第23部
文化祭前、最後の土曜日。
だからと言って何か意気込むようなことがあるわけでもなく、私たちテニス部はいつものように午前中いっぱいの部活を終えた。
蛇口の水を被って荒っぽく汗と暑さを洗い流しても、部室に人が密集してしまえば暑さからは逃れられない。じりじりと焼けるようなコートの上とは違って、四畳ほどの狭い部室の中ではじっとりとした熱気が立ち込める。この狭い空間に十人ちょっとも押し込められれば、息苦しくなるのも当然だ。もちろん、クーラーなんてあるはずもなく。
「千佳はどーする? 残ってダンスの練習してく?」
濡れた髪をタオルで乾かしながら菜月が言った。
「ううん。私はいい。ちょっとやりたいことがあって」
私も同じようにタオルドライをしながら、そんな風にささやかな嘘をつく。周りにみんなもいる手前、このあと佐藤との約束があるとは素直に言えなくて。
具体的な予定を掘り下げられないようにと、私はすかさず問い返した。
「菜月は?」
「あたしは残ってく。せっかくだし」
「そっか。熱心だね」
菜月のいた直近のダンス練を思い返しても、振りつけにはほとんど問題なかったと思う。今日が本番前の最後の練習になるわけではないのにと感心していると、思いがけない反応が返ってきた。
「いや、」
菜月はタオルを片手に持ち替えて、空いた方の手で器用にスマホをいじる。画面を見つめながら菜月は首を傾けた。
「なんていうか、えー……ちょい待って」
「ん」
きっと菜月は菜月でダンス練の他にも用事があるんだろう。梢と同じように文化祭が迫るに連れて、何かと忙しくなっていく雰囲気は感じていた。
一歩引いて考えてみれば二人に限った話ではなくて、ここのところ学校全体が浮き足立っているような感覚がある。その原因がすべて文化祭と直結するわけではないのかもしれない。けど、やっぱり大半は文化祭の影響なんだろう。お祭り前の高揚感と言えばしっくりくる。そんな落ち着きのない空気感も、私は嫌いじゃない。
ぼうっと物思いにふけっていると、スマホから顔を上げた菜月が私の方に向き直った。
「なんの話だっけ」
突っ込みを入れそうになって、自分もなんの話をしていたかすぐに思い出せなかった。
「え、と……ダンス練してくの熱心だねって」
「あー、そうそう! いやね、振り付けが不安だから残ってくんじゃないの。だから熱心とは違ってさ……うちらのクラスでやる文化祭って今回で最後じゃん? まあ毎年そうなんだけど、一回きりだと思うと練習とか準備とか、出られるとこは出ときたいなーって。思い出づくり的な」
そう言って菜月ははにかんでみせる。私はそこまで文化祭に打ち込んでいないけど、菜月の気持ちもわからなくはなかった。
いまのクラスのメンバーでやる文化祭はこれで最後。その響きには、確かにほんの少し後ろ髪を引かれるような思いがする。いましかできないことなのは間違いないから。
「いいね。なんかそういうの」
「でしょ。へへ〜」
菜月は可愛らしい顔でへらへらしてみせる。窓際の雑談で立木さんが言っていた「いい顔」というのは、こういう顔のことだったんだろうか。こんな華やかな表情はした記憶がないし、できる気もしないけど。
「ちーかー」
「うん?」
視界の外から声をかけられて振り向くと、利江が手ぐしで髪を整えながらドライヤーを差し出してきた。
「はい」
「ありがと。借りるね」
部室に一つしかない……というより、ブレーカーが落ちるから一つしか使ってはいけないドライヤー。当然ながら年功序列で使い回すおかげで、一年の頃は順番を待っていたら文字通り日が暮れるからと諦めていた代物だ。だけど、それもいまではすぐに順番が回ってくる。改めてその理由に思い馳せると寂しいような、またなんとも言えない気持ちになる。
そんなことを連想しだすとキリがないんだけど、先輩たちが部活を卒業して一ヶ月が経ったいまでもまだ、私は余韻から抜け出せていない。そのくせ一年の頃から大した成長もしていない自分をかえりみて気持ちが焦る。
高校生活を折り返したいまでもまだ――
「はーあ。二人とも楽しそうでいいねー」
「「え?」」
利江がため息混じりにもらした言葉に思考を遮られて、菜月と同時に振り向いた。
「あっはは。仲良しか」
「おうさ!」
菜月が両手を腰に当て、得意げに胸を張る。そのすぐ後にタオルが顔面にずり落ちて、部室内に小さな笑いが起こった。
「いやでもほんと、羨ましいわ。文化祭でダンスって勝ち組じゃん? いまさらな話だけど」
「勝ち組……なのかな。私にはよく分かんないけど」
首を傾げると利江がずいっと顔を近付けてくる。その拍子に漂ってきたヘアオイルの甘い香りが鼻をくすぐった。ちょっと背伸びしたような、上品な甘い香り。部活終わりだからって最低限のケアで済ませる私とは違う。そう考えれば背伸びなんていうのはおこがましい、順当な大人の香りだった。
「勝ち組なの! うちのクラスの出し物なにか知ってる? つまようじよ、つまようじ」
「な……なにそれ」
苦笑いしながら聞き返すと、利江はまた大げさにため息をついた。ここまでくると疲れたOLみたいな雰囲気さえある。OLと言っても私の偏見にまみれたイメージでしかないけど。
そんな利江の反応を待っていたら、菜月の方が先に口を開いた。
「あーそれ、紗雪に聞いたよあたし! つまようじアートってやつでしょ」
「そうそう。なんでそこで菜月のテンション上がるのかは分かんないけど、また地味なのこれが。知ってる? つまようじに絵の具で色つけて、発泡スチロールの板に刺して絵にしていくだけ。もはや修行ねアレは。高校の文化祭ならもうちょっと他にやることあるじゃない? まさか多数決でこれに決まるなんて思わなかったし。まー理系様の趣味ってよく分かんないわ」
何もそこまで言わなくても。とは下手に言えなくて、私はあいまいな相槌をうって視線を泳がす。利江が怒っているわけじゃなくてただ愚痴っているだけなのはわかっているけど、私たちの出し物が羨ましがられている手前、余計なことを言うと火に油を注ぎかねない。
「そう言う利江だって理系じゃんか」
そんな私の思惑なんて知ったことかと言わんばかりの菜月の切り返しに、思わずドライヤーをかける手が止まる。泳がせていた視線をおそるおそる利江の方に戻すと、表情が変わった様子がなくてほっとした。
「アタシは文系脳なの。数学も理系科目も嫌いだし、本当は文系に行きたかったんだから」
「えーじゃあなんで理系いっちゃったの」
「なんでって、前に話したような気がするけど」
「んー……なんだっけ。聞いたような聞いてないような」
「あは、てきとー! まあアタシも話したかどうかうろ覚えだし、似たようなもんか」
一時はひやりとしたけど、二人が楽しそうなやり取りをしているのを見て私もつられるように口角が上がった。菜月の持ち前の雰囲気もあってか、それとも二人の相性がいいからなのかは分からないけど、私が同じような切り返し方をしていればこうはならなかったかもしれない。
そんなことを思いながら脚の上に乗せたスマホを見る。まだ一時にもなっていない。佐藤との約束までには余裕があるから、もうちょっと耳を傾けていても良さそうだ。
「で、なんで理系なんだっけ? 親に言われたから?」
「半分アタリ。看護師になれって親がうるさくてさあ。専門なら文系からでも行けるって言うのに、聞く耳持ってくれなくて」
「わあ大変」
「ちょっと。菜月それほんとに大変だと思って言ってる?」
「思ってるってば。就職までレール引かれるの、ちょっとやだなって思うもん」
何気ない雰囲気のわりにデリケートな話題に差し掛かった。進路と家の都合が切っても切り離せないのは当然かもしれないけど、それが話題の中心ともなると緊張感が違う。
けど、そんな風に感じているのは私だけなのか、利江は変わらない口調で言った。
「ま、私も最初はそう思ってたんだけどね」
意外なひとことだった。てっきり菜月の言葉に便乗する形で哀れみを誘うものだとばかり思っていたから。利江の声音は諦めたような感じでもなくて、さっきまでと様子は変わらない。
「看護師を目指すのも最初は仕方なく……って諦めてたけど、気付いちゃったんだ」
ちょうど荷物をまとめ終えた利江は、焼きたてのお餅のように膨らんだ鞄をパンと叩いてキメ顔を見せた。
「看護師になれば医者と結婚出来る」
部室のざわめきが意味ありげに遠のき、そしてすぐにまた賑やかになる。部員たちの耳ざとさがわかった瞬間だった。
「うん、なんとなくそう来るとーー」
「と言ってもそこは最終目標っていうか一番の理想ってだけ。実際に看護師になったとして、確実に医者と結婚できるわけじゃないから。でもま、可能性は高めるに越したことないじゃない?」
菜月の反応を食い気味にさえぎって利江が言った。
「意外としっかり考えてるんだね」
「はい菜月、意外は余計だから。アタシだってそんなおバカじゃありません。だからね、医者を捕まえられなかった時の保険を用意しておくために、専門より大学いったほうがいいなって思ったわけ。で、大学の保健学科だと理系じゃないとダメだってことで、泣く泣く理系に進んだわけ」
「へえ。なんで大学だといいの?」
「一番はやっぱり、人の数が多いことかな。それで少しでも可能性を広げられるでしょ。サークルなんかに入ればコネも作りしやすいし。そのどこかで医学部男子とお近付きになれたら上々。現役の医者を取り合うよりも、将来医者になる相手を捕まえておく方が競争率低いだろうってね」
私も菜月も納得して頷くしかなかった。目標の実現に向けてそこまで具体的な作戦を練っているのは、素直にすごいと思う。利江なら本当にその通り、うまくやれそうだとも思えた。
「それが専門となると、出会いどころか遊ぶ暇さえないっぽくてねー」
「へぇ……利江こわ」
菜月がぼそりとこぼしたひと言に思わず口元がゆるんだ。直後に菜月が両頬をつねられているのを見て、慌てて真顔を作ってドライヤーに専念する素振りをみせる。
「でもさ、アタシなりに将来のこと考えたらそれが安泰だと思うのよね。夢とか特にないし、早めに結婚して子ども産んで、幸せに暮らせたらいいなって。まあそれが夢みたいなもんか。あはは」
居直った利江の顔が清々しくて、私は思わずドライヤーをかける手を止めた。
まぶしい。羨ましいと思う。利江と同じような人生を歩みたいわけじゃない、はずなのに。それじゃあ何を羨ましいと思ったんだろう。
「どしたの千佳、ぼーっとしちゃって。彼氏でもできた?」
「あはは。ないない。ただね、利江のことすごいなあと思って。もうそこまで考えてるなんてさ」
利江に顔をのぞきこまれて、つくろうように笑いかけた。自分の世界に浸って考えるのはまた一人になった時でいい。
「まあうちは親がうるさかったから。嫌でも考えなきゃいけなかったっていうかなんていうか」
「そっか。他になりたい職業はなかったの?」
言った後から野暮なことをきいたなと思ったけど、利江はほんの一瞬だけ考えるそぶりを見せてにこりとした。
「うん、ない。そもそも働きたくない。やっぱ専業主婦がベストだよねー」
そんなに堂々と言われたらつられて笑わずにはいられない。けど、そういう変につくろったりしないところが利江の美点だと私は思う。飾ることとつくろうこと、その区別と使い分けがきっちりできているところが。
さっき感じた羨ましさの一部もきっとそこにある。私が持っていない、この先も持てるか怪しいものを利江が持っているから。
「はは。私も働きたくない」
「はいはーい! あたしもあたしも」
また少し置いていかれたような気持ちになりかけながら、気を紛らわすように同調した。いちいち感傷に浸ってばかりいるのももったいない。
だって、こうして何気なく笑い合ういまの時間だってかけがえのないものだから。そんな気持ちこそ感傷的だろうか。
「じゃ、アタシはそろそろ」
利江がすくっと立ち上がり、部室を後にしようとする。思い出したようにスマホの時計を確認した。私もそろそろ余裕を持って出ないとだ。
「そだ! 利江、海斗くんとはどうするの?」
つま先を叩いていままさに帰ろうとした利江に、菜月が鋭い疑問を投げつけた。そんなことを訊けるのは部の中でも菜月ぐらいしかいないだろう。
八割方乾いた前髪のすきまから、玄関口に立つ利江の横顔をのぞく。ピンとカールした長いまつ毛がちょっぴり上を向いて、視線はどこか遠くを捉えていた。私にはわからなくて、菜月にはわかるかもしれない、どこか遠くを。
「どうかな」
曖昧な答えを残して日差しの中に消えていった利江の横顔は、また一段と大人びて見えた。




