第4部
好きな色はなに?
そう聞かれて、私はすぐに答えられない。
白が好き。青も好き。ワインのように深みのある赤もいい。秋を感じる栗のような茶色が好き。夕焼けと夜空の境目のような、言葉にできない色も好き。
色に限った話じゃない。好きなものを聞かれたとき、一つだけこれとは言えない。一つを選ぶって難しい。髪型も、服も、アクセサリーも、食べ物もスポーツもタレントも——自分が進む道も。
塾で授業をきいている間も、占いと雑談に費やした三十分間が頭から離れなかった。呼び起された悩み事は頭の中をぐるぐるして、いまも整う気配はない。
それなのに考えずにはいられなくて、ひどくじれったい気分だ。やっぱり具体的な指針でもきけばよかったかなと、いまになって思う。
「ふぅ」
夜十時、塾帰りの電車。ローカル線の乗客はこの時間にもなるとまばらで、一つの車両に六、七人しかいない。いまなら七人掛けのシート一つ分を悠々と使えるけど、私はいつものように端っこに座る。両側が空いているのはなんだか落ち着かないから。
終着駅でもある学校の最寄り駅を出ると同時に、私はスマホを取り出してイヤホンをかけた。今日のチョイスはゲームのサントラ。歌詞に耳を傾けるよりは、なんとなく音楽を流して思考を巡らせたい。そんな気分。頭の端っこで進路について悩みつつ、創作にも頭を使いたい。
古い電車がガタゴトはねる音と落ち着いた民族調の音楽を背景に、小説投稿サイトを開いた。私はもっぱら投稿側で、読むことは多くない。勉強のためにも人気作なんかを読まなきゃなと思いつつ、文体や設定に影響を受けるのが怖くてなかなか手が伸びないままだ。それに少し、悔しいのもある。だから読むのはまた、そのうち。
ホーム画面を開いて自分が最後に投稿した小説のページを開き、流れ作業のように閲覧数を確認した。本日の閲覧数は四件。まあそんなところか。完結から何もしてないのに、急に閲覧数が伸びたりするはずもない。
そうして手短に承認欲求を満たして、とりあえず新作となる恋愛小説の編集画面を開いてみた。タイトルは「恋愛小説(仮)」。編集もなにも、まだ一文字たりとも書いてないんだけど。
「んん……」
最初の一文を書き出せばその先が思い浮かぶとは誰かが言った。それはこれまでの経験からも納得できる。
でも。最初の一文が思い浮かばないことには何も始まらない。そうあってはしっかりとネタを組み上げるしかない。それなのにネタの方も進展はない。いくら音楽で気分を乗せても、進路と同じで先行きが見えないまま。
「ねえ」
と、不意に声をかけられたような気がした。
一人に一シート分以上も与えられた、この広い空間の中で。
イヤホンをして外界をシャットアウトしている私が。
聞き慣れない声の男に。
「ねえ、きいてる?」
とっさに小説投稿サイトのウインドウを閉じ、意味もなく適当なゲームのアプリを開く。落ち着いて知らないふりをしようにも、知らない誰かの身体はすでに視界の端に入っていた。このまま無視を決め込むにはあまりに恐ろしくて、イヤホンを外した私はおそるおそる顔を上げる。
いた。学ランの男子高校生が、目の前に。校章からして同じ高校の生徒だ。
「それ、ささってないよ」
そいつは半笑いで私の手元を指さした。その意味を理解するのに数秒。
イヤホンはスマホにささっているように見える。が、実際は微妙に外れていて、再生中のサントラが端末のスピーカーからだだ漏れだった。しかもそこそこの音量で。
「ご、ごめんなさいっ!」
慌ててイヤホンを挿し直す。音漏れが消えて、電車の走行音だけが響くいやな静寂が訪れた。それで余計に恥ずかしくなって、自分でも顔がゆだっていくのがわかる。
ああ消えたい、死にたい。穴があったら入りたい。授業での一件といい、今日はなんだか抜けている。
「遠山さんってそういうの聴くんだね」
「……え?」
どうして、私の名前を。
赤らむ顔のまま、勇気を出して男子高校生をまじまじと観察してみる。顔は見たことがあるようなないような。背は私より少し高そうなぐらいで、運動部っぽい雰囲気で、背中に何かのケースを背負っている。
「んー……」
名前は出てこないけど、まったく知らない赤の他人とは言い切れなくてもやもやが残る。そうして記憶を探っているうちに、音漏れの恥ずかしさなんて消え失せていた。
「ひどいなあ。もしかしてわかんない? 俺たち同じクラスだけど」
「え。うそ」
「うわ。それけっこう心にくる」
同じクラスだという男子高校生は苦笑いを浮かべて、背中のケースを降ろすと私の隣に腰かけた。
クラスの男子で顔と名前が一致している人は半分いるかどうか。きっとそのうろ覚えの半分の中に、彼はいるんだろう。本人がクラスメイトだと言うんだから。校章も同じだし信憑性は低くない。覚えていたら明日確かめてみよう。そこはもういい。
しかしちょっと、近くないか。
「佐藤圭。佐藤ね。覚えといてよ遠山さん」
男子高生は——佐藤は話す気まんまんといった調子で楽しそうに口を開いた。そんな雰囲気を出されるとイヤホンをかけづらい。話す気がないことをそれとなく伝えるために、私はスマホの画面から目を離さずに応えた。
「忘れなかったらね」
「あはは。面白いこと言うね。やっぱり小説とか書くの?」
「は……」
スマホをいじる手が止まった。適当に入ったクエストの残り時間がいたずらに減っていく。それでも、携帯の方に意識を向けることはできなかった。
どうして、それを。もしかして、知らぬ間に小説投稿サイトを開いていたのを覗かれた? そうだとしたら結構な趣味をお持ちの方だ。今後一切、関わるのを遠慮させていただきたい。
が、
「休み時間に恋愛小説がどうこう喋ってなかったっけ。牧村さんと坂本さんが大声出したとこぐらいしか聞いてないけど。あとはあれ、英語の授業でノート取り上げられてるの見てなんとなくそう思ったんだけど、やっぱり違うか」
佐藤は私の失態を拾い上げて推測していただけだったようだ。その割には核心をついていて笑えない。
そして私の方も違うと言えばいいのに、そしたら穏便に済むのに。プライドがそうさせなかった。
「ぅ……違う……ことはない、けど……」
「お! やっぱりそうかぁ。どんなのか読ませてくれない?」
もしも作家になりたいなら、一人でも多くの人に読んでもらうべきだと思う。私だってそうしたい。けど、普段の自分を知っている人に自分の小説を読まれるのはどうしても恥ずかしい。無理。だから、もうこれ以上は踏み込まないで欲しい。
私は無言で首を振ってイヤホンをかけ、スマホに視線を落とす。それを見た佐藤は残念だと言って、素直に引き下がってくれた。こういうところで空気が読めるのは評価してあげてもいい。
一つ目の停車駅、新しい乗客はゼロ。ドアが閉まってふたたび電車が動く。佐藤は相変わらずとなりにいるけど、大人しくなって正面の景色をぼんやり眺めているようだった。
そうしてもう一駅、さらに一駅を過ぎて存在を忘れかけた頃、
「俺さ、創作活動してる人ってすごい尊敬するんだ」
正面を向いたまま独り言のように佐藤が呟いた。サントラ越しに聞こえても聞かないふり。いまのは独り言で、私には関係ない。そう思ってクエストを進めるものの、画面を見つめる私の意識は佐藤へ向いていた。
さすがにそのフリはずるい。今日の閲覧数よりも承認欲求に刺さるから、先が聞きたくもなる。
しかし佐藤はそれから口を開かなかった。ちらりと視線を上げて、黒い鏡面になった車窓に映る佐藤の様子をうかがう。すると当人は何事もなかったかのようにスマホをいじっていた。
そのうちにもう一駅を過ぎ、私はもどかしくなる。明らかな伏線を張っておきながら回収しないなんて。いてもたってもいられなくなり、ついに声をかける糸口を見つけてイヤホンを外した。
「ねえ、それなに?」
そっけない声音で私が指さしたのは、佐藤が足の間に挟んでいる黒いケース。すると佐藤はスマホを懐にしまって、嬉しそうにこっちを向いた。
「やっと話しかけてくれた」
「うざ。死ね」
私が馬鹿だった。ため息をついてイヤホンをかけ直そうとする。
「わーごめんごめんごめん! 待って! これね、バイオリンなんだ」
「バイオリン?」
意外な返答が来て、すなおに聞き返してしまった。うちの高校に音楽系の部活はただ一つ、吹奏楽部しかなかったはずだ。
「そう。今日はレッスンがあったからさ」
「ああ、習い事でやってるんだ」
「そうそう。部活とかじゃないよ。うちの高校は弦楽部とかないし、あったとしてもたぶん入らないけどね」
納得した。軽い雰囲気のわりに高尚な趣味を持ってらっしゃる。このままバイオリンの話を掘り下げるか、それとも話題をかえてさっきの伏線を回収させるか。迷っている間に向こうから答えが出た。
「さっき言ったこと、嘘じゃないよ。俺も創作に挑戦しようとしたことがあってさ」
佐藤は正面を向きなおって語り始めた。気恥ずかしいのか、虚空に映る過去の記憶を見ているのか。私はあえて車窓に反射する佐藤の顔を見つめたけど、視線が交わる気配はなかった。
「俺は小説とは別のものなんだけど。授業の時間でノートにアイデアを起こしたりなんかして、今日の遠山さんみたいに没収されたこともあったなあ」
「ああ、それで……」
推測したにしてもやけに勘がいいと思っていたけど、同じ経験をしてたからなのか。
不覚にも少しだけ、シンパシーを感じてしまった。
「でも俺には向いてないって中学二年ぐらいで諦めちゃって。だからさ、創作活動してる人は本当に尊敬する。かっこいいと思うんだ」
そんなことを堂々と言えるあんたも良いやつだよ。そう心の中で呟くと自然に笑みがこぼれて、その瞬間に目が合った。
「っ……」
真顔に戻ってとっさに目をそらす。言いようのないむずがゆさが後から背中を走った。
佐藤も佐藤で何か言えばいいのに、黙ったまま動かない。饒舌さが急になりをひそめたように。
互いにスマホを手に取りもせず、言葉を交わすこともない沈黙のひととき。そのうちに電車は次の駅へ滑り込んだ。
「あ、俺ここだわ。じゃあまた」
「あ、うん」
どことなくぎこちない一言だけを交わして佐藤が降りていった。ほどなくしてドアが閉まり、電車が動き出す。
終着までの残り四駅、私はしばらく真っ暗なスマホの画面を見つめていた。