第8部
シューズが小さな砂ぼこりを巻き上げる。
呼吸がおどって、首筋を汗が伝う。
私は逃げるようにコートの外へ抜けて、ラケットを下ろした。
九月になってもおとろえない日差しにじりじりと肌を焼かれながら、私はコート横の自転車置き場にある時計を見た。ボレー練習が始まってちょうど十五分。前の休憩からは一時間が経とうとしている。一時間も動いていたのかと思うと、どっと身体が重くなった。
「しゅーごー!」
『はい!』
待ちに待った男子部長の少し間のびした声。応える私たち部員の声にも疲れがにじんでいる。厳しい顧問の先生が見ていればすぐにどやされるだろうけど、幸い先生はまだ職員室にいるらしい。
ようやく訪れた休憩に救われる思いで、私は歩かず走らずぐらいの足取りで散らばったボールを拾い集める。走らないのはラケットに乗せたボールをこぼさないようにするため。そんな言い訳を自分に言い聞かせながらも、休憩のためにできるだけ手早くボールを回収していく。
そんなとき、背後から誰かが駆け寄ってくる気配がした。
「先輩! 持ちますよ!」
しゃがんでラケットにボールを積み重ねていた私は山が崩れないよう、慎重に顔を上げる。
声をかけてきたのは一年の男子部員だった。経験者なのもあってか、三年の先輩が引退したいま部の中でも一、二を争うほど上手な子。夏休み前まではそんなに絡む機会がなくて存在さえもうろ覚えだったけど、先輩たちが引退してからは後輩と関わることが増えたと思う。話すのは慣れてきたけど、こうして気をつかわれるのはまだこそばゆい。
「ああ、これぐらい大丈夫。ありがとね」
つい気後れして遠慮したけど、後輩くんは嫌みのないさわやかな笑顔で応えた。所作の機敏さといい、同じ一時間の練習メニューをこなした私と疲労の度合いが明らかに違う。男女の違いなのか、部活にかけるモチベーションの違いなのか。ふと周りを見て、なんとなく後者なんだろうなと思った。
「いやいや持ちます!」
「いや、なんか悪いし」
「いえいえそんな!」
気づかいの応酬もそこそこに、彼は私のピラミッドからていねいにボールを取っていく。
本当にいいのに。そう胸の内で思いながらも、手首への負荷が軽くなっていくのは確かにありがたかった。後輩のけなげさをふいにしてしまうよりは、甘えておいたほうがいいのかもしれない。
結局それで半分ぐらいになったボールの山をかごに返して、コートの外で整列する部員たちの後ろに並んだ。
「十分休憩!」
『はい! ありがとうございました!』
休憩に入る直前に限ってはみんなの声にも力がこもる。私も例外ではなくて、はやる気持ちは声に乗った。二年の男子たちはあいさつを言い終えるのも待たずに、キンキンに冷えた麦茶を求めて我先にとキーパーの方へ駆けていった。そればかりかコップの取り合いまでしていて元気がいいというか、子供っぽいというか。さっき手伝ってくれた後輩くんや律義にぞろぞろと並ぶ後輩たちを見習ってほしい。
私は順番待ちをするのも諦めて、みんなを横目にひとり自転車置き場の日陰であぐらをかいた。冷たい麦茶はないけど、ひんやりとしたコンクリートがももに触れて気持ちいい。ラケットを置いて両手をつくと一段と涼しさが増す。それだけで疲れが少しやわらいで、身体のほてりもだいぶマシになったような気がした。
「うわ」
と、渇いた喉をうるおそうと日陰に置いていた自分のペットボトルを手に取ったその瞬間、生あたたかさに思わず声が出た。自販機で買って一時間ちょっとしか経ってないのに、もうこんなになるなんて。
だからといって水分補給をしないわけにもいかず、仕方なくスポドリを口に含んでみた。ぬるい液体は喉を通って、独特の甘ったるさを口に残す。これはさすがに水で薄めた方がいいかもしれない。
「おっつー」
「おー菜月。おつかれ……ってそれ」
「はい! 暑かったっしょ」
歩み寄ってきた菜月はビビッドカラーの安っぽいプラスチックコップを両手に持っている。そのうち一つを私に差し出してくれた、その姿に後光が見えた。
言われなくてもわかる。中身はもちろん、キンキンに冷えたあの麦茶。
「はあ~気が効く! ありがと!」
「どういたしまして!」
口直しもかねて麦茶をひと息に飲みほした。味もわからないほどに冷えた麦茶は、甘みでべたついていた口の中をさっぱりさせてくれる。一瞬だけ頭がキーンとなって、ふと地元のお祭りで食べたかき氷を思い出した。
菜月も自分の分をぐいとあおって一息つくと、私のとなりに腰掛けた。
「梢さあ、急に忙しそうになったよね」
いつもの調子で、不満を漏らすように菜月が口をとがらせた。私は手にしていたコップをそっと地べたに置いてラケットを手に取る。それを意味もなくくるくると回しながら、菜月の言葉を反芻した。
朝のことを思い出す。ちらっと近況を聞いて忙しそうなのは明らかだった。
それから昼休み。移動教室だった四限が終わると、教室にも帰らず部室の方へ急いでいくのを菜月と二人で見送った。昼休みが終わる十五分前ぐらいに戻ってきて急いでお昼を食べている姿からは、部長っぽさみたいなものがにじみ出ていた。
「そうだね。昼休みもほとんど話せなかったもんね」
今朝の雑談で本人が予告していたとおりだったから、別に驚いたりはしない。次期部長なら仕方ないと思う。文芸部の部長がどういう仕事をするのか具体的には知らないけど、来週末に迫った文化祭のことも考えたらなおさら。
「なんか、さびしい」
「え?」
ラケットをいじる手が止まった。私の思考に呼応するみたいに。
独り言だろうか。私に言ったんだろうか。
急に"らしく"ない落ち着いた声音で菜月が呟いた。横目で顔をのぞこうとするけど、帽子の影に隠れていまいち表情が見えない。
諦めて自分のラケットに視線を落とす。グリップをそろそろ巻き直さなきゃとか、ガットがゆがんでるなとか、意識を他に向けようとしてもダメだった。いつしかそこらで賑やかにしているはずの他の部員の声さえも遠巻きに聞こえて、どこか辛気くさい。
「ははは。いまだけでしょ、きっと」
だから、笑ってお茶をにごそうとした。
でもそれが余計にむなしさをあおる。息が詰まりそうだ。
「文化祭前の、いまだけだよ」
あえてもう一度言った。何よりも自分に言い聞かせたくて。
それがなんの解決にもならないとわかっていても、そうせざるを得なかった。
だって、
「ううん、違うの。梢のことだけじゃなくて」
菜月が言おうとしてること、聞かなくてもわかる気がするから。
いや。聞きたくない。考えたくない。
「菜月急にどうしたの」
「急じゃないよ。ずっと前から考えてた」
私の気持ちを、いまの菜月はくみ取ってくれない。
だけど真っ向からやめてと言えない、私も私だ。
「大会で残ってた先輩たちも夏休みに入ったぐらいで引退しちゃったでしょ。そっから部活ではうちらが最高学年になってさ。……なんかこう、なんだろ。うまく言えないんだけど」
「うん、うん……」
「あっという間だよね。いろいろ」
だいたい想像していた通りだった。
それは私も、夏休みの中頃からうすうす感じていたことだ。
自分たちが部を引っ張らなきゃいけない。それは必然だし、別に悪いことでも嫌なことでもない。そういう立場になったんだと思う。
ただ、そうやってじわじわと、でも気付けばまたたく間に高校生活が進んでいくのがさびしい。
二度と戻らない高校生のいまが終わっていくのが、こわい。
「先輩たちと一緒に部活してたの、もうずっと前のことみたいだもん」
無意識のうちに体操座りになっていた私は、菜月の言葉に同調して短パンの端をきゅっと握った。
「放課後とか、自習室から出てくる先輩見てすごいなあって思う。あたし、あんなに上手く切り替えられる自信ない」
両ひざにあごをうずめて菜月の方を見る。野球部が練習しているグラウンドの方を見つめて、菜月は真剣な顔をしていた。
こんな表情の菜月を見るのはいつぶりだろう。
はっとするほど凛としていて、額に浮かぶ汗すら輝いて見える。その横顔は大人のようで、それがうらやましくもあり、寂しくもあり。私の一歩先を行っているようで、なんだか置いてきぼりにされそうな気がして。
でも、
「来年の今ごろには、いやでも気持ちが切り替わってるのかもしれないけど。でもね、それもさびしい」
菜月もきっと、同じだ。
誰にも置いてきぼりにされたくないし、誰も置いてきぼりにしたくない。どっちに転んでも一人になってしまうような気がして、怖いから。
「……私もそう」
気の利いたことなんて言えなかった。
同じことを感じているからこそ、気休めは気休めでしかないとわかるから。
だけど、
「私もいっしょだ」
気持ちを共有できる相手が身近にいる。それがわかっただけでも、私にとっては十分に思えた。聞きたくないだなんて思っていたけど、やっぱり聞けて良かったと思う。
そうして安心したのが顔に出ていたのか、私の方を向いた菜月の表情もゆるんだ。その一瞬、言葉は交わさなかったけど、互いに言いたいことはたぶん伝わった。
「なーんて、逃げてるだけなのかもね!」
しめっぽい空気を散らした菜月は大きく伸びをする。いつもの明るい菜月が戻って、私もほっとした。
「は~肩こった。ごめんね急に」
「自分で言う……ってか、やっぱ急じゃん! 菜月のばかぁ、もう」
「えへへ、ごめんごめん」
菜月がごまかすように笑う。私は大きく息をついて地面にどっと寝転んだ。
日陰で冷えたコンクリートが背中の熱を奪って心地いい。目を閉じたらこのまま寝てしまいそうだ。
「ところで千佳、最近なにかあった? 最近っていうか今朝とか」
「え゛っ」
思いがけない話題に変な声が出た。
朝のことと言えば思い当たるものしかない。せっかく忘れかけていた嫌な記憶が、ふつふつと表に浮かんでくる。
「あっはは。どっから出たのいまの声」
「やー知らない知らない朝とかなにもないし。あ、そろそろ休憩終わりじゃない?」
冷たいコンクリートが名残惜しいけど、起き上がって時計を見た。ぴったり休憩の終わる時間だ。
せっかくならもう少し寝転んだまま涼んでいたかったけど、タイミングとしては悪くない。
「ほらほら。もう集合だから」
「ふーん?」
「……なにその顔」
「べつに~?」
菜月はニヤつきながら私の顔をのぞき込む。おかげで考えていることが手に取るようにわかった。私も顔に出やすいみたいだけど、菜月だって負けてないと思う。
「別にないから。そういうの」
「んー? あたし何も言ってないけど」
「目が口ほどに語ってる」
「はは、バレちったか」
そう言いながらも菜月は悪びれるそぶりすら見せない。調子のいいやつだ。
だけど菜月が期待するようなことは本当にない。佐藤にはただムカついただけ。慣れ慣れしく近寄ってきて、大事な時間をふいにされたのが悔しかっただけ。
……でも。
いま思い返すといらだちの原因が些細なことに思えてきて、むしろ感情を出しすぎたちっぽけな自分が恥ずかしい。なんにせよ、いい思い出じゃないことには変わりない。
「しゅーごー!」
部長の声がかかる。談笑していた部員たちがぞろぞろとコートの前に集まっていく。休憩の時間はおしまいだ。
ここから部活が終わるまであと一時間半。その間に、朝のことは忘れられたらいいんだけど。
「佐藤くん、落ち込んでたよ」
「な……」
先を行く菜月が振り返りもせずに言った。
諭すように、私だけに聞こえる声で。
自転車置き場の屋根の下、私だけがまだ日陰にいる。わけがわからず立ち尽くす私は、残りの一時間半を恨めしく思った。