第7部
小説を書く原動力にもいろんなものがある。
たとえば気持ちが沈んだ時。いやなこと、悲しいこと、辛いこと、その他もろもろ。原因はなんであれ、マイナスの感情も私にとっては大きなエネルギーになる。
現実逃避のためだろうか。
「はー疲れた無理! もーいや!」
朝のホームルーム前。教室のざわめきに紛れるぐらいの声で鬱憤を吐き出し、私は机に突っ伏した。
最寄り駅から学校まで自転車をこいでくるあいだに、もやもやした気持ちは振り払えなかった。むしろ忘れようとすればするほど頭の中に残り続けて、おかげで記憶にしみついたように感じる。
いつだってそうだ。
給食で出た苦手なおかずを食べ切るまで昼休みをもらえなかった、小学校の低学年で味わった理不尽さも。
やんちゃな人たちの分まで部活終わりの片付けをしなきゃならなかった中学一年でのことも。
泣くほどでもない、けれどそこそこ不快な記憶はいつも頭に焼き付いてしまう。それなのに、そういう類のわだかまりに限っては小説を書く原動力になりそうもなかった。
いままでも、たぶんこの先も。
「千佳、朝からどーしたん」
「わ」
梢が机の下からひょっこり顔を出した。意表を突かれて驚いたけど、見なれた友だちの顔に安心してよどんだ気持ちが少しだけほぐれる。
「いや、ちょっとね」
「ちょっとじゃなさそうにしか見えないけどねえ」
話したいような話したくないような。わざわざ愚痴をきいてもらうほどのことでもない。自分ではそう思っているんだけど、そんなに顔に出ていただろうか。
「んー……まあ、うん」
「昨日の占いの結果、あんまり良くなかった感じ?」
「ああ、そういえばそんな話もあったね」
占いのこと、梢が持ち出してくれなかったら忘れてしまうところだった。頭のすみに追いやられていた記憶が呼び起こされて、みるみるふくらんで。さっきまであれほど忘れようと苦労してできなかった朝のことは、すっかり頭のすみに消えていった。
「悪くなかった……っていうかそれより」
「おはよ!」
未来さんのことを思い返して気持ちがたかぶりかけたところで菜月が現れた。いったん冷静になろう。
「ナイスタイミング。いまちょうど千佳から占いの話を聞くとこだったんだ。でもなんか、千佳的にはそっちが本題じゃ」
「未来さんね! すごく綺麗な人だった!」
おさえた興奮を無理やり引きずりだして梢の言葉をさえぎった。せっかく話の流れをいい方にそらしてくれたのに、わざわざ嫌な方に戻してほしくはない。
「ねー! そうでしょそうでしょ! さっすが千佳わかってる。あー、あたしもああいう大人のお姉さんになりたい~」
「ほんとね、私もあこがれる。五年もしたらあんな風になってたいよ」
「ちょいちょい二人とも。わかったから未来さんってだれ? どっちでもいいから順を追って話してくれ」
「はは、ごめんごめん」
すこし強引だったかもしれないけど菜月が思い通りに乗ってくれてよかった。それで梢の気をそらせなかったら、昨日のように自分のまいた種で自分の首を絞めるところだった。
「菜月が教えてくれた占い師さんがね、未来さんっていう綺麗なお姉さんだったの。占い師っていうからにはうさんくさいおばさんでも出てくるかと覚悟してたんだけどね、予想が外れてあんまり綺麗な女の人がでてきたもんだから感動しちゃって。……でも、それよりもっと驚いたことがあってさ。なんとその人」
「なんと……?」
梢がごくりとつばを飲み込む音が聞こえそうだ。となりで聞いている菜月は楽しそうにニヤついている。
「やっぱ秘密」
「ちょ、はあああ!?」
梢はバンと机を叩いて腰を浮かせた。わざわざじらすような言い方をしてしまったのは申し訳ないと思う。
でもなんとなく、ここで言ってしまうのはもったいないような気がして。梢は不服そうな顔をしているけど、いじわるでお預けにしたわけじゃない。純粋に感動を味わってほしいからだ。これには菜月も賛成らしくて、黙ってうんうんとうなずいてくれている。
「せっかくだしさ、梢にも自分で確かめてほしいなって」
「千佳の言うとおり! 絶対に後悔しないから梢も行ってみてよ」
ダメ押しを受けて、梢は腕を組んでうなった。
「んー……まあ、帰り道だし行けなくはないか。でも文化祭が終わるまでは厳しいから、行けても再来週になるかなあ」
「ええ、そんなに? ダンスの練習も応援練習もそんなに切羽詰まってないじゃん」
菜月がほっぺをふくらませて駄々をこねる。確かにクラスでの練習予定も毎日あるわけじゃない。
でも梢が厳しいと言う理由もなんとなくわかる。私たちみたいな運動部とはちがって文芸部では部としての出し物もあるだろうから、そっちの準備で忙しいんだろう。
「や、クラスの出し物はいいんだけどさ。ウチの部は文化祭で代替わりするから、いまが引き継ぎの時期でてんやわんやなのよ。それで当分は部活終わりも二年で集まろうって、昨日の夜にグループ会議で話したばっかりで」
予想の半分は当たって、半分は想定外だった。これにはさすがの菜月も文句は言えないらしい。
「思ってたより大変そう。それで、部誌に出す原稿も書かなきゃなんでしょ?」
「そうそう。そっちに関してはネタも含めてまだ白紙。千佳と一緒ってわけだ。あはは」
「いや、笑ってる場合じゃないし流れ弾くらったんだけど」
まさかネタが真っ白なのをこのタイミングでつつかれるとは。お互いシャレになってないけど、きっと締め切りがある梢の方が何倍もしんどいと思う。私だったら投げ出すだろうし、そうでもなければ書くことが嫌になるかもしれない。高校でも文芸部に入らなかった一番の理由はここにある。趣味でやってるうちは自由なペースで、好きに書きたい。
これもいつか向き合うべき課題なんだろうなと、ちらりと思った。
「しかも聞いて驚け」
思わせぶりに前置きした梢はすくっと立ち上がり、腕を組んでにやりと笑みを浮かべた。
「次期部長になりました」
その一瞬だけ、教室のざわめきが遠のいたような気がした。
私と菜月はそろって口をぽかんと開け、顔を見合わせる。それからゆっくりと梢の方に視線を戻して、先に口を開いたのは菜月の方だった。
「まあそうだろうね」
「うん。ごめんだけどそんなに驚かないや」
あたりのにぎわいが、返す波のように戻ってきた。
わずかに顔を見合わせただけだったけど、私と菜月の意見はぴったりと合っていたようでほっとする。対する梢は不満そうだった。その気持ちもわからなくはない。
「いやいや、二人とも部長ってやつの大変さわかってないでしょ。すごいんだぞ?」
「わかんないけど、梢ってもともと委員長タイプじゃん。慣れてそうだけどな」
「たしかに中学でも生徒会の役員やってたよね。二年と三年の時にさ」
梢の言い分も聞かなきゃと思いながら、ついつい菜月の後に続いてしまう。
クラスを構成する要素の一人でしかない平民の私からすると、平民たちをまとめる人の感覚はいまいちピンとこない。まとめ役なんて小中高を振り返っても、小学何年生かでやった四人班の班長がいいところだ。
「アレねえ。わたしだって好きで生徒会やってたわけじゃないんだ。わからんと思うけど」
「うん。わからん。なんでやってたの?」
私の代わりに菜月がすなおな疑問をなげかける。すると梢は意表をつかれたような顔を浮かべて、それから悩むように眉を寄せた。
「うーん……無言の圧力……的な? 小中の頃って成績とか素行のいい人間がリーダーやるってのが相場だったじゃん。こんなこと自分から言うのもなんだけどさ」
「あぁ……確かに。そういう人ってクラスに四、五人しかいなかったもんね」
そう口にしながらぼんやりと中学の頃を思い返した。
誰がリーダーをやっていたかなんてもう覚えてないけど、梢を含めて似たような立ち位置の人たちばかりがそういう役についていた気がする。いつもテストの点数が高くて、真面目そうな人たち。そういう人たちもみんながみんな好きでリーダーをやっていたわけじゃなかったんだと思うと、少し心が痛んだ。
きっと私も、無言の圧力をかけていたうちの一人だったから。だからって私が代わってあげられるわけじゃないんだけど。
「納得してくれたならなにより。こんな説明でよろしいかね」
「んー……うん。ごめん」
なにか言いたくて、でもなにを言っていいかわからず大雑把に謝ってしまった。
「え? なに――」
「おはようございまぁす」
と、聞きなれた声に会話が打ち切られた。
あいさつをしながら教室に入ってきたのは我らが担任、ななみんだ。それをきっかけに教室のあちこちで繰り広げられていた談話も終わりに向かっていく。
「あたし、そろそろ戻るね。中途半端になってた占いの話、また昼休みに聞きに来るから!」
言うやいなや、菜月はかばんをかついで足早に席に戻っていった。
「じゃ、わたしも。昼は部の集まりでちょっと怪しいかもだけど、また後で」
「忙しそうだね」
「まあね。次期、部長だからさ」
帰りぎわ、自慢げに笑みを浮かべた梢を見て私もつられて微笑んだ。席に戻っていく背中を見届けて、気持ちを切りかえるように椅子に深くかけなおす。
やがて朝のホームルームが始まり、ななみんが何かを話し始めた。だけど私の意識はそっちを向いていなくて、朝のことすらも気にかけていなくて、さっきの終わりがけの話題で頭がいっぱいだった。
気に病んでいる様子はなかったけど、心の底では気にしているのかもしれない。梢がこぼす愚痴にしては珍しいタイプの話だったから、なおさらそう思う。だからと言って、私がいまさら掘り返す問題でもないけど。
だからせめて、部長になる梢にはいままでよりもうちょっとだけ優しくしてあげよう。