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第24部

 恋愛とは、時に残酷なものである。

 恋愛の()の字もわかっていない私はそれっぽいセリフを思い浮かべて、その薄っぺらさに辟易(へきえき)した。

 予定の時間の十分前。南側のロータリーに面した、駅ビル一階のドーナツ屋の前にぼうっと立つ。田舎町らしく緩やかな人の流れを眺めながら、私はついちょっと前に利江が残した言葉を噛み締めていた。

 付き合うってなんだろう。何のために付き合うんだろう。好き同士で結ばれてから、その先のことなんて具体的に想像したこともなかった。私が持っていたのは漠然としたイメージだけで、どこにゴールがあるのか、そもそもゴールなんてものがあるのかもわからない。恋愛小説に手をかけ始めた時とまったく同じことに頭を抱えていて、もはやあきれるのを通り越して笑えてくる。

 ふと思い立って道行くカップルをこっそり観察して、二人の関係に思いを馳せてみた。だけど楽しそうだなという印象が生まれるだけで深読みも妄想もできない。あたりまえだ。そういう引き出しはまだほとんど空っぽみたいなものだから。

 でも、恋愛というものに歩み寄っているのは確かだと思う。利江が見せた表情に複雑な色を見ることができたのもそのおかげ。数日前までの私ならきっと、利江が結婚がどうのと話し始めたあたりから上の空でスマホをいじっていたに違いない。

 もったいない。いままでの自分が見落としていたものを思うと。恋愛には縁がないと自分から遠ざかっていたことを、こんなふうに後悔する時がくるなんて。

 なんとなく空を見上げてみる。駅ビルの壁面が頭上に見えて、思いがけず三階の本屋に気が向いた。恋愛のこと、人に聞くばかりじゃなくて自分でも勉強しないとだ。帰りに立ち寄って梢オススメの恋愛小説や少女漫画の一冊でも手に取ってみよう。

 そう意気込んでいると視界の外から声をかけられた。


「遠山さん」


 慌てて声の方を向けば佐藤がいた。当然のことなんだけど、相変わらずタイミングが良いというか悪いというか。ぼうっと上を向いているところを見られてしまった。はたから見ればあほ面をしていたかもしれない。


「お待たせ。なに見てたの?」

「や、別になにも。入ろ」


 いろいろと掘り下げられたくなくて、適当にあしらってそそくさとドーナツ屋の自動ドアをくぐった。

 おやつ時ではあるけど客足はほどほどで、席はまばらに空いていた。先に会計を済ませた私は佐藤に目配せをして、できるだけ外から目に付かないよう奥の席を陣取る。話し込むかどうかは分からないけど、そんなに人目を気にせず長居できそうで安心した。


「午前中は部活だった?」


 後から来た佐藤が何気ない話題を振って席につく。私は氷たっぷりの水で喉を潤してから答えた。


「うん。いつも通り」


 グラスを置くと、合いの手を入れるようにからりと涼しげな音が立つ。ウインドウ越しに見える洒落っ気のかけらもないロータリーを背景に、夏っぽさがふっと胸にわき上がった。


「部活終わってから部室でね、ちょっとだけ進路の話してた。話したっていうより聞いてばっかりだったんだけど、なんていうか……いろいろ勉強になった」


 具体的に話そうか、ちょっとだけ迷ってやめた。どうせこれから似たような話題を掘り下げるんだ。利江じゃなくて私たちのことで。


「あはは。ずいぶんざっくりまとめたね」


 額にうっすらと浮かんだ汗を丁寧にハンカチでぬぐって佐藤が笑いかけてくる。育ちの良さが垣間見える仕草だ。


「そう言えば、佐藤の親ってどんな人?」

「え? うちの親?」


 ふっと湧いた疑問をそのままぶつけてみる。思いがけない質問に、佐藤は少し眉を寄せてからゆっくりと口を開いた。


「んー……父さんは普通のサラリーマンで、口数の少ないまじめな人。母さんは小学校の養護教諭で、優しくて面倒見のいい人。それと料理がうまい。こんな説明でいいのかな」

「ありがと。アバウトな質問しちゃってごめんね。……でも、イメージ通りって感じ。みんな穏やかそう」

「そうだね。家の中で喧嘩は見たこともしたこともないかな」


 穏やかに笑って佐藤がチョコレート生地のドーナツを口にする。追うように私もドーナツをひとかじりしてひと息ついた。上半分にチョコがかかったプレーンのドーナツは、さくっと軽い口当たりがお気に入りでよく選ぶ。今日も食べ慣れた安定の美味しさが口いっぱいに広がって、ほんのり幸せな気分につつまれた。


「両親とも色んなことに寛容で、特に習い事はなんでもやらせてもらってた。習字とか英会話とかサッカーとか、他にもいろいろ。いまはほとんど辞めちゃったけど」

「それで残ってるのがバイオリン?」

「そう。あとピアノも。ただバイオリンだけは自分からやりたいって始めたことじゃなくて、物心つく前から教室に通わされて続けてた習い事なんだ」

「えっ」


 積極的な言い方じゃないのが意外だった。音大に行こうとするぐらいだから、もっと熱を持って続けているものだと勝手に思っていた。


「ああ、もちろんいまは嫌々続けてるわけじゃないよ。好きで、進んでやってる。ただ、自主練もレッスンも何もかも嫌になる時期があったことも確かで、これまでにどれだけ辞めようと思ったかわからない」

「へぇ……ずっと好きで続けてたわけじゃなかったんだね」


 それを聞いて創作へ向かう自分の気持ちと比べずにはいられなかった。

 書き始めた小学生のころから振り返って、書くのが嫌になった記憶はない。習い事でもなく自分のペースでやっていたから当然のことなのかもしれないけれど。

 ただそれは、裏を返せば嫌になるほど力を注げていなかったということなのかもしれない。落選に泣いたあの夜を思い出しかけて、いまはやめておいた。


「駄々をこねる度に親はいつでも辞めればいいって言ってくれるんだけど、そう言われると負けた気がして逆に辞められなくて。小学生の頃の話だけど、泣きながらレッスンに行ったこともあったなあ」

「あはは。なにそれ意地っ張り」


 思いがけないエピソードに、自省の気持ちも忘れて思わず吹き出してしまった。そこらの男子高生と比べて落ち着きがあるイメージだったから意外だ。


「そう、意地っ張りの子どもだった。いまもまだ大人じゃないけど。……でも、その意地っ張りがなければこうして続けていられなかったから、当時の自分には感謝してるよ」


 照れ笑いをごまかすように、佐藤はドーナツを多めに頬張る。


「なんか……」


 少し似ているな、と思った。利江の話に。


「うん?」

「いや、なんでもない。それよりさ、両親はどうして佐藤にバイオリンを習わせようと思ったの? どっちかが音楽に関係するお仕事してるのかと思ってたけど、そうでもないみたいだし」

「ああ、それ。ちょうど泣きわめいてた時に聞いたやつだな。なんでバイオリンなんか弾かなきゃいけないんだーって。そしたらね」


 佐藤が息継ぎのように水を飲む。ことんと置かれた汗だくのグラスは涼しげな音を立てた。


「強制しているつもりはない。お前が何に興味を持つか分からないから、選択肢の一つとして習わせていただけだ。だから、嫌なら辞めればいい……って、父さんに諭された。普段は気持ちを顔に出さない父さんがその時ちょっとだけ悲しいような、申し訳ないような顔をしてたのをよく覚えてるよ」

「申し訳ない?」

「うん。後から母さんに聞いたんだけど、まだ小さい俺に楽器を習わせようと提案したのは父さんだったみたいで」

「だから申し訳ない、か」


 顔も知らない佐藤のお父さんをぼんやりと思い浮かべて、その状況にちくりと胸が痛む。

 その時の佐藤もきっと同じような気持ちだったんだろう。聞くまでもなく、思い返す表情から伝わってきた。


「父さんは自分が大した趣味もなく生きてきたことをちょっとだけ後悔してて、俺に同じ思いをさせまいと習い事をさせたかったらしい。趣味を広げるきっかけにでもなればって」

「いいお父さんだ」

「俺もそう思う。ちなみに習い事はなんでも良かったみたいだけどね」

「じゃあどうしてバイオリンになったの?」

「そこは母さんの趣味。かっこいいでしょってひと言。単純だよね」


 佐藤が屈託なく笑う。目がくらみそうなほど、まぶしく。


「そのお母さんの気持ち、わかるよ。かっこいいと思う」

「いやあ、そう面と向かって言われると照れるなあ」

「佐藤に言ってるわけじゃないから。バイオリンの話ね」

「わ、ひどい」


 佐藤が眉をへの字にするのを横目に、ひかえめに笑ってドーナツをかじる。

 ふと、自分の表情が気になって間仕切りのガラスへと顔を向けてみる。うっすらと映る私は、いつも鏡で見るのと変わらない顔をしていた。佐藤と比べてずいぶん色がうすくて、やんわり笑顔のつもりがその一歩手前で止まっている感じ。いくらなんでも愛想がなさすぎる。

 話している時の自分の表情なんて気にしたこともなかったけど、立木さんにはいいことに気付かせてもらったかもしれない。


「どうしたの?」


 目の前の人間がいきなりほっぺたを持ち上げて変顔をしだしたら、誰だって突っ込みたくなるだろう。その気持ちは意図せずそうしてしまった私にもわかる。

 指摘されて我にかえった私は急に恥ずかしくなって、両手を下ろして咳払いした。


「いや、私って暗い顔してるでしょ。もうちょっと愛想があればいいのにって、こう」


 下ろした手をまた持ち上げて、口角を上げるようなジェスチャーをして見せる。


「急にそんな。俺は暗いだなんて感じてないよ」

「そう? ならいいんだけど」


 恥ずかしさが収まりきらなくて、ごまかすように人差し指で口角をぐにぐにする。いまは間違いなく「いい顔」ではないけど、立木さんの意図した答えはいまだにわからない。


「……いい顔ってなんだと思う?」

「え?」


 何の気なしに口を開いた。尋ねるような言い方をしたけど、こんなの自問自答と変わりない。それでも私の口は勝手に言葉をつむぐ。


「なんかね。菜月と話してた時の私がいい顔だったって、こないだ立木さんに言われたんだ。それがどんな顔だったのかいまだにわかんなくて。菜月に聞いても覚えてないって言うしさあ」

「いい顔、かあ」

「いつも通りしゃべって笑ってただけな気もするんだけど、立木さんの言い方がやけに含みのある感じで」


 その場に居合わせなかった佐藤に聞いてどうなるわけでもないのに。事情を話した後からそのことに気付いて、宙ぶらりんな疑問を投げたことに申し訳なくなった。


「ごめんごめん。いいんだ」


 軽く流してしまおう。そう思っていたのに、


「それ、立木さんにきいてみたら?」


 佐藤が思わぬ案を出してきて、一瞬だけ思考が止まる。

 疑問を生み出した本人に尋ねる。なるほど、言われてみれば当たり前のことだ。それなのに、これまで一ミリぽっちも考えたことがなかった。


「え、なんで思いつかなかったんだろう私」


 目からウロコってこういうことだろうか。いまとなっては逆に思いつかなかったのが不思議に思えてくる。どうして気付かなかったのか、その答えはちょっと頭をひねればわかることだった。

 立木さんとはそれほど親しい仲じゃない。仲が悪いわけでもないけど、別のグループの人だからと無意識のうちに距離を置いていたんだと思う。ささいなことを尋ねるためだけに、わざわざ労力をかけることもないと。


「ありがとう。言われないとたぶん永遠に気付かなかった」

「はは。大げさな」

「ううん。ほんとに」


 思いがけない発見をしたみたいで胸が沸き立つ。新しい物語が始まるような、そんな高揚感と好奇心で。

 一人だけ舞い上がって佐藤を置いてきぼりにしないよう、ちょっと多めに冷水を飲み下した。


「無意識ってこわい」


 また大事な機会を失いかけていた。恋愛にまつわる話と同じように、もったいないことをしたと後悔するところだった。そんな大それたことを口に出すのは気恥ずかしくて、適当な言葉でお茶をにごす。


「そうだね」


 佐藤が相槌をうつ。ありふれたひと言だけど、適当に返したわけじゃないのがなんとなくわかって、それが少し心地よかった。

 それからしばらく沈黙が流れる。気まずいわけでも話題がないわけでもなく、きっと佐藤が私の話題選びを待ってくれているからだ。いつぞやの電車での一件があってのことだと思うと申し訳ないような、だけどありがたいような気持ちにもなる。話がそれてしまったけど、「いい顔」については区切りがついた。それはいい。だから進路の話に戻りたいんだけど、佐藤の話を聞いているあいだに同じ土台で話していていいものかと怖気づいてしまった。

 そうこうしているうちに、二人ともドーナツを食べ終えて水もすっかり飲み干していた。


「水、くんでくるね」

「ああ。ありがとう」


 いったん気持ちをリセットしよう。そんな思いで二人分のグラスを手に、私はピッチャーのあるカウンターへ足を運ぶ。

 まずは佐藤の話を掘り下げるのが順当だろうか。それとも私からの相談を先にはさんだ方が気負わないで済むだろうか。次の話題の振り方を考えながら気もそぞろに水を注いでいると、なんの気なしにレジの方へと視線が向く。


「わ」


 思わず声が漏れた。学校からの最寄り駅だから、それほど不思議なことじゃないかもしれない。たまたまなのは百も承知だ。けど、こういう時は運命だとか言霊だとか、ありもしないものを信じてしまいそうになる。

 会計待ちの列の中に、立木さんの姿があった。

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