09 R-学院内は危険がいっぱい
VRゲーム内では廃人の一角に名を連ね、色々な意味で知る人も多い百合乃婦妻ではあるが。現実世界では良くも悪くも、二人は一介の女子高生に過ぎない。
社会の枠組みの中で生きていく上で、どうしても、繋いだその手を離さなければならない時が訪れてしまう。
「華花ちゃん、じゃあ、また……」
「うん、また後で……」
例えば、朝のホームルームの時間、であるとか。
「いやまたも何もないでしょうが」
なおこの二人は隣同士に座っているため、その気になれば手ぐらいなら繋いだままでもいられる。
「おはよう……、ご、ざいます。皆さん」
教室に入ってきた二年二組担任、和歌が一瞬言葉を詰まらせたのは、最早毎朝毎朝おなじみの風景であり。
(あぁ、白銀さんと黄金さんが手を離してしまった……ワタシという邪魔が入ったせいで……)
それが重度の百合乃婦妻ファンが故の葛藤によるものであることは、クラス内では最早周知の事実とかしていた。
華花と蜜実からすれば、先日のVR実習の一幕で受けた「授業中はいちゃつくな」という旨の教育的指導を、なるべく順守しようとしているだけなのだが。
(担任であるが故に近くで見られる……しかし、教師であるが故に存在そのものが二人の邪魔になってしまう……果たして『ワタシ』とは、本当に必要な存在なのだろうか……)
出欠の点呼を取りながら自らの存在意義を問う和歌は、その百合哲学のストイックさでもって、一部生徒たちから畏敬の念を集めつつあった。
◆ ◆ ◆
一限目、近代科学倫理。
「科学技術の発展には、それに伴う倫理的問題への探求が不可欠です。近年特に目覚ましい発展を見せているVR分野においても、勿論それは例外ではなく――」
かくもお堅い授業の教鞭をとるのは、二年次学年主任、学年一のお堅い教師、大和 彩香女史その人であり。
「VR分野一般に共有されている『倫理コード』については一年次である程度学んでいるかとは思いますが――」
厳格な彼女の雰囲気につられてか、教室の空気もより一層引き締まり、生徒たちの背筋も心なしか、いつも以上にピンと張りつめていた。
「そもそも何故、どういった流れを経てその内容が具体的に決定されるに至ったのか――」
しかし、そんな二年二組に一人だけ、春の陽気を存分に享受する存在が。
「……、……、……」
完全に突っ伏してこそいないものの、その意識は既に有と無の狭間を揺蕩っていて。こくりこくりと舟を漕ぐ度に揺れるウェーブがかった黒髪は、恐れを知らぬ武士の誉れ。
(どうしよう、起こした方がいいのかな……)
(でも、私なんかが話しかけるなんて恐れ多い……)
彩香女史はどう見ても、居眠りを許すような人間ではない。そう分かっていてもなお、黄金 蜜実の寝落ち寸前の姿は、周囲の席の生徒たちが声をかけるのも憚られるほどに、ある種幻想的ですらあったという。
(それに、白銀さんは黙認してるし……)
(これは婦婦の問題であって、外野が口を出すことじゃないと思うんだよね……)
どう見ても一個人の授業態度の問題なのだが、華花が横から慈愛に満ちた目で見守っているという状況が、その異様な触れ難さに拍車をかけていたとも言えよう。
「――ですので今日は、ネット倫理の流れを汲む初期のVR倫理について話していきましょう」
(やばっ……)
(大和先生がこっち見――)
それはまさしく刹那の出来事。
デバイスを操作する手を止め、彩香女史が振り返るまでの、数秒にすら満たない時の狭間。
(――!)
「――、っ!」
にわかに鋭さを増した華花の眼光を受けて、蜜実の意識は一瞬で完全覚醒した。
「ネット倫理及び初期のVR倫理を語る上で、重要な概念がいくつかありますが……そうですね、では黄金さん?」
「えっと、匿名性、とかでしょうかぁ」
「はい、それも非常に大切な要素となってきます。例えばそれこそ、黄金さんと白銀さんはある界隈での有名人と言っても差し支えないですが……このクラス及び教員にはそれに関して、みだりに情報を広めないよう――」
何事も無かったかのように授業は進行する。いや、事実、彩香女史の視点で見れば何事も起こっていなかったのだから、当然であると言えよう。
(なに今の)
(なんか、白銀さんが黄金さんを見たら、いやずっと見てたんだけど)
(まさか……テレパシー!?)
(アッ、スキ、わたしそういうのスキッ――)
ばたん。
ジェスチャーすらも要さない、もはや超常めいた二人のやりとりを真後ろで目撃するという幸運に見舞われた女生徒は、満面の笑みを浮かべながら机に倒れ伏し。
「……体調不良と見なすべきか、悩ましいところではありますが」
その顔を見て、ようやく何事かがあったのだろうと察する彩香女史ではあったが。
「「……?」」
尊死は他殺と見なされないという法の抜け穴を突き、知らず完全犯罪を成し遂げた華花と蜜実を裁くことは、いかな彼女と言えど出来るはずもなかった。
◆ ◆ ◆
三限目、体育。
「よーしお前らさっさと二人組作れ。準備運動はしっかりなー」
聞くものが聞けば膝から崩れ落ちるような、体育教師の無情な言葉。
幸いなことに、二年二組に致命的なロンリーウルフはおらず、生徒たちは各々ペアになって柔軟運動を開始した。
「うー、リアルで体動かすのは苦手だー……」
「じゃあ尚更、準備運動はしておかなきゃね」
人は生まれ、そして死んでいくのと同じくらい当然のこととして、華花と蜜実はペアを組んでいた。
「わたし身体かたいし」
「そうかな、結構柔らかいと思うけど」
足を広げて座り込んだ蜜実の背中を、痛くないように細心の注意を払いながら両手で押す華花。
蜜実の言葉は柔軟性のあまりない関節を嘆くものであったが、体操着越しに触れる背中に心奪われていた華花はその返答として、手のひらに伝わる感触をついそのまま口にしてしまった。
「も、もぅ、華花ちゃんのえっち……」
「え、あ、いや変な意味じゃなくてそのあのっ」
言葉の割に満更でもないような顔をする蜜実を見て、華花は途端に狼狽えだす。
確かにそんな意味で言ったわけではないのだが、上目遣いに朱くなった顔を向けられては、嫌が応にも色というモノを意識せざるを得ない。それでも離すのは憚られた両の手のひらから、上昇していく蜜実の体温を如実に感じ、その熱が彼女自身の体をほぐすかのように、より一層柔肌の感触が指を包み込む。
「「…………」」
視線の交錯は言葉を奪い。されど吐き出される吐息によって、空気は瞬く間に桃色に染色された。
「なんか、体が熱くなってきた気がする……」
「柔軟ってすごいね……」
「うん、すごい……」
うっかり近くでそれを吸い込んでしまった生徒たちの脳内は、思春期真っただ中なお年頃も相まって、『体育』の頭にもう二文字ほど付きそうなお花畑具合になりつつあった。
◆ ◆ ◆
昼休み。それは戦いの時間である。
「あ、あーん」
市販の総菜パンを差し出す華花の手は、僅かに震えていて。
「あー、……んっ」
空気振動を介して伝達されたかの如く、小さく開かれた蜜実の唇もまた、ぷるぷると柔らかさを主張していた。
「その、おいしい?」
「えへへー……味とかよく分かんないや……」
緊張と幸福と愛情が一定の比率で混ざり合うことで、人間の味覚は麻痺してしまう。然るべき研究機関に持ち込めば、世界的な表彰すら夢ではない大発見である。
「あ、あぁ……!」
「だれか、たすけて……」
「死にたくない、死にたくないよぉ……!」
「あんたらめっちゃ笑顔じゃん」
「――お父さまお母さま。先立つ不孝をどうかお許しください。しかしこれは不幸ではなく幸福……そう、業からの脱却なのです……」
戦い……というよりも、一方的な殺戮めいた惨状ですらあったが。それはあくまで、この世のものとは思えない光景に慄く周囲の者たちの視点であり。
「じゃあ次は、わ、わたしがしてあげるね」
「お手柔りゃ、らかに、よろしく……」
『あーんバトル』に挑む当の二人からしたら、互いの一挙手一投足が致命となりうる真剣勝負なのであった。
「はい、あーん……」
後手、蜜実。
返しの手番であるというプレッシャーが、先の華花以上に身体を震わせる。末端に行くにつれて大きくなるその振動は、細い指先に包まれた市販のサンドイッチの先端で最高潮に達しており。
「あー……」
照準を誤り、それを華花の口元に押し付ける形となってしまったのも、致し方のないことであろう。
「あー……んにゃ」
んにゃ。
んにゃ。
んにゃ。
「――、――!」
言葉にならない愛おしさに身を焼かれ、蜜実は机に突っ伏した。
本日の『あーんバトル』は蜜実の致命的なプレイミスにより、華花の圧勝に終わった。
次回更新は11月13日(水)を予定しています。
よろしければ是非また読みに来てください。
あと、感想、ブクマ、評価、誤字脱字報告などなど頂けるととてもうれしいです。