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第17部

 雷に打たれたようだった。

 決して都会とは言えないこの地域で、際立った何かがあるわけじゃない普通科の高校で、そんな人がいるなんて驚きだった。音大や芸大なんてごくごく一部、私からは遠い存在の人たちが行くところだと思っていたから。

 すごい、すごい。それを迷いなく答えられるなんて。

 そんなふうに高まる気持ちと対をなすように、心にはそっと影が忍び寄る。


「……」


 目の前にいるのに。ちょっと腰を浮かせたら手が届くぐらいの距離なのに。

 黙々と数学の宿題プリントに向かっている佐藤が、遠い。

 つい最近知り合ったばかりで。ちょっぴりすれ違って仲直りして、趣味の話でもりあがって。それだけで近付いていたような気がしていた。勝手にシンパシーを感じていた。ただ、それだけのことなんだけど。

 なんだか、胸が重い。

 佐藤の書いた答えを二回、三回と読み返してその意味を噛みしめる。噛みしめたところで、聞かないとわからないことだらけだ。


『音大を卒業した先のことは考えてる?』


 聞きたい。でもこわい。自分でもどうしてそんなふうに思うのかわからない。普段なら少しぐらい自分の気持ちを分析できるのに、それどころじゃないような妙な感覚。

 余裕がないと言えばいいんだろうか。それがいちばんしっくり来る気はする。

 そぞろな気持ちで半ば投げやりに差し出したルーズリーフは、またいくらもしないうちに返ってきた。


『わからない。プロになりたい気持ちはあるけど』


 宙ぶらりんな末尾に思いがけず佐藤の迷いが見える。そのことに少しほっとしてしまう自分がいた。

 遠ざかった佐藤が、三分の一ぐらい戻ってきたようで。


『なにか迷ってるの?』


 こんな言葉の選び方で正しいだろうか。すれ違ってしまわないだろうかと思いながら、また一往復。こんどは返ってくるまでに少し時間がかかった。


『プロになれるのはごく少数で、かんたんになれるものじゃないからね

音大をめざす気持ちは変わらないけど、その先のことまではわからないな』


 顔を上げる。返事を終えていそいそと数学の問題を解いていたはずの佐藤は、私の視線に気付いて手を止めた。

 思わず視線をそらす。立てかけてある楽器ケースに目をやる。それでも佐藤がこっちを見ていることはわかるから、私はおそるおそる視線を戻した。

 筆談をはじめてからようやくまともに見た佐藤の表情。怒っていそうではない。穏やかで、だけど駅のホームや電車の中で見たどの顔とも違う。


 ああ、まただ。また。


 菜月のように。

 梢のように。

 立木さんのように。

 気付けばみんながふとした拍子に漂わせる、あの雰囲気。私の知らない、大事な何かを知っているみたいな顔。

 また、私は……


「っ」


 不意に身を乗り出した佐藤がルーズリーフを奪い去った。それから新しい何かを書き足して、もう一度こっちへよこしてくる。

 いったいなんだろう。顔を見れば答えを待ってうずうずしているようで、さっきの気配はほんのり薄らいでいた。都合よく解釈するなら、私の気持ちを察して同じ土俵に戻ってくれたと言えなくもない。

 それでもすぐに裏返すのは怖くて、しばらくルーズリーフの背中をじっと見つめた。何度かのやり取りを経て、折り目とも言えないしなびた跡がいくつか残っている。こうして使い古されていくのに、そのたびに情報は新しく増えていく。

 私と、佐藤の文字で。


『遠山さんはどうするの?』


 一行あけて書かれたひと言。文字を見ただけなのに、さっきのうずうずした顔が思い浮かぶようだった。

 そうだよな。どこかのタイミングで聞かれるだろうとは思っていた。私が聞きっぱなしで終わるはずがないだろうって。

 だからといって、答えを用意していたわけでもないんだけど。


『私は』


 ペンを立てたまま手を止めて、ななみんとの二者面談を思い返す。

 菜月や梢とフードコートで話したことも。

 未来さんに占ってもらったことも。

 部活の先輩のこととか、授業のこととか、いろんなことを思い出して。

 ぜんぶひっくるめたら将来のことで漠然と焦っているのだけはわかる。それはわかるんだけど、


『まだ』


 わからない。どう答えるべきなのか、それすらも見えなくてまた手が止まる。

 自分の書いたたったの四文字。前の二文字と後の二文字で不自然な間が空いていて、罫線に沿わせているのにバランスはがたがただ。まるで心の迷いを映し出しているみたいに。

 ちょっぴりやけになって荒っぽく消しゴムをかけて、私は小さく息をついた。視界の端には佐藤の視線。やめてよ。そんなに見つめたって――


『いいよ、慌てなくて』


 ――声が、聞こえた気がした。

 目の前の佐藤からじゃなくて、記憶の中の佐藤から。頭の中で勝手に再生されたその声をきっかけに、焦っていた私の気持ちはじわじわと落ち着いていく。

 正面を向き直る。佐藤の視線は、表情は変わらない。だけど目が合った瞬間にもういちど同じ言葉をかけてくれた気がして、胸のつかえはとれた。それを悟ったのか、佐藤の方も応えるようにほほえんでくれる。


『私は――』


 最初から素直になればよかったんだ。


『――迷ってる。進学先すら決められてない』


 だって本当は、相談したいと思ってた。


『どうしたらいいんだろう』


 梢でも菜月でもなく、ななみんでも、未来さんでもない。

 本気で芸術の道に進もうとしている「かもしれない」人に、佐藤に相談したかった。両親に話を持ちかけるより前に、自分の中で気持ちを整理したくて。

 夢中でペンを走らせた。素直になりすぎて、まるで考えることを放棄したみたいに見えるかもしれない。

 それでも、わがままな私は表向きのままルーズリーフを差し出した。

 佐藤が受け取る。背もたれに深く背中をあずけて、まるで返ってきたテストを眺めるかのように向き合った。真剣に、正しい答えを探すみたいに。

 やがて佐藤が居直る。ペン先が机の、紙の上を走る音がやけに大きく聞こえる気がして、私の鼓動はつられるように早まっていく。佐藤なりの答えが私の手に戻ってくるまで一分もかからない。そのはずなのに、新しい文字が紡がれる時間はとても長く感じる。

 そのくせ、気付いた頃にはルーズリーフが手元にあった。


『遠山さんはどうしたいの?』


 やっぱり私は、自分がひどくわがままだと思う。この人は私のことをわかってくれる。というより、わかろうとしてくれている。そんな風に思ってしまったから。

 我ながらあんな面倒な質問、勝手にしろと突き返されたらそれまでだったのに。佐藤はそうしないで私の考えを引き出そうとしてくれた。それだけで許されたような気持ちになって、返事はすぐに浮かんでくる。


『いつかは』


 作家になりたい。素直になった頭でそう考えた。書こうとした。

 なのに、()の字の一画目の線を引くこともできない。使い慣れたはずのシャーペンがずしりと重くて動かない。

 いったん紙面から手を離してみる。気持ちを落ち着けて今度こそ書こうとするものの、小刻みに揺れるペン先は一向に着地する気配がない。その理由はなんとなくわかっていた。

 ふしぎだ。いつもは素直に言えない気持ちも、文字に起こせば言葉にしやすいはずなのに。口にするのはそう難しくないはずの言葉が、いまは文字に起こせないでいる。

 それが私の現状であり、進路を決められないでいる原因。

 自嘲的な笑みがこぼれた。自嘲という言葉がこれほどはまる状況もなかなかない。スマホでならメッセージにして送れるんだろうか。「作家」の二文字を出すためにサ行からフリックして、立ち止まらずに予測変換を選べるんだろうか。それを確かめることすら億劫だ。

 佐藤が見ていることも忘れて物思いにふける。自分の意思を示す方法は、人に伝える方法はいくつもある。それでもいざ形にしようと思うとなかなか上手くいかない。ここぞという時に限ってそうだ。駅のホームで謝ろうとした、あの時と同じで。

 諦めてペンを置く。条件反射でスマホを手にすると思ったより時間が経っているのがわかる。ふと部屋の奥へ目を向けてみれば、先客の三人は変わらない様子で机に向かっていた。すごい集中力だ。

 その一方で集中力の切れてしまった私は、佐藤がくれた言葉へ返事することもままならない。そうこうしているうちにタイムリミットが来てしまう。佐藤のレッスンの時間が。

 どうしよう。迷ってルーズリーフを見返すと、佐藤の残した言葉にまた背中を押される。私は書きかけた四文字を消して、最後の一文をひねった。


『続きはまた話させて』


 最後まで佐藤の好意に頼りっきりだ。借りをつくってばかりだから、いつか何かしらの形でお返ししよう。そんな思いを胸にルーズリーフを渡しながら、スマホの時計を佐藤に示して見せた。その両方を確認した佐藤はこくりとうなずいて片付けを始める。

 ありがとう。嫌な顔の一つもしないでいてくれて。心の中でそうつぶやいた。これぐらいは言葉にできる。だけど口頭で伝えるわけにもいかないから、佐藤が片付けている間にスマホでひと言だけメッセージを送っておいた。

 支度を終えた佐藤はかばんと楽器ケースを抱えて席を立つ。気が付けばルーズリーフだけ机に残っていて、そっとこちらに差し出してくれた。もともと私のだからと律儀に返してくれるのか、処分に困るから返されるのか。まあ、どっちも似たようなものか。わざわざ裏向きにしてくれているあたり佐藤の気配りが見える。


「……」


 視線が合う。なんて言いたいかは言葉を交わさなくてもわかった。

 じゃあね。また。

 佐藤は笑顔で手を振る。ちょっと恥ずかしくて私は小さく手を振り返す。そうして静かに自習室を出ていく佐藤の背中を、戸が閉まって姿が見えなくなるまで見送った。

 四人掛けテーブルにひとり残された私。しゃべっていたわけでもないのに、にぎやかだった空気が去ったような余韻があった。机に広がる筆記用具と数学のプリントを眺めて、それからルーズリーフに目をやる。

 最後まで話すことはできなかったけど、いちばん気になっていた部分には触れることができた。佐藤のことがわかったし、いまの自分に足りていないもの、その一つに気付くこともできた。筆談で交わした言葉の数こそ多くはないけど、得たものは確かだと思う。おかげで少し満たされた気分だ。

 そんな気分をもう少し味わっていたいから宿題は後回しにしよう。そう自分に言い訳をして数学のプリントを片付けた。シャーペンや消しゴムをしまって、最後に残ったルーズリーフを引き寄せた。

 捨ててしまうのも忍びない。かといって授業用のファイルに閉じておくとまたやらかしそうで怖い。手紙型に折り込んで筆箱にしまおうにも、さすがにちょっと分厚い。あれやこれやと考えて行き着いたのはルーズリーフの束に戻すことだった。

 まあ、いちばん無難だよな。

 そうして束の入った袋をかばんから引っ張り出して、しまおうとしたところで気付いた。

 最後に罫線を無視して力強く書かれた、佐藤の文字に。


『OK!』


 さっぱりとした締めくくりだった。炭酸のジュースを飲んだあとみたいに。

 それが尾を引いていた余韻をきれいに流してくれたようで、自然と笑顔がこぼれる。

 続きは、また。

 投げっぱなしだった提案は約束に変わった。そんなささいなことで喜ぶ私は、やっぱりまだ子供っぽいのかもしれない。

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