第20話
雨は夜中のうちに上がって、眩しい日差しが照りつける晴れ模様はあっという間に戻ってきた。
放課後になってもコートには水たまりが残っていて、私たちテニス部員はもれなく日差しの熱と足元から立ちのぼる熱気の板挟みになっていた。
「千佳バケツ~~」
「ん……しょっと」
半ばのぼせたような感覚に襲われながら、半分ぐらい水のたまったバケツを菜月の方へ取ってよこした。お互い必要以上の言葉を交わす気力もなくて、黙々と水たまりの水を雑巾やらスポンジやらで吸ってはバケツへと移していく。
夏は好き。好きだけど、嫌いだ。
その感覚は雨の日と似ている。イメージとしての夏は好き。夏にまつわるイベントや食べ物も好き。でも、こうしてまとわりつく暑さの中に身を置くのは嫌い。暑さで頭がぼーっとするし、汗で身体はべたべたになるし、肌は焼けるし。何もいいことなんてない。確かに身体いっぱいに熱を蓄えたあとの冷たい麦茶はたまらなく美味しいけど、それまでに消耗する体力のことを考えると複雑だ。
あつい。さっさと帰ってしまいたい。そもそもこのまま晴れ続ければ明日には干上がるだろうから、いまこうして汗だくになってまで水取りしなくてもいいのに。今日は休みにして明日めいっぱい練習すればいいと思うんだけど、部長や顧問の先生はそんなことを一ミリも考えてくれない。高校生活のうちの貴重な部活の時間であることもわからなくはないけど、私にはそこまでの熱意はなかった。
どうして私はこの部活を選んだんだろう。ふとそんなことを考えるのはいまに始まったことじゃない。だって私は、暑いのをおしてまで練習したいほどテニスが好きなわけじゃない。嫌いなわけでもないけど、やりたいことの優先順位で言えば小説の方が上だ。筆が進みはじめたいまは特にそう思う。
それでも、テニス部に入ったおかげで得られたものだってたくさんある。根気強さはないけど人並みの体力はついたし、仲の良い同期や先輩後輩もできた。
部活での思い出だってそう。テニス部に入らないで小説だけに打ち込んでいたら、きっと経験できなかったことばかりだ。だから部活に入ったのは良かったと思う。それ自体は後悔していないけど、こうして耐えがたい暑さの中で辛い作業をしていれば気持ちがまいることだってある。そうして辛い現実から逃げようとしているだけなのかもしれない。
額からしたたる汗をぬぐう。いつまでこの作業が続くんだろうか。ちらりと周りを見た感じ、そう長くはかからなさそうに見える。二番コートの大きい水溜まりだけは今日のうちにはどうしようもないから、一番コートと三番コートの分が終わればいいはずだけど。
そこでふと、なんとなしに頭に浮かんだ。佐藤に相談するのを今日にしておけばこの作業をサボれたんだ。晴れていれば下駄箱から校門を出るまでにテニス部の目にもつかないから、わざわざあの自習室に呼びつけて筆談することもなかったんだ。
それにもし、佐藤との約束が今日だったら――
「……千佳ぁ?」
「ん? ああ、ごめん」
菜月の気だるげな声に呼ばれて慌てて手元に視線を戻した。気を取り直してスポンジをコートとバケツの上で往復させるけど、視界の端に見える菜月の手は止まっている。
前髪の先からこぼれそうな汗をふるい落として顔を上げると、菜月は真顔でこっちを見つめていた。
「どしたの」
菜月がひとこと。
「別にどうも」
「え~。あっちの男子の方見てなかった?」
「見てないよ別に」
鋭い。いや、いまのは私があからさまにあっちを見ていただけか。これは菜月でなくても気付いたかもしれない。
数秒前の自分の愚かな行動をちょっとだけ恨んだ。
「ふーん。じゃあなに見てたの」
「なにってわけでもないけど……水取りにあとどれぐらいかかるかなって」
「ふぅん」
明らかに信じていない顔をしている。わざとそういう表情を作っているのは分かっているけど、それ以上つっこんでこないなら私から掘り下げる義理もない。
……ない、はずなんだけど。
「信じてないでしょ」
つい口がすべった。そう、心の中でまで自分に言い訳をする。
違う。本当は菜月のフリがありがたかった。聞いてほしい話があって、だけど今までの自分のことを思うとそんなことを言い出す勇気はなくて。
そんな中で菜月がくれた貴重なチャンスを、みすみす逃す手はなかった。
「へへぇ」
だけど私の期待とは裏腹に、菜月は疲れた顔にいたずらっぽい笑顔をにじませるだけだった。その先をしばらく待ったけど、視線を落として水取りを再開した菜月が口を開く気配はない。
さっきのはフリじゃなかったんだろうか。私が勘違いしていただけ?
そんなことは恥ずかしくて聞けるはずもなく、用意しかけていた話題を引っ込めて私も自分の作業に没頭することにした。
浅くなった水たまりの水はもう「ぬるい」を通り越して「あたたかい」。ギラつく日差しを浴びて温泉のようになった泥水に手をひたしながら、またぼんやり彼のことを考えた。
杉山くんは同じコートにいる。何事もなかったかのように、当たり前のように目の届くところにいる。それは同じ部活だから当然なんだけど、どうしても気持ちが落ち着かない。何がどう落ち着かないのか自分でもよくわからない。言葉にしにくい、漠然とそわそわした感じ。居づらいわけじゃないけどどうしても気にしてしまう。
気にして何かが変わったりはしないのに。
「菜月」
手元から目を離さずに呼んでみる。返事がない。
聞こえてなかったかなと顔を上げたら目が合った。
「どーーーした」
慈愛に満ちたような笑顔で菜月が応える。でもそういう笑顔に見えるだけで、暑さにやられて疲れているのがすぐにわかった。
この話を振るのは後まわしにしておこう。
「だいじょうぶ? ちょっと水でも飲んできなよ」
「いやあ、まだ休憩時間じゃないしさあ」
「熱中症にでもなったらシャレになんないでしょ」
「や~でもみんな、頑張ってるしぃ」
まゆをへの字にしながら笑ってみせる、その気持ちはよく分かる。周りの目を意識したら自分だけ休むなんて言い出しにくい。
「んもう。仕方ないな」
スポンジを放って立ち上がると視界がぐらりとした。暑いのに加えてずっとしゃがんでいたせいだろう。人のことも言ってられない状態かもしれない。
深呼吸して立ちくらみを落ち着けて、私は三番コートでいちばん大きな水溜まりと格闘する部長の元へとぼとぼと歩み寄った。
自販機で買ったばかりのお茶を二本携えて、私はテニスコート横の駐輪場に戻った。空いたスペースに腰を下ろして涼んでいた菜月の背後から近寄って、無防備なうなじに冷たいボトルをあてがってみる。
「ひゃああ」
かわいい声をあげて飛び上がったところを見ると、日陰で休んでだいぶ回復したみたいだ。
「良かった。もう大丈夫そうだね」
「うん、おかげさまで。一緒に休んでくれてありがと」
「ん。私もへろへろだったから助かった。自分の体調って意外とわかんないもんだね」
周りの目が気になって一人では休めないなら、一緒に休めばいい。初めははそんなことを考えて部長に声をかけにいったけど、私も倒れそうだったからちょうど良いタイミングだった。なんにせよ熱中症になってしまうよりはずっといい。
菜月のとなりに腰を下ろして、私は買ってきたお茶を差し出した。
「え?」
「あんまり水分とってなかったでしょ。休んでるからってピッチャーのお茶まで遠慮してたら、本格的に倒れちゃうから。こないだのお返し。お茶取ってきてくれたでしょ」
菜月は少しきょとんとした顔でペットボトルを受け取った。
一緒に休憩していたからわかる。持っていた水筒の中身もなくなって、自販機まで歩く気力もなくぼーっとしていたことぐらい。
「ありがとね。お金払うよ」
「いや、いい」
「いや本当に」
そうやって財布を取りに立ち上がろうとした菜月を手で制した。
「賄賂なの。これは」
菜月はまたきょとんとする。その反応は無理もない。けど、私はいたってまじめだ。
「口止め料とも言う」
その一言で何かを悟ったように不敵な笑みを浮かべて、菜月は持ち上げかけた腰を落ち着けた。さすが我が友。察しが良くて助かる。
部の全体休憩が明けて、コートからはラリーの音が聞こえ始めた。こうして駐輪場でまだ休んでいるのは私と菜月だけ。顧問の先生はお休みだと部長が言っていた。そして帰るために自転車を取りに来るまばらな一年生たちは知らない人ばかり。
菜月の体調も回復している、今度こそチャンスだ。
「…………」
と、いざ意気込んでみると言葉がすぐに出てこない。話したい気持ちだけが先走っていた。いつも通りと言えばいつも通りなんだけど。
菜月がお茶を空けて喉をうるおす様子をぼうっと眺めて考える。梢がいないから菜月にだけ先に洗いざらい話すのもちょっと悪い気がする。だけどこの部活でのそわそわした感覚は菜月にしか相談できないような気もするし。
そうやって頭を悩ませていたら先をいかれた。
「千佳さあ」
「ん」
「いろいろあったでしょ」
ふっとぬるい風が頬をなでた。私をたしなめて、その風はコートのあちこちで上がる声までさらっていく。そんな錯覚。
キャップを締めながらこっちを見る菜月の表情はいつもと変わらない。最近お気に入りのドラマについて話すみたいな雰囲気だった。
そのおかげで私は気負わずに応えることができた。
「まあ、うん。ちょっとね」
照れ隠しにお茶をあけて口に含む。冷たい液体がのどを通ると身体にこもっていた熱がまた少し引くようで、一緒に肩の力も抜けた気がした。
「昨日ね、そう。菜月の言う通りいろいろあったんだけどさ……うーん、あの、なんていうか」
そうしてしどろもどろになるのは、背中を押して欲しいからだ。梢を差し置いて話すことに勝手に罪悪感を抱いて、それを許して欲しいから。そんな小賢しい自分がちょっと嫌になる。言わずに三人そろうときを待つか、いっそ素直に言ってしまえばいいのに。
「いいよいいよ。話して」
それでも菜月が聞く姿勢でいてくれることに私はまた救われる。大げさかもしれないけど、私にとっては初めてのことで、それぐらい重みのあることなんだ。
「誰にも言わないでね」
「言わない。口止め料ももらったし」
「梢にもダメだからね。あとで私から話したいし、何よりいまは忙しいだろうから」
「だいじょーぶ。わかってるよ」
そう言ってボトルを片手にはにかむ菜月はいつになく眩しかった。きっと普段は私以外のだれかとこういう話をしているんだろう。いま見ているのはたぶん、その時に見せる表情なんだと思う。
自分がようやくそこに混ざれたことが新鮮で、嬉しくて。ちょっぴり背伸びしたのが上手くいったような気分になった。
「あのね、実は昨日……杉山くんに告白されたの」
面と向かって菜月に告げた、私の胸の鼓動が早くなる。まるで昨日あの雨の駐輪場で味わうべきだった感覚が、遅れてやってきたみたいに。
だけどこれは恋愛感情でもなんでもなくて、たとえるならかくれんぼで体育倉庫の陰に身をひそめた時の感覚に似ている。気付かれたくないようで、だけど本当は気付いて、驚いてほしい。そんな矛盾を抱えて待つあの時の、身体中の血管が脈を打つような感覚に。
一方の菜月はと言うと、私の目を見据えたまま表情を変えずに固まっていた。
「菜月……?」
「……そう来たか。いちおう確認すると杉山くんってあの杉山くんだよね」
「うん」
「そこのコートで白いラケット持っていまバックでロブ上げた」
「そう」
「…………」
菜月は黙ってコートを駆け回る杉山くんを観察する。何を考えているのかはさっぱり分からない。
「ふぅん」
と、菜月がなにかに納得したような声で頷いた。
「なんで?」
そうでもないらしい。
「なんで……って、えと、」
何度思い返したかわからないあの瞬間をもう一度呼び起こす。熱っぽい彼の言葉と、あの雨の温度と同化していた私の表情を。
自分の顔なんてあの場で一瞬たりとも見ていないけど。
「ひとめぼれって、言われた」
そう答えたいまの私はどんな顔をしているんだろうか。ちょっと気になったけど確かめるほどでもない。菜月が特に反応する様子もないから、きっといつもと変わらないんだろう。
「うんうん。他には?」
「え?」
「ひとめぼれにしてもほら、どこに惹かれたーとかあったでしょ。声が好きとか雰囲気が好きとか、なんでもいいからなんかそういうの」
「ええ……」
言われて昨日のイメージをもう少し具体的にしてみる。だけど私の覚えている限りではそんなことは聞かなかった。もし私が忘れているだけだったら薄情すぎて笑えない。
「なかった、と思う」
「なかった!? え、ひとめぼれしたから付き合ってください、で終わり!?」
声を荒らげて菜月がぐっと顔を寄せてくる。例によって声量が何割か増したから慌てて辺りを見回したけど、視界に入る限りでは駐輪場には人がいない。コートの方でも振り向いた人はいなかったから、ひとまず胸をなでおろした。
口元で人差し指を立てながら菜月をやんわり押し返して、私はもう一度頭をひねる。ここまで鬼気迫る様子できかれると自分が忘れているだけのような気がして、でもやっぱりどれだけ記憶を漁っても出てこなかった。
「うぅん……やっぱり他には聞いてないな」
「えぇーなにそれ。杉山くんっぽいっちゃぽいけどさあ」
それでも菜月はまだ納得がいっていない様子だった。期待を裏切られたみたいに肩を落として、くちびるをとがらせている。ついでに目の輝きも何割か弱まっているような気がした。
「で、返事はどうしたの?」
「断ったよ」
「うん、そうだよね。てか断ってなかったらもっとなんか、出てるよね。顔とか態度とか」
それは私もそう思う。今日の部活が始まってからなんとなくそわそわしていたけど、もし付き合うことにでもなっていたらいまの比じゃないくらいそわそわしていたと思う。
そわそわ。絶妙にいまの自分の気持ちを表してくれているようで、具体性がない。それが余計にそわそわして自分だけではどうしようもない。
「でもよく断れたね。千佳ならそういうの、謎に気使ってなあなあで付き合っちゃうかと思ってた」
「あはは。自分でもそう思ってたけどね。杉山くんは真剣だってわかったし、その熱意も伝わってきたんだけど……」
「ひとめぼれの一言だけで?」
「うん。言葉数は確かに少なかったかもしんないけど、空気感ってあるじゃん。その場の雰囲気とか声のトーンとか……なんていうか、とにかく気持ちは伝わってきたわけ」
杉山くんの肩を持つような言葉を並べるあいだ、菜月の表情にじわじわ明るさが戻ってきた。それにつられて気恥しさが増してくるけど、ここまでしゃべったら今さらだ。相談するにも洗いざらい話すしかない。
「でもなんていうか、温度差? みたいなの感じちゃって。私は同じ気持ちになれないなって、逆に冷静になってってさ。そりゃあ確かに杉山くんを悲しませたくはなかったけど、でもこういうのって」
そのとき、急に視界が傾いた。気付けば私は菜月の胸の中にいて、頭と背中をさすられている。
「えらいね、千佳」
「や、子供じゃないんだから」
慌てて地面に手をついて体勢を立て直した。それでも菜月は頭をなでるのを止めようとしないから、私は手についた砂利を払ってから菜月の手をどかす。
「もう、あーつーい! ハゲるって!」
「へへ。ごめんごめん」
観念していたずらっぽく菜月が笑う。それがさっきコートの上で見せた笑顔にどことなく似ていて、あの時にはもうすべてを見透かしていたのかもしれないと、なんとなく思った。




