第10部
「ちょっと待ってて。メモだけしたい」
電車が去って閑散としたホームのベンチに腰掛け、私はスマホのメモアプリを開く。となりの佐藤には目もくれずに、真新しいメモの下に箇条書きで付け加えた。
『思いの丈をうまく口に出せない私の、』
そこまで打って指が止まる。この後にぴったりとはまる言葉がどうしても出てこなくて、人差し指を宙でくるくると踊らせた。
言葉のやりば、行き場、はけ口、末路、ゴミ箱……いまのは我ながらひどい。違う、そんなんじゃなくて。ちゃんと伝えたいんだ私は。
気持ちを伝えたい……言いたい……文字で、代わりに。
「あっ」
ジグソーパズルの、欠けていた最後のピースが見つかったみたいに。のどのつかえが取れた思いで行き当たった言葉を文字に起こした。
『気持ちの代弁』
そうして書き留められたことに満足して、落ち着いて字面を見返すとやっぱり少し恥ずかしくなる。これも人には見せられないなと思ったところで、真横に座るクラスメイトを思い出して振り向いた。
「大丈夫、見てないよ」
嫌味のない笑顔を見せて言うのが、慣れた感じでなんとも憎らしい。知り合って二日の相手にこんな表情ができるなんていうのは、私からしたら逆に信用ならない。
「まだ何も言ってないんだけど」
「確かに何も聞いてないけどさ、こっち向くときに慌ててスマホ隠してたから」
言われてふと視線を落とすと、右手に持ったスマホは確かに私の胸に顔をうずめている。無意識のうちにそうしていたのか、自分でも気付かなかった。
よっぽど見られたくなかったんだな。なんて他人事のように納得してスマホをそっと解放してあげる。画面はもちろんロックして。
「それに待てって言われたし。見るなってことだろうなと思ったから」
そういう察しのいいところは嫌いじゃない。朝もそうだったら良かったのに。そう胸の内でつぶやいて、さすがにそれはエゴが過ぎると小さく首を振った。
「用事はもう済んだ?」
「ああ、うん。ごめん」
「なんで謝るのさ」
「え? あ、いや……」
思わぬところで言葉尻を拾われて口ごもる。そんなところ気にしなくても、とは思うけど、相手からしたら気になるものなんだろうか。
「謝ってるつもりはなかったんだけど。悪いクセだね、ごめん。……って、また言っちゃったし」
「あはは。こっちこそ重箱の隅っこつつくようなこと言ってごめん。あんまり気にしないで」
それなら最初から言わなければいいのに。そう突っかかりかけて、少しだけとげとげしさを抑えてあげた。私だって口ゲンカが好きなわけじゃない。
「なにそれ。いじられ損じゃん」
「いや、悪気はなかったんだよ。ほんとに」
「はぁームカつく」
軽快に笑う佐藤を半目でにらみつけて私は肩をすくめる。だからって本気で怒ってはいない。さすがにそれは佐藤もわかっているらしくて、また妙に気まずくなるようなことはなかった。
もしまた同じような状況になることがあれば、きっと次はない。
「ところでさ、なんで菜月が朝のこと知ってたの。二人が絡んでるところ、いままでそんなに見た記憶がないんだけど?」
詰め寄るように訊くと佐藤の表情がほんの少しこわばった。人のことを言えた義理ではないけど、どうやらこいつも表情に出るタイプらしい。私は菜月ほど鋭くないから頭の中までは読めないけど、扱いやすいのはいいことだ。たぶん、扱われる側も。
「いや、その、うん。坂本さんとはそんなに喋ったことなかった。おっしゃる通りです」
「ふーん。じゃあ、いったいどういう理由があって菜月に話したわけ?」
「いやー、はは……」
佐藤が逃げるように視線をそらす。そんなに隠したいようなことがあるのかはわからないけど、私はついおもしろくなって身を乗り出し、視線を追いかける。中途半端にいじられたさっきの仕返しだ。
そうしてしつこく食い下がると、佐藤はとうとう観念した様子で両手を上げた。
「ちょいちょいちょい、わかった。ごめんって! 話す、話すから」
「よし」
根負けさせたことで半分ぐらい満足して、浮かせていた腰を落ち着ける。居直った佐藤の方は小さく息をついて、あきらめたように口を開いた。
「朝のこと、どうしたら許してもらえるか授業中ずっと考えてたんだ。……でも、五限が終わる頃になっても答えが出なかったから、だから仲が良さそうな坂本さんに聞いてみた。どう謝ったらいいかって」
「大して話したこともなかったのに?」
「そう。俺だっていきなりでそんなこと訊くのは気が引けたけど……でも、嫌われっぱなしはいやだったから」
佐藤が真剣なまなざしで私を見つめる。見返す私は視界に入るものなんて見ていなくて、佐藤と菜月のやり取りに思い馳せていた。人当たりのいいあの子のことだから、きっと親身になって答えてあげたんだろう。そのあたりは容易に想像がついた。
そういえば、部活にも少し遅れて来てたっけ。
「なるほど。どうりで……」
遅れるぐらいには話し込んだと。軽く訊いてみてハイ終わり、でないのはわかった。菜月のことだから、話がそれて私のいらない情報までしゃべっていそうだけど。
やっぱり後で菜月にも詳しい話を聞いておかないと。不安でしょうがない。とはいえ、いまここで佐藤の方に話の中身を訊ねたら墓穴を掘る気しかしないから、無理やり意識を別の方に向けた。
「……にしても、嫌われたくない気持ちはわかんなくもないけどさ。そこまで行動に移せるのってすごいね」
吐き出す息に乗せて言う。あおったわけじゃない。佐藤の行動には素直に感心している。
私がもし同じ立場だったら、きっと二人に相談することも忘れて一人でふさぎ込んで、ぐるぐると思考をめぐらす。それでも考えがまとまるわけじゃなくて、暗い気持ちは晴れるどころか深みにはまって、そのはけ口を求めて小説を書く。
はけ口。これもあながち間違いではなかったなとメモのことを思い返した。ゴミ箱はさすがにないけど。
「あれ、でもさっき目が合った時は見ないふりしなかった?」
「それは、ほら。坂本さんに言われたから。ほとぼりが冷めるまでは自分から話しかけるなって」
「ああー……」
佐藤の言葉に思わず空をあおいだ。さすが菜月、よくわかってる。そう心の中で付け足しながら。
これほどの理解者はきっとものすごく貴重だと思う。すぐに思い当たるのはもう一人、梢だけ。中学から一緒だった梢の方が付き合いが長いから、あの子とは言葉を交わさなくても通じるものがある。と、私は勝手に思っている。梢の方がそうじゃなかったら寂しいけど、そんなことは考えたってしかたない。
佐藤がそんな梢の方にも声をかけなかったのは、きっと部活関係で忙しくて捕まらなかったからだろう。それを考えたら一瞬だけ、寂しい気持ちが胸に浮かんでふっと消えた。
「でも良かった。おかげでまた創作の話ができる」
ピンと、鋭くアンテナが立つ。さっきまで考えていたことが霧のように散って、たったの一言にピントが合う。狙って言っているんじゃないかと勘ぐりたくなるけど、軽々と乗せられる私も私だ。
スマホを持ち上げ、黒い画面にうつる自分の顔を見た。思った通り口もとがゆるみかけていて、バレないうちにとあわてて真顔をつくり出す。そのままだと仏頂面の一歩手前だから、ほんの少しだけほっぺたの筋肉をゆるめて佐藤の方を向き直った。
一方の佐藤はというと、すっかり日の落ちた黒い空を見上げてこっちなんて見向きもしない。わざわざ警戒して表情まで作り直したっていうのに。どんな悪態をついてやろうか考えていると、顔も動かさずに佐藤が言った。
「こうやってさ、なんとなく空を眺めてるとうずうずしない?」
佐藤の言葉に呼応するようにそっと風が通り抜ける。あたたかくも、冷たくもない無音の風が。風の行く先には古びた黄色い光の街灯が寂しくぽつんと立っていて、遠く地元の方へ続く線路を淡く照らしていた。
電車が来るまでの空白の十数分。人のまばらなホームは嘘のように静かで、まるで小説のワンシーンを切り取ったみたいだった。もしいま線路に降りて、あのおぼろげな灯りの先へと歩いていったら、どこか違う世界に迷い込んでしまえそうなほどに。
思いがけず放たれた一言に、訪れた一瞬に、胸の鼓動が早まっていく。こんな気持ちは久々だ。
こんなにも、わくわくしたのは。
星の見えない夜空をあおぐ。
佐藤の言葉をもう一度だけ頭の中で噛みしめる。
言葉の裏まで読み取って、補って。それを起点にぼんやりとした想像を膨らませる。
思い描く具体性のない物語の世界、その始まりに私たちはいる。そう思うとドキドキしてしょうがない。
何か言いたい。佐藤の問いかけに答えたい。
でも、答えたらこの空気が壊れてしまう。二度と訪れない貴重な一瞬の連続は、なにを言っても崩れてしまう。それがどうしてももったいなくて、私からは口を開けなかった。
そうして空想に囚われることしばらく。横目に佐藤の視線を感じて、ようやく私は現実に戻ってきた。
「あ……」
さすがに何か言おうとして、だけどとりとめのない妄想の余韻が邪魔をして言葉が出てこない。向き合う佐藤が私の言葉を待っていると思うと、余計に気持ちが焦る。
「いいよ、慌てなくて」
口ごもる私を茶化そうとはせず、佐藤は少しまじめな顔をして言った。それだけのことがなぜか嬉しくて、そのせいでリセットしかけた頭の中を新しい思考がうめていく。
もっと考えたい。
なにもかも書き尽くしたい。
でも、それはいまでなくていい。なぜなら一人でできることだから。
いましかできない、訊けないことは。
「いま、なに考えてた?」
たたみかけたくなる衝動を抑えて。その一言にありったけの気持ちを乗せた。
きっとわかってくれる。そんなわがままな期待を胸に答えを待つと、佐藤はわずかに考えるようなそぶりを見せてから口を開いた。
「俺は、音楽のこと考えてたよ」
「音楽?」
「そう。この空を見上げて、なんとなく沸き上がってくる気分がある。そこから何か、音楽で自分なりの表現をしたいと思った。すごく抽象的だけどね」
佐藤はまた空を見上げてそっと目を閉じ、空想にふけるような顔をして見せる。
百パーセント期待通りの答えじゃない。だけどそれは、私の想像する世界が狭かったから。まさかこんな形で意表を突かれるなんて。
同じだ。ジャンルは違うけど、私と同じ。はっきりとしない何かを形にしたいという、とりとめのない気持ち。
「気分ってどんな?」
続きが待てない私はつい問いかける。佐藤は目を閉じたまま、少し困ったように眉を寄せた。
「うーん……わくわくするような感じ、かな。あとは少し怖いような、落ち着くような。ひとつにまとまらない複雑な気分。でもそれって、きっと実際に感じてる気分とは違うものなんだ」
連想される言葉のひとつひとつ、そこから空想の残り香がただよう。引き込まれるように私も目を閉じて、まぶたの裏にぼんやりとしたイメージを映した。そうして同じように目を閉じていても、きっと描いているものは違うんだろう。
「星の見えない空を見て連想するもの。きっとそこから派生しうる気持ちが頭の中に浮かんでるんだと思う。その一つ一つを拾い上げて頭の中でなんとなく曲にして、脳内で流してるはずなんだけどさ。他ならない俺自身がそれを聴けてないんだ。だからうまく楽譜に起こせない。意味わかんないだろうけど」
佐藤の描く世界は私と似ているような、違うような。最終的な"形"が同じではないから判断しにくいけど、過程は似ている。
ひと足先に目を開けた私は、いまだに星の瞬く空を眺めている佐藤に投げかけた。
「わかるよ」
話の流れをくんで同調したわけじゃない。さっき私が話し出すのを真面目に待ってくれた、そのお返しなんかでもない。気遣ったわけでも、意味が分からなくて適当に返したわけでもない。
私の声色からそれを感じ取ったのか、佐藤は驚き混じりの顔で振り向いた。
「ジャンルとか世界観は違うと思うけど、私も同じ。イメージはあるはずなのに、想像の中では完成されてるはずなのに、いざ実際の形にしようとすると思い通りにならない。私の場合になっちゃうけどさ、輪郭や手ざわり、においとか……声なんかもそう。具体的に文字に起こすほどイメージからは離れていっちゃうんだ」
「そう! それだよ!」
「わっ」
急な大声に心臓が跳ねた。私は半身を引いて、佐藤は慌てて口をおさえて周りの様子をうかがって、互いにひと呼吸おいたところで佐藤が手を合わせる。気持ちは表情で伝わっていたから、今回は大目に見てあげよう。
「ごめん驚かせて。……でも、そう。俺は遠山さんみたいにうまく言葉にできないけど、でも悩みの種は一緒だってわかった。ああ、そっかぁ」
嬉しそうに一人で納得する佐藤を見ながら、なんとなくこそばゆい気持ちになる。自然と褒め言葉にもとれるような一言を挟んでくるのは、ずるいとしか言いようがない。自分がいまどんな顔をしているのかと表情筋のゆくえに意識を向けたら、恥ずかしくて死にたくなった。そのせいで耳まで熱くなっていくのがわかっていたたまれない。電車、早く来てほしいし来ないでほしい。
ごまかすようにまた空を見る。そこでなぜか未来さんのことを思い出してふと気付いた。ラッキーカラーは黒。いま見える空は街灯りで白んでむしろ灰色っぽいけど、黒だと思えば黒とも言える。ようは気の持ちようなのかもしれない。どういう状況で何に意識を向けるか。これも小説を書くヒントになりそうだなと思いながら、メモのためにとスマホを開くのはやめておいた。
視界に広がる薄墨色の夜空に、いまはゆっくり浸りたくて。




