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第18部

 静かな雨の中、駐輪場へと足を運ぶ。

 テニス部はとっくに雨の日の練習メニューを終えていて、下駄箱から駐輪場までの間には誰ともすれ違わなかった。なんならテニス部以外の人さえも見かけなかったのは少し気味がわるい。薄暗いくもり空もあいまって、はやく帰れと急かされているみたいだ。

 定位置で待っていた自分の自転車の元までたどり着いて、屋根の下で折りたたみ傘をたたむ。それを自転車のカゴに放りこんで、代わりに雨がっぱを拾いあげた。

 雨の日の自転車通学は面倒なことこの上ない。雨は好きだけど、濡れるのだとか濡れないように色々しなきゃいけないのはいやだ。教室や自分の部屋の窓辺から空模様を眺めるぐらいがいちばんいい。そこからいつかの雨の日を思い起こして、ひとり感傷的な気分にひたれるから。もしかしたら今日のことも、そうやっていつか振り返るのかもしれない。

 かっぱを着る前に胸ポケットのスマホを手に取った。特に通知はなくて、氷塊にたたずむペンギンのイラストを背景にデジタル時計が時間を教えてくれている。部活がある晴れの日より一時間ぐらい早いから、帰ってからもゆとりがある。なんなら駅の本屋で漫画の新刊が出ていないか寄り道もできそうなぐらい。そう考えるとちょっぴり得した気分だ。

 スマホを胸ポケットに戻してかっぱに手をかけようとした、そのとき。ふと足音が気になって私は顔を上げた。

 浅い水たまりの水をはね上げる音。それはこっちに近付いてくる。顔だけそっちに向けて目をこらしてみれば、それはどこか見覚えのある人影だった。


「チカ先輩!」

「あっ」


 見覚えがあるもなにも、傘もささずに駆けてきたのはいつだかボール拾いを手伝ってくれたテニス部の後輩だ。人当たりのいい、熱心な経験者の子。

 自転車置き場は学年ごとに区画が分かれているから、私のところに来たのにはなにか理由があるんだろう。


「どうしたの杉山くん」


 こうして間近で向き合うのは初めてだからか、記憶にあるより背が高く感じた。勝手に同じぐらいの身長かと思っていたけど目線はほんの少し上にある。それぐらい彼とは面と向かって話したことがないけど、いったい何の用事だろう。

 もしかして部活をさぼったことを注意しに来たんだろうか。後ろめたさがないとは言えないけど、言い訳するだけの材料は一応持っている。


「あの、」

「う、うん」


 言い訳を用意しているのに、まっすぐな杉山くんの目に思わずたじろいでしまう。そんな私の気配を感じ取ったのか、彼もそこで口ごもって気まずそうにした。

 閑散とした駐輪場に流れるなんとも言えない空気。自分から沈黙を破るだけの勇気はない。せめて人の一人や二人ぐらい通りかかればいいのに、見渡せるかぎりでは人の気配もない。背景になるのはまだ居残っている吹奏楽部が鳴らす何かのメロディぐらいだ。

 私は早々に近場の水たまりへ視線をそらせて、サドルの上でとりとめもなく指を踊らせる。どうしてこんなにも気まずいんだろう。どうしたらこの空気から逃げられるだろうか。


「さっきの人って」


 と、杉山くんが意を決したように口を開いた。表情はなぜか落ち着きがないというか余裕がないというか。緊張……している?


「だれですか?」

「え? さっきって、いつの話?」

「それは、」


 そう言って杉山くんは振りあおぎ、あろうことか円柱形の建物を指さした。ついさっきまでいた特別棟を。


「あそこの自習室にいましたよね」


 心臓がはねた。本当に飛び上がったみたいに大きな脈を一回だけうって、それをきっかけに鼓動が早まる。

 どうして、それを。言いたいけど半開きの口が動かない。頭もまわらない。


「勉強してたらちらっと見かけて」


 ああ、それは納得だ。奥で机に向かっていた三人のうちの一人が、まさか杉山くんだとは思いもしなかったけど。

 人目につくのが嫌だからわざわざあの場所を選んだのに。そのせいで逆に目撃されることになっただなんて。しかもよりによって部活の後輩に。渡り廊下でもらしたため息のつけでも返ってきたんだろうか。

 見られたことに関しては自分でも意外なほど早くあきらめがついたけど、これ以上その話を広げられたくはない。むずがゆさに未熟な私の情緒が耐えられないから。


「奥にいたのって杉山くんだったんだ。えらいね、テスト近いわけじゃないのに」

「それはまあ、塾の宿題があったので。ありがとうございます」


 それっぽい流れで話題をそらせないかと思ったけど、食いつき具合からして思い通りにはいかなさそうだ。照れ隠しのように笑う杉山くんの表情がどこかぎこちなくて――


「チカ先輩って、あの人と付き合ってるんですか?」

「へっ!?」


 突拍子もないことに上ずった声が出た。


「いやいやいやいや、全然そんなんじゃない! あれはちょっと相談に乗ってもらってただけでね」


 思いがけない一言に処理が追い付かなくて、沸騰しかけた思考のまま私は答えた。

 確かに二人で自習室にはいた。筆談でやり取りもしていた。けど、だからって仲むつまじい男女のようにしてたわけじゃない……と思う。話した内容もまじめなものだったし。うん、そう、大丈夫。

 ただ異性と二人でやり取りをしてたからってそんな風に勘ぐるなんて、見かけによらないもんだな。杉山くんはそういうタイプじゃないと思っていたのに。これが年頃の男の子ってやつなんだろうか。まだ一例しか出くわしていないけど、とりあえず「お年頃(仮)」で私の辞書に書き加えて――


「自習室で相談、ですか?」

「あ、」


 墓穴を掘った。たとえ複数人で寄り集まっても、自習室で自習以外のことをするのはおかしい。というか怒られる。教室で雑談を交えながら宿題に向かうのとは別なんだ。


「いや、最近の数学が難しくてさあ。文化祭のダンス練の合間に宿題プリントがやばそうだなーって言ってたら、あいつが教えてくれるっていうもんだから。ちょっと早めに練習切り上げて自習室で付き合ってもらってたの。しゃべれないから筆談しながらね」


 我ながら頭と舌がよく回ったと思う。そこそこ自然な流れに聞こえたんじゃないだろうか。そうであってほしい。冷静になると逆に言いわけじみているような気がしなくもないけど。

 対する杉山くんはちょっと間を空けてから細かく二、三回うなずいた。納得しているようなしていないような、煮え切らない表情で。


「チカ先輩」

「はいっ」


 やっぱり嘘を見抜かれたんだろうか。それを指摘されるのが怖くて思わずかしこまった応え方をしてしまった。

 杉山くんは私をじっと見つめる。吸い込まれるような視線に、私は目をそらせない。息をのんで次の言葉を待って、


「僕と付き合ってくれませんか」


 思考が、止まった。

 芯のある彼の声、それは私の脳に跡を残して虚空にとける。


「…………へ?」


 吹奏楽部の奏でていた音色はもう聞こえない。わずかに強さを増した雨がしとしとと駐輪場のトタン屋根を叩く音だけが、いまこの空間を囲んでいる。閑散とした中にたった二人の私たちを。

 動き出した私の思考はまわりの世界に目を向けて、それからようやく自分の状況をかみ砕き始めた。

 部活のある日より中身のつまった、ちょっとイレギュラーな放課後。目的を果たしていつものように帰途につこうとしていたところ。そこで後輩に呼び止められて、いまのひと言だ。


「あの、それって」

「好きです! 部活に入ってまもないころからずっと、チカ先輩のことが!」


 思考がまたフリーズした。

 半開きの口が塞がらない。いま私は、どんな顔をしているだろう。立木さんの言っていたような"いい顔"か、それとも梢や菜月に見られたら笑われるような顔か。確かめたくても手鏡を手に取るだけの余裕はない。

 杉山くんの言葉はまだ脳内で熱を帯びている。その一方で私は、冷静に過去のことを思い返していた。

 くだらないことで男子とけんかした小学生の頃の記憶や、転校してしまう香菜ちゃんと交わしたお別れの言葉。それから成績が悪くてお父さんに怒鳴られたこと。地域のボランティアで知らないおばあちゃんに感謝されたこと。

 一見して脈絡がないようで、共通していることがある。どの記憶も、熱を帯びた言葉と一緒に焼き付いたものだ。種類も感情の色もまちまちだけど、いまの私が直面しているのは思い出せるどの記憶とも違う。

 受け売り程度の知識はあったけれど、恋愛だなんてさっぱり縁がないことだった。なんならずっとこの先も関わることがないんだろうと、ぼんやり割り切っていたりもした。そう思っていたのに。

 それがこんな唐突に、想像もしなかった形でやってくるなんて。

 ああ、でも。


「まともに話したことがないのは百も承知です。でも、チカ先輩にひとめぼれして、その気持ちに嘘はありません!」


 わかってしまった。私の、自分自身の気持ちが。言葉を通して伝わってくる情熱と私の思考との温度差で、はっきりとわかった。


 理解するのが、言葉にするのがこんなにも残酷で、苦しいなんて。


 雨の音がまた少し大きくなる。ざわめきたつ周りの世界とは裏腹に、私の心はひどく落ち着いていた。自習室でのことを聞かれて動揺していた自分が嘘のよう。まるで小説の三人称視点みたいに、自分の置かれた状況と感情を客観視しているような感覚。

 思うに、心にのしかかる重圧から逃げたるための自衛手段なんだろう。


「ん……」


 返事もまとまらないまま、言葉にならない半端な声だけがもれる。一瞬だけ目を合わせにいって、それからすぐ逃げるように視線を泳がせた。

 ひたむきな彼の目がいまは怖い。私はその想いに応えることができないから。そのせいで彼の心に傷をつけてしまうとわかるから。

 ああ。なんて応えるべきなんだろう。どう転んだって彼を傷つける結末は変えられそうにない。小説ならどうとでもできるのに、それこそなかったことにもしてしまえるのに。現実はどうしてこうも、都合のいいようにならないんだろう。

 いやだな。部活での姿しか見たことはないけど、こんなに熱心で健気で、優しい子もいないのに。どうして私だったんだろう。

 どうして、私なんか。


「やっぱり、そうですよね……」

「え?」


 私が応えられずに黙っていたせいか、杉山くんが口を開いた。おそるおそる顔を上げると視線はぶつからなくて、彼はどこかの水たまりか虚空を眺めている雰囲気だった。

 たぶん、私の気持ちはもう伝わってしまっている。

 何か言葉をかけてあげたい。その気持ちはあっても、それに見合う言葉がまだ見つからない。だからと言って沈黙を貫いてしまうのもダメだと思う。それはわかるのに。


「あのっ」


 不意に杉山くんが顔を上げた。くもった表情がいつ崩れるかわからなくて気が気じゃない。けど、複雑な色のどこかに決意めいたものが見えた。気がした。


「はい」

「ごめんなさい。いきなりこんな風に好意を押し付けてしまって。迷惑でしたよね」

「や、そんな」


 否定しようとすると、彼は首を横に振る。


「いいんです。チカ先輩が優しいのは知ってますから。だから気をつかってもらわないで大丈夫です。泣いたり怒ったりとかしないですし、もちろん言いふらしたりもしないので」


 そう言って杉山くんは、ぎこちないなりに笑顔をつくって見せる。きっと私を安心させるために。

 強い子だ。辛いだろうに、そんなことができるなんて。私の方はまだ顔の筋肉がこわばっていて、意識してもなかなか緩められそうにない。私の方が先輩なのに、情けない。


「もしできたら一つだけ、わがままを聞いてもらえませんか」

「……なに?」

「チカ先輩の、率直な気持ちを聞かせてください。そしたら諦めがつくので」


 そう言われても、すぐには答えられなかった。

 はっきりと言わないではぐらかすつもりだったから。そのための言葉も用意しかけていた。だけど彼は、白黒はっきりさせたいと言う。そうしたら諦めがつくと。

 本当なんだろうか。私にはまだその気持ちがわからない。けど、それ以外の抜け道を思いつくはずもなくて。


「……わかった」


 私はおずおずとうなずいた。そうするしかできなかった。


「えっ、と」


 率直に。そうは言っても下手な言葉を選べない。


「私っていままで誰とも付き合ったことがなくて、こういうの、初めてで。……正直なところ、戸惑っちゃった」


 杉山くんは何も言わずに、小さく相づちをうちながら耳を傾けてくれている。たどたどしい私の言葉に怒りもしないで、一心に。

 それが少し照れくさくて、私は足元に視線を落とす。


「こんなこと言うのも恥ずかしいんだけどさ、人を好きっていう気持ちがよくわかんなくて。自分の中にそういう気持ちが芽生える気がしなくて。……あ、それは杉山くんだからってわけじゃないんだけど。なんていうか……ああ、うまく説明できない」


 杉山くんに聞かせながら、私は自分自身の気持ちを表現する言葉を探している。水たまりをゆらす波紋を眺めながら。

 手さぐりでひとつ、またひとつと正しそうな言葉を見つけては、輪郭のぼやけた感情に当てはめてやる。そうして形になったものを、私はできる限り綺麗になるようにと並べていく。


「ただ、温度差があるなって思ったんだ。杉山くんの気持ちはしっかり伝わった。けど私は、その熱を受け取れなかった。どうしてか私の頭の中では、いまのことを客観的に処理してしまっていて……」


 適切な言葉が選べたかはわからないけど、なんとかまとまった。私の、偽りのない気持ち。ひとかけらの脚色もしていないそのままの自分が。

 ここで終わりにできたらいいのに。だけどそれは許されなくて、どうしても最後には言わなきゃいけないひと言が残っている。

 わかってる。わかっていても、身体の内側が潰れそうなほど重い。だからせめて、この苦しさで許してもらえないだろうか。

 そんな思いで、私は真正面から向き合った。


「……だから、ごめん。杉山くんとは付き合えない」


 ――言った。

 言ってしまった。

 おかげで重苦しい気持ちはマシになった。だけどどうしてか私の方が泣きそうで、屋根の外で雨に打たれて涙をごまかしたくなる。そうやってこの場から逃げてしまいたくなる。

 一方の杉山くんは口を固く引き結んで、思いっきり天をあおいだ。それが何を意味しているのかはすぐにわかった。私の目線からは見えなくなった彼の顔を想像したら、こっちの方が我慢できなくなりそうだ。自分のことと相手のこと、その両方で気持ちがはち切れるのも時間の問題。

 だけど杉山くんは想像より早く私の方へと向き直った。ほんのり目が赤いけど、口元はもうゆるんでいる。


「ありがとうございました!」


 そうして彼は切なげな、だけどさっぱりした笑顔を見せてくれた。それがあまりに眩しいせいで私は結局ぐしゃぐしゃになって、ただ無言でうなずくことしかできなかった。

 深々と一礼をした杉山くんが、背中を向けて屋根の外へと駆けていく。いつしか雨はざあざあと音を立てるほど強まっているのに、彼は傘もささず、腕で顔をかばうこともせずに白む雨の中へと消えていった。

 ひとり駐輪場に残された私は、杉山くんの背中を見届けて立ち尽くす。それからしばらくスマホを手に取ることすらできずに、落ち着くまで屋根を叩く雨の音に耳を傾けていた。

 最後に見た複雑な色の混ざりあう彼の表情。それはきっと、いつまでも忘れられないんだろうなと思った。

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