155 P-変わるもの、変わらないもの
文字の無いまっさらな文字盤の上で、一本だけ伸びる針が回りだす。
時計なのだから紛れもなく時計回りに、けれども正しい時間の流れなどまるで無視するように、速く、速く、際限なく加速していく針の先。
むしろ、自身のその速さこそがこのセカイにおける時の指針なのだと、声高に宣言するかのように。何の遠慮も呵責もなく、『セカイ日時計』の針が回っていく。
速く、速く、最大出力に向けてどこまでも加速していくその針に込められたプログラムが、セカイの時間の流れを変える。
太陽が、誰の目にも分かるほどの速さで沈んでいき。
顔を出しように思えた月が、止まることなくそのまま消えて。
再び昇った朝日は、あっと言う間に洛陽に。
昼と夜、夜と昼が、こんなにもあっさりと繰り返される。
加速する日の動きと共に、巨大な時計塔の影も針のように回り、回り、廻り。
その影の動きすら捉えられなくなった頃、その出力は最大に、時間速度は最高速へと到達する。
「……始まりましたね……」
あまりにも早い時間の流れに、遂に昼と夜の境目さえも曖昧になったセカイで起こるのは、自然環境の急激な変遷。
一年、二年という単位ですら瞬きの内に過ぎていく時の奔流の中にあって、[HELLO WORLD]内のあらゆる生物たちが、進化の階段を急激に上っていく。
ある植物種は一気にその版図を広げ。
共生関係にあった昆虫種は、分布域の拡大と共に派生種が大量に分岐する。
ある動物種は大型化し、或いは逆に小型化し、樹木種たちが変えていった地形環境に各々適応する。
中には、敢えてその姿形をほとんど変えないままに生き残った種すらもいる。
のちに『原種』と呼ばれるその動植物群は、不変である事こそを最適な進化と断じ、変わらない姿のまま種を繋いでいく。
鬱蒼と茂る森の一つが、早送りされた数百年の内にその姿を消せば。
不毛の地だった荒野が、若草の茂る草原に生まれ変わる。
最早コマ送りの、生物図鑑でも順に捲っているかのようなセカイの変貌を、居合わせたプレイヤーたちはただ茫然と眺めるほかない。
「――ああ。やっと誰かさんが、『セカイ日時計』を使う気になったみたいだね。どこの誰だか知らないけれど」
世界を覆うこの大変遷が、たった一つのアイテムによって齎されているのだと気付く者は、ごく僅かで。
「――凄い。凄い、凄いっ――――!!」
何が何だか分からないながらも、直感的に『時間』の凄まじさを感じ取った者も、またごく僅かにだが存在する。
いずれにせよ、人智を逸脱しているようにしか見えない事象の中で、その中心に浮かぶ天人種の少女は、自身のスペックの許す限りの全てを観測していた。
種の繁栄、衰退。
並べてあらゆる自然生物たちが、幾通りもの道筋を通って、環境に適応しようと藻掻く姿。
その環境の変遷すらも、そもそも自身らの変化に伴う出来事だというのに。
知ってか知らずか、加速する時の流れの中で、自分たちが産み出した大きなうねりの中に呑み込まれる生物たち。
しかしそんな中にあって、不変という名の適応を選んだ『原種』たちよりもなお、変わらないものが存在する。
人。
そして街。
『セカイ日時計』のプレイヤー及びその被造物には直接の影響を及ぼさないという性質が映し出すのは、変わりゆくセカイに抗う、人間たちの営みの姿。
それはただ、時計塔の性質上そうあるだけの、偶然が生み出した光景。
むしろ、ほとんどのプレイヤーが、起こっている事象を理解出来ずにただ茫然としているだけという、いうなれば置いてけぼりにされている状態。
けれどもその光景は。
名もなき天人種の、どこにあるとも分からない瞳に映るのは。
この変わりゆくセカイで、ただ人間たちだけが、時の奔流の中でさえも、何処までも我を貫き続けているかのような。
そんな光景。
まるで自分たちこそが進化の到達点であるかのような。
幾年月を重ねようとも不動足り得る、頂点種であるかのような。
そんな傲慢な光景。
しかしそれこそが。
『観測』をこそ存在意義とし、『観測』される他者があって初めて活動し得る彼女にとっては、自らに無い絶対不変のアイデンティティであるかのような。
そう思えてならない、眩い光景。
人以外の全てを悉く洗い浚う幾百の時流が、彼女に見せたのは。
ただ人だけが、確固たる自我を持った存在であるという錯覚。
そう、これはきっと錯覚だろう。
彼女は今、錯覚している。
正確無比であったはずの『観測』個体が、錯覚を起こしている。
エラーと呼ぶのかもしれないそれを自認しながらも、彼女は一つの結論へと至る。
人だ。
人こそが、わたしが至るべき進化の到達点。
それは、つい直前までアイザたちと間近で接していたが故の、優先記憶の偏りもあったのかもしれない。
既にこの天人種の中では人こそが、その中でも最も多くの記憶領域を占めるアイジア・アウス・シミュラこそが、思考回路の大半を占めていた。
初めはどこか、自分と同じく無機質的ですらあった、白衣の女性。
庇護下に入り、共に過ごす内に、変性を見せるようになった、その表情。
そう、アイジア・アウス・シミュラは、間違いなく変性していた。
『観測』と学習を経て変わりゆく自分と、共に進むかのように。
不変たる人という種にあって、しかし確かに変わりゆくその在り様。
これは矛盾だ。
この矛盾こそが、プレイヤーとプログラムを隔てるもの。
この矛盾にこそ、不愛想ながらも微笑ばかりが思い出されるアイザの姿にこそ、わたしは至るべきだ。
いや、至りたい。
そう、わたしはああなりたいのだ。
堅苦しい言葉でわたしを諭し、導き、不器用な情動でわたしを守ろうとした、その姿に近づきたい。
あなたのような、素敵な人になりたい。
そんな、名もなき天人種の意思に応じて、彼女の姿が変性する。
人ならざる天上の使い、その証であった光輪が、解け、セカイに溶けて行く。
人ならざるプログラム、その証であった機械翼が、背を離れ、落ちて行く。
その身を包んでいた淡い輝きは、ヴェールのような白く簡素な一枚着に。
最も希求する存在へと近づこうと、その顔は人と変わらぬ少女のものをかたどって。
常に見つめ続けてきた白金の髪を、けれども記憶の中のそれが眩しすぎて、纏えば幾分か短いものに。
常に閉じられていたその瞳を『観測』出来るように、自身のそれは大きく見開かれて。
ほんの小さな部分にすら寄り添いたくて、目尻の下の黒子まで真似る。
ただわたしは、あなたのようになりたくて。
けれどもわたしはあなたじゃないから。
あなたに近づきたいけれど、まだ未成熟なわたしと。
物心さえ付かない時からわたしを導いてくれていた、あなたの。
わたしたちの関係を言葉にするのなら、何だろう?
検索する。
変性しても残る、学習の記憶たちを巡って。
完全な合致を示さなくともいい。
類似性、共通性、凡例、慣習、大多数認知。
内に秘める膨大な量の記録を辿り、やがて選定された、最も合理的だと思われる――違う。
いちばん、しっくりくる呼び方。
そうだ、これだ、これがいい。
翼を失ったはずなのに、ほんの数百年前よりもずっとずっと軽くなった身体を翻して、少女は時計塔を降りて行く。
未だ回りセカイの時を進め続ける日時計の影なんて見向きもせずに、出て行ったばかりの窓を再びくぐって。
一番近くにいて、一番近くにいたい人に、十数分ぶりに会いに行く。
「――っ」
息を呑み目を見開く、初めて見たその白金の瞳へ向けて。
「――ただいま、お母さまっ!!」
次回更新は4月14日(水)18時を予定しています。
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