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第16部

 つまるところ。

 私の情緒は小学生あたりから成長していなかった。


「はぁ……」


 足元の濡れた二階の渡り廊下を歩きながら、私は大きなため息をついた。

 いまは幸せが逃げても甘んじて受け入れるしかない。幸せが逃げたところできっと不幸になるわけじゃないから、それで少しでも気がまぎれるなら安いもの。そう自分に言い聞かせているのもだんだんみじめに思えてきて、別棟の音楽室から聞こえてくる管楽器の音にも笑われているような気がした。

 屋根をうつ音もない、霧のような雨はまだ降りつづく。立木さんが「いいね」と目を輝かせたこの空模様も、いまはちょっぴりよどんで見える。あの時はひとつひとつの雨粒が輝いて見えそうなぐらいだったのに。なんだかもったいない。

 もらしそうになったため息を今度はこらえて、もやのかかった気持ちで特別棟の重厚な扉を開いた。

 数ある自習室の中でも教室棟からいちばん遠いこの場所を選んだのは、言わずもがな人の少ない場所を選ぶためだった。テニス部の練習しているロビーを通過せずにたどり着けて、人が少なくかつ長居しても怪しまれない場所。条件にはまるのはここぐらいしかない。

 背後の扉が閉まると管楽器の音がぷっつり途絶えて、急に耳が痛くなるぐらい静かになる。そのうえ明かりが他の棟に比べて少ないせいで、まるでお化け屋敷みたいだ。お化け屋敷と言えば文化祭では一、二を争うほど人気の出し物だけど、そういうアトラクションのつもりで来たわけじゃないからこの雰囲気は楽しめない。なにより、アトラクションだろうがなんだろうが怖いのは苦手だ。

 ここに足を運ぶ人が少ないのは教室棟からのアクセスが悪いせいかと思っていたけど、実際に来てみて本当の理由がわかったような気がした。左手にみえる階段の上の方なんて――――考えるのは、やめておこう。


「やだやだ」


 心細くなって声に出した。ここに来るのは一年の部活見学で茶華道部におじゃまして以来だから、あの時に抱いた印象とはまるで違う。茶華道部の部室があった一階はまた雰囲気が違うのかもしれないけど、わざわざ確かめにいくのも億劫だ。

 スマホを手にするのすら怖くて、私はすぐ目の前の自習室の戸を引いた。中は相変わらず静かだけど明るさが増して、そのうえ人もいたからほっとした。

 入り口から遠い、個人用の机が並ぶエリアで誰かが黙々と机に向かっている。互いに離れた席で男子が一人と女子が二人。みんな三年の先輩だろうか。文化祭を前にわざわざこの自習室まで足を運ぶような二年もいないだろうし、一年でこの自習室の存在を知っている人はほとんどいないと思う。

 そんな三人の邪魔にならないよう、私はいちばん入り口に近い四人掛けテーブルの席についた。となりの椅子に通学かばんを置いて、とりあえず形だけでもと数学の宿題プリントや筆箱、ルーズリーフを、できるだけ音をたてないように並べていく。それだけで"ぽい"雰囲気が出てきて、いつしか不気味さに縮こまっていた気持ちも忘れてしまった。人の出入りする頻度も少なそうだし、意外と集中できる環境なのかもしれない。

 白い合皮の筆箱から使い慣れたワインレッドのシャーペンを取り出して、とりあえずプリントに名前を書いてみる。そこまでいくと一問目ぐらいは見てみようかという気になって、だけど問題文を読んでいる途中で気持ちがなえた。集中しようにもダンス練でのことをちらちらと思い出すから、気が気じゃない。

 ペンを置いて、息をするように胸ポケットからスマホを取り出した。通知をひととおり確認していると自習室の戸が開く音がして、そろりと入ってきたそいつは迷いなく私の目の前に座る。それからかばんをとなりの椅子に置いて、楽器の入った黒いケースをそばに立てかけた。


「……」


 互いに言葉は交わさない。自習室に来ているんだからそれぐらいの分別はある。

 視線をあわせると佐藤はちょっと疲れたような笑顔を見せてから、かばんの中をあさりはじめた。それから少し遅れてせっけんのような香りが鼻をくすぐって、儀式のように部活終わりの気分を呼び起こす。

 砂と汗でべたべたになった身体を綺麗にして、制服にそでを通すあの瞬間。身体の熱が引きはじめて、入れ替わりにけだるさがまとわりついてくる感覚。そこでふと、運動部の私と佐藤ではダンス練での疲れ具合が違うんじゃないかと気付いた。

 いまさらになって、ここまで付き合わせているのが悪い気がしてきた。それなのに、私のわがままに付き合ってくれていることを思うとなんだか言葉にかえがたい気持ちにもなる。そんな自分の身勝手さにまた嫌気がさしかけて、考えるのはいったんやめておいた。気にするのは後で、一人でもできる。

 さて、用件も伝えずに約束を取り付けたのは私。この場所を指定したのも私。あわよくば人がいなくて普通に話せたりしないかなあ、なんて淡い期待を抱いていたけど、他の三人を思うと到底そんなことはできない。スマホでやり取りをするのさえなんとなく気まずいし、かといって他に良い場所も思いつかなかった。

 学校を出ようにもテニス部が練習を終えるまでまだ一時間近くあるし、佐藤のレッスンがあるのも一時間半後ぐらい。予定がかみ合わないから、用事を後回しにすることもできない。

 佐藤に目を向けてみると、私の手元を確認していたのか数学のプリントと筆記用具を取り出していた。

 このままでは自習室に本当に自習しにきただけになってしまう。それはそれで宿題がはかどって良いのかもしれないけど、ちょっと勇気を出してまで声をかけた意味がない。なにより、付き合わせている佐藤にも悪い。

 そうなると、思いつく手段は一つだけだ。


『今日は――』


 まっさらなルーズリーフの上に文字を連ねていく。後で読まれることを思うと気恥ずかしくてたまらないのに、書き始めた手は止まらない。それどころかペン先が不規則なリズムで机をたたき、なぞる音が心地いい。

 いまだけは静かな自習室の中心がここにあるような、そんな気がして。


『急に呼びつけてごめん。あとダンス練のときも』


 口に出そうとしてもなかなか出てこない言葉は、こうして文字に起こすと案外するりと吐き出せたりする。飾りっ気もなく、いつもどおりの筆づかいで紡いだ字は、読まれることを意識して客観的に見返すと子どもっぽく見えた。

 この字を見せるのかと思うと恥ずかしくて、いっそルーズリーフの束に戻してやろうかとも思う。でもそんなことをしたら、忘れた頃にこれを見つけた時が地獄だ。下手なことは考えないでおこう。

 ルーズリーフを裏返していったん気持ちを落ち着ける。これを見て、佐藤はいったいどう思うだろう。

 読めないほど酷い字じゃないと思う。

 でも、ちゃんと伝わるだろうか。

 漢字とか間違ってないっけ。

 この期に及んで筆談なんて、応じてくれないかもしれない。

 短いメッセージしか書いてないのに、考え出すとキリがない。そうして時間だけが過ぎていくのはもったいないと、私は半ば投げやりにルーズリーフを差し出した。


「……」


 アイコンタクト。佐藤はちょっと驚いたような顔をして、だけどすぐ私の意図に気付いてくれた。受け取ったルーズリーフをめくって目を通すと、手にしていた流行りのシャーペンでさっそく何かを書き始めている。

 のぞきたくなる気持ちをぐっとこらえて、私は気を紛らわすように数学プリントへ目を通してみた。けど、内容なんて入ってくるはずもなく。

 そわそわしているうちにそれは返ってきた。ちゃんと裏返してくれているあたり、律儀だと思う。


『だいじょうぶ。練習につきあってくれてありがとう』


 私の書いたところから一行あけて書かれた、思ったより繊細な佐藤の字。どうしてもまるっこさが抜けきらない私の字と見比べると大人っぽい。

 そんな佐藤のつづった一文から気持ちまでは読み取れなかった。気をつかってくれているようにもとれるし、どこかそっけないようにも感じる。

 顔を上げてみると、佐藤はこっちのことなんて気にもしないで数学のプリントに向かっていた。これも私に気をつかってのことなのか、それとも少しの時間も惜しんでいるのか。いまいち表情から読み取れない。

 ……佐藤は、怒っていないだろうか。


『いやじゃなければ……』


 急に不安が押し寄せてくる。相手の気持ちが見えないのが、こんなにもやりづらいなんて。

 筆談を選んだのは失敗かもしれない。かといって他の方法も思いつかなかったから、強いて言えば今日という日に無理やり都合をつけた、私のミスなんだろう。

 ああ。さっきはあんなに軽やかに書き出せたのに、いまはペンを握る手が重い。

 言葉を慎重に選んでは捨て、書いては消して、筆はなかなか進まない。物書きなら文字だけでのコミュニケーションなんて朝飯前のはずなのに。まるでいま取り掛かっている恋愛小説と向き合っているみたいに、言葉が浮かんでこなかった。

 話したい。声をきけば少しは佐藤の機嫌もわかるだろうから。そしたらきっと、言葉も選びやすくなる。

 でも、いまはだめだ。物書きらしく紙とペンでがんばるんだ。自分から始めたことなんだから。


『こちらこそ、わがままに付き合ってくれてありがとう

 一つききたかったんだけど、進路のことってどこまで考えてる?』


 気をつかって機嫌を取ろうとするのはやめた。時間の浪費はしない。佐藤が少しの時間も惜しむというならなおさら。だから素直に、真っ正面からぶつかりにいく。

 静かに紙を裏返し、そっとルーズリーフを滑らせる。佐藤はまたすぐに気が付いて、問題を解きかけていた手を止めた。そんなふうにぱっと頭の中を切り替えられるのはすごいと思う。書く時も待つ間もそわそわしている私とは大違いだ。

 佐藤はちょっと考えるように目を泳がせて、それから一分もしないうちに何かを書き始めた。その思考時間の短さに思わずどきっとする。


 進路のこと、そんなに早く答えが出せるなんて。


 ペンを置いた佐藤はおもむろにルーズリーフを差し返してくる。その瞬間の表情が見たくてたまらなかったけど、手元に視線を向けるのが精いっぱいだった。

 受け取ったルーズリーフの背をじっと見つめる。これを裏返せば、そこには佐藤の出した答えがある。「話せない」なんてオチだったら残念だけど、むしろその方が安心できていいとも思う。

 ――私は心のどこかで、佐藤も進路に迷っているに違いないと決めつけていたんだろうか。

 ジャンルは違っても趣味の方向性が近いからって、一緒に進路のことで悩めるはずだと思っていたんだろうか。

 自分のことだからわかる。どっちも正しい。

 私は、勝手に期待していたんだ。


「……」


 息を飲む。自習室の静けさに耳鳴りがする。薄っぺらい紙一枚を裏返すだけのことに、こんなにも緊張したのは初めてだ。

 目を閉じて、小さく息を吐いて。

 そうして、何気ない風にルーズリーフをめくる。そこには確かに新しいメッセージが書き落とされていた。


『音大にいこうと思ってる』


 一文とも言えないほど短い、たったのひと言。

 それは、良くも悪くも私の胸に刺さった。

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