第一話 見習い先にて(上)
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「うふふっ❤ 君ってさあ、特段に記憶力悪いノ? 学校で先生の話を聞いて来なかったツケが回ってきてるんジャナイ?」
また始まった。彼特有の嫌味攻撃だ。十三歳の少年エクトルは、鳩尾の辺りからムカムカと湧き起こる表現し難い苛立ちを理性で抑え込み、「そうですね確かに」と素っ気ない生返事で応じるのみにして無視に徹する。
彼とは、一か月前よりエクトルが就労することになった工房の“指導員”だ。“見習い人”である自分と組み合わされることになり、謂わば先輩・後輩の関係となる。
敬意を抱ける余地など欠片もなく、徹頭徹尾理不尽の象徴だった。エクトルにとっては、生まれて初めて身近に接する職場での大人となる。何と分が悪いのだろう。引っ込み思案の内気さに鞭打ちながら、今にも卒倒しそうなほどの緊張感を堪えて踏み込んだというのに、いきなり最低のタイプと組むことになるなんて、気分の悪さを通り越して茫然自失寸前の心地だ。こんな険悪な状態を皮切りにして、“先生に対する普段の授業態度”などを伝えるほどに、打ち解けた雑談をしているわけではない。全ては発言者による人で無しの性根に基づく偏見に満ちた情報だ。
この相手の酷さは、無茶苦茶な暴言を急にぶつけてくる面に納まらない。際立つのが身に纏う衣服と化粧なのだ。ウェーブのかかった長い髪、は虹のように七色のメッシュで塗れており、更にその頭頂部をーロッパの貴婦人のようなゴテゴテと羽飾りのついたツバの広い派手な帽子で覆っている。職務中にも関わらずだ。その下の顔は一面厚塗りのお白いで覆われている上に、左右の目の縁にそれぞれ紫の星とピンクのハート型のメイクを施しているのだ。服装もビビッドカラーのタイツにフリルだらけのシャツとズボン、まるでサーカスの道化師の如き奇怪なビジュアルだ。本名までも格好になぞらえたものか、ネルネル・デル=ピエーロなどというのだからふざけている。白塗りの顔もよく見れば猫を思わせるアーモンド型の瞳など造形自体は美しいのに、どこでトチ狂ったのか極めて勿体ないとエクトルは思う。
まあ、衣服と化粧を除けば普段は大人しいものなのだ。口調と物腰は温和で一見優しい人物に映る。ところが一度でもミスをやらかすと、中傷・嫌味と聞き紛うような、注意にしては度が越えていると捉らえ兼ねない不快な物言いをするのだ。とにかく万事小馬鹿にするように決めてかかる。特に自分に対しては会話が成立した試しがない。
エクトルがこの人物について一番困っているのは、仕事の出来栄えに対し、厳しい指摘や叱咤を飛ばすことでは全くなく――仕事とは関係の無い個人的事情に絡めて毎度苦言を呈してくることだ。的を得たものであれば、能力を高めるための材料として理に適うから歓迎できる。そうではなくて、経験の浅い自分でも明確に不適切とわかることを繰り返すから、従順になる意欲がさらさら起こらないのだ。
初日の午前中に道具を取り違えるミスをしてしまったのだが、退勤時刻まで業務とは無関係な嫌味が続いた。襟の長いローブを着て歩いていたら、突如周囲にも聞える声で「襟の長いローブなんか着ないでほしいんだよネ~。ボクちん、デリケートな寒がり屋さんだから~風が立って迷惑なんだ~」と言い出したのだ。
息の根も止まるほどに面喰った衝撃は忘れられない。れっきとした先輩の注意にあらず、もはや只の個人的な苦情だ。よりによって自分勝手な出で立ちをしている人間に言われる筋合いなどあるものか――エクトルはこの出来事をきっかけに確信した。この道化上司は相手の欠点を嘲笑うくらいしか受け答えをする気がないのだと。
ある時は、こちらの苦労の過程を平気でせせら嗤ってきた。道化上司の予定に休暇が入っていた日であったため、体験者の身分にも関わらずほぼ一人でクライアントの外線電話に対処せざるを得ない事態に直面したのだ。現在、ギリギリでやっとの過酷な人手不足に追い遣られていたのである。電話の設置されたデスクに誰もおらず、鳴り続けている様子に必然の責任から手に取ったところ、なんと大手企業の重役に当たる人物直々の取引以来の相談だったのだ。電話訓練も受けていない時期にいきなり三段跳びの大事だ。
不慣れどころの段階ではない。受話器の向こうから放たれる小難しい用語の数々に、案の定パニックに陥ってしまったのだ。恥ずかしさも厭わずに、喚く調子でみっともなくどもりながら一字一句を紡いでいた。
幸い、数秒ほどで近くに通りかかった、別部門の比較的親切な先輩所属者が助太刀で交代してくれたため、済んでのところで難を逃れられた。しかし、もし児童同然の未熟な就労者によるたった一つの行動が原因で損失をもたらしてしまっていたら、就学先の担当教員に見習い契約を断ち切られてしまうところだった。
翌日、能天気そのもの顔で出勤してきたピエロに対し、前日における業務報告を行ったのだが、開口一番飛び出てきたのは少年の奮闘を労う言葉でもアドバイスでも、至らなさへの注意でもなかった。
「その話を聞いて僕かぁ、思ったよ。ウケル~ってね❤」
目を丸くしたまま、暫し金縛りのように硬直した感覚は未だ生々しく記憶している。
理不尽だ。完膚なきまでに理不尽だ。
どうしてこんな自己本位のコスプレ野郎に難癖をつけられなくてはいけないのか。
仕事の注意なら、不満ではあるが本当に解る範囲なのだ。相手がこんな最低人格者でなければと思うが、ないものをねだっても仕方がない。
完全に自分が嫌だからという文句ではないか。こんなの苛めに匹敵するほどの嫌味に他ならない。
噂によると、こんな体たらくでも名士の御曹司らしい。とは言え実家では落ちこぼれの烙印を押されているようだが、肝心の本人は呑気なもので全く意に介していない。呑気ではなく呪わしいのだ。
しかし、以上のような難儀な性格でも、規定の逸脱に等しいファッションに身を包んでいても、見習いとして就任して以来、彼がお咎めを受けているところを一度も見たことない。
何も彼が上流の身分だからではなかった。
これらの忌まわしい条件に当て嵌まるのが、道化御曹司だけではないというのが工房内の現実だったからだ。たった一人の今期の新人であるエクトルを除き、工房の先輩連中、皆が揃いも揃って奇抜かつ華美な服装に身を包んでいたのだ。
物作りの仕事場の中でのことである。サーカス団員でも歌劇役者でもない。全く飾り立てる必要はないはずだ。常識と照らし合わせれば、当然のことながら許容される範疇を悠に踏み外している。
おまけに、いずれの連中も各人各様にどこか欠陥しているような性質・気質を持ち合わせていたのだ。
これでは毎日が狂った仮装大会の有様とでもいうべきだ。
また、厳密に考えればかく言う自分までもが、人の事を言えぬ状態であるかもしれない。内向きな性格と不釣り合いにも髪の色が、鮮血を思わせる赤なのだ。注目を浴びるのが苦手な彼に取って悪目立ちする要素となっている。僅かでも、周囲の浮き立ち具合との違いを明確にすべく、真面目さと男らしさの演出意図も兼ねて耳の上まで切り詰めているが、効果的影響を望むのは難しいだろう。
客観的に見れば、ハラスメントが発生した時点で人事に訴えに出て、指導者の交替を頼めば良いのではないかという意見が生じる流れになるだろう。
だがある特殊な現状が、担当者の変更を望めない環境を作り出している。故に、ピエロ先輩との組み合わせは逃れられない苦難であると腹を括って現在の一カ月後に至るのである。意識では括れても、実際には胃壁を削がれるほどの痛みに蝕まれているのだが。
「まぁた、ローブ着てるノオ、おチビの見習いちゃん? 言ったロウ? ボク、そのロングのローブ好みじゃないテェ。色みも貧相でダサイしィ。別に着なくても良いことになってるんだからサ~。ボクの前で裾を翻して歩くのやめてくんナイ? 風が立つから邪魔なんだよねェ。着るの辞めてヨォ、お願いだからサア~」
現在時刻。ピエロの先輩は、椅子の背に後ろ向きで凭れかかるという、だらしない姿勢を取っていた。相変わらず鼻につく粘り気を帯びた口調でクレームを垂れ流している。無視を決め込んでいるエクトルは、真顔を繕いながら用具置き場への歩を早めた。
気不味い態度は緩和するどころか、エスカレートする一方である。普通なら有り得ない事態なので、当初は一瞬、身が硬直し、絶句を強いられたものだが、どうせまともな答えなど求めていないのだろうとわかってからは馬耳東風で臨んでいる。エクトル自身は元より口も強くないので言い返そうと力むのは徒労だ。
しかし、脳内では理屈立てて沈着しているものの、生理的な内面部分では正直に煮えるような悔しさが渦巻いていた。大切なローブの袖を、雑巾絞りをする勢いで強く握り締めて駆け足に急ぐ。
苦手な上司が執拗に否定しても頑なにローブを纏い続けるのは、彼なりのせめてもの抵抗だった。幼いながらにエクトルは調べて知っている、この地域の工房は、本来の仕事着は伝統的に落ち着いた自然色の長いローブだ。汚れや最低限の怪我を防止するべく、私服の上の着用を義務づけられたのだ。故にせめて自分だけは、最弱者の〝見習い人〟という身分としても正しい有り方を無言で主張していくべきだろう。そう考えている。
あるいは単純かつ精神的理由であった。髪型の意味と同じように、絶対に彼らには染まらないぞという抵抗の意志も込めているのだ。
現状から明白な通り、当工房では既にローブを義務とする規定は崩壊している。エクトルは悲しみと共にこの理由も知っている。伝統の正式さが揺らぎかねない仕組みの変動があったのだ。
ふとエクトルは、工房として与えられたスペースより数十メートル離れたとある部署の一角を見遣った。
同じ建物内の異なる部署というだけだ。なのに入口はスロープ状に傾いている、つまりここより一段高いのだ。おまけに手すりのような長い棒に空間を隔てられている。要はエクトルのいるスペースとの境界線なのだ。
ある瞬間にエクトルはいつも作業中であるにも関わらず、一時的にその高台へと茫然と視線を送ることがある。理由はそちらに属する者達にあった。
うっかり目元から手を放していたその時だった。
「ぼおっとしてんじゃないわよう、坊やちゃん。じゃないと、マックスでヘシオドスわよ!!!」
最悪のタイミングだった。巡回業務に当たっていた別の厄介な先輩が現れたのだ。エクトルは割と露骨にえずくように苦み走った顔をしてみせた。ただしこの人物の目線からは窺い辛い絶妙な角度で頭を背けてからである。
エクトルが仇敵としている者は、このように他にもいるのだ。最悪なことにピエロよりも上にいる男だった。
奇妙な口調で脅し文句を放っているが、実はこれ、本人の名前にそのまんま因んでいるのだ。名を、マックス=ヘシオドスという。目つきの悪い、緑色に染めた髪をモヒカンの髪型をした男性で、世間において女性的とされる言葉遣いを抑揚の激しい感じで操る。
上司たる者が脅迫の真似事とはいただけないが、それ以前に内容が痛々しい。ダジャレなのである。あまりの悪寒に苦笑する元気も湧いてこない。
ところどころに面白味のない自作の言葉遊びで後輩に絡みまくる悪癖を有し、ジョークが好きな愉快なキャラを気取ったと思いきや、機嫌を損ねた途端に、平然とパワハラ抵触レベルの罵倒を遠慮なく吐き散らす。ピエロとは別種の嫌悪感的生態だ。いや、やたらユーモアラスな先輩面をする者ほど案外気分にムラの生じ易いことを、エクトルもチャイルドスクール時代に接した文具工作サークルの部長から学んでいる。希望に出した見習い場まで出くわすとは参る。
服装は黒いレザーの上下、上は肩を露出させたタンクトップ型で長ズボンというメタルミュージシャンのような出で立ちだ。
お世辞にも容貌に優れているとは言えず、短足で顔は大きく首と幅が変わらない固太り体型だ。ファッションの奇天烈さの際立ちに一躍買っているといえる。
初日にはピエロより増して度肝を抜かれたその恰好も、今では醜悪な陳列品の一部でしかない。
ところが尊大なヘシオドスにも例外の相手が存在する。ネルネル・デル=ピエーロだ。彼とは付き合いが長いという理由だけで、彼に対してのみ気の知れた友人のように比較的緩い。元来のつんけんした調子は維持しつつ、どこかしら手を抜いた雰囲気を放つのだ。頽廃が進行する要素の一つであろう。
ヘシオドスはもう一つのお決まりの癖として、髑髏を幾つも連ねたような不気味なアクセサリーをジャラジャラとポケットに突っ込んだ形で鳴らしながら肥満体を揺らして俄かに近寄った。余分な体重のせいで、さほど幅の無い通路から工房スペースに入るのにも結構時間を食うのだ。
追加で説教を垂れるために来たのだろうと思った次の瞬間だった。ヘシオドスは前置きもなく黙ったまま、エクトルのデスクにある未完成の工作品を横合いから引っ手繰ったのだ。まだ接着剤を塗布してから数分も経っていない状態なのだが、相手に対し一切の思慮を加えない唐突さだった。
「あ」と待っての声を辛うじて絞り出した時には、乱暴に掴んだ未完成品を値踏みするように眺め回しながら一方的に寸評を言い連ねている。
「ねええ~、ちょっと~? これって本当だったら三十分前には出来てないとおかしい作業じゃああん」
止めて下さい、と抗議の声を上げる暇すらなかった。いや、そんな勇気すら出せなかったというのが実際だ。独特の間延びした口調に通常なら笑いでも誘われるところだが、そんな余裕などあるはずない。瀬戸際のような危機感に心臓を圧迫されるようだった。
「なぁあんで今頃になって取りかかろうって状態なのかしらん……? ぶっちゃけ言って坊や、ヤルキアル?」
初心者がやる気だけで手際よく進められるのなら、修業期間なんて誰も必要ないだろう。このモヒカンが工房入り当時から天才あるいは優秀だったなどという話は聞かない。現場監督としての意欲が欠如しているのだ。
彼らには早々に期待感は失せてしまっているし、既に諦観が内心を占めている。それでも、無理無体な言い様には瞼が熱くなった。目の端に薄らと液体が滲み出てしまったかもしれない。
付近で針作業をしているピエロは我関せずというか、理不尽な叱責に晒されている見習い員が傍にいても痛くも痒くもない風情の涼しい顔色をしていた。不細工な唇から口笛を奏でる陰湿な余裕すらこいている。嫌でも視界の隅にちらついて憎しみに駆られる。
モヒカンのヘシオドスは尚も苦言を重ねた。 脂ぎるほど塗りたくられたらしい黒い口紅浸けの唇が、ナメクジに似て気味悪く蠢く。
対するエクトルは、内心では負けじと「豚」と悪態をつきつつ、決して強気さを表すことができなかった。涙を呑んで耐えるしか術がない。このような特性を本能的に非常に恐れてもいるからだ。無遠慮で歯に衣着せない口調と突発的な接し方は、自然に有無を言わせぬ関係性の優劣を押し付ける。
だが信じられないことに、本人には全く嫌味を言っているつもりがないという風情なのだ。それどころか、純粋な疑問符として心底より口にしている雰囲気だ。
エクトルには鳥肌が立つほどにゾッとさせられる、おぞましい事実だった。
「単純作業だと思ってアンタに振ったんだけど、こぉおんな惨めな始末になるくらいなら、見習い呼ぶ制度に意味なんてあるのかしらぁあね。既にいるアタシらだけでも賄った方が、少人数でも断然早いわよぉお。景気もマシになるに違いないわぁ」
注意にすらなっていない、悪罵同然。ピエロと同格の卑劣な精魂の持ち主であると如実にわかる見本のような場面だ。
ふと再び、横目で盗み見るようにピエロのデスクへ視線を這わすと、自分などより遥かに作業の遅れている状態だった。第一段階として、設計図の作成を任されるスタートラインは変わらない。しかし道化指導員ときたら、工具に触れるはおろか、設計図さえ所々線が中途半端に途切れている。
(ピエロさん……。確かに経験年数長いらしいけど、役職持ちじゃないよなあ。身分では一応、平職員と変わらないはずなのに、なんで彼だけタメ口きいてもお咎めなしなんだろう……)
ピエロが涼しくしていられるのにも訳がある。エクトルは知っている。この二人は常に結託しているのだ。表向きこそ憎まれ口を叩きあっているが、実際は〝昔のよしみ〟という絆の力が作用している。
ピエロはエクトルと同様、役職名を与えられていない平工房員で実質立場に変わりはない。ところが、年が近い・付き合いの長い馴染みの工房仲間同士という理由だけで咎め立てを緩和されている場面が山ほどあった。
例えば、エクトルが懸命に頭を下げて依頼事をした時でさえ「それが見習いの先輩に対する物の頼み方?」とでも言うように、目線だけで無言の圧力をふっかけてくるというのに、ピエロがへらへらと「○○ちゃん、○○しといてほしいなあ~」とシナを作りながら要求してきた時には、「自分でふんばりなさいよね」と小言を溢しつつ、気安い態度で受け入れるのだ。
エクトルにはこれが不公平に見えてならない。幾らプロで在籍年数が長く、班長と昔馴染みという強みがあるとはいえ、現場代表職の〝統括人〟からはまだまだ正式な注意を受けるほど未熟さを残した人間だ。一体、何の差があるというのか。
随分丈高々な態度の人物ながら、経歴が長いというだけで、大した役職も付与されていない。エクトルはチャイルドスクール時代から、この手の人間が苦手だった。
遠足などの班行動において顕著だった。口下手で押しに弱いエクトルは、男子ながら泣かされていた記憶しかない。
リーダーなど明確に高位のポジションが託されたわけでもないのに、二番手を気取って勝手に采配を振るい周囲に幅を利かせるタイプだ。
恐らく性格から来る結果であろうことはわかっている。野生の動物社会と同じなのだ。群れの中で特に強さを発揮した個体が誰に指名されるともなく、リーダーの行動をしている。いわゆる〝リーダー格〟というやつだ。
しかしエクトルは白黒はっきり決められていないと気持ち悪かった。ただでさえ陰険な性質を抱えた者なのに、強い意見で言うことを聞かせようとまでするなど身の程知らずも大概ではないだろうか。いつか必ず、このような自然の摂理という不条理が罰せられる世の中になればとエクトルは願っている。このようなタイプは放っておけば誰に対しても同じように振舞い続けるからだ。細菌が蔓延するのにどこかで歯止めをかけなければならない。
このような不条理に対し、満足な根拠が見出せないのなら考えられるのは唯一つ、無意識の内に〝友達同士〟という甘さを出して贔屓しているのだ。
職場とは、定められた倫理規範に従順・誠実であるべき場所のはずだ。大事な選択期間のために用意された青春を、こんな仕様のない不文律で踏みにじられていると思うと情けがない。 何より、平然と無自覚に歌舞いている不届き者の一人であるマックス・ヘシオドスなどという男を、中間管理職者に据えていられる人事が信じられない。なぜ彼よりも上役の〝統括人〟は黙認しているのだろう。
ただ見落としているだけなのだろうか? それとも、触らぬ神に祟りなしという奴だろうか。否、服装規定が崩壊している時点で何に期待しても己が馬鹿を見て終わるのかもしれない。
(本当に気が滅入る。これが大人の社会の一部だなんて……。)
一体、いつの時代から、このような有様に変容してしまったのか。
エクトルにとって不勉強な経済問題の話? いいや、一部の力はあるが人間性を遺棄した統治側が、何都合の良い歯車の回転を維持するために組みこんだ膿なのだ。それも、新たに社会に踏み出す計画書を思い描こうとしている青少年には読み取れない巧妙さで。
エクトルに現在の希望先を勧めた両親は嘘をついたわけではない。彼らもまた情勢変化に疎かったのだ。けれど、よっぽど狡猾で冷徹無比な感性がなければ、実力と無関係なスタートラインの段階において差を設けるなど苛めのような仕組みが思いつけないだろう。
元々は将来安定した就職先につけるようにと、周到な想定を経て選んだ最適な場所であるはずなのに――。様変わりにも程があるのではないだろうか。子を思う優しい父母を責めるわけにはいかないが――。エクトルは、両親が親切で伝えてくれた情報だけを鵜呑みにしたことを今更ながらに恥じた。最も、彼の年齢で充分に希望に沿う環境を選定する力量を強く求める方が酷ではある。しかし、イメージに大半は比重を置いて決めてしまったのは事実だと後悔を否めない。冷静に考えてみれば、元々は都市庁舎の安定した役人である夫婦に、他業界の敏感な変化を感じ取れというのは無理な話だったろう。
よく、ホームページにアクセスして下調べしろと言うが、あれはあくまで売り物として小奇麗にデコレーションされたパッケージだ。
やましい部分などわかるはずもない。数字も読み取るのが下手な少年に何がわかるというのか。
だが事前調査が不得手だったエクトルでも、1ヶ月間就労していて気づけたことがある。〝統括人〟は説明を省いていたが(わざと口を閉ざしていたのか)、ここまで支離滅裂な状況で放置されていても、黙認されるほどの職場環境を生み出した原因の一端があった。
外側からは、容易には見えざる厳密な線引きが存在していたのだ。
“正式者”と“非正式者”――そんな個人の能力とは無関係な待遇差が敷かれているのである。
“正式者”とは、終身雇用と身分相応の給与取得が約束されたもの、“非正式者”とは予め雇用する期間が限定的に定められている上に、時給制で支払われる額が低く設定されたもののことだ。当然のようにエクトルが〝見習い人〟として属する側だった。安上がりに済ませるべきと判断された身分だからだ。正式とされないものは始めからこちらに組みこまれるしかない。おまけに細かく言えば、当工房の所属者ですらない。正しい身分は委託会社の社員だった。正式枠に期間限定雇用者は入らないのだという。
そう言えばとエクトルは、現通学先のジュニアスクールにて、そんな区分が世の中にはあると説明されていた覚えがあったとぼんやり思い出していた。今考えれば、真剣に聴いていなかったことを後悔するばかりだ。いずれ何となく両親のようになるのだと考えていたため、他人事のように捉えていたのだ。
エクトルが〝見習い人〟の工房職員として所属している会社の名前は、ベスト・ピープル・オーメントという。略名はBPO。優れた職人を一定の時期に雇い込む大規模な工業系会社だが、どちらかといえば請負形態で大企業を結び付くやり方を中心としてきたため、職人の身分は安月給で使い回される存在であり不安定だ。現在雇用している工房職員の大半はみな請負の身分だという。よって人事側が相手側と取り決めた契約期間が更新されることがなければ、いとも容易く路頭に放り出されてしまう仕組みだ。つまりBPOの工房職員は〝非正式者〟の括りに含まれるということになる。
〝正式者〟は、ほんの少数に限られる。大半の職人を直接雇用できなくなったため、BPOの出番となったらしい。
初日の違和感から重い腰を上げて調べてみたところ、エクトルの生れる十数年前から既に業績は赤字だったようだ。人件費を安く抑えることによって、どうにか都市国家の一員として、経済を支える堅実な会社らしき顔を維持してきたらしい。ホームページの会社の沿革と有価証券報告書のリスクの記載でわかった。現場に入る一週間前からホームページは叩いていたものの、純粋に仕事内容に期待を寄せてわくわくしていた彼は、過集中気味に事業の展開にしか目を通していなかった。まだ見習いで済む話だからと甘くタカを括っていたというのもある。
現状を思えば〝ベスト・ピープル〟などと皮肉も同然だ。だが会社経営者にとっては恐らく純粋に、優良な人材による構成組織を作り上げたいという意味を込めてのものだったのだろう。残念ながら現場の人間を思い遣る視点が欠落している結果、現状は理想形からほど遠い。先日まで目を通していた社会科のテキストの民主制の説明は欺瞞だったのだろうか。本音と建前という言い方があるが、それが現実と言えど、人のプライドと生活に関わる問題であれば幾らなんでも限度があるのではないだろうか。
身も蓋もないくらいに単純極まる言い方をすれば、人権が充分ではない。エクトルからしてみれば、とても人権社会の中での発想ではない。
理由は単純だ。生産社会の形態変化だった。滞在先の小都市が大国の一部から除かれたのと一緒だ。
不充分な待遇から、当然入ってくるのは経験者より未経験者が多くなる。少人数の正式者が牛耳る格差があるのが現状となって当然だった。ただ現在の〝統括人〟が優秀であるため、何とかクライアントとは良好な関係が維持で来ているらしい。
だがこの〝統括人〟とやらも随分珍妙な出で立ちをしている。面接で一度だけ顔を合わせたことがあるのだが――
髪をオールバックにしてポニーテールにしているのはまだわかる。しかし上は金箔、下は銀箔塗りの着衣なのはどのようなわけだろう。東洋系居住区域の民族服を思わせる、ゆったりとした形状だった。ピエロやヘシオドスに比べるとマシというのが悲しい。
待遇差別の問題だけなら、奇奇怪怪な百鬼夜行図絵が形成される理由にはなり得ないだろう。
人間ばかり就労していることとは直接関係ない。単純に職場のカラーではないか。そう思う人もいるだろう。
まあ、直接的に作用していなくても、魑魅魍魎の巣窟然としている結果には変わりがない 間接的にせよ、一人一人の心の有り方に影響は生じているだろう。
対する〝正式者〟である。雲泥の差だった。明らかにまともな服装に身を包んでいるのだ。何の変哲もないが、折り目正しく清潔感ある。ジャケットを羽織る義務や襟付きでなければいけない規定はなくカジュアルスタイルだが、突出した派手さを取り込む者は誰もおらず社会人らしい統一感が保たれていた。
確固として倫理的ではあるが窮屈な束縛感はない。常識範囲の社会人として規律という存在に誠実さが払われていた。洗練された人心地の良さがあることは見て取るように漂って来る。
きちんとした保障に守られているが故に人間性の豊さが生じているのだろう。これは治安が悪化する要因に思いを巡らせれば阿呆でもわかる理屈が存在する。
片目でちらりとそちら側のデスクを見遣る。〝正式者〟に昇格し得た人々だけが立ち入ることを許された領域だ。
住む世界を分けられてしまったことはわかっている。しかし、羨望の的としてふと作業の合間に見上げたくなる。自分は腐った巣に留まるわけではない――下剋上に似た意欲が湧く良き気晴らしにもなるからだ。
しかしその頭上一つ分秀でた世界の中にさえ更なる区別が存在する。世代の境界線で、試験なんかなくても最初から〝正式者〟に立てた人達と、汗と涙の滲むような努力をして初めて〝正式者〟になり得た人達がいるのだ。
エクトルは自問し思考する。この境目は何だろう。境界線はどの位置で引かれるのだろう。
現代において〝正式者〟というと、職分内において上級免許試験をクリアしたものだけに与えられる特権的立場を意味するようになっている。エクトルの親の頃には見習いを卒業した時点で自動付与された身分だったが、社会情勢の変化のせいで当然の権利のはずだったものを貴重なパイとして奪い合う戦乱の世となったのである。昇級試験の苦労を経験することなく、最初から約束されていた人達の多くは壮年に達する古くからの世代だ。
群雄割拠の摂理と同様に化してしまった。異様に優秀な者だけが基本的保障の恩恵を授かる。落選者は身の置き所の不確かな被差別者となる。
親は教えてくれなかったのだ。二人は専門家でもなんでもない。人生経験から学んだ美味しい話でしか子どもにヒントを与えられない。
ただし彼らとて非常に残念なことに、必ずしも完璧な安全が保証される身分ではない。
身分差を設けたことによって、誰もが得られる平均的な立場でとは見做されなくなった。
つまり、ひとたび“正式者”に決まるだけで、まるで幹部組織の重役の如く過大な重責を背負う職階として扱われるのだ。
それでもエクトルは将来、ひとまずこの身分を目指す気でいる。生活の安定維持を成し遂げ、基盤を整えるためだ。
本望の終着地点は別のところにある。
好きなものを作り、好きなもののアイディアを練って生きていくのが憧れなのに、小難しいことをあれこれ抱えながら、プレッシャーに押し潰される思いで生きていかなきゃならないなんて。幾ら高収入の獲得と劣等感からの解放が得られても虚しくなる。故に、あくまで生活を安定させる手段として辿り着きたいと思うのだ。
真の最終目標は〝自由の枠〟に入ることだ。〝自由の枠〟とは、己の腕一つで独立を果たし、業界唯一無二の地点までに到達した成功者の身分を表している。要はフリーランスだ。
とはいえ肝心の手近としたいステップが近況では縁遠いものとなっている。なにせ上級試験の開催時期には決まりがない。ポストが空かない限り、機会にはありつけないのだ。
(仮に〝見習い〟期間が高く評価されて、職入りの権利が得られたとしても……〝正式者〟の免許の獲得できる日なんて、一体いつになるのやら。 キャリア形成なんて雲上人の話になるよ。制限が敷かれ続けるのなら、永遠に落ちこぼれ扱いされてるのと変わらないよ)
見習いの自分から、激しい落差の現実を目の当たりにしてしまっているのだ。到底両親の理想とするような手順など踏める自信がない。学業成績も振るわず苦戦している現在、社会人になってから頭一つ出る実力を身に付けた姿なんて想像できるだろうか。
肝心要の先例が今己を取り囲む俗悪なハイカラ連中だというのに。先人に習えというが、成っていない連中を立ててもつけ上りしか生まないだろう。
奴らに、危機感や悲壮な背景なんてあるのだろうか? 壊れた人格で相手を愚弄し、迷惑を及ぼす連中に、差し迫った事情などあるとは思えない。配慮や推察も無用であろう。悲壮なのは人間性と思考回路だ。
幼児が見たって、厳しく鍛え上げるための修行場になってすらないのは明白だ。彼らは土台として備わって然るべき、人間の基本が壊れている。
エクトルは無遠慮に内心でなじり倒すことに決めていた。未熟な身分だからといって、人権社会と明言している世の中で堕落人を咎める資格が認められないはずがない。蔑視したところで、釣りなんか山ほど得られる。
むしろ、自分のような迷える子どもに好き放題言い散らせる態度を黙認しているだけ贅沢をしているようなものだ。
倫理を放棄し、背中を見ようと折角意欲的に臨まんとしている若者を幻滅させ希望を打ち砕くしか能がない。
後継者の育成に結び付くなど論外という現況。奴らこそまさに無資格者だ。
(幾らこの先輩達が有能視されたって、意味ないじゃないか。親の介護をしているわけでも、家庭に入る必要性もない。独り身が、短時間雇用者と変わらない額に甘んじて働いてるんだぜ。笑わせるでやんの)
自身の口調まで毒に犯され歪んでいくようだ。自覚はあるが、工房での時間を耐え抜くには、己以外の他者大勢の欠点および罪科を発掘することしか過ぎ去るのを待つ手立てがない。
エクトルは願っている。あなた方の態度は愚かしいものだと気付いてほしい。
休憩時間を告げるチャイムが鳴った。一時的に悪魔の拘束から解放される時間帯だ。
周囲がてんで散り散りになるのを合図に、少年は休憩室へと駆けて行った。