瞬時に全てを見透かされたかのような錯覚に陥ったよ。男前が売りのトップ俳優でも、彼ほど幻惑的な雰囲気は放たないと思う。間違いない、貴人を理由にするには足りない程の、特別な存在さ」


 容姿に惑わされることはないと豪語した彼までもが、結局は麗人特有の魅了に取り込まれたらしい。彼が素直に相手を褒めるなど、親密でも滅多にないことだ。その珍しさについてもエクトルは可笑しく感じられて、こっそりと忍び笑いを洩らした。

 紳士には、小声でも青年の上気した物言いは響きで伝わっているはずだ。それにも関わらず、優雅な物腰を快く呈しながら、大きく美しい反りを描く手をしなやかに差し出す。


「では、ぜひ案内をお願いしよう。エクトル君の御友人、直々に町の魅力の一つをお教えいただけるのだからね。私も誠意を持って、新たなる知見の摂取に臨もう」

 

颯爽と宣誓するかのような響きに、イローニも穏やかな表情で握手に応じた。常真一文字に近い唇を僅かに綻ばせている。


「先ほど、一通りパンフレットを読んで展示内容の項目を確認していたのだが、〝古代の電子製品〟というのが特に興味深いかな」

「ほお、ベヌン殿、お目が高いですなあ。一同、中々に気合いを入れて取り組んだ部分ですよ。ぜひご賞味くだされ」


 和やかに落着してくれたようで何よりだ。打ち解けた二人の様子にエクトルがホッと一安心の息を吐いた時、入口玄関の外側から別の若い男性職員が姿を現すのが見えた。足早にイローニの方へ駆け寄り話し掛ける。


「イローニ君、直にマリー・スーザン氏の訪問時間だぞ。お客さんの対応中に悪いけど、そろそろ準備しといて」

「げっ、ちょっと待って。このタイミングはまずいかも」


 急にイローニの声音にあからさまな焦燥が混ざった。とんでもない重鎮の訪問予定でもあるのかと思っていると、程なくして細く打ち鳴らすような足音が聞えて来た。ハイヒールのようだ。

 刹那、無機質なイローニの顔がサッと青褪める。


「来た! やばい、奴だ、あの女だ! あの鬼婆が来たぞ!!」


 器用に小声でもって必死に騒ぎ立て始めた。冷静な友が落ち着きを失くすなんてどんな相手かと思い、音の来る方向に目を遣ったエクトルは眉を顰めることになった。

友が表現通する通りの物騒な成りをしていたからではない。それとは裏腹の印象をした容姿だったから妙に感じたのだ。

 出迎えをしていたと思われる先輩職員らしき男性に対し、女性客は上機嫌な柔らかい笑顔で会釈していた。イローニの方にも気づいて、軽く頭を下げる。


「あら、今回の展示準備に参加されていた新人さんがあなた? 私がマリー・スーザンです。以後、お見知りおきを」


 落ち着き払った雰囲気を纏っていることから、恐らく実年齢は二十代を過ぎているのだろう。小柄な身長に緩やかなウェーブを散らした紅茶色のロングヘアー、肌艶溢れるやや幼作りな面立ちという令嬢らしい要素があどけなさを醸し出した美女だ。大きく下げられた眦からはおっとりさが漂う。

 しかし、服装は可憐な容姿と釣り合いが取れていないように見えた。

 顔つきが垢抜けているのと対照的に、身につけているワンピースは濃い原色に模様過多とケバケバしく、嫌に自己主張が強い。首より下からは年季の入った御夫人(マダム)という雰囲気だ。

そのようなチグハグさに違和感がないと言えば嘘になるだろう。だが見る限りでは、至って気持ちの良い愛想の良さを湛えている。さして害の無さそうな風情にも関わらず、「鬼婆」呼ばわりする程に友の見方が尋常でないところからすると思い当たる可能性としては一つだ。


(ひょっとして、この間、図書館で言っていた悩みの種の軍勢の一人? あんなに綺麗で優しそうな人が? まさか)


 エクトルにはとても危険な人物とは思えなかった。警戒心を誘われるどころか、思わず見惚れたくなる印象だ。


「か、可愛い人だなあ」


 素直な感嘆を込めて呟く。

 すると、イローニは弾かれたように眼を釣り上げて、すかさず友に対し忠告を放った。


「だ、駄目だよ、騙されちゃあ! オタク、ほんと見てくれの人間に弱いんだから……あの天使ヅラに騙されて、何人もの男共が傷心負ってるんだからね」


 聞けば、毎年スーザンが講師として勤務する大学の講義では、彼女の甘みある美貌に誘われて尻軽い男子学生が何十人も希望するのだが、難儀な性格のために一日目の分が終了する頃には皆幻滅して取り辞めるらしいのだ。約8年の在籍を経て、不人気講義開講者のトップメンバーに殿堂入りしているという。


「えっ…マジ……」


 ベヌン氏のような、外貌を裏切らない人物性を備え持つ存在と懇意になったばかりだ。傍目には信じたくなかったが、おべっかに心血は注いでも嘘を吐くのは不得意な親友が力説しているところを見ると、信憑性は高まる。憧れていた見習い先の大半を占める先輩陣の実態を知り、重く落ち込んだ時の嫌な気分が蘇るようであった。


「わかるでしょ? 底抜けにふざけた格好の癖に、質の高い仕事だけは一丁前にやり遂げる嫌味な連中に包囲されちゃったオタクなら」

「君のいうことなら真実だと思うよ。でも、なかなかピンと来ないなあ……。具体的には、何が問題にされてるわけ?」

「至極単純な話さ……あれだよ……俗に言う……クレーマー体質ってやつさ。それも、気に入らない対象を、とことん(けな)して自身の理想形を過度に持ち上げるっていうね……とびきりタチの悪い方だよ」

わざとらしいくらい歯切れの悪い口調で言いにくそうにも言い切った。

「じゃあやっぱり、悩みの種の軍勢の一人なの?」

「そうさ。他にも、四、五人いるんだけど、今のところ彼女が主要な御意見番を張ってる状況だね。そもそも意見言いにくる奴って、歴史関係者が特に厄介なんだけど、何を隠そう彼女の専門が考古電子学論なんだわ」


 紳士が注目した〝古代の電子製品〟に充分食い込んでいるではないか。親友は続けた。


「最近は、過去五万年に及ぶ電化製品の進化を中心に扱ってるらしくてさ。今回の企画展示の監修にも噛んでいる。正確には、あくまで現在名誉教授であるその権威の人物の恩師の下での手伝いという位置付だけどね。近頃ことあるごとに我が物顔で施設管理側に食ってかかるんだわ」

「え? 本来立場的には威張れないんじゃないの? だって大きく動かしているのは恩師の名誉教授の方なんでしょ?」

「実際と建前というのかな……。ま、そもそも威張るという行為自体が、もう、彼女の生まれ持った病状としか言いようがないね。大方は固有のクレーム癖で、実質恩師の名誉教授は関係ないんだけどさ。教授会に訴えりゃ良いと思うかもしれないんけど、彼女自身も下手に頭を上げられない系列に属してた人間だから、いざ掛け合おうものなら、逆にこちら側が返り討ちに陥る羽目になるよ。何せ、当惑星の大首都圏にあるトップエリート大学、星立の名門大学の出なんだからね。ずばり、ミスなんとやらと言う奴だ。やたら強気に出る人間は、反面神経質な面も持つとはよく言うよね。彼女もそんな厄介な気性を抱える一人さ。学会本部から博物館運営を岐路に立たせる政治工作でも仕掛けられかねない……」

「そんな、陰謀劇みたいなの、マジであるの? 学問の場、だよね?」

「半分はイメージだけど、有り得ない話じゃないって、上司は話してくれたかな。過去、院生時代に、ちょっと怖い目には会ったらしいし。今度、詳しく聞けないかどうか、彼の好きなお酒を買って強請ってみるから」

「い、良いよ。君も別の意味で大概怖いんだから……」

 

 イローニが巧みな音量操作で女性客の裏事情を話している間、先ほどの男性職員は尚もスーザン女史とやりとりを交わしていた。彼は主要担当者を引き受けている立場なのだろう。


「ねえ、先週の展示開始日から暫く考えてたんだけど、やっぱり現在の状態ではまだ多少の粗が感じられるわ」

「あ、速急にフラグ立てたな。よ~く見ときなよオタク、客人諸共巻き込む可能性あるけど、あの女が一度意見を口にしたらそれは嵐の前兆だからね」


 今のところエクトルには、ちょっとした感想を伝えている程度にしか映らなかった。鈴を鳴らすように清涼な声音が口調と相まって、淑女らしい品格を損なわない。


「そこで提案なんだけど、展示の日程から見直そうと思うの。まず、第一部・第二部構成に作り替えるべきね」

「……最終チェックには、スーザン先生も立ち会われていたのでは?」

 

 躊躇いがちな口調で、男性職員が問い質す。イローニの言う通りなのか、上機嫌に明るみを増すスーザン女史の表情とは反対に、彼の顔色には既に暗雲のような翳りが射し始めていた。


「当たり前でしょ。監修主任の先生のチームの一員よ。責任者の一人なんだから確かめるまでもないじゃない。むしろ、だからこそよ。より質の向上を図るための改善計画だわ。今の状態については第一部と位置付けて続行しても良いけどね。流石に時期的に無理でしょうし」


 そこは承知してるんかい、というウンザリした友の囁き声が耳元にそよいだ。


「次の第二部において、大幅な設置変更を行うのよ。つい最近、私の方で五百万年前の携帯式スチームアイロンに関して、より適切な説明文を思いついたの。勢いのあまり一晩で書き上げちゃったわ。説明文の担当者に指名された教授、毎回必ず見解が変にずれてる箇所があって、今回の出来も実は納得しかねてたのよね。恩師の先生による決定だから、意見するのを控えただけ」

「は、はあ……」

 

 男性職員の顔が露骨な困惑に染まる。何となく、無理に等しい案件を申し付けられようとしていることは推察できた。

 エクトルは、女性の言動に目を瞠る。態度はあくまで穏和なまま、妙な押しの強さを出している。少女然とした柔らかい顔つきに似つかわしくないアンバランスな状態だ。


「第二部の開始は、二週間後を予定して動いてもらえると有り難いわ。上手に告知を出すなりして、どこかのタイミングで現在進行の〝第一部〟を中断してくださいな。本音を言えば、直ぐにでも私が作成した説明文と入れ変えたくてよ」


 男性職員の顔には、口しなくても「その場で言えよ」とか、「見解なんて、あんたらの専門的なことも内輪の因縁話も知ったことか」「どこかのタイミングっていつだよ、言った方が責任取って考えろよ」という愚痴や、「今からまた俺らスケジュール調整や、プレート製作会社との交渉に追われるのか」という悲鳴が書き綴られていくようであった。口調は一定して謙虚だが、声音には徐々に当惑の抑揚が増していく。


「確認ですがスーザン先生、今のお話は全て、展示の監修主任である名誉教授と御相談なさった上での御提案で?」

「あら、今回は先生とは別よ。私個人の好意ね。素敵でしょ?」


 極めて私的な要求である。男性職員の愛想笑いが苦走ったものになる。


「し、しかし……最終的には名誉教授の確認と許可が必要では。スーザン先生の意志で変更を行われるといのなら、書面の契約に変更を加える必要性も……」

「はあ!? 書面の契約って何よ!!  契約を守らなきゃ正しい企画の形も実現できないの!? 名誉教授、名誉教授って、現在先生はお忙しいのよ、だから以後は私にも責任を委ねて下さるっておっしゃったのよ!! 」


  突如、荒らげられた声に、反射的に全身が痺れを覚えた。傍観者でありながら、思わず固まらずにはいられない。イローニの言葉は正真正銘の真実だった。ふとした瞬間に起爆のスイッチが入り、豹変する気性の持ち主だったのである。清純な容貌とミスマッチした濃い衣装は、野生の毒蛇の模様と似て、危険を暗示するサインだったのかもしれない。


「そ、そうは言っても……仮にスーザン先生が全任されるにせよ、書面の変更処置をしないわけには参りません。何よりまず、館長と話し合いを設けなくては難しいかと」

「あーあ、これだから組織型って嫌だわ! 融通を利かせる、臨機応変って言葉、学生期間に辞書だけ見て覚えましたって口でしょ、アナタ。上の人とやらに通さないといけないなんて、よくも手間のかかるやり方を次から次へと挙げるわねえ。従業員、一人一人でも判断できないように躾ているなんて情けない博物館だわ! 組織の人間以前に、アナタ学芸員じゃないの! 清く正しく美しい展示を実現させたいと思っているなら、私を連れてアナタ自身が交渉の場をセットするべきよ! アナタは今回の展示をどうしたいの、壊したいの!?」


 宥めようと下手に努めた結果が、逆に火に油を注ぐ不運を招くのはよくあることだ。収集の付き難い事態への発展を予期し、エクトルは担当者の無事を祈る気持ちで汗ばんだ両の掌を合わせる。モヒカンリーダーとピエロの指導担当に根も葉もない誹りを浴びせられる自身と被り、他人ながら感情移入を免れない。

 館内のロビーには、彼女のみならず、エクトルと紳士の他にもある程度客の出入りが見られる状態だった。しかしスーザンは怒鳴り声で迷惑を及ぼしているとは考えもしないらしい。別室に移動という配慮は選択肢にないのか、周囲に構わず苦情の速射砲を撃ち続ける。

 一人殺伐として、穏やかな色合いのトーンで占められたロビーとあまりにも不似合いだ。他の客が見て見ぬ振りをするように、展示室か近くの喫茶室へ消えていく。

 哀れな若い男性職員は、恥辱と脅えに身体中を強張らせていた。クレームがヒートした場合の典型的な発展形に移行している。即ち仕事内容だけではなく、対応者個人の人格中傷に至るパターンだ。あることないことを見出して悪罵する。これでは彼女の切望しているらしい〝真の企画展示〟とやらも却って遠のくのではないかと思えるが。現在の目的が激情の発散に擦り変わっていることには無頓着なのだろう。


「調べておられるはずだから当然御存知だと思うけど、執筆者に指名された教授は、三年前剽窃疑惑が浮上して降格させられた前科があるのよ。今回の抜擢は、寛大で親切な恩師の先生が、特別に情けをかけて下さったに過ぎない。安心して任せられるのはどちらかしらね? 学芸員は、学問・芸術・美術といったあらゆる分野、即ち文化の発信と向上に奉仕するのがお役目のはずよ。ならば、正式な教導者を審美する目を持つべきです。彼の任命に異論を挟まなかったのは間違いであり、未熟な証拠よ」

「要は女王様である自分に頭を下げてお仕えしろって意味も同然じゃないか、分かり易い過ぎる不遜さだよな」


 はらはらと見守りに徹している最中、横合いからぼそりとイローニが毒々しい指摘を入れる。涼しげな横顔には脅えの色はさほど見えず、慣れもあるのか見物人のような態度だった。

エクトルの受けていた上司の小言は、攻撃性を含みつつも嘲笑する調子だった。深く傷付けられる行為に変わりはないが、ヒステリックな当たり散らしを伴う全否定までには及ばない。

 客の方から怒涛の苦情を叩きつけるという現象に、エクトルも生では免疫がない。苦情の多い問題客を面白可笑しく取り上げたテレビ番組を通してしか知見がなく、実在を目の当たりにした段階から衝撃を受けている有様だ。身体の芯から冷え切って戦慄が納まらない。

 イローニのように、強硬な人間に対しても冷静に分析する余裕を得たいものだ。エクトルも生々しい光景に気を吸い取られぬよう、恐る恐る注意して女性を観察してみる。 

 口では正しい学問と研究の向上に力点を置いて唱えているようだが、折々で我が身の正当性を強調する口振りが窺えることから、どちらかと言えば社会貢献のために心血を注ぐというよりも自身のキャリアに酔っている節が感じられた。また、綺麗に着飾っている点が、聡明な淑女ではなく傲慢な女王らしき印象を高めている。美しい見た目が厄介な性質と絡むことで、マイナスなキャラクター付けに買って出てしまっているようだ。折角の愛らしい美貌も悪鬼のように歪んで醜い。

 洪水のように吐き出していると、本当に自分が訴えたい事柄を見失うのではないだろうか。実態が見え始めると、今度は恐怖よりも精神の過熱による健康状態の歪が案じられて来る。

エクトルの憂慮を余所に、的外れな苦情もどきの罵倒は山のように積み上がっていく。


「おまけに、ここの職員名簿がないってどういうことよ。まさか安い委託で賄ってるなんて言わないでよね。でもキナ臭い噂掴んでんのよ、人手不足で〝見習い制度〟の学生まで本格展示の設営に駆り出してるんですって? 素人に神聖な現場なんか早いわよ! 閉館後に何百回と設営の訓練シュミレーションさせておいて、出すのは控えるべきでしょう! 中途半端な運営だから、デマの研究成果で食べてる似非教授に指名がかかる有様なのね、何よ『鳳凰の流星とスチーム熱の関係』って! 根拠のない非科学的な伝承なんかと同一視なんて無知に等しい罪業だわ!私の方が歴史を揺るがす大発想と呼ぶに相応しいのよ」

 

 納得しかねるどころではない、微塵も是認していないというのが実情のようだった。まあ、確かに今聞いたテーマ設定はロマンス的で無茶苦茶だとは思う。批評の方法は散々だが。


「へ、変更を行うには組織関係だけではありません。予算の問題もあります。元より財政的に当館の規模では企画が間に合うか否かという瀬戸際だったんです、追加で補てんするには、大学と自治体にも再び申請が……」


 次第に、誹謗中傷の矛先が自分より宿敵の執筆担当教授に比重があるのだと察したものか、 耐えて聞いている内に職員の脳も少し冷静になってきたらしい。すっかり辟易している風だったが、言い淀みつつやっとの具合で別の指摘を挟む。

 しかし、自身を上位知識自身と勝気に自負して止まない女流教授は、強勢に折れることはなかった。


「今度は行政まで出してきたわねっ。上等じゃないの。そもそもね、今までの認識を塗り替えるような大々的な研究成果に対して、充分なお金を用意できないって何事!?  我々研究班、引いては学問及び文化に対して、いかに采配に欠けた無礼か肝に銘じておくがいいわ!」


 案内役の若い男性に限らず職員一同、イローニのような見習い修業社員という末端の身分に至るまで返せるほどの語託など用意できているわけがないだろう。一身に集中攻撃を受け続ける職員も、立ち竦むのがやっとという中、よたよたと対抗文句を捻り出している様相だ。対してスーザン女史は泉のように潤沢なボギャブラリーを湧出して尽きることがない。肩書も伊達ではないという証明と言えよう。相手が一言でも口にすれば、ついでとばかりに無用の怒りが呼び起こされていく。


「はーっ、博物館の展示に文句つける奴っているんだね。悲しいけどこれが現実さ。ここに実際携って初めて知ったことだよ。たく、純粋に楽しんどけっての。難癖つけて、いたいけな十代に胃炎の要因プレゼントするとか、良い大人として良心傷まないのかね」


 スーザン女史はこの博物館において、顔馴染みの客員と認識されているらしかった。持ち前で冷静かつ場数を踏んだイローニさえ、現在も警戒を出さずにいられないくらいだから、慣れへの到達にどれほどの労を重ねたのだろう。

 イローニは、自分達が女性客の注意から逸れているのを良いことに、溜まりに溜まっているであろう彼女への怨恨を社会への不満を兼ねてブツブツと呟き続ける。


「なんで文明が進んだはずの社会で、高級取りが低賃金就労者いじめる図式が健在なのかね? 人類なんて野蛮であり続けるだけなんだよ。機器が発達しても人なんて進歩できないんだ。そんでもって、面構えの良いキャリアウーマン気取ってる者も出現してるんだから、そりゃ停滞ししか見えないよな」


 毒舌砲に火が点いたらしい。口調は経典を読み上げるように平坦でありながら、声に熱はないが語気に強さが感じられる。


「政府も政府だよ。正式と非正式なんて馬鹿な分断を苦肉の策に押し通すから、階級社会の逆戻りが加速したんだ。不景気でも公平を損なわないやり方を模索すべきだった。そしたら、曾爺さんの代には、こんなモンスター絶滅してたはずなのに」

 

 イローニの言い分は最もなのだ。真っ当に使われればどんなに報われることかと思う。しかし、それは理想論だ。前提として弁えていて当然の良識が欠落している相手では、思考錯誤すれば通じるというのは夢物語に過ぎない。

 イローニはエクトルより打ちのめされた経験の長い先輩だ。都合良くわかってくれとは言わない、痛感しているはずである。恐らくその上であえて 訴えを続けるというスタンスなのだろう。孤独に陰で愚痴を吐き散らすという不毛な鬱憤晴らしによって。

 エクトルは、口の悪さを差し引いても確かに共感し得る点も大いにあると、とかく舌鋒の奔流に耳を傾ける。


「どうせ権威ある先生様なら、ボクらのような力なき下々の労働者を慮って、業界の将来のために働き方改革の提言に動いてほしいよ。何で務める者の環境作りにこそ力を活かしてくれないかな、支える側の苦労より手前の利益優先かい。欲求に偏重する思考しかないなら、お釈迦になれば良いのにね、そんな脳味噌。使えないんだから」

 

 もはや独り言に近い勢いで加速していく。

 聞き手を無視し始めた頃だと悟り、エクトルは友としていい加減ストップを掛けようと口を挟んだ。


「それよりさ、助けなくていいのかな、先輩職員さん」


 エクトルが冷や汗の湧く心地だ。口が悪くも真理を突く痛快さがイローニの利点でもあるが、現時点で最大の被害に陥っているのは男性職員の方だろう。しかし友の表情には、哀れみの一欠片も浮かんでいる様子は無い。


「あ、あれ? ボクはボクで彼のこと気に入らないんだもの。あいつ、そもそもは学芸識者のキャリア積みたくて来た人じゃないらしいんだよね」


 微かに軽蔑を籠めた目で相手を眺めながら、男性職員の経歴を言い添える。


「前職は遊園地で着ぐるみのバイト5年間してたってさ。関係ない種類だよ。予備知識なしで飛び込んだんだから、自業自得の無謀以外の何物でもないさ。見本にもなんない。研修初日も無惨なもんさ、参考になる点がないかと思ってどんな勉強して来たか質問してるだけなのに、『根掘り葉掘り、聞かないでくれないかなあ?』とか不親切な回答しかほざかないから、会話の仕様がないんだよね。そんな偉そうにふんぞり返ってる癖していざという時に、てんぱっておどおどしているから目障りでしかないの。同情にも値しないよ。むしろあんな出来損ないのもとで、見習い修業の選択をした予測不可のボクの顛末こそ哀れむべきだ。反面教師の価値もありゃしない」

「……はあ……」


 仁義なき容赦の無さだ。人間として駄目と認定した存在は冷酷非情に欠点を一刀両断、以後は無慈悲の一点張りを貫く姿勢でいるらしい。友人の関係を築き合えて良かったと思う。凄絶な皮肉屋になったきっかけとして、職場環境に原因の一端があったのではなかろうか。また、やや行き過ぎた嫌いのある彼の荒み具合を見ると、必ずしも過剰なクレーム相手を批判できる立場にないだろうと友ながら突っ込みたくなる。ベヌン氏と直接会話するまでに、彼に対して良からぬ先入観を抱いていた件もそうだ。


「着ぐるみのバイトは、望んで選んだものじゃないかもしれない。きっと紆余曲折があったんだよ。僕の〝見習い人〟選択の結果みたいにさ」

「何、まさか同情してんの? あのボンクラに。ろくでもない先輩連中を呪うことに御執心の君が。人のこと言えんの」


 そのように指摘されると答えられなかった。返す言葉もない。余所事に限って慈悲を寄せるなんて確かに虫が良過ぎる話だろう。

 友も友でエスカレートを続けている。一定調子を保っているが、地雷が潜んでいる可能性もある危険な状態だ。かの男性職員に罪業があるにせよ、痛罵というのは長く聞いているといい加減鬱陶しくもなって来る。適当に濁して終結させることにした。


「も、もういいじゃないか。やめにしようよ。おあいこさ。追及しても栓のないことだよ……」


 イローニが返事をする前に、また新たな罵倒が轟く。


「できないならできないって、最初からいいなさいよ。アナタの名札、よく見たら派遣会社の名前あるじゃない。見習いの身分から常勤職員までこのザマじゃ、ロクな文化発信ができなくて当然だわ! 由緒正しい文化の発信場で安上がりのバイトが使われていること自体、有り得ないんだから!」


 先輩が穏便に運ぼうと腐心すればするほど、裏目に出て逆上を誘発し、剣呑の一途を辿るらしかった。エクトルとて決して善人ではない、友の抱く嫌悪感がわからぬではなかったが、このままでは埒が明かない。


「あー、その僕らバイトは気の毒な社会の犠牲者の一部なんだけどねえ。バイトを救済する仕組みを設けようという発想はないんだな。力ある先生様らしいのにね」


 イローニはあくまで対岸の事件として、他人事のように独り愚痴を連ねながら傍観に徹するという。究極に先輩不孝の酷薄な措置だが、イローニからすれば、ある意味立場を弁えた姿勢を選択したに過ぎないと言えるかもしれない。末端の素人が口を出せば、余計に場を掻き乱すだろう。どうせ論理では決着する見込みもないのだから、後は持久力勝負になる。永遠に続くわけでもないし、気長に観戦してれば良い。触らぬ神に祟りなしの理屈か。

 しかし実際問題、そうして水掛け論の行く末を待っていると、肝心の紳士へのガイドに至らず閉館を迎える危険性があるのだが。エクトルの狼狽も引くわけではない。


「待たれよ、女史殿(レディー)


 その時だった。女性の立つ傍へ、厳かな歩調で進み出た影がある。ベヌン氏だった。卑小な連中が騒々しくしていようと、盤石として彼は動転しなかったのだ。絶妙なタイミングはいつかと見計らっていたのかもしれない。公共の施設で、あからさまな振舞いをしないのが高潔な紳士たる彼の基本所作だ。 

 大音声を発したわけではない。静穏の程度で、しかもたったの一言だ。

 しかし確実に女の猛狂を断ち切る効力を持っていた。忙しなく唾を飛ばしつつ開閉していた女の唇がピタリと動きを止めたのだ。

 やんごとなき偉丈夫そのものの貫録である。ベヌン氏は間髪入れずして言葉を重ねた。


「お取り込み中のところ、急な割り込みをお赦しあれ。突然ですが、私はベヌン・エーテルヌスという者です。僭越ですが、今し方に眼前の只ならぬ状態に接したことで、私は部外者ながらに貴女(あなた)様の問題意識に関与したことになる。お気を乱されるほど、貴女の心を掻き毟るとは、どうやら一筋縄では行かない複雑な問題を孕んでいる御様子です。例えば、知人の教授殿との間には確執がおありの様子だが、門外漢の私には残念ながら御関係を知る術など持ち得ない。困難な課題なら、外でも一人でも多く力添えを申し出た方がよろしいでしょう。どうか、今一度心をお静めになって、私にも事の詳細をお伝え願えませんか?」


 絹の毛布で相手を包もうとするような品性高き柔和さを孕みつつ、どこかしら有無を言わせない重厚感を湛えている。

 通常ならば「黙っていれば、いけしゃあしゃあと」の一言啖呵を切っても良さそうなところだ。だが、率直的な荒々しい対抗手段は、紳士の人物性に相応しくない。感情を控えた上質な言葉遣いの駆使こそ、紳士の領分であり、彼特有の仁徳であるのだから。

 直截諌めるのではない。あくまで、相手を尊重する体裁を取った婉曲表現を用いるのだ。この方法には、性根の曲折した少年と偏屈な青年の心を開かせた実績がある。


「え、何時の間に、こんな素敵な方……いらしたの? やだ、私ったら気づかずに突っ走ってしまって……はしたない姿を晒しましたわ。も、申し訳ありません」


 面白いことに、ハンサムな美貌と優雅な言葉遣いに容易くほだされるタイプであったらしい。逆立っていたはずの両目が、呼び止める声に誘われて偉丈夫の気高き美貌を仰ぎ見た瞬間、水中から放り出された魚の如くパクパクと酸欠に陥ったかのように口先をまごつかせたのだ。異性ならぬエクトルら二人の青少年を、息を呑むほどの魅了を発揮するのだ、異性である彼女など絶対に囚われずにいられないだろう。大家の婦人に人狼種の秘書達に続く、新たな仲間となった。


「ですが、え、え、えええ…? いや、その、ワタクシ……。誤解なさらないでいただきたいですわ。ただその、誇り高き文化施設を守るべく、糺そうと注意をしていただけですのよ、その、確かに思わず気持ちが昂って怒鳴り付けてしまいましたけど、暴力的な意図はございませんわ。あ、あと執筆担当の教授のことは、貴方様がお気を遣われなくて良きことでしてよ」

 

 よく言うよ、後半は恣意的な発散になってた癖にという傍らから小さく聞えたイローニの毒づきを、エクトルは敢えて無視した。


「その点に関しては大いに賛成致します。ですが、気を早めなくとも、良き方法があるのではありますまいか?」

「ま、なんですって?」

「あなたはあなたで、より良き魅力を引き出したいと、しっかりした構想をお持ちのようだ。

なればこそ、職員殿の意見にも耳を傾けるべきなのです」


 〝職員殿の意見〟という言葉が出た時、女史がやや眉根を胡乱げに顰め、男性職員がハッとなるように面を上げた。


「だが、一晩お掛けになって練り上げた構想を提示しても、何故かしら互いの間に埋まり切らぬ溝が生じている。その苦悩に一入を強いられる事態には痛み入りますが、いかようにすれば埋められるのか、貴方様の方からも適切な方法を共に練ろうと試みてはいかがですか?」

「溝だなんて……。彼らがわたくしの申し出を承諾してくれれば解決する問題ですわ。書面契約に縛られている博物館側がいけないんですのよ」


 口調は当に大人しいものに摩り替っているが根本は揺るがぬようだ。無意識に言い分が自己目線に偏っている。


「ですがお伺いしていると、基本的に展示の企画は契約に則って進行する決まりとなっている所存。恥ずかしながら、私も歴史関係の学問を愛好する端くれ、自由な言論活動を貫かんと熱心になるお心はよくわかります」

 穏やかなアルカイックスマイルを刻んだ唇で、紳士は彼女の台詞を継いだ。


契約(ルール)に囚われないあり方を、勇敢な芸術的矜持だと讃える風潮があるのかもしれません。しかし、人は異なる立場に置かれた時、自ずと踏まえるべき領分(あり方)も異なって来るものです。学者のあなたとしての領分もあれば、博物館職員としての彼の領分もある。彼は彼の領分に従い、最善の策を講じようと腐心されたまでなのです」


 エクトルにも言っていた〝領分〟という言葉。ここでも、分別の意志を誘発させるために効いてくるのだ。

 視界の片隅に、瞳に微弱な揺らめきを覗かせるスーザンと、やや俯いた頭の下で、感銘を受けたような表情を浮かべる職員が見える。

 エクトルは、紳士の交渉の手法に舌を巻いていた。

 女史の意思に一定の評価を示すことで顔を立てるだけではなく、職員の方に対しての配慮も意識させるように訴えかけたのである。

 つまり、双方の言い分を尊重する形でスーザンを説得したのだ。


「決して悪意では有り得ない、貴女自身を思えばこその、真摯な忠義から生ずるものだ。月並みな比喩ではありますが、王に仕える優れた家臣も同様です。〝万事の調停に臨む覚悟と打たれ強さを兼ね備えるべし〟と、あえて口に苦い良薬を貢ぐもの。貴女様の御気分が損なわれようとも、尚職員殿が反論に努められたのは、尊き学問の徒である貴女に苦い良薬を捧げんとしての誠意ある決断ではございませんか」

 

主君と従者の比喩は、己の経験になぞらえてのものか。カフェで語り聞かされた、紳士と彼の廷内専従教官のエピソードが思い出される。


「……誠意? い、一理ないわけではございません。でも、先ほど貴方もお聞きの通り、彼は盤石ではない身分でおりますのよ。心からの信頼を持って応じるには、やはり不安が残りますわ……」


 相手にも思い遣りがあり得たかもしれないという事情を、依然咀嚼し辛い面持ちでそわそわと紳士を見つめ返す。さりげなく無自覚に失礼な言動を洩らす当たり、根強い被害者意識が頑固に染み付いているのだろう。

 それでも紳士の弁舌は、温然とした物腰のまま朗々と振るわれる。


「あなたは身分をお気にされている御様子だ。だが、プロジェクトのために一丸となって集う時点で、既に枠には捕われない、確固たる有志として皆同化しているはずです。ただ、何かに所属する故に、領分を守らねばならぬ時も存在するだけで。展示の改善には無論賛同したいものの、即行には如何ともし難い職員の掟がある。故にその狭間で鬩ぎ合わざるを得ない。もし、組織の仲間に無断で決行すれば、彼も繋がりを失う羽目になります。あなたが学者としての我が身を案ずるように、彼も人間である以上、我が身を案ずるのは止むを得ぬことなのです。大切な文化発信の場を〝壊したい〟という破滅の意図など夢にも抱きますか」


 率直な真摯さに満ち溢れた麗句であった。深山(みやま)の清流のように流暢で、染み透るように胸に響く。傍観側のエクトルにさえ、まるで真正面から対峙する時の感覚に似て情緒に訴えかける。

 職員の態度は、もはや説法を前に黙する信徒の如く粛々としている。殊勝な面持ちで目を閉じていた。女史の表情には神妙な色が覗くものの、すぐには返すべき真っ当な言葉が見つからないのか、迷える幼子のような顔つきで相手を見上げながら、無言で微かに身を震わせている。


「組織の所属者と認識することで納得が難しいというのなら、まずは目の前にいる彼個人という人間そのものを、信頼し、いつくしむことから御始めになってはいかがでしょうか」


 職員を目で示しながら、紳士は言った。


「どうか、枠組みの中における存在として相手を理解しようとせず、個人としての相手を理解する貴女でいてほしい」

「まあ……」


 感嘆の吐息を洩らす。〝貴女いてほしい〟と、人間個人に対し直接願望を寄せるかのようなフレーズを掛けられたことで、純粋にうっとりさせられている風情だった。目で示された当の職員は、真正面で視線がかちあった際、直球に自分自身に注意を投げかけられて当惑してしまっている様子だった。


「貴方が一定の地位を保証されたお立場であるということは、職員殿を救い得る力をお持ちと言うことです。良き協力者たらんとする彼との絆を断ってはいけない。一時の感情に呑まれて、掛け替えのないプロジェクトの一員を失くしてしまうのは、実に勿体なく思います。

 私は是非とも、助け合い、協同を大切にする貴方の姿を見てみたいものです。できれば私も手を共に握り合い、いつかそんな貴女と共にプロジェクトに携わりたいものだ。熱意ある学者のあなたには、人との結びつきを尊ぶ姿勢ことが相応しい」


 〝手を共に握り合い〟のフレーズが格好の決め手として心臓を射抜いたらしい。事実、ベヌンは女の指先を両手で軽く包む仕種をした。社交行為としてであろうが直後に襲来する威力は測り知れぬ。刹那、赤らんでいた女の両頬を起点として額から顎にかけての顔中が真っ赤に染まり上がった。


「私ったら…… 彼らの心にも気を配ることを失念しておりましたわ。厳しく当たり過ぎたかもしれません……。そうですね。学問の世界を動かす権利を持つ者として、相手の身分を嘆く前に、嘆きの原因を取り払う行動を思い起すべきでしたわ。目を覚ましてくださって、有難うございます……。もう、何と言ってお礼を尽くせば良いか、学問の生業にする私めですら語彙が枯渇して足りませんわ!」


 話を聞いているというよりは、天上より遣わされた妖精の甘い歌声に恍惚と聴き入っているような夢心地の顔色だ。色気に当てられて、泥酔の如く逆上せている。完璧に絆されたという様相だった。

 紳士の仁徳が働いた結果でもあると同時に、第三者である彼の行動だからこそ成功したのだろう。もし、施設の最高責任者として館長を連れて来ていたとしても、組織に属する立場からマニュアルに基づいた範囲内での説得しか試みられなかったはずだ。

 だが何よりも、スーザン個人に対し持ち前の眉目秀麗さが覿面だったことが大きい。メラビアンの法則というものが存在するが、視覚情報と内容の秀逸な相乗により証明された最高例ではないかとエクトルは思う。

 美男の口説きに弱い女性性の強い人物である意味助かった。多少ではあるが大人しさを弁える心構えが生じたらしい。


「私への御礼など不要です。差し出がましい第三者の介入に過ぎません。おわかりいただけたのなら、次に行っていただくべき行動は一つです。さあ、職員殿への歩み寄りを」


 熱の籠った謝辞を送る女史に対し、紳士は冷静沈着として簡潔だった。しかし女史はすっかり機嫌を取り戻したらしい。人が変わったような満面の笑みを湛えて佇立する職員に駆け寄るや、職員の手を上下に振って握手した。

 対する職員は、戸惑いが抜け切らない面持ちで応じている。相手が芯まで理解を得た状態となったことを、喜ばしい展開のはずなのに信じ兼ねている様子だった。

 軽快に揺さぶられている己が右手を、物体の動作を見るように呆然と眺めている。

 ともあれ形としては和睦に至ることができたのだ。

 エクトルは心の底から息を吐いて、胸を一撫でした。隣のイローニも、珍しくわかりやすい安堵の色を浮かべている。眦を下げて汗を拭い、やれやれと嘆息する。


「女の単純さが出て助かったよ。呆れるけど良い気味。もし許可が出たら、携帯通信機のカメラで動画取ってネットの晒し物にしてやんのに」

 

イローニには釈然としないもの、腑に落ちない部分があるのか自身の手で裁きを下さなければ完全に気が休まらぬのか、という風に恨み言を呟く。無表情のまま本気を匂わせているのが不気味だ。


「落ち着こうよ、良い加減。ベヌン氏が取り成してくれたんだ、最高じゃないか。第一、そんな真似したら君は青少年犯罪者になってクビだぞ」


 半ば本気になって忠告を飛ばしたら、イローニは顔中を歪めて軽く噴き出した。


「マジになんなって、冗談に決まってんじゃん。ま、ともかくも陳腐な勝利感の表現だけど、これぞ“ざまあ見ろ”だね。あー、容姿差別を思わせかねないけど、一部の求人枠に混ぜとくべきだな、窓口担当者の一人に、説得力高い弁論術を有する容姿端麗な男女を要するってね」


 二部構成の企画変更については名誉教授にちゃんと連絡を取り相談する。合意を得られたら恩師を通じて館長にも働き掛け、結果が無理と出れば止むを得ないと諦めるという手筈で承知となった。

 段取りは案外単純な中身だ。序盤で女史が職員の指摘を承服していれば、長い回り道をせずに済むはずの話だったのだ。しかし、窮地が発生しなければ、紳士の華麗な対応術は拝見できなかったのである。不幸から出た幸いとでも言おうか。普段から職場内の接触でストレスを抱えるエクトルにとっても発散となる、非常に痛快な退治劇(ドラマ)であった。優美な所作を保ちつつも、威厳を損なうことはなく機点良く捌いて行く過程は圧巻だ。


「恐らく典型的な嫁の行き遅れだよな。女の腐ったって、辞めた方がいい表現だけどあれには相応しいと断言させてもらうよ」


 イローニが勝手極まりない憶測を呟き、エクトルも同意する。


「僕も否定はしないさ。二度目は近寄りたくないタイプだもの。あんな美人さん要らない」

「ベヌンさんて言ったっけ? 本物の神様だよ。真のジェントルマンだね。お手並みは確かに拝見させてもらった。非の打ちどころなどあるもんか。世の不届き者どもは皆彼の爪の垢を煎じてたっぷりと飲めばいい。僕らもある程度はその不届き者に当て嵌まりはするけどさ。初対面時に煮え湯を飲まされて恥を掻いたもの」

「……うん……。そう、かもね。だね」


 どこか歯切れの悪い頷き方をしたのは、断定し得ない面を知覚してしまった状態だからと言える。確かに彼は一流の紳士だ。しかし、落ち度を皆無とすることに今は疑念がある。これは、イローニよりも、既に長く交流を経て来たからこそ湧いて来た思いだ。博物館を訪れる前に繰り広げたカフェでの談議がなければ生れなかったかもしれない。

 職員は当の昔に解放されていたが、紳士とスーザン女史の会話は続いていた。紳士が彼女の気持ちを親切に汲み取る形で情動を和らげる内、打ち解けた言葉が引き出されているものらしい。その中で、ふとした弾みなのか女史は衝撃的な一言を口走った。


「わたし、先月結婚したダーリンと別れちゃったところなんですぅ。その時の諍いを引き摺るあまり 傷が癒えてくれないこともあって、当たっちゃいましたあ。お見苦しいところを、歴史学を専業とする者が無様な。オホホホホホホ……」

「げっ、うそ、バツ一かよ。一度たりとも拾ってやった奇特な男がいるとわね。暫しの時を共にしただけでも大した根性じゃないか。つーか、誰が知りたいんだよ、んなどーでも良い個人情報。離婚関係ねーだろ、絶対生れつきの性悪だけが原因だって」


 外野から耳をそばだてて、密かに二人して顔を見合わせた。

 充分に本音を曝け出して気が済んだのだろう、スーザンは二部構成変更の提案とは別に、近日行われる博物館開催の文化講座の打ち合わせがあるからと研究棟へ向かっていった。本日の主要任務が控えていながら、自己本位な気紛れによる提案をしてくるとは。なんと悠長な人なのか。普段からより密接して周囲にいる大学関係者達はさぞかし翻弄されていることだろう。

 因みに先に職員が場を離れたのは、その準備に先に行く必要があったからだそうだ。端から利害が一致していたにも関わらず、直ぐに手を取り合えぬとは悲しみに満ちた関係だ。以後、無事に仲の良さを保つことを祈りたい。


「まあ、ともかく気を取り直して。ツアーの続きをしましょう。さあさあ、紳士様に友よ、どうぞささやかなものですが、損のないよう見栄え良くご覧に入れましょう」


 一悶着から解放されたことで、イローニの神経質な細面にも良い血色が広がり始めた。エクトルは、イローニらしくもあるが大見栄を切った芝居風の挨拶をわざわざ紡ぎ出したことにおかしみを感じ、友が元気になったことに対する安堵を込めつつの苦笑を零した。紳士も泰然とした微笑で頷き返していた。



 イローニとしては上客である紳士に恥じぬよう、展示の中でも大がかりな設営となったらしい「世紀の大発明品」コーナーを重点的に示したいようだったが、相手が主に着目したのが家電製品のコーナーだった。該当のコーナーは、〈日常生活を支える電子・電化の品〉というタイトルで括られ設置されていた。

じっくりと時間をかけた案内を所望されたため、イローニは特に力点を置いて説明を行った。

具体的な展示の趣旨は、ガイアからの移植時代における当惑星民の日常生活用電子機器を紹介するというものらしい。旧文明発祥惑星における黎明期から列挙していると余りに長大な歴史から切りがなくなるので、大胆に省略し、開拓の頃に絞ったそうだ。

 残されていた設計図を元に、作られた模造品(レプリカ)をはじめ、企画するに当たって当時を知る人から許諾を得て譲り受けたものや、現ガイア住民の資産家から期間限定で委託されたコレクションで構成されているという。

 製品を引き立てるための工夫なのか、コーナーごとに壁の配色を変えているようだった。ビジネスに関係する製品群なら寒冷的な混じり気のない白を、家電製品群ならアットホームな空気を演出するためか、温暖な風味を醸す淡黄(クリーム)色の壁紙を使用するという具合らしい。

 その効果故か後者においては、大層な空間にいるはずなのに割合寛いだ気分で見て回ることができた。まるで何世代も前の住宅展示場にタイムスリップして遊びに来ているような感覚だ。

 壁に貼られた説明板付近のボタンを押すと、音声で読み上げてくれる仕組みとなっていた。板面の文にない、より詳しい解説も追加されている。スーザン氏の書き換えは要らないのではないかと思われる。

 イローニが行うのは、口頭で噛み砕く役割だ。フランクな若者口調の説明は、エクトルのような専門用語に疎い不勉強な子どもにも身近な肌感覚で浸透して来る。

 陳列された各品を眺めていると、需要(ニーズ)や社会形態の遷移によって、要求されるであろう形を予測して作り上げられてきたことが汲み取れる。産業社会学を本格的に学んでいなくとも察しがつく。

 製品会社(メーカー)ごとの区切りはされていない。入植時代の開始とされているのがおよそ五百万年前までに溯り、何度現れて潰れたところがあるかわからないレベルだからだろう。幅があり過ぎるのだ。もはや製品会社が存在したかどうか資料類が一切残されておらず不明の場合もあれば、機器のどこかに印字された文字で名前らしきものが読み取れる程度の代物もあった。物によっては、一製品しか現調査で確認できていないという侘しい状況だ。結果的に最も実際的なやり易い方法として取られたのが、電子レンジは電子レンジ、照明は照明などと種類ごとの分け方だった。

 分け易くなったとしても、歴史は幾星霜もの規模、量も形態も膨大な点に変わりはない。一つ一つを丁寧に観賞しようとしたら、とても一日では見切れない。

 恵まれているものでは製図資料も豊富に併設されており、見る者を釘付けにして次へと進む速度を鈍らせる。

 博物館が目玉扱いされているとは言え、所詮は田舎の博物館で午後一杯に巡回できるとタカを括っていた。甘かったとエクトルは内省する。彼は時折企画展示で足を運ぶ程度で、常設だけでも充実度がかなり高いことを知らなかったのだ。

 幸い、イローニが時間をかける部分を手際良く拾捨選択してくれた。聞き手の紳士のレベルも結構なもので、迅速なメモによりイローニの口説明のみならず、展示付近の説明文まで書写しているようだった。覗いてみると、速筆による乱雑さが見られぬどころか、タイピングの如く精密且つ見栄えの良い並びを呈していた。手書きでこの領域では几帳面なジャーナリストも顔負けに違いない。

 展示は、ただ物品を配列しているだけではない。入植期に特有の事情から短期間に技術革新が発生した場合には、動物の進化の過程のように、分岐図等でもって 変遷や発展、増加の様子が図画で表されていた。

 映像資料のコーナーもあって、遺されていたメーカーのCMや歴史紹介VTR プロモーション、またはドキュメンタリー番組の映像が流れている。

 家電製品については関心がある方ではなかったが、これでも電子による職人の世界に憧れて今の見習い先にいる身だ。

 何となしに惹きつけられ、気づけば夢中にさせられていた。

 とりわけ、開発後に販売されて以降数十年は富豪向けか施設用の設備とされていた高級品が、一般家庭に普及し易い廉価な製品へと変移していく過程は面白かった。人感センサーに、自動灌水、電動カーテン、バイオエタノール暖炉……どれも当たり前の家庭用品と化しているものばかりだ。ドライフラワー製作のため家庭菜園をしている大家の婦人も、手作業を好む性質から毎朝如雨露を使用するが、忙しく手が回し難い時は自動灌水を選んでいる。

 自動灌水システム以外で大家の婦人が重宝している品に全自動衣類収納クローゼットがあるが、展示場にもしっかりと佇立していた。服を無造作に入れるだけで畳んだり皺を伸ばしたりする他、防虫・抗菌作用が備わっているので身辺整理が苦手なエクトルも助かっている。子どもの多い世帯や一人暮らし世帯、共働き世帯の間で特に売れているが、該当しない皆にとっても欠かせない存在だ。よく手動中心の時代があったものだと思う。

特にお気に入りとして自身も愛用しているのはロボット掃除機である。展示の歴史紹介から読み取れるように、初期は平らな床面のみに使用できる場所は限られる上、せいぜい埃を除去する程度の補助機械という立ち位置だったのが、徐々にガラス面やシンク内、細小の隙間や溝までと領域が広がったのである。過去には人の手でしか及ばないと考えられていた複雑な箇所だ。今でも綺麗好きな人間は、まめに手作業で掃除を行うが、面倒な日課を苦手とするエクトルには耐えられない。

かつての基本形態は円盤型や、角の丸い三角形が多く、伸縮もできなかったようだ。現在は、事前に細かい作業が必要な場所であることを察知して、用途に応じチューブやスティック、羽箒の付いた先端をを伸ばしてくれる。この世に全自動がなければ、今頃エクトルの部屋は荒れ放題だ。大家の婦人は原則として、滞在者の部屋は滞在者に管理を任せている。特別客の紳士だけは話が別だろうが。

 AIアシスタントも当初は奇異に見る評価も存在したようだが、エクトルにとっては層を問わず必需品であるという認識だ。

 初期は円筒形が大半だったのが、動物型や水棲生物型、月に太陽や星、お菓子型や版権物のキャラクター型などバリエーションを増やしていった。紳士の紹介した某文明圏にある完全自律型が未登場なのが惜しいところだ。陳列されている製品群は人間管理を要するものに留まっている。

 喜怒哀楽を示す機能を備えたタイプもあるが、あくまでプログラミングに沿った音声認識を行うに過ぎない。完全自律技術を有する文明圏から導入すればまた歴史が変わるだろう。

 この町では老人の利用者が多い。ガイアの歴史解説に依ると、AIアシスタントが登場する以前は、福祉サービスの施設に依拠する者が多かったという。当初はAIに馴染みの薄い高齢層が多く、ある程度良い値を張ったため購入が躊躇されたそうだ。後に、より多機能化しつつ廉価なものが普及したため、今のような定着に至ったらしい。財政難であったり、共同生活を精神的に困難とする場合はさぞ苦渋を強いられたことだろう。独居の若年層にも必要不可欠なはずの道具であり、高価なばかりか不要者を大多数とした時代を想像し難い。当初は材料費が嵩んだのだろう。

 紳士は、念入りにメモを取る傍ら、体感可能な展示物を前に無邪気な反応を示していた。逐一感想を呟きながら、あらゆる角度から機器を観察している。屈んで覗き込みながら感嘆の声を上げたりと、まるで、幼童に返ったかのような感喜を全身で表していた。


「おや、これは大家殿の風呂場でも見た水浴機だね。原型は一直線だったのか」

 

 風呂好きな彼の感性はここでも敏感さを発揮したようだ。興味深けに整った柳眉をもたげる。

 注目したのはオーバーヘッドシャワーだ。天井の位置に如雨露状の噴出孔が埋め込まれているのが特徴 だが、当初は滝修行のように一方向にしか放水できなかったとはエクトルにとっても改めて驚きだ。数方向からの噴水や霧状化させる機能などは徐々に追加されたようだ。ガイアから他惑星へ入植するプロジェクトが立案された時期には、家庭から公衆浴場にまで広がったという。

 他にも紳士は、インテリアとスマートに融合するクローゼットに似たデザインのプライベートサウナボックスや、宇宙船内を彷彿とさせる形状の最上級(ハイエンド)大型スピーカーに着目していた。小動物をモチーフにした洒落たLED小型照明器具に対しては、まるで慈しむようにそっと撫でている。エクトルは、紳士と一緒に高品質な家電設備の原型を観賞することも楽しかったが、むしろそれらを感じ入りつつ観賞している紳士の姿を見ていることが楽しかった。ゲストである彼が満足しているのなら何の文句もない。


「よく集めたものだね。甚く感心させられたよ。こんな機器が残されていたのかと、数ある惑星の土を踏んで来たつもりの私でも驚嘆させられる品々が幾つかあった。まだまだ見て回るべき星系は枚挙に(いとま)がないな。ここの学芸局員は見る目が高いね」


 形の良い顎を撫でつつ、笑顔で感想を紡いだ。


「いやっ、そ、その……館長の審美眼が良かったんスよ……。きょ、局員なんて手伝い風情の下っ端なんスから」


 無愛想で滅多に笑わないイローニが、柄にもなく赤面してうろたえる。

 普段冷静な彼の意外な反応の有様に、エクトルは小さく忍び笑いを漏らす。鉄面皮(ポーカーフェイス)を常態としているクールな友人が、口調をしどろもどろに乱すのが可笑しかった。


(さっきまで、契約身分の権利向上も認められるべきとか、不満垂らし一直だったのに)


 やはり紳士を前にすれば嫌味に聞える可能性もあるとは言え、謙虚に出たくもなるのだろう。

家電製品コーナーには家庭ゲーム機も含まれていた。そのエリアに差し掛かった途端、イローニはスイッチが入ったように熱弁を振い出した。電化製品全般に関心を捧げる彼だが、意気込みが格段に違う。趣味も絡む得意分野だからだろう。先刻、紳士に言い負かされた時とは異なる変貌加減だ。

 エクトルはソーシャルゲーム派であり、家庭用には詳しくない。サービスが出回り始めた当初は不便なもので、携帯通信端末一択でしかアプリケーションをダウンロードできなかったと聞く。入植期より数十年前にはソーシャルゲームアプリケーション専用の端末が出現し、完全に使用機器を区別するようになったようだ。また、手軽過ぎる遊戯性故に、重度の課金が社会問題化していた時代がある。解消策として、要課金アイテムに関しては、未払いの間は実装不可となるシステムにされた。具体的な必要金額も事前に表示されるようになった。要課金サービスの中には、ある一定の年齢まで使用制限が設けられる措置もある。クレジット会社から通知書が来るまで不明瞭な時分もあった等、今では信じられぬ話だ。

 イローニは家庭ゲーム機の中でも仮想(ヴァーチャル)現実(リアリティ)型を特に好む。「VR」とアルファベット二文字で通称されるものだ。

 展示品に添えられたパネルの歴史解説文を見ると、かつてはグラス型の端末を頭から装着するという大掛かりな方法でしか体感する術がなかったという。やがて、直接脳波や視力に負荷を掛けぬようにと、ソーシャルゲームアプリケーション専用の端末が開発されたのとほぼ同時期に、室内に仮想空間を出現させる設置型端末が開発された。初期はやや場所を取る大型のものが中心だったが、一般家庭でも利用し易いようにと小型化が進み、林檎程のサイズにまで縮小に至った。現在浸透しているのは卵型に一本足が生えたような形状である。合わせて機器に挿入するゲームソフトもコースターサイズの円盤となった。


「ボクも部屋にこれがないとダメな体質になっちゃったんだよ~。もし大型のままだったら、将来大都市圏に上京する時持ち込めなくて困るよねえ」

 

 そうぼやくイローニは当然の如く所有者だ。彼の家に遊びに行った際、見せてもらったことがある。VRタイプをやらないエクトルは持っていないので、日常に浸透する機器だと知りながら新鮮味を抱いた。

イローニ曰く家庭用小型VRゲーム機の魅力は、両手に納まる大きさでありながら、草原の向こうの地平線を見通すような広大な奥行きと、何重層ものリアルな高音質をワイヤレスイヤホンを経由して手軽に味わえる点だという。


「ほお。確かにこのサイズは手頃だな。旅行先にいつでも持ち運べて楽しそうだ」

 

たおやかな音圧を纏いつつも、旺盛に喰いついた声がある。

 明らかに友ではないバリトンに、半ばギョっとなったエクトルがその方向へ視線を滑らせると、好奇心を漲らせた紳士の顔が浮かんでいた。蒼瞳が真昼の晴海の如くキラキラと輝いている。


「およ!? ベヌンさん、VRのゲームに興味がおありなんスか!?」


 思いがけぬ共感者が見つかったと言いたげに、声を張り上げながら訊き返したのはイローニだ。


「他の惑星国家で、デジタルゲームスポーツの大会に出場した経験があるんだ。向こうで拝見したVRの成り立ちや受容とはまた異なるようで面白いと思ってね」

「憧れっすよ、デジタルゲームスポーツの大会に出場なんて」


 エクトルは口を挟む余地を見出せず、呆気に取られながら二人を交互に眺めていた。

紳士は電子機器によるゲームなど興味のない古典教養人的タイプかと思いきや、意外だ。彼に対し神秘の印象イメージを強めていたせいもあり若干衝撃が大きい。やや乗り出し気味に会話する彼は、僅かな間に少しイローニと投合した雰囲気を形成していた。少年はやや取り残された気分になる。


「どんなスポーツに参加したんスか?」

「全長二十メートルのマシンに搭乗し、内蔵された電子コントロールで操縦しながらVRで形成された広大な架空のフィールドを進むんだ。フィールド内に配置された十箇所以上のダンジョンを潜り抜けゴールを目指す。マシンの形状は、各文明圏で神聖視されている獣から選ぶことができた。私は一角獣(ユニコーン)にしたな。その惑星の信仰で祀られた天然記念物であり神馬だというから、是非乗るべきだと思ってね」

 エクトルの惑星国家において一角獣とは、ガイア以来空想上の妖獣と見做されている。実在する生態系の惑星らしい。

 ゲームの内容は純粋に楽しそうだとエクトルも思った。聖獣の形の搭乗機で壮大な空間を冒険するなど胸躍る遊戯である。

 マシンを操縦する紳士の雄姿も拝見したいし、出来れば共に一つの機体内でミッションを遂げたいものだ。

 何も紳士自身はゲームを趣味としているわけではないらしい。ただ、彼の実家にも近似する装置としてあらゆる環境での過ごし方をシュミレーションするマシンが存在し、そこで感覚を養った結果、未経験でもすぐに馴染めたのだろうと自己分析していた。


「それも宮廷教育の一環なんですよね?」


 小声でこっそり尋ねる。蚊帳の外に放り出せれまいとする意地もあって口を開いたのだ。


「まあ、そんなところさ」


 ウィンクと共に彼は囁いた。何となくはぐらかされた気がしなくもない。まさか意外と遊び人の側面があるのだろうか?


「すごいっスよね。で、結果はいかがでした?」


 無機質だった印象の目を、今や水明に溢れたような感動で彩りながらイローニが問う。

 紳士は間を置かず、ソツなく淡々と答えた。


「遊学費用を補充する目的で臨戦したら、案外良い結果が出てね。歴戦のチャンピオンがいて一位は叶わなかったが、次の順番でも満足な金額を得られて感無量だ」

「……いや、案外良い結果どころじゃないでしょう。初出場で二番手にランクインって、そこそこ化けてますよ。旦那」


 イローニの顔つきが面喰らった様子で固まる。

 紳士は無自覚な早熟の英才だ。その特性に纏わる他のエピソードを紹介したら、驚愕に息を詰まらせるどころではなく腰を抜かすだろう。

 親友の表情は、ベヌン氏との交流以降、ころころと変わる。徳の高い人物と過ごしつつ、何度も友の新たな一面に遭遇し得る等一石二鳥の見学だ。

 展示の一角には、電子文具と併せて手工製の文具も並べられていた。その中に一つ、黒檀で作られたボディに金の縁が壮麗な万年筆がある。奇しくも、エクトルの祖父がその祖父からもらった形見の品として自らの書斎に飾っていた型のそれと同種だった。開拓期を経て以降に電子文具が主流となり、種類や機能が増加して発展していく最中で忘れられていったもの、として紹介されている。


「おや、手工製の文具じゃないか。この惑星では往時を忍ばせる道具、という扱いなのだね。より便利なものが登場すると、脇に追い遣られるのは致し方ないが。私には旅先で絶対に手放せない、相棒に等しい存在だがね」


 寂寥感を滲ませて紳士は慨嘆する。


「あの黒檀の万年筆、曾曾祖父(ひいひいおじい)さんの形見の品と同じ型なんです」

 自然と口を吐いていた。すると、エクトルの肩に寄り添うように、紳士が優しく呟きかけた。

「君も、譲り受けて持っていたんだね。実際に使っているのかな?」

「いえ、祖父の書斎で飾られています」

「そうか……。もし、お許しを貰えるのなら、手に取って使ってみても良いだろう。使用感と共に受け継がれてこそ、道具は生きている意味がある」

「なるほど。頼んでみます」

「是非そうしたまえ。君の祖父殿は素晴らしい観点をお持ちの方だ」


 祖父は昔から割れ易い骨董類を覗き、案外身の回りのコレクションを触らせてくれる人だった。帰省したらお願いしてみようか。

 紳士に言われるまで、万年筆に関してはそのような意志が働いたことがない。正直なところ、視聴機器や娯楽本はともかく、威圧的な高級感を醸す彼の文具は触れるのが躊躇われ怖かった。しかし、今は自然と手に取りたいという欲求が動きつつある。

 紳士がきっかけで祖父の品について強く思うことになるとは思わなかった。いや、祖父の品そのもの如何と言うよりも、紳士が身内に関して賛辞を示したことが誇らしく、掛替えのない程に嬉しかった。


「皆様ったら、もうこんな奥の方までいらっしゃったの? 追い付くのにハイヒールでは骨が折れましたわ」


 突如として割り込んだ甲高い声が、エクトルの鼓膜を鋭く突き抜けて感慨の耽りを崩してしまった。聞いた覚えのあり過ぎる高飛車な口調は、紛れも無くマリー・スーザンのものだ。ガラスケースから引き剥がした視界には、可憐な容貌に不釣り合いなゴテゴテのワンピースが強烈なコンボを放つ不気味な女性が立っている。表情は濁り気のない、満面喜色そのものだ。


「あ、あれ? プロフェッサー、あなた様、確か研究棟の方へお出ででは?」

 

イローニが、エクトルも浮かべた疑念を真っ先にぶつける。煩わしげな色が顔に出ないよう、わざとらしいまでに高い音程を駆使していた。

 エクトルの方は完全に動転して声を失っていた。騒動落着以降、終日講座の用事に専念するものと安心し切っていたのだ。


「用事なんかとっくに終わりましたわ。私にかかれば軽い小手調べよ。むしろ、周りの新人達が足引っ張んないかヒヤヒヤしたわ」


 隠そうともしない傲慢さ。紳士の〝特別治療〟を受けても根の改善までには至らなかったらしい。イローニはさすが持ち前の冷静さもあってか、白けた態度を巧みに保持しつつ失礼にならない距離感を見計らいながら、気遣いの言葉で労う真似をする。


「全く左様でございます。教授殿の腕があってこそ、迅速に用事が片付くというもの。しかし、何故あなた様ほどの女性が、我ら小僧めらと御足労を共にされようと言うのです? 紳士様の方はともかく」


 すると、女は変に胸を張って断言した。


「博物館職員たるあなたイローニ君の腕の程を拝見したいからよ。私、微塵もあなたのこと只の小僧だなんて思ってないわ」


 ほざけ、つい直前まで安上がりの契約身分として軽蔑していた癖にという指摘を必死に喉奥まで押し込んでいそうなイローニの心中はさておき、これはとてつもない案件だ。真っ向からの御指名である。


「それに、時間があまって退屈なの。空中鉄道のダイヤも余裕がありますし。よろしければまぜて下さいませんこと?」

(君得意だろ、適当にあしらうの。いいのかい、入れちゃって)


 思わず友の脇腹を肘で小突くと、彼は案外思い切りの良い意見を寄越した。


(構わないさ、どうせ奴の目的なんてベヌン氏だ。それに、後で人事側がクレーム怖がって五月蠅いから、我慢してつきあっとくのがいいよ、こういうタイプって、どういうわけか寓話も真っ青になるくらいオベンチャラに弱いお花畑みたいな脳ミソしてくれてんだからさ。何より今回の最大の功労者はベヌン氏なんだ、真の決定権は紳士殿にある)

 そうだ。紳士が納得するなら従うのみである。異論はない。

 紳士が傍にいてくれるなら、怖いものはないのだ。


 二人仲良く御仁の方へ視線を飛ばして反応を窺えば、果たして迷いない澄んだ(いら)えが導き出される。


「無論ですとも、女史殿。異郷の身にとって大切な一期一会、刹那の時をご一緒いたしましょう」


 寛大に雄弁でもって受け入れる姿勢は神々しく、後光さえ宿って見えた。最も尊さを覚えたのはスーザンだろう。立ち眩みでも起こしたかのように陶然と目をしばたたく。

 何はともあれ、丸く納まれば良しだ。付近でイローニとエクトルは頷き合った。


 展示には調理器具の発展と進化のエリアもあった。主婦経験も関係しているのか、誰に求められているわけでもないのに捲し立てるが如く説明を始めたスーザンの調子に力が入る。料理に関心のあるベヌンは、愛想の良い態度で感心しつつ傾聴している風だ。


「IHクッキングヒーターは、革命的な未来の調理機器と言われていましたのよ。火を使用せず電気で行うという利便から火事の心配がなくなりましたわ。薄いパネル状ですから汚れが溜まりにくく、お手入れも楽になりましたの!」


 キッチン台に設置するビルトインタイプの製品の前で、両手を握り合わせるポーズを取りながら芝居的な紹介を行う。対する紳士の相槌は、親身ながらも冷静なものだ。


「なるほど。ガスコンロの凸凹に厭わされる手間が省けたというわけですね」


 イローニがこっそりとエクトルに向けて囁く。


「考古電子学論って、学問の名前自体はご大層だけどさ、要は電子に纏わるもの全てだから、取り扱い領域は広いんだよ。さっきまでの展示を見て来た通り日用電子機器もがっつり含まれるわけだけど、中でも彼女の研究対象は考家事方面専門なんだ」


 だからハンディスチーマーの原型にあれほど御執心だったのか。いや、深く関係するか不明だが……。妙な納得がいった。


「ついでに美容家電にも目がないのさ。その点、無駄にフェミニンっていうね☆」


 調理関係から美容関係に移動した時、イローニの指摘に応じるが如くスーザンの力説が加熱した。

自宅で手軽に使用できる粒子イオンのエステ機器を紹介する下りでは、もはや学者の講義というよりベテラン販売員のセールストークと化している。


「お仕事中でも家事の間でも、インテリアの小物のように据え置くだけでお肌が浄化されますのよ! お美しい貴方様がより磨きをかけるのに持って来いの品ですわ! いえ、既に一流の輝きに包まれた貴方には不要のものかもしれません……。或は、このような一家庭向けのものより格段に優れたものをお持ちなのでしょうね、只でさえ、雪のように透明感溢れるお肌がますます潤ってしまいますわ!」

 

 支離滅裂だが気持ちは理解できる気がした。彼の肌艶は同性から見ても、凍える雪像を思わせて麗しい。美女にさえ久しい性の質を超えた潤い感を滲み出している。興奮に塗れて褒め千切りたくなるのも無理はない。

 美容には疎く感心も低いエクトルには、未だにエステと言えば、店舗まで行って、肌を露出し直接触れて撫でたりされるイメージだ。

 手軽に個人でエステができるマシンの存在は知っていたが、例えば今スーザン女史が示している一見自動パン焼き窯のような機械が保湿作用を及ぼすとはは俄かに信じ難い。化粧水を入れ、霧状(ミスト)化させたそれを吹きかけるそうだ。今し方、女史が実演販売のように化粧水を投入して、ミストを軽く紳士の立つ方向へ飛ばしている。

 ニコニコと浴びている美丈夫の肌は一段と艶々し、女史の顔色は明らかにエステマシン以外の仕業で上気していた。


「自家用飛行機を操縦して旅をなさるのでしたら、目元用のエステがお薦めでしてよ! 視神経のヒーリングが二十四時間以上続く製品がございますわ!」


 言いながら、女史は体感OKのレプリカを自身の目にも被せている。拙い滑稽な一芸に映った。蚊帳の外に置かれた青年と少年が苦い笑いを噛み殺しているのと裏腹に、相手をしている紳士は爽やかな笑みで切り返していた。


「はは、有り難いお話ですが、今は私にも使い勝手の良い携帯用遺品があります。何より、実際の品を貴女がお使いになる方が私には望ましい。一度、昂った御気分を、安らかにできるように」

 

 数十分後、一通りコーナーを周回し終えたので解散となった。花歌でも口ずさみそうな調子で帰って行くスーザンの背中を見送る。


「はあ~。やっとこさ帰っていったね。ほんとせいせいしたわ」


イローニは、盛大な安堵の溜息を胃から吸い上げるように吐き出した。今度こそ本物の開放感を掴んだ様子だ。


「全くだ。今日は博物館見学であると同時に、職場見学にもなったよ。次週はモヒカンやピエロの仕打ちにも耐えられそうだ」


 エクトルも堂々と同意を口にする。


「欠点があるなら、繕う機会を提供すればいい……。君たちは些か、あのレディを偏って捉えているのではないのかな?」


 全く自然な間合いで、しなやかなバリトンが割って入る。二人の耳朶は鳥肌を立てた。


「厳しい評価が必要な時もあるが、辛辣に過ぎれば毒と化すものだよ」

「うそっ、紳士様、ボクらの罵詈雑言聞いてた!?」


 空気音に近いボリュームにまで落として囁いているつもりだった。驚倒したイローニがギクリと身を震わせて固まる。エクトルも反応の声を出しあぐねたまま、友の傍らで反射的にしゃちほこばった。

ベヌンの発した指摘は、あくまで柔和に包んだ迂遠な言い回しだ。しかし内実としては明らかに、際限なく悪態に費やす少年達の有様を咎める意味が込められている。それを利口にも瞬時に察した二人は、揃って狼狽しながら反省の態度を示した。「失礼しましたっ!」と息の合った唱和で大袈裟に低頭する。


 ベヌンは両の眉を拡げるように上げて、しょうのない未熟者達を温かく許すような苦笑を湛えた。


「つき合いのままならない相手はどこにでもいるさ。改善の難しい性質かもしれない。だが彼女のペースがある。彼女としての一歩を踏み始めたと前向きに考えられよう」

「オタク、良い紳士と知り合えたね。捻くれ者のクソ野郎でもさ、このことに関しては素直に褒められるよ」


接客の時に救われた感謝の意味も込めてのことだろう。誠意を滲ませて呟いた。確かに皮肉屋の親友が身近な人間を褒めるなど珍しいことだ。


「この御縁を大切にしなよ。本当にありがたいお話、色々聞かせてもらえるかもしれないからさ。決して変な意味じゃなくてね」


 幾分か癖を抑えた柔らかい口調で囁きかける。


「もう今日にいたるまで、沢山聞かされたさ。羨ましいだろ。正確な立場を言うなら、ガイドなんて恐れ多い。ガイドされているのは僕の方なものさ。ベヌンさんの方も、お客様なんて領域を超越しているよ。訪問者なんてよそよそしい枠に留まらない、アドバイザーのように密接な存在さ。僕は弟子未満のような分際だよ」


 エクトルの弁に、全くだと言わんばかりにイローニは首肯してから言葉を継いだ。


「ボクみたいな、知ったかぶりの青二才のご高説で耳痛めるよりは、かけがえのない思い出となり得る。それだけは保証できるよ。羨ましいね、ホストファミリーに選ばれて」

「いや、成り行きだよ、完全に。選ばれたなんておこがましいさ。奇跡が起きたっていうくらい、勿体ない幸運だね」


 イローニは一度かぶりを振った。


「過大評価でもなんでもない、率直な意味さ。彼を前にしていると、恥じ入る気持ちが込み上げて来るんだよ。十数年足らずの人生で、初めてのことかもしれない」


 年齢に似合わない言い方をする。いつもの振舞いではあるのだが、淡白な顔つきの中に、心なしか感化の気配がある。


「あんなに展示物を見て、心底から感動しくれた人なんて滅多にいないからね。綺麗に飾るのは当然の範疇さ。でも、本物だよ。賛美を尽くす姿勢はね。ひょっとしたらさ、君の心に溜まった澱も洗い落してくれるかもしれないよね」


 心の底から深く期待を込めるような真摯な呟きだった。

 エクトルは、確信しているような口調で静かに返した。


「いいや、僕ごとき個人単位相手だけじゃないさ……。期待しているんだ。願いたくなってしまうんだ。彼なら、あの、貴公……紳士様なら、世界の仕組みそのものを変えてくれるんじゃないかって」


 紳士自身に頼まれたわけではないが、紳士の身分が本物の高貴な出であることを共有する秘密として扱いたくて、うっかり言いかけたのを濁す。イローニも察しが良いのか、言い淀んだ点には触れず明快に応じた。


「そりゃ可能な人材だろうよ、わかるさ。お忍びの偉い人なんだろうよ、突っ込むなんて野暮なことはしないよ。美しい形が崩れてしまうさ」


  端くれながら美術品の取り扱いにも携わる身として、美意識、美学が働くのか自然と受け止めてくた。

 エクトルにとって、ベヌンに寄せる期待感は大言壮語でも誇張でもない。もはや超然たる存在への祈りにも等しかった。ベヌンと見学する内に、ささいな疑念的感情もどこ吹く風と霞んでいた。

 確固たる信念に似た思いが後押ししている。――きっと、彼こそが人類の目線の上に立つ神聖な伝説の種族であり、奇跡を授ける救い主の末裔に違いないのだと。

 妄想かもしれない。本当の詳細な事に関しては、申し訳ない気がして聞き出せていないのだ。だが、銀河を調停する長命の種族というのは、エクトルの属する生活領域で発見されていないだけかもしれぬ。確かな事実として認め得る根拠が身近にないから、妄想と断じたくなるようなあやふやな感覚でしか接することができない。可能性が無限に果てなく広がっている。それこそ、彼の説いた宇宙の広さの理屈のように。

 いや、実質は半分以上も背景や事情など気に懸けていないのだ。

 充分だし構わないと思った。萎びていた気力が、むくむくと活性化していくような高揚が胸を浸している。


「よし、じゃあボクらで彼に希望(ノゾミ)を賭けよう」


 イローニがはっきりと言った。


「賭けるなんて失礼だよ。託すって言い方が正しいだろ」


 真面目ぶって咎めてみせると、友人はプッと吹き出した。


「そうそう、君の言う通り。だからボクは嫌なニヒリストに留まるのさ。残り少ないお付き役、頼んだぜ友よ」




ひとまず年内の投稿は当話「博物館にて」までとします。次話は年明けに行います。

誤字・脱字は発見次第、年内にも修正をする予定です。

それでは良いお年を。

(2020/12/13)前書きにある「大幅な追記」について。展示の家電製品について、ロボット掃除機の項目追加、家庭用エステマシンのもう少し細かい記述を追加しました。書き出せば本当に切りの無いところです。詳しいマニアでもないので、自身が気になっているもの、欲しいものを取り上げています(笑)。家電て、国によっても違いますし……。フィクションとして大目に受け止めていただければ・・・

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