第13部
黒板を踊るチョークの音が軽快なリズムをきざむ。そのあとにできていく文字の羅列を意味も理解しないままノートへ書き写して、板書が止まるたびにほか事へと思いをはせる。授業の序盤に描かれて残ったままの、チョークで描いたとは思えないほど繊細な細胞の図と、手元のノートに描かれた不格好なかたまりを交互に見比べながら。
思い通りに絵が描けたら。そんなことを、いままでどれだけ考えただろう。
初めて思い立ったのは中学の頃。あてもなくネットの海をさまよっていたとき、たまたま出会ったイラストに心ひかれたのがきっかけだった。
まばゆい一瞬を切り取った、たった一枚の絵。
そこにはすべてが詰まっていて、元ネタも知らないのに私の頭の中では勝手に世界が広がっていた。それだけで一つの短編を読んだみたいに胸がいっぱいになって、気付けばペンを手にとっていた。近所の文房具屋さんで自分への誕生日プレゼントに買った、少し値の張るお気に入りのシャーペンを。
紺をベースに金色の金具があしらわれたシャーペンが、まっさらなコピー用紙の上をすべるように踊った。いつも文字を起こしてばかりのペンが、軽やかな曲線を描くために。そんな新しい扉が開いた感覚に気分が高揚して、完成形を想像すると心までおどるようだった。
でも、現実は甘くなかった。無意味な曲線たちが少しずつまとまって意味を持っていくにつれて、たかぶっていた気持ちはなりをひそめた。模写が半分ぐらい進んだところで理解できたから。
絵の才能がない。もちろん、自ら才能を言い訳に切り捨てるのは間違いだってことぐらいわかる。そこは努力で補うものだということも。でも、そうじゃなくて。私が見切りをつけたのは努力をする才能の方だった。小説に向かう姿勢と比べた時、絵を描くことに対してそれだけのモチベーションが湧く気配がなかった。だから私には無理だと、あきらめた。
そうやって理解したはずなのに、こうしてふとした拍子にまた挑戦しようと思う。あいまいな妄想をして、授業ノートの新しい見開きに人の輪郭を描きかけて。そうして、またすぐに悟る。
今日も同じことの繰り返し。これが何度目かなんて、いつしか数えるのもやめた。我ながら物わかりがいいんだか悪いんだか。
「はい。じゃあここまで理解出来ているか、隣の人たちと話し合ってください」
男性にしては高い、ちょっとくせのある声で先生が言った。新任の先生だからか授業の進め方も変わっていて、講義のあいまにこうして生徒同士で話し合う時間を設けてくれる。どうしてそんな授業形式なのかは、最初に聞いたような気もするけど忘れてしまった。そのあたりは最前列でまじめそうに議論している梢たちに聞けばわかるだろう。
一方で黒板からいちばん遠い三列目の長机に陣取っている私と菜月は、そんな話し合いタイムを存分に活用していた。
「そういえば菜月さあ」
「うん?」
熱心にノートへ向かっていた菜月は手を止めてペンを置き、こっちに顔を向けてくれる。わずかに視線をそらして菜月のノートに目をやると、熱を入れていたのが授業じゃなくて落書きの方だったのがすぐにわかった。
今日のお題はケーキ……だろうか。あえてつっこむのはやめておこう。
「昨日さ、部活の前に佐藤としゃべってたんだよね?」
教室のざわつき具合を確かめて、私はほんの少し声をひそめた。その一言で菜月の目がまたたく間に輝くのは、口を開く前からシミュレーション済み。
「お、よく知ってますねぇ。ふふふ」
想像通りとはいえ、あまりにも嬉しそうな顔をするのがおかしくて笑ってしまいそうになる。けど、さすがにそれでは授業と関係ないことを話しているのがバレバレだ。
慌てて前の方へ視線を移すと、先生は教壇から降りて梢たちの議論にちょっかいをかけているみたいだった。おかげで変に目を付けられなくて済む。できたらもうしばらく引き止めてくれると嬉しいなと、梢にはテレパシーを送っておいた。
「いいから、そういうの。わかってるでしょ」
「えへへ。でもさあ、あの千佳がよく仲直りできたなって。あたし嬉しくてねぇ。大人になったもんだ」
菜月は机に左ひじをついて、何かを想像するようなそぶりで微笑む。
「いったい誰目線なのそれ……まあいいけど。それより私が聞きたいのは、」
もう一度周りを見て、だれも私たちの会話に耳を傾けていないことを確認する。そうして秘密の会議でもしているかのように、いやその通りなんだけど、神妙な顔をしてたずねた。
「なに話したの。あいつと」
「ん~? そんなに気になる?」
真剣にきいているのに。菜月はまた一段と口角を上げる。はいはい、それも想像の範囲内です。どうせわかっていても対策なんて思い浮かびませんでした。
「もう、からかわないで。いらないこと喋ってないか聞きたかっただけなんだから」
そういうと菜月は口をとがらせる。そうしたいのはこっちの方だ。
「もーまたそういう。つまんないの」
「はいはい、つまらなくてすいませんでした。ね、これ以上おもしろい話とか出てこないからさ、昨日のこと教えてよ。さもないと、」
「さもないと?」
数秒間のにらめっこで間をつくる。とっておきの最終手段をさらりと明かすのはもったいないような気がして。
「未来さんに愚痴っちゃうからね」
「あ、だめだめだめだめ待って。それほんとにだめなやつごめんなさいあたしが悪かったです千佳さま神さま仏さま」
余裕を見せていた菜月は一転して泣きついてきた。そこまで露骨に効くなんて私も思っていなくて、こっちの方が反応に困ってしまう。
それに、気持ちが乗ると声が大きくなることまでは考えていなかった。
「菜月、おさえておさえて」
なだめながら慌ててあたりを見回す。前の席の女子たちは振り向いていないし、すぐ左隣のテーブルにいる男子三人にいたっては机に突っ伏していた。それも許されるのかとは思ったけど、教室のざわつき具合がほどよくて助かった。
そんなふうに安心しかけたところで、ふいに視線を感じた。しかも斜め左前、私たちからいちばん遠いはずのテーブルから。半ば無意識に動いた私の視線は見事にそいつの視線とぶつかった。
目があったのはほんの短い時間。そいつはたぶん真後ろにいた橋本君と何かやり取りをしていて、用事が済んだから前へ向き直ろうとしたところだったんだろう。橋本君が幅の広いテーブルの前へと身を乗り出していたからそこは察しがつく。だから、私たちのやり取りが聞こえたせいで振り向いたなんてことはありえない。
「千佳?」
「ああ、いや」
少しきょとんとしていた。取り乱していたはずの菜月はすでに冷静さを取り戻していて、私の様子から新たな何かを察したらしい。しまったと思って目をそらしても手遅れで、菜月は私が投げていた視線の先を追って、すぐに戻って、無言のままニヤついてみせる。
だから嫌なんだ。そういうのじゃないのに。察しがいいくせに、そういうところはわかってくれない。
「ねえ、菜月?」
「ごめんごめん。ちゃんと話すって」
あきれた声でたしなめると、さすがの菜月もそれ以上は茶化してこなかった。
「ロビーの自販機のとこでね、千佳とどうしたら仲直りできるかって相談されたの。いきなりでびっくりしたけどさ、真剣に悩んでたみたいだからアドバイスしてあげたんだ。ほとぼりが冷めるまでは話しかけるのやめときなーって」
それは本人も言っていた通りだ。菜月のほかにはできない的確なアドバイスだったと思う。私の扱いを知られているのがうれしいやら、自分が大人げなくて恥ずかしいやら。
そんな自省はおいておいて話の続きを待つ。なのに謎の沈黙が続いて、菜月が口を開く気配はなかった。
「え? 終わり?」
「え? 終わりだけど?」
「いやいやいや。そんな――」
食い下がろうとしたところで、試合終了をしらせるかのように手を叩く音が鳴り響いた。授業中の話し合いタイム終了の合図が。
「はいはい。いい? おーい後ろの席起きてるかー。ちょっと前の席の人さ、悪いけど起こしてあげて」
突っ伏していたとなりの男子三人衆が揺すり起こされる。そんな様子にみんなの注目が集まったおかげか、あれだけざわついていた教室が余韻もなく静まりかえった。もうひそひそと話すことさえもできない。
悔しいけど話の続きはおあずけだ。黒板の方を向く前にもういちどだけ菜月と目を合わせて、肩をすくめておいた。首をかしげて返されたけど、私はまだ納得していない。菜月には何かを隠されているような気がしてならない。どうせあと十分ちょっともしたら昼休みになるし、終わったら聞き出してやろう。
「なにか質問とか……」
短い質疑応答の時間が設けられて、だけど手を挙げる人はだれもいなくて。授業はまた講義へと戻っていく。いつしかよくできた細胞の図は消されていて、うっすら残る消し跡の上から新しい章の導入が書き進められていた。
それがなんとなく寂しくて自分のノートを見返すと、やっぱり何度見ても不細工な模写が残っている。教科書を見返せばもっときれいで、なんなら色付きのものが見られるのに。わざわざノートに残しておかなくてもいいかと消しゴムをかけようとして、すんでのところで手が止まった。
愛着があるわけじゃない。だけど少しとはいえ時間をかけて、シャーペンの芯をすり減らして意味を持たせたものを消してしまうのは、なんだかもったいないような気がした。スマホやパソコンで打ち込んだものとは違って、消してしまえば同じものは戻ってこないから。
ただの貧乏性だよな、なんて思いながら消しゴムを置いて黒板の方へ視線を戻した。先生は左手に教科書を、右手にチョークをもって何かを話している。ちゃんと聞かなきゃいけない。文化祭が終わればまた模試が近づいて、その時に苦しい思いをするのは自分だ。そう頭ではわかっていても、まだ卒部して自習室にこもるテニス部の先輩たちのようにはなれそうもない。こんなことだから置いてきぼりになってしまうんだろうか。
時計を見る。あと数分。私がちゃんと聞いていようがいまいが授業は進んで、終わっていく。この授業の時間だってもう帰ってはこない。もったいない。いつもこうして、後から自分の行動をちょっぴり後悔する。
もっと器用に生きられたらいいのに。
なんでもうまくこなせたらいいのに。
創作も、部活や勉強も、読書やゲームだって。気になることもやりたいことも山ほどあるけど、すべてをこなすには時間が足りない。でも、そうやって余裕を失ってしまうのはもっといやだ。
だからそう思い至ったいまだけでも確実なものを積み上げようと、私はまたペンを持ち直した。




