第25部
どうしようか迷った。その迷いが命取りだった。
思いがけない偶然に釘付けになっている間に、レジに並ぶスポーツウェア姿の立木さんは私に気付いてきらきらした笑顔を見せてくれる。動揺した私はぎこちない会釈しか返せなくて、すぐ手元に視線を戻した。とっさの反応だったとはいえ、同じクラスの友達を相手にする態度としてはよそよそしかったかもしれない。
氷水の入ったピッチャーをそっと置く。そのままグラスを手に席に戻ろうか。でも、もし立木さんがイートインだったら偶然出くわした私の席を探しに来るかもしれない。そしたら佐藤といることがバレるし、変に気をつかわれる可能性もある。それはいやだ。
水を注ぎ足すふりをしてレジの様子をうかがっていると、立木さんはやっぱりイートインを選んだ。そうして示し合わせたわけでもないのに、会計を済ませたその足で私の方に歩み寄ってきてくれる。
「偶然だねー! 部活終わり?」
炭酸水がはじけるようにさっぱりとした声音とともに、立木さんは軽快に笑顔を見せた。こうして気さくに声をかけてくれた嬉しさが半分、いまだけはタイミングが良くなかったと胃が痛くなるような気持ちが半分。
きっといまの私は、ぎこちない顔をしているんだろう。
「うん、まあそんなとこ」
「そっか。誰かと一緒?」
立木さんの視線がちらりとグラスの方に向いた。
「ああ、ちょっとね」
いつもそう。嘘がつけない私は言い逃れが下手だ。
そのおかげというのか、そのせいというべきか、私が隠しごとをしようとしていることを察した立木さんが眉尻を下げる。
「ごめんね。つい呼び止めちゃって」
「いや、ぜんぜん」
察したことをいじりたおそうとしないところが、やっぱり大人っぽいと思う。私がへたくそなりに、半ば無意識においた距離感を絶妙に感知して、それ以上は踏み込まないでいてくれる。
でも、それでいいんだろうか。
その無意識は正しいものだろうか。
「……まって」
踵を返そうとした立木さんを、今度は私が呼び止める。自分でそうしておきながら心臓がどくどくと脈を打ち始めた。
いまならまだやり直せる。自分から置いてしまった距離を縮められるのはきっと、いましかない。
「一つだけ……ダンス練の休憩時間で話したこと、覚えてる?」
立木さんは意外そうな顔をして、考えるようにあさっての方へ視線を向けた。
「あー! うんうん、雨の時のね。私がりっちゃん達に呼ばれて微妙に話の途中で終わっちゃったやつ」
ほがらかな声音に救われた。自分が必要以上に置きかけた距離は、ギリギリのところで止められた気がした。
「そう。そのことでちょっと気になってて」
安心したところで話し出そうとすると、他のお客さんが咳ばらいをして横を通って行く。
確かにここでは邪魔になるし、立木さんにトレーを持たせたままになってよくない。私は慌ててグラスを手にして、ひとまず立木さんと一緒に窓際のカウンター席へ歩いた。
「むこう待たせてない? だいじょうぶ?」
「まあ、ちょっとなら、たぶん。手短にきけるかと思って」
グラスをいったんカウンターに置いて、背の高い丸椅子に浅く腰掛けた。長居するつもりがないことを示すように。
こうして隣同士で向き合うと、小雨の降る窓際で隣り合ったあの距離感を思い出す。立木さんと一対一で話すのなんてあれっきりだと思っていた。そういう他愛のないことも話せたらと思いつつ、佐藤を待たせている手前あんまり寄り道もできない。
「あのとき、私がいい顔してたって言ってくれたの覚えてる?」
「んーと」
額にうっすらと汗をにじませた立木さんが息継ぎのように喉をうるおす。記憶をあさるようにつぶらな目をぱちぱちとさせる仕草がまた可愛らしい。
「ああ、思い出した! そんなこと言ったね、私。そうだそうだ。昼休みにちらっと遠山さんが目に入ってね、その時の表情が印象に残ってたから」
「そうそう、その時の私の顔っていうのがどんなだったか、ずっと気になってて」
あの日、立木さんの言いかけたことが意味深にきこえた。だからこうして改まってきいてみたけど、もし大した含みもなかったとしたらわざわざ尋ねた自分が恥ずかしい。
「そう言われると言葉で説明するのって難しいんだけど……いつもより五割増しぐらいで可愛かったって言えばいいかな」
「え、や、えっ」
あまりに唐突、というか反則だった。思いもよらないことに耳が赤くなっていくのがわかる。その原因を作った本人は涼しげな笑顔を浮かべていた。まるでいい顔のお手本を見せつけられているみたいだ。
可愛いだなんて言われたのは遠いむかし、近所のおじいちゃんおばあちゃんにほっぺたをつままれた小さいころぐらいしか記憶にない。冗談にしろお世辞にしろ、そういうことをさらっと言えるのはさすがだ。嫌な気はしないけど、慣れなさすぎてむずがゆい。
「からかってるんじゃないよ。本当にそう思ったんだから。ちなみに口説いてるわけでもないからね。あはは」
「わかってるよ」
かろうじてそう返したけど、気恥ずかしくて目を合わせていられなかった。視線を泳がすと二人分のグラスが目に入って、忘れかけていた佐藤のことを思い出す。適当なタイミングで引き上げるのを忘れないようにしないと、思いがけず話し込んでしまいそうだ。
水を一口飲んで、さりげなくガラスに反射する店内の様子を見てみる。残念なことに佐藤の様子はわからない。人目を避けようと思って奥の席を選んだのが、こんな形であだになるなんて。
「最近ちょっと変わったよね、遠山さん」
反射的に振り向いてしまった。
改めてわかった。この人は、人の気持ちを引き込むのがうまい。つい気になるようなことをなんの不自然もなくさらりと言う。
当の立木さんは期間限定の抹茶ドーナツを口にして顔をほころばせている。そんな顔をするあなたの方がよっぽど可愛いですよと言ってあげたいけど、私にそんな胆力があるはずもなく。
「変わったって、どのへん?」
率直な疑問を投げた。そう言った私は、いったいどんな顔をしていたんだろう。
「やっぱりこの辺かなあ」
急にいたずらっぽい笑顔を見せた立木さんは、その細くて綺麗な人差し指をぴんとこっちに向ける。気が付けばそれは、私の頬をやさしくつついていた。
「へ?」
「あはは。いまのはちょっとからかった。こーゆーの苦手だったらごめんね」
立木さんはすぐに手を引っ込めて冗談めかす。
「最近なにか、いままでと違うことしてたりしない?」
「え、」
私はあっけに取られてばかりで何も言い返せない。最近話す機会なんてあのダンス練のときぐらいしかなかったし、情報を橋渡しするような共通の知り合いもいないと思う。
抽象的な言い方とはいえ間違っていない。そんなに観察されていたんだろうか。
「当たり? ふふ。すごいでしょ。私ね、人の顔覚えるのが得意でさ」
「顔を?」
「うん。人よりちょっとだけ得意だって思ってて。だから関わりがそこまで深くない人だったりしても、微妙な顔つきの変化がわかるんだ。それで遠山さんも、いいことあったんだろうなって」
納得した。その能力の信ぴょう性はさておいて、少なくとも立木さん視点では私の顔がいい方に変わって見えたんだろう。
確かに最近、短い期間で色んなことがあった。恋愛小説を書き始めたことから連なるように。そこからつながったものたちが「いいこと」とひとくくりにできるかはわからないけど。
「ところで時間、だいじょうぶ?」
「んん……そろそろ戻んないとかも」
いいタイミングで気にかけてくれたのがありがたい。この流れだと話がはずんで、自分から会話の終わりを切り出せなくなるところだった。
「ありがとう。いろいろ聞けてよかった」
まだ話し足りない気持ちはある。そう思うと距離を置こうとした数分前の自分が恥ずかしい。
彼女の言うようにいつもとは違うことをしたけど、勇気を出して良かった。距離を縮められたうえに、抱いていたイメージをいくつか更新できたのは少なくとも「いいこと」だった。
ちょっぴり名残り惜しい気持ちで席を立つと、
「そうだ、よかったら」
すかさずスマホを手にした立木さんに連絡先の交換をもちかけられた。自分から言い出せない私の心の中を見透かしたよう……だなんて、それは我ながら考えすぎかもしれない。立木さんにしてみればごく自然な流れの一部でしかないはず。
だけどもし、私の顔から心の機微を読み取っていたとしたら。それはもう超能力と言ってもいいんじゃないだろうか。その方がわくわくするけど、いまは勝手に想像を膨らますのはやめておこう。
「また連絡するね」
「うん。またね」
いまは新鮮な会話の余韻を味わっておこう。そんな心持ちで、ちょっと大人になった気で手を振った。




