死にたかったか、龍馬 その四
こうして、地に伏せ、俯いたまま、俺は草の匂いにむせながら、死んでいくのか。
無念だ。薩長の奴らと一合も刃を交わさずに、このまま死んでいくのか。
今日の戦いは、ざまぁねえや。
刀を振りかざして突撃する俺たちに向かって、薩長の奴らは鉄砲で応戦してきやがった。
刀で敵う訳がねえよ。
俺は、あっという間に腹と太腿を撃たれ、今、このざまだ。
せめて、奴らを一太刀なりと、斬りたかった。
あの坂本を三太刀で打ち果たした自慢の腕の冴えを見せて遣りたかった。
それも、今となっては、叶わぬ夢か。
坂本!
お主は、いい時に俺に斬られて死んだ。
俺たちに斬られなくても、お主は死ぬ定めだったのだ。
そう、お主はかつての同志に裏切られ、殺される運命だったのだ。
しかし、俺は心底お主が羨ましい。
お主は、同志に売られはしたが、同志には殺されることなく、敵方に殺されたことで、これからもお主を慕う仲間の心の中で、永遠に生き続けることとなるからだ。
龍馬!
俺は見たんだ。
お主の葬儀に参列した数名の若い侍たちが、人前で涙を見せるのを恥ともせず、大粒の涙を零しながら、東山霊山に向かい、歩いて行くのを。
俺は、心底羨ましかった。
坂本龍馬という男は、そういう男だったのか。
お主から見たら、俺たちは屑だったんだろうな。
許してくれ、坂本よ。
お主は伝説となって、歴史に残り、俺は歴史の影に隠れ、消え失せていく。
もう、いかん。
目がやけに霞んできやがった。
きっと、流れる血も無くなってしまったに違いない。
このまま、死にたくはないなあ。
無念だなあ。
・・・、無念、だなあ・・・。
鳥羽伏見の戦いで、京都見廻組は薩長連合軍の鉄砲の前に壊滅せり。
佐々木唯三郎。負傷後、一月八日、紀州で没。
桂 隼之助。一月四日、戦死。
渡辺吉太郎。一月五日、戦死。
高橋安次郎。一月五日、戦死。
桜井大三郎。戦死。但し、戦死日は不明。
土肥 仲蔵。負傷後、一月十一日に切腹自刃。
世良 敏朗。消息不明。
天寿を全うせしは、今井信郎、渡辺一郎(後、篤と改名)、両名のみ。
幕末、維新の激動の中、その三十三年の生涯を凝縮、流星にも似た一閃の光芒となりし龍馬の魂魄、未だその安らぎを得ず。
読み終わった小泉さんは、私の顔をしげしげと見ながら言った。
「この作者、陸奥優次郎さんという名前はペン・ネームで、本当は、木幡君、君が書いた小説でしょう」
「エッ、どうしてそのように思ったのですか?」
私は小泉さんに訊いた。
「まあ、何となく、そう思ったのですよ。違っていたら、ごめんなさい。言葉の使い方とか、かなり緻密な調査がされており、木幡君ならば、この種の入念な調査が得意だろうと思いましてね。特に、見廻組の隊員の氏名、年齢、職位などかなり調べているように感じられました。また、龍馬という名前を『良馬』という名前で書いていること。これは、当時の人ならば十分ありうる話です。例えば、龍馬という字の読み方にしても、普通の読み方ならば、りゅうめ、か、りゅうま、でしょうね。その逆に、りょうま、という発音を聞いたら、良い馬、つまり、良馬と書いてしまうでしょう。あの勝海舟ですら、坂本という苗字を阪本とか阪元、或いは、坂元という風に誤記していたという文章を昔どこかで見た記憶がありますよ。勿論、龍馬自身は自分の手紙の中で、龍馬をくずし字で書いていたり、或いは、平仮名で、りょう、と書いているので、漢字としては龍馬であり、発音も、りょうま、であったのは間違いないねえ」
「ええ、その他、龍馬という名前の由来で、干支が辰年か午年だったのかと言う人も時々居ますが、干支とは全然関係はなく、龍馬の干支は羊年です。何でも、龍馬誕生の際、天から龍が胎内に入った夢を見たというお母さんの話でそのように名付けられたという話が伝わっています。偉人に関するよくある誕生伝説と思いますけれど。司馬遼太郎さんの小説、『竜馬がゆく』では、龍馬では無く、竜馬という字を使っていますが、これは、わざとと言うか、あえて、竜という字を使ったのだと云う話を聞いたことがあります。司馬さんの思い入れというか、わたし(・・・)の龍馬、ということを強調する意味でわざと、竜馬という字を使ったのでしょうねえ。さて、この小説、『龍馬暗殺異聞』の作者に関しては、まあ、作者の詮索は無しにしましょう。今回の歴史探偵では枝葉末節のことですから。それより、この文芸誌の小説を小泉さんにご紹介したのには、意味があります」
「ほう、どのような意味?」
「奇異に感じた点としては、龍馬が京都で寄宿した宿舎は、土佐藩邸では無く、土佐藩邸の前の近江屋という醤油商であることです。この時点で、龍馬の脱藩罪は藩から許されており、龍馬は歴とした土佐藩士で、藩の公然たる組織、隊員も五十人は居たと云われる土佐海援隊の隊長に任ぜられていたのです。堂々と、藩邸に入る資格があるにも関わらず、いくら、土佐藩邸の前と言っても、近江屋という醤油屋に寄宿する必要は無かった筈です」
「それに関しては、自由奔放な龍馬のこととて、堅苦しい藩邸住まいは嫌だったのだろう。藩邸住まいでは、自由気儘に行動することなんか、出来はしないからねえ」
「ええ、確かに小泉さんのおっしゃる説を取っている歴史家もおります。しかし、一年九ヶ月ほど前の例の寺田屋遭難では幕吏を何人か殺傷して、天下のお尋ね者になっている龍馬ですよ。普通の神経ならば、京都に潜入した時点で、幕府の手の届かない土佐藩邸に身を潜めるのが当たり前だと思いますけどね。どうも、この時点では、龍馬の生に対する執着、自分の命に対する未練、といったものはあまり感じません。公然と、幕府の重臣である永井尚志を訪問するなど、僕の眼には、とっくの昔に命を捨ててかかっているかのように映って仕方がありませんねえ。まあ、自由奔放且つ大胆不敵、それも龍馬の魅力の一つなんですがねえ」
私の見解に、小泉さんも、そうだなあ、妙だなあとばかり、首を傾げ、同意を示した。
「また、それとは別に、この小説では、近江屋で斬り倒された龍馬は佐々木唯三郎に止めを刺されています。司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』では、龍馬を斬った刺客は止めを刺さずに、もうよい、とばかりに引き揚げております。これは、司馬さんには悪いですが、あり得ない話だと思いますよ。プロの殺し屋である刺客集団にとって、暗殺対象は龍馬であるのは間違い無く、殺害対象である以上は、古来から武士の情けとして慣わしとなっている『止め』を行わずに、去るということは決して無い、と思います。いくら、致命傷を負わせたと確信していても、です。巻き添えとなった中岡慎太郎に対しては、刺客は『止め』は行なっておりません。龍馬以外は、殺害の対象では無く、巻き添えを食ったわけですから、これは頷けますが、龍馬に関しては当然喉への『止め』はされたものと思います。まあ、小説ですから、刺客に『止め』をちゃんとされて、龍馬は何も語らずに即死した、と書いたのではどうにも格好がつかないということもありますけれど。この『止め』に関しては、近江屋の主人、たしか、新助という人だったと思いますが、坂本氏には喉に二刺し、『止め』の刺し傷があった、と証言しています。これが、刺客としての当然の行為だと思います。武士であれば、そのように教育されていますから。長い時間、苦しませない、言わば武士の情けとして行なうように、です」
「ふーん、なるほど、ね。でも、司馬遼太郎さんとしては、止めのことはあえて無視したのかも知れないね。止めをされて、即死絶命したのでは、身も蓋もない」
「小説としては、刺客が去ってから、龍馬が蘇生し、中岡と少し会話を交わして絶命した方がより劇的で情緒的ですものねえ」
小泉さんは少し冷めた紅茶を飲みながら、私の言葉に頷いた。
「その他は、龍馬暗殺の実行部隊は幕臣で構成されている京都見廻組の仕業であり、大政奉還派の龍馬は薩摩或いは長州といった武力討幕派から見たら、目の上のたんこぶみたいな存在に当時はなっていたという事実に基づき、薩摩あたりがこの暗殺に絡んでいたとか云う風聞をこの小説は取り込んでいますが、これは別に目新しいことではありません。龍馬は土佐藩邸に入らなかったという事実と、刺客によって止めを刺されているという事実が僕には興味深く、小泉さんにご紹介したということなんです」
「面白いねえ。・・・。時に、龍馬の年譜の方は出来ているかい」
「はい、出来ています。これです」
「おう、さすが、木幡君、用意がいいねえ」
私は年譜のコピーを小泉さんに手渡した。そして、私たち二人は年譜に目を通した。
「おやおや、かなり厚いと思ったら、千八百六十二年から暗殺される千八百六十七年までの六年間の記録は日単位となっているのかい。一頁がひと月となっているから、この六年間は七十二頁か」
「用紙の無駄遣い、かも知れませんね」
「いやいや、そんなことはありませんよ。むしろ、この方が龍馬活躍初期のゆったりとした時の流れと龍馬晩年の生き急いだような慌ただしい息遣いがより伝わってきますから」
「千八百六十二年からとしたのは」
と私が言い掛けると、小泉さんはにやりと笑い、私に言った。
「龍馬の盟友、武市半平太が土佐勤王党を江戸で結成し、武市帰国後、龍馬が土佐勤王党に加盟したのが、前年の千八百六十一年の秋だから、実質的な志士的活動を始めた年はこの翌年からと見たんでしょう」
「ええ、その通りです。武市の書簡を持って、長州の萩に現われ、久坂玄瑞を訪問した、という記録を僕は志士的活動をした最初だと思いましたので」
「多分、そんなことだろうと思いましたよ。それでは、龍馬の事蹟をざっと見ていこうか」
小泉さんが私の纏めた年譜を捲りながら、主な事柄を声に出して読んでいった。
(ここに書かれた年齢は、基本的には満年齢で統一してある。)
天保六年十一月十五日(一八三六年一月三日)高知城下に生まれる
嘉永元年(一八四八年)十二歳、日根野道場で小栗流剣術を学ぶ
嘉永六年三月十七日(一八五三年四月二十四日)十七歳、剣術修行のため江戸に向かう
同年十二月一日(一八五三年十二月三十日)佐久間象山に入門し、砲術を学ぶ
安政元年六月二十三日(一八五四年七月十七日)十八歳、江戸より帰国
安政三年八月二十日(一八五六年九月十八日)二十歳、剣術修行のため再度、江戸に向かう
安政五年九月四日(一八五八年十月十日)二十二歳、江戸より帰国
同年十一月(一八五八年十二月)水戸の志士、住谷寅之介と会談
「龍馬の剣術修行のことですが、少し調べてみました。龍馬が土佐で学んだ小栗流という流派はどうも土佐の御家流みたいな流派ですね。始祖は徳川政権成立初期の旗本、小栗正信という人で、元々は新陰流の剣術を学んだ人でしたが、戦場での実践的経験に基づき、当時、和術と呼ばれた柔、つまり柔術を取り入れた格闘術の流派を興した、ということです。要するに、剣術を表芸、和術、つまり柔術を裏芸とする武術を編み出したということですね。換言すれば、戦場で役に立つ実践的な組打ちの技に特徴があると言えます。そして、小栗の後継者が山内家に仕えた関係で、山内家が土佐に移封された時に土佐に随行し、土佐で栄えた武術の流派となりました。ちなみに、土佐藩の柔術指南役は代々この流派の人で占められていたということです。それが小栗流で、龍馬は十二歳からこの流派を学んでいます。免許皆伝とまでは行かないまでも、ある程度の目録までは受けているみたいです。さて、十七歳の時に、龍馬としては大きな転機がやって来ました。江戸で剣術の勉強を更に続けることとなったのです。これは、当時の若者にとっては大きな転機です。なにせ、花のお江戸で剣術の修行ができるのですから。ご承知のように、龍馬の本家は土佐でも有数の豪商、才谷屋です。龍馬の家自体は分家とは言え、お金は相当持っていたと思われます。お金が無ければ、江戸に遊学なんぞできませんものね」
「龍馬が江戸で学んだ剣術流派は有名な千葉周作の北辰一刀流です。ただ、龍馬が実際に学んだのはお玉ケ池の千葉本家の道場では無く、周作の弟、定吉が開いた京橋桶町の道場でした。定吉の腕前は兄の周作より少しだけ劣るとされましたが、それでも一流の剣士であることは疑いようもなく、当時の人からは『桶町千葉』、或いは、『小千葉』と呼ばれていたそうです。龍馬が入門した時は、この定吉は隠居していたようで、実際の道場は長男の重太郎が仕切っていました。龍馬より十二歳ほど年長で、二十九歳といったところでしょう。龍馬から見たら、師匠というよりはむしろ、少し年上の兄貴といったところでしょうか。重太郎には十四歳離れた妹がおりました。さな子、或いは、佐那子という名前の女の子で、龍馬入門当初は十五歳の少女でした。なにやら、ロマンスの芽生えを感じさせます。まして、この少女の幼名は乙女という名前でした。龍馬最愛の姉の乙女と同じ名前です。因縁深いものを感じたかも知れませんねえ。まして、この娘は評判の美人で、桶町界隈の人からは『小千葉小町』とか『千葉の鬼小町』と呼ばれていたそうです。鬼という物騒な名前が付いているのは、女ながら長刀の免許を持つ遣い手だったからです。美人で、しかも、武芸の腕も立つ、凄く魅力があります。龍馬もこの佐那子さんと結ばれて、江戸で剣術道場でも開いて、当時の世相にも目もくれず、のんびりと暮していれば、と僕も思うことがありますが、あいにく、時代が龍馬を必要としていました」
「龍馬はこの道場で都合三年ほど剣術の修行をしていますが、不思議なことに剣術の免許目録は残されておりません。現在残っているのは、『北辰一刀流長刀兵法目録』だけなんです。これは不思議です。龍馬はこの道場で塾頭まで務めた剣士です。ですから、当然、『北辰一刀流大目録皆伝』という免許皆伝の免状を受けていたものと思われますが、その種の免許状は現在発見されていないのです。長刀は薙刀のことであり、この免許を受けても、まあ、自慢にはなりませんねえ。ただ、可笑しいのは、この長刀免許状の末尾の署名には、千葉定吉、重太郎の署名に続き、何と小千葉三姉妹、即ち、佐那女・里幾女・幾久女の署名が列記されていることです。いかにも女が使う長刀の免許状らしいと言えば、そうですが、極めてユニークな感じを受けます。剣術の免許が無いということに関しては、或る歴史家の見解に依れば、いくら田舎とは言え、郷里・土佐の日根野弁治の小栗流剣術道場で既に得ている剣術目録に遠慮するという形で、北辰一刀流の剣術免許は与えなかったのではないか、ということですが、何となく不自然で腑に落ちません。一説に依れば、千葉定吉自身も龍馬が気に入り、二女の佐那子を龍馬の妻に与えようと考えていたと云われております。娘を与えようとまで見られていた龍馬の剣術の腕前がぼんくらなわけは無い、と僕は思っています。おそらく、与えられた免許皆伝書は龍馬自身が持っていて何かの際に紛失してしまったか、或いは、お龍に預けられていたが、龍馬の死後、傷心の身を寄せていた土佐の龍馬の実家から半ば追い出される形で去らざるを得なかった時、龍馬から貰った自分宛の膨大な手紙は全て焼いたと伝えられていますので、或いはその際、龍馬の北辰一刀流大目録皆伝も焼却してしまったのかも知れませんね。お龍自体、龍馬の死後に或る人から『評判の美人なれど、賢婦人かどうかは知らず』と少し意地悪く書かれるほど、自己主張の強い、且つ負けん気も強い女性であったので、自分より前に龍馬が愛した佐那子に関しても、後年容赦なく、龍馬から聞いた言葉として、佐那子の悪口を述べているくらいですから、佐那子のにおいのするものは、たとえ免許状と雖も残しておきたくはなかったのかも知れません。勿論、これは僕の勝手な想像です。いつか、思わぬところから、龍馬の北辰一刀流免許状が発見されるかも知れません。期待したいですねえ」