92 V-長い夜の始まり
「やったぁっ!ゾンビだぁっ!!」
二人のプライベートルーム内、歓喜に彩られたミツの声が響き渡る。
[HELLO WORLD]八周年記念日に先駆けて遂に始まった周年イベントの一環として、この日より全プレイヤーは、ランダムで亜人種、アンデッド種などの人ならざるアバターへと変貌させられていた。
ちょうど時期の重なるハロウィンにあやかったその催しにおいて、ミツに当てがわれたのは、土気色の肌に虚ろな瞳を泳がせるゾンビそのもの。
しかし、密かに望んでいたその姿になれたことで、ミツのその瞳は屍人らしからぬ眩しいほどの輝きを称えていた。
「ミツ、ゾンビになりたかったの?」
初めて知った、とばかりにとぼけ顔で言うハナだがしかし、ゾンビになったミツが何をしようとしているのかなどとっくに感づいていて、隠し切れない期待に耳と尻尾がぴこぴこと跳ねていた。
そう、耳と尻尾が。
「うんっ。わたしはゾンビだしハーちゃんは猫人間だし、もう文句なしだよぉ!運営さいこーっ!」
自分に都合が良いことがあるとすぐに運営を持ち上げ始めるのは、オンラインゲーマーの常であろう。
「そうだね、ゾンビのミツも可愛いよ」
いつもよりも緩慢な動きで喜びに身を揺らすミツに、ハナも目を細めて同調する。
髪色と同じ銀色の三角耳としなやかな尻尾だけに留まらず、その目の動きすらも、どこか猫のように軽やかな色気を孕んでいた。
「そう?ありがとぉ……ところでハーちゃん、わたし、もしもゾンビになれたら、やってみたかったことがあるんだぁ」
血の通わなくなったその頬を緩めながら、ミツは小さく呟く。
虚ろでありながらも妙に生々しい欲望を映す緑灰の瞳が向かう先は、いつもよりくせの付いた銀髪が一房垂れる、ハナの首筋。
「えっと、その…………うん、良いよ……」
まだとぼけようか少しだけ悩み、けれども期待に揺れる尾の先を誤魔化すことなど出来そうにないと、ハナはあっさりとそれを受け入れた。
「やったぁ……じゃあ、えへへ……いくよぉ……?」
一般のプレイヤーたちのあいだでは、周年イベントにおけるゾンビ系の仮装は、いわゆる外れ枠だとされている。
ゾンビと言えばやはり噛み付きによる感染が最大の特徴だが、プレイヤー間における直接的な噛み付きや口唇接触は、過度な身体的接触に当たるとして『倫理コード』によって禁止されているからである。
明らかにモンスターな見た目をしたNPCの攻撃手段としてはもちろん認められており、実際に『感染』と呼ばれる状態異常も存在してはいるものの……此度のステ変更によってゾンビと化したプレイヤーによる、他のプレイヤーの皮膚部分への噛み付き攻撃は、原則としてシステム的に禁止されている。
故にこそ、多くのプレイヤーにとってゾンビコスとは、ただ動きが緩慢になるだけで大して面白みのない外れ枠なのである。
「ん、どうぞ……」
貫頭衣状のシンプルな部屋着の肩口を、少しだけ引っ張るハナ。
当然ながら『倫理コード』によって、肩や胸元がはだけることはなかったものの、その行為そのものが、より鮮明に、ハナの白い首筋をミツの脳裏に焼き付けていく。
「ぁー……」
割合厳密に制限が設けられているプレイヤー間の皮膚接触、口唇接触の枷を緩める方法は、ないわけではない。
これ以上ないほどに親密で、それこそ現実世界であれば肌を触れ合わせることなど当たり前な関係――例えば、そう、『ふうふ』になるとか。
そういった、両者合意の上で結ばれた特殊な関係性の内において、厳格なる[HELLO WORLD]の接触制限は、少しばかり緩和される。
まあ『ふうふ』だし、ハロウィンだし、周年記念だし、噛み付くくらいは見逃してやるか――とでも言わんばかりに。
『フレンド』、『クラン』、『ファミリー』。
数多有る相互関係の中でも、最も多くの身体的接触が許される『ふうふ』という間柄においてのみ、ゾンビという種族の面目躍如、噛み付きによる感染が許される。
故にこそ、一部の拗らせふうふにとってゾンビコスとは、合法的に噛み付き感染プレイを楽しめるこの上ない当たり枠なのである。
「あーー……」
大きく開かれたミツの口が、ハナの首筋へと迫る。
血色の悪い紫色の唇から覗く歯は、特別鋭い様子もなく、いつもと同じ人間としてのそれ。
しかしだからこそ、今のミツが屍人――すなわち、人であった人ならざる者なのだと、ハナの心臓を一拍、また一拍と高鳴らせる。
濁り輝く異様な碧眼に射すくめられこわばるハナと、ふらふらと緩慢な動きで近寄っていくミツ。
その光景はなるほど確かに、襲うゾンビと立ちすくむか弱い少女といった、B級ホラーめいた一幕のようであり、けれどもその実態は、焦がれ合う二人にひと時だけ許された、仮想の情事。
「……、っ」
ゆっくりと、確実に迫るミツの影に、ハナがこくりと喉を鳴らした、その瞬間。
「がぁう゛っ!」
最後の数歩を飛びかかるようにして詰めたミツが、濁った唸り声と共にハナの首筋へと噛みついた。
「う、く……!」
がじがじと聞き慣れない音が、部屋の中で小さく響く。
歯を立てて貫くというよりも、何度も擦り付けて皮膚を食い破るような、ノコギリでも当てているかのような攻撃。
それは、現実世界でいつだったか――否、実のところ結構な頻度で――二人がお互いにしていた、歯型を残すための噛み付きとはまた異なった感覚だった。
「ばう゛っ、あ゛ぁ゛ぅ゛っ……!」
より捕食という行為に近く、それでいて仲間を増やそうとする繁殖への欲求も入り混じった、本能に根差す原始的な行動として。
噛み付いた口の端から動物のような声を漏らすミツの脳内は、ハナという極上の存在を食らい支配しようという、生物としての根源的な欲望に呑まれていた。
……これは別にゾンビ化のシステム的な作用というわけではなく、ただ単に彼女自身が、役柄とシチュエーションに入り込んでしまっているだけなのだが。
そんなことをされてしまってはハナも同じく、より鮮明に、食われるという感覚に溺れてしまうというもの。
「ぁ、ぁあっ、ミツっ、痛い、よっ……!」
言葉の通り苦悶の表情を浮かべながら、けれどもその両腕は、顔を埋め肉を食らい続けるミツの頭を抱きすくめるように、強く硬くこわばっていた。
首筋に走る痛みは、長いハロワ生活においてもあまり経験のない、捕食に伴うそれであり。歯を立てられる鋭い痛みでありながら、肉を削がれ、身を削られる終わりの見えない鈍痛もが同居している。
痛覚が鋭敏になったそこを時折、ざらついた舌が掠めていけば、その度に沁みるような痺れが顔を覗かせて、ますます身体は硬直していく。
――だが、それだけではない。
物理的なダメージとしての痛みの裏側で、もう一つの変調がその身に起こっていることを、ハナは敏感に感じ取っていた。
「ぁ、んっ……!」
冷たく蠢く何かが、体の中へと入りこんでくる。
ミツの死した体を動かす何かが、傷口を通して、ハナの全身から急速に熱を奪っていく。
異常事態に心臓はバクバクとペースを上げ、しかしまるで、それによって何かが体中へと循環していくかのように、冷たく、冷たく。
薄く開いた視界の先で、自身の指先が生気を失い土気色に変わりゆく様を見て、ハナの呼吸はにわかに荒くなっていく。
「はっ、はぁっ……、!はっ……!」
死んでいく。
自分の身体が。
生者としての肉体が。
命を失っていく。
未だ首筋に食らい付いている少女に食われ、作り変えられていく。
危機的状況に耳と尻尾の毛は逆立ち、手足と同じようにピンと固まっていた。
動物としての本能が致命的な変容を恐れ、その恐怖が最愛の人から与えられているということに、脳髄は快感すらも見出し震える。
「ふーっ、ふーっ!」
相乗効果で心臓はより一層脈動を速め、その分だけ身体は、より早く何かに侵食されていく。
さしたる抵抗も見せずに、肌は一部の隙もなく血の気を失い、蒼く輝いていたはずの瞳は、曇った夜空のような群青に。だというのに、瞳孔の開き切ったそこには、捕食者へ向けるどろりと被虐的な愛情が浮かんでいて。
ミツの唇を通して何かが体を食らい尽くす感覚に、身体が冷たくなっていくほどに感じる恋慕の熱に、ハナはその瞬間、歓喜の涙すら流していた。
何かとは細胞であり、ウィルスであり、敵性因子であり、呪いであり。
愛情であり、支配欲であり、快楽であり。
「ぃ、ぁ゛、ミツ、ゥ゛……!」
「ハーちゃんっ……!ハーちゃんは、わたしのものだから、ね……!」
そして、何よりも甘いミツ。
生者から亡者へと、身体が反転する。
自らを変貌せしめた上位個体へと、その身は隷属を誓う。
甘い痛みに侵食された心はまるで腐肉のように、どろどろのぐずぐずに溶け落ちていって――
「――はぁぁぁ~っ……!ゾンビ猫ハーちゃん……!もう、これ、やばぁ……!」
「めいれい、してもいいんだよ?いまの私は、ミツの眷属なんだから」
「あ゛あ゛あ゛~~」
「ふふっ。私も、う゛ぁぁぁ……ってね」
血の通わない婦婦が一組生まれ、長い夜が始まった。
次回更新は8月29日(土)18時を予定しています。
よろしければ是非また読みに来てください。
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