第12部
こういうとき、部屋の温度が下がったように感じるものかと思っていた。だけど現実は違って、私を包むパジャマや布団は人の気も知らないで身体を温めてくれる。
いったん電話の外へ意識を向けてみた。夜もふけて、人の声や車の走る音なんかはもう聞こえてこない。空気の流れる音か、それとも何かのノイズか、耳に入るのはスピーカーから漏れるざらざらとした音だけ。それがひどく心細くて、ベッドのふちで壁に寄りかかる私は膝にかけていた毛布をきゅっと握った。
梢に恋人がいたのは知っていた。同じ学年で違うクラスの、私の知らない誰かだってことぐらいは記憶にある。けんかもないほど仲が良いらしいことも、風の噂で耳にしていた。
でも、それを知っていたぐらいでは気の利いたことなんて言えるはずもない。経験も知識もない私にはどんな言葉をかけていいかわからない。
そのせいなのか、私なりに梢の気持ちに同調しているからなのか、胸の奥が温度を失っていく。衣類からはね返る身体の熱との温度差で、頭の中が余計にぐちゃぐちゃになりそうだ。
『もうすぐ付き合って一年ってとこだったんだけどね。や、付き合う期間なんてどうでもいいんだけどさ。でもこう……そこそこ長かった分いろいろと振り返っちゃうんだよねぇ』
梢の声はいつもと変わらないように聞こえる。気分の浮き沈みが少ない、穏やかで日だまりのようにあたたかい声。そんな暗い気配なんてこれっぽっちも感じさせない声音が、いまはかえって悲しさを色濃くする。
他にもいつもと違うなにか、"らしく"ない雰囲気がどこかから漂うのに、その正体がつかめなくてもやもやする。だからあいづちを打とうにも正解が見えなくて、どうしていいかわからない。
『なんかさ、いざ終わってみると楽しかったことばっかり思い出しちゃうんだ。スマホの写真消そうとして、そのせいでまた記憶がよみがえって辛くなって。あきらめて部活の方に頭切り替えようと思うと、今度は手にしたペンがもらったやつだし。ふと気づくといたるところにあいつとの記憶が散らばってて、もうダメだったよ。なんていうか』
不自然に言葉が途切れて、息をのむ音が聞こえた。それで私もだめだった。
『普段は人のこと頼るとか、ないんだけど…………はは。一人じゃ、抱えきれなかった』
「梢……」
涙声を聞いたのは、はじめてかもしれない。
知り合った頃からいつも一歩も二歩も大人でいた。弱いところなんて見たこともなかった。だから電話のむこうの梢がいまどんな様子かなんて、想像もつかない。
私はつられて泣くのをこらえるのに必死で、でもこらえ切れてなんかいなくて。せめて梢に悟られないようにと、くちびるを引き結ぶのでいっぱいいっぱいだった。
『あー情けない! 自分がこんなに弱い人間だと思わなかったなあ、ほんと』
震える声。ひとりごとのように放たれた言葉から、なぜか唐突に空を思い起こした。さっぱりとした雨の中、雲の切れ間からのぞく青空を。それはどこかで見たような、はたまた何かで見たような印象的な空模様。
そうして勝手に思い描いた情景に心を動かされて、気付いたら口を開いていた。
「……弱くない」
頼りない声しか出せない。何を言っても気休めにしかならない。
そうとわかっていても、何かを言わずにはいられなくて。
「私よりずっと強いよ」
『違うの!』
「っ……」
痛い。ガラスのようにとがった、悲痛な声が私の胸に刺さる。
強く否定されたことよりも、梢に届く言葉を見つけられなかった自分の弱さに胸が痛む。こぼれた涙は真っ白なシーツににじんで、うっすらと跡をのこした。
『……ごめん。せっかく気遣ってくれたのに、つい。気持ちは嬉しいけど……でも、違うんだ』
梢はこんなに私のことをわかってくれるのに。私はなにも、
『強くなくていい。わたしは、本当は強いわたしでなんかいたくない。生徒会だとか部長だとか、』
――――ああ。そうか。
『……や、ごめん。話がそれたね』
雲の切れ間が広がったような気がして、私の声にもちょっぴり力が戻る。
「ううん。いいの」
目を閉じて思い浮かべる。梢は、色にたとえるなら"白"だった。
たとえば私が"赤"と言えば桃色に染まってくれて、"青"と言えば水色に染まってくれる。菜月を相手にしてもそれはきっと同じで、少なくとも頭ごなしに否定なんてしない。いつでも理解を示してくれて、それでいて同系統の色を足してくれる心強い味方。きっと広い視野でものごとを考えられるから人の色に合わせられるんだろう。私はそれを梢の優しさだと思うし、魅力の一つだとも思っていた。
けど、それは主張の弱さの裏返しでもあったんだ。
きっと梢の穏やかな雰囲気の後押しにもなっているだろうから、それを欠点とは思わない。ただ、いつも感情の波が大きくないように感じるのもきっとそのせいで、だからこんなにも胸の内をさらけ出しているいまの梢に違和感があったんだ。
もしかするといままでも、本当は言いたいけど言えないことがたくさんあったのかもしれない。それを思うと、きゅっと胸がつまる。
「できたらさ、」
きっといまは、普段は口にできないことを聞かせてくれている。ありのままを見せてくれている。白以外の、梢が大切にしている色を。
私にできるのはきっと、それを濁さないように引き出すことだ。
「どっちの話も聞きたい。もちろん、無理にとは言わないけど」
難しいことは考えなくてよかったのかもしれない。無理に気持ちを推しはかって、気の利いたことを言おうとしていたのが間違いだったんだ。人の気持ちなんて完璧にわかるはずがないのに。そんな当たり前のことも忘れてしまっていた自分が、いまさらながら恥ずかしい。
『……うん、』
やわらいだ。梢の声に、私の方がほっとした。
『ありがと。……そっちも、またおいおい』
たどたどしい声で応えてくれた。そんな様子に梢の気持ちがちらりと見えたような気がした。
生徒会だとかの話は、きっと今日はもう話題に上がらないんだろう。だけど一歩踏みこむのを許されたのがわかって、それだけで十分だった。私からは蒸し返したりせずに、また梢が話したくなった時にきけばいいとわかったから。
『……へへ。それに、いまは千佳の取材が優先だからね』
「あ、」
取材。そんな話もあったと言われてから思い出す。思いつめた空気に気を取られてすっかり忘れていたから、つい間の抜けた声が出てしまった。梢の声がちょっと持ち直した雰囲気だったから、余計に。
『ちょ……あは、いやいや。「あ、」じゃあないんだよ。わたしの捨て身の好意をふいにするな?』
「やや、ごめんって。ちゃんときいてたし忘れるわけないから。後でメモも」
『そのメモ、ぜったい学校に持ってくるんじゃないぞ』
食い気味に梢の語気が強くなった。気持ちはわかる……というより、痛いところをつかれた。
脳裏をかすめる英語の授業。とよちゃんに一時没収されたネタ帳のノート。梢のメモを携えて同じことを繰り返したとあれば、きっともう目も合わせてくれなくなる。
そしたら私、立ち直れない。
「っ、はい」
『スマホにメモるのもダメな』
と、もう一つ釘を刺されて思い出す帰り際、駅のホーム。佐藤の横でメモしていたあの時のこと。
大丈夫。あれは見られてない、はず。だけどやらかす自信しかないから、梢の言うことに全力で従うことを誓った。私のためにも。
「……わかりました。私の部屋の外にはぜったいに出しません」
『よろしい』
勘が鋭いというか頭がよく回るというか。自己防衛本能がはたらいたのかな、なんてふと思ってしまう。秘密にしておきたいことをむやみに知られたくないのは、きっと世界中の誰だって同じだから。
それでも必死さがうかがえて、梢には悪いけどかわいいだなんて思ってしまった。大人っぽいところばかり見てきたから余計にそう思えて、つい顔がゆるむ。それをごまかそうと視線を落とすと、いつのまにかシーツににじんだ涙の跡はさっぱり消えていた。
『はあ。あぁーもう、シリアスな空気返せ? わたしがどんだけ思い切って……』
かすかに残る涙声とちょっぴり混じる冗談めかした声。梢はもうほとんどいつもの調子に戻っているみたいで、私もようやく地に足がついた気分になる。
『……いや、そっか。それでいいのかもなあ。わたしが重く受け止めすぎてたのかもしれない』
電話越しの梢の顔がふいに思い浮かぶ。泣き顔でも笑顔でもなく、どちらかというと真顔に近い。見慣れた少し長めの前髪の下で、うるんだ綺麗な目が何かを見つけたように光った。そんな勝手なイメージ。
答え合わせはできないから、想像はそっと胸の中にしまっておく。
『はは、ごめん。なんか一人で盛り上がって、一人で落ち着いちゃって。取材とか言っておいて完全に付き合ってもらってる』
「ううん。普段聞けないような梢の気持ちが聞けて嬉しい。おかげで……」
筆が進みそうだ、とはまだ言えない。別れ話もまださわりぐらいしか聞いてないんだから。かじっただけの情報を生かすには私の経験がぜんぜん足りてない。
でも、自分の中の何かが動いたのは確かだ。いままで眠っていた恋愛のふたが開いた……とは思えないけど、視野は広がったと思う。それは紛れもなく梢のおかげ。私だけでは広がらなかった世界。
「なんだろ。作品に直結しそうな感じはまだないけど、でも、いい刺激になった……って、そんな言い方は良くないか。ごめん、うまく言えないんだけど……」
ああ、また。言葉にするのって難しい。
『あはは、それでよく小説なんて書けたもんだ』
「はは。ほんとだよね」
梢が本気で言っているわけじゃないのはわかる。だけど私自身、そう思うことはよくある。小説の中では言いたいことが素直に吐き出せるのに、現実ではそうもいかない。
どうしてかなんて考えるまでもない。自分の描く世界に登場するキャラクターたちは、話す側も聞く側も"自分"だ。だからどっちの考えていることもわかるし、言葉を選ぶ時間も十分にある。話す環境もタイミングも自由自在だから、喜ばせたり悲しませたりするのだって思いのまま。
だけどそれが現実で通用するはずがない。そんな当たり前のことを改めて実感した。そういう意味でも勉強になったけど、それをいま口にするのは違う。
「……まとめると、ありがとうって言いたかっただけなんだ。ありがとね」
『ふふ。そうかなって思った。でも、わたしの方こそありがとう。言葉にしてくれるとやっぱり安心する』
「うん。私も」
思い通りに話すのは難しいけど、だからこそ心に響くこともある。気持ちが通じ合ったときのうれしさとか、安心感とか、きっと他にもたくさん。
『ね、別れた話の続き、聞いてもらってもいい?』
「もちろん。ちょっとメモ取ってくるね」
『はーい』
いつのまにか重い気持ちは消えて、胸の奥のあたたかさが戻っていた。いったんスマホを充電器にさしてベッドを降りて、軽い足取りで机へと向かう。メモになるものを探しながらふと顔を上げると、視界の端に見えた時計の短い針はいいところまで来ていた。
知らない。いま何時かなんてわからない。私は何も気付いてない。
たとえお母さんに怒られるようなことがあっても、明日の授業で睡魔とたたかうことになるとしても、いまだけはもっと大事なことがあるから。そう自分に言い訳をして、メモ用のノートを手に急いでベッドへ飛び込んだ。




