86 R-現われしセンパイ
一大事の匂いを嗅ぎつけて駆け込んできた市子。
そんな忠犬に対してなんと言葉をかけたものかと考えあぐねる麗。
百合修羅場厨を筆頭に痴話喧嘩大好き勢は、踊る心の内を隠そうともせずにその様相を興味深げに眺めており。
一方で純愛思考寄りの生徒たちは、おろおろと所在なさげに、ある意味で此度の騒動の元凶と言えなくもない委員長へと視線を送る。
少なくない視線を浴びながらも、かの一心教徒は黙して語らず、ただ自らの席に座して佇むのみ。
椅子を寄せ合い、そしてそれ以上に身を寄せ合う華花と蜜実は、ニヤニヤと笑みを浮かべながら、台風の目たる友人を眺めていた。
そんな、混沌にして世紀末めいた雰囲気の漂う放課後の二年二組。
しかし、その教室を襲った修羅場の波は、それだけに留まらなかった。
「――ね、ねぇ、あれ誰……?」
漂う奇妙な静けさの中、一人の女生徒がおずおずと声を上げる。
クラスメイトたちが彼女の視線につられて教室の入り口を見やれば、そこには、戸の影からじっと教室内を見やる、一人の女生徒の姿が。
「うわっ、びっくりしたぁ」
「いや、こわ……」
幾人かがそんな声を上げたことから分かるように、その女生徒はなんというか、こう、少なからずヤバい……もとい、どこか危うげな雰囲気を纏っていた。
背も高く、しゃんとしていれば抜群のプロポーションを誇っているのであろう身体を猫背に丸め、腰よりもさらに下にまで伸びる黒髪で覆い隠したその様相。
まだ残暑も感じられるだろうに、早くも冬用の長袖制服で大部分を覆われた肌は、美白を通り越して病的な青白さに片足を突っ込んでいる。
目元も違わず前髪に覆われていて、表情はいま一つ伺い知ることが出来ないものの……髪の隙間から覗く両の黒目は、間違いなく一人の女生徒をしかと捉えており。
黒く真っ直ぐなその髪さえも、美しさよりも先におどろおどろしいという感想を抱いてしまうような。
そんな、それこそ物陰から静かに顔を覗かせる姿勢が似合い過ぎている女生徒が、そこにはいた。
「よかったぁ、皆にもちゃんと見えてるんだね……」
最初に彼女を発見した女生徒が、安堵の声を漏らす。
ともすればこの女、何か見えてはいけない類のものなのではないか……などと考えてしまっていたが故に。
「いや、あれは流石にビビるって。あの人には悪いけど」
「うん。正直、出たかと思った」
あまりにもそれらしすぎる件の女生徒に、二年二組の面々は口々にそう呟くが。
「……ねえ、あの人、陽取さんのほう見てない?」
「「「「!!」」」」
誰かがそんなことを呟いた途端、彼女らの女生徒を見る目は一瞬で変貌を遂げる。
まさか。
まさかまさか。
あの不気味な雰囲気を漂わせた謎の女すらもが。
まさか。
「ありゃ、センパイまで。珍しいですね、わざわざ教室まで来るなんて」
((((うわぁ、マジかぁ……))))
呑気過ぎる声音と共に、教室の入り口へと手を振る未代の姿に、クラスメイトたちは全てを悟らずにはいられなかった。
「ぇと、ぁの、その……」
センパイと呼ばれたその女生徒は、未代に見つかったからか、大きくびくりと身体を跳ねさせる。近くの席にいた生徒ですら聞き取れないほどに小さな呟きを漏らしながら、挙動不審に身体を揺らすその姿は、正直に言って割と近寄りがたい人のそれであった。
「し、失礼、します……」
やがて意を決し、それでもやはり小さく震える声を伴いながら、女生徒は二年二組の教室へと足を踏み入れ、未代の元へと駆け寄っていく。
その様子に、あのセンパイが知らない人のいっぱいいる場所に自分から入ってくるだなんて……などと、心の内に少しばかりの驚きが浮かんだ未代であったが、その原因が自身が送ったメッセージにあることには、残念ながら――否、いつも通りと言うべきか――ともかく、全く気が付いていなかった。
「まさかセンパイが教室まで会いに来るだなんて思ってもいませんでしたよ」
驚きに先と同じような言葉を口にしながらも未代は、まあこれはこれで丁度良いとばかりに、居合わせた面々に女生徒を紹介する。
「みんな、会うのは初めてだよね?ちょいちょい話題には出してると思うんだけど、高等部三年次の槻宇良 卯月センパイ」
紹介を受けて、卯月がおずおずと頭を下げる。
ここまでの挙動からも片鱗が見られるように、卯月は恐ろしいほど対人コミュニケーションに難がある人間ではあったが……それでもこうして、初対面の相手にいきなり紹介されても逃げ出せずにいられた辺り、彼女は今、相当な覚悟をもってこの場に臨んでいることが窺えた。
「日向 市子っす。先輩――未代先輩の、唯一にして無二の後輩枠っす」
「未代さんのクラスメイトの、深窓 麗と申します。えっと、槻宇良先輩は……いえ、何でもありません。よろしくお願いいたしますね」
ライバルの気配を嗅ぎ取り、初手から牽制していく市子。
続いて名乗った麗はあることを聞こうとして、けれどもそれはマナーに反するだろうかと、結局無難な挨拶をするに留まった。
「ぁ、ぁぅ……」
もっとも、その在り来たりな言葉ですらも、麗の堂々とした立ち姿と相まって、卯月に多大なプレッシャーを与えることになっていたのだが。
「てかセンパイ、また前髪下ろしちゃって。あたしがプレゼントした髪留め、使ってくれないんですか?」
意図したりしなかったする三人の鞘当てなどつゆも知らずにそんなことを軽々と口にしてしまう辺り、未代はやはり未代であった。
麗、市子、そして四人の様子に意識を集中させていた生徒たちが、その言葉を受けて緊張に強張る。
「ぁ、ぁの、その、やっぱり恥ずかしくて、私なんかが、そんな……」
既に対人キャパの限界を迎えつつあった卯月は、唯一まともに話せる(本人基準)未代へと集中することによって、逃げ出したいと訴える自身の両足をその場に縫い止めて。
ごにょごにょと尻すぼみな言葉を吐きながら、ポケットにしまい込んでいたものを取り出した。
「……一応、持ってはいるけど……」
それは、夏休みの間に未代が彼女にプレゼントした、三日月を模った髪留めであり。言葉通り恥ずかしくて付けられはしないもの、大切なものとして肌身離さず持ち歩いている、卯月にとっての宝物のようなものであった。
「何言ってるんですか。センパイ美人なんだから、もっと堂々と顔見せたほうが良いですよ」
言いながら、遠慮もなくその髪留めを手に取り、そのまま卯月の顔へと腕を伸ばす未代。
照れこわばる卯月にも、ピクリと眉を跳ね上げる麗と市子にも、その様子を見て身悶えする百合修羅場厨にも気が付くことなく、未代は親しげに、優しげに、そしてさも当然のことのように、卯月の顔半分近くを覆い隠す前髪を横に流して留めた。
「「「「うわめっちゃ美人っ!!!!」」」」
瞬間、幾重にも重なった声が教室に響き渡る。
「ぁぅ……」
多くの生徒たちが口を揃えて叫んだように、露わになった卯月の顔は、比較的容姿に優れた者の多い百合園女学院でも、さらに頭一つ抜けた美しいそれであった。
体付きに相応しい、少女と女性の間にあるような面立ち。やや切れ長な目尻も、程よく高い鼻筋も、その大人びた雰囲気に拍車をかけている。
制服を身に付けているからこそ学生らしくはあるものの、スーツの一着でも着てみれば、やや童顔気味な和歌などよりよっぽどそれらしく見えるであろう、そんな、美人としか形容出来ない容姿。
「いやぁ、相変わらず今日も美人ですね、センパイ」
未代の口説き文句めいた言葉に、麗や市子ですら素直に頷いてしまうほどの女性。
それが、槻宇良 卯月という人物であった。
「ぁ、ぁぅ、ぁぁ……」
もっとも、その身体はもじもじを通り越してがくがくと震え、視線は回遊魚の如く泳ぎまくっているのだが。
「ぁ、ぁ、まって、無理、もぅ、ほんとにむりぃ……!」
ほんの十秒ほども耐えられず、卯月は震えるその手で髪留めを外し、再び長い前髪で顔を覆い隠してしまい。そのまま、もうマジ無理と泣き叫ぶ両足に従って、教室の外へと逃げ出していった。
ちなみにその速度は、市子のそれとは比べるべくもない程度のものであった。
「あ、ちょ、センパイっ……うーん、やっぱり駄目だったか」
異様とも取れる彼女の振る舞いに、しかし未代は慣れたもので、苦笑交じりの言葉を零すに留める。
一瞬とはいえその美貌を目の当たりにした周囲の生徒たちからしたら、あんなにも恵まれた容姿ををしていながら、最初から最後で、何故かような奇行に塗れた振る舞いをするのか不思議で仕方がなかったのだが。
……ちなみにこのとき華花と蜜実が抱いた感想は、何の他意もない「わぁ美人だなぁ」程度のものであり。卯月が逃げ出そうと身を翻した時には既に、二人の興味の向かう先は、その後に残るであろう後味めいた修羅場感へと移っていた。
「てかセンパイ、結局何しに来たんだろ……?」
亡霊の如く現れ脱兎の如く去っていった卯月に、未代は小さく首を傾げ。
「あの、先輩」
「槻宇良先輩について、詳しく教えて頂きたいのですが」
ファーストコンタクトを実質不戦勝で収めた市子と麗は、けれどもプレゼントという言葉への敗北感から、少しばかりトゲを含む視線を未代へと向けていた。
「……?うんまぁ、いいけど」
もっとも、その程度で彼女らの機微を慮れるなら、陽取 未代という少女は修羅場請負人になどなってはいないのだが。
次回更新は8月8日(土)18時を予定しています。
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