春
三月の半ばを大分過ぎた頃、僕は生まれ故郷へと帰ってきた。
関東の中でも緑が多く首都圏へのアクセスも良い、そんな故郷へ向かう為に、ローカル線の電車に揺られ、ただひたすらに目的地へと向かっていた。
目的の駅に着き久しぶりに帰ってきた地元は、まだ冬を引き摺っているかの様に寒かった。
駅から更に市営バスに乗り、帰った実家には父と母がいた。
二人は一瞬、驚いた様な顔をしたが、暫く滞在する事を伝えると温かく迎えてくれた。
帰省して何日か経ったある日、僕はふと散歩をしようと思った。帰ってから殆ど外へ出なかった事もありちょっとした気晴らしをしようと思ったのだ。
上着を羽織ってこれから夕飯の支度をしようとしていた母にその事を伝えて家を出た。
四月へと差し掛かる時期なのにまだ風が冷たく、両手を上着のポケットに突っ込んで、とぼとぼと歩いていった。
特に何処へ行くかは考えてなかったので、自然と近所の公園へ足を運ぶ事になった。途中、名前も分からぬ白と黄色の花々が小さな蕾を付けていた気がする。
その公園は特に何もないただ広い芝生のグラウンドと申し訳程度にあるジャングルジムとブランコのある、そんな何処にでもある普通の公園だ。
いつもなら犬の散歩をする主婦や下校途中であろう小学生たちが遊んでいる姿が見れたりするのだが、今日は殆ど人はいなく、なんだかとても寂しい景色だった。
実の所をいうと、本当は外へなんかは出たくはなかったのだけど、今は家に居るのが心地悪かった。どうしてかと言われたら全ては僕に原因があるのだが。
僕は逃げてきた。
大学を卒業して勤め始めた会社は決して環境が良いとは言えず、ただ我武者羅に働いてきた。
自分なりに一所懸命、やってきたと思う。だが社会はそんな僕を認めず、環境が好転する事はなかった。
そして何年か過ぎ、僕は医師に神経衰弱と診断されてしまった。
今思えば、もっと手を抜けるべき所で抜けば、もっと気楽に考えられればと思う事も無くはないが、生憎そんな性分ではなかったのだ。
真面目で愚直、そんな評価をしたのは大学の友人たちだったが自分でもそう思う。
診断されてからは、すぐに僕は仕事を辞め、そして僕は戻ってきた。
両親は恐らく何の連絡もせずに帰ってきた僕を見てある程度は察した筈だ。ただ、二人は何も聞かなかった。多分気を使ってくれたのだろう。
僕としても、根掘り葉掘り聞かれたくはなかったので助かった。
しかし本当の所、二人は僕の事をどう思っているのか。そんな考えが頭を過る度にとても不安になってしまうのだ。
僕は過酷な職場で長い間過ごした為、更に神経衰弱を患ってしまった為に、軽い人間不信に陥ってしまった
二人の気持ちを知るのが怖い。
二人からもう見捨てられていると思うと、胸付けられた。
他人から見たら何を馬鹿な事をと言うかもしれないが、その時の僕には前向きに物事を考えられなかった。
両親を信じたいという気持ちと真実を知りたくないという気持ち。そして、こんな事を考えてしまう自分が嫌だという気持ち。
それらが掻き混ぜられどろどろになったどす黒いものが、家に居るといつも自分の片隅に顔を出していたのだ。
結局、僕には逃げ場はないのか。
そんなことを考えながらベンチに座り、暗くなった気持ちを振り払うために空を仰いでいたら不意に人の気配がしたので視線を入り口に送った。
そこには一人の女性と一匹の犬がいた。多分、犬の散歩の途中なのだろう。
だが、何故か僕は視線を外さず見入ってしまっていた。
向こうもこちらに気付いたのか暫くじっと僕を見ていたと思う。
どれぐらい経っただろうか。
特に何でもない出来事、時間にして1分にも満たない筈なのに、僕にはとても長く感じた。
はっと我に返り視線を外す為に、また空を見上げた。
少し失礼だったなと思いながら、この後どうするかを考える。
「久しぶりだね」
気づいたら先程の彼女がこちらまで近づいてきていた。
また、彼女と見つめる形になった。
僕はその台詞に困惑しつつ頭の片隅に何か引っかかる物があった。
それが何だったか思い出そうとして……
「うん、久しぶり」
自然と同じ言葉が出てきた。
彼女は高校の頃のクラスメイトであり、更に進学先も一緒の大学だった。そして、元恋人でもあった。
友人伝てで聞いた話だったが、彼女は卒業後、都内の企業に就職をしたらしい。そして今も働いているそうだ。
今日は体調の悪い母の代わりに犬の散歩にきたという事らしい。
僕らは別れてから今日までの時間を埋めるかの様に色々な話をした。そして。
「あの時はごめんね」
彼女はそう言った。
心当たりはある。別れる数ヶ月前に一度大きな喧嘩をした事があり、多分その事だろう。
初めての恋人同士。小さな言い合いはあったが、それまで喧嘩なんてした事がなかった。
あの時の詳細は省くが、普段、全く怒らない彼女が物凄い剣幕で僕に詰め寄っているのを見た友人達が、何事かと僕に迫ってきた程には大事だった。
彼女自身、加減が分からなかったのだと思う。それは僕も同じだった。
僕は彼女の謝罪を受け入れ、また僕も彼女に謝罪した。彼女は目を丸くしていたが、すぐにいつもみたいに笑ってくれた。
少し、心が軽くなった気がした。
「あの時の君は後輩が後輩がってそればっかりだったからね。少し妬いちゃってたんだ」
彼女と和解できた後で、彼女はそう言った。
僕の後輩達との距離が近かったのを不満に思っていたらしく、溜まった不満があの日に爆発したらしい。
僕は苦笑いしか浮かべられなかった。全て僕に原因があるという事ではないか。しかも、あの時の僕はそんな彼女に謝るでもなく言い返し張り合ってしまっている。
頭が痛くなってきた。
ただ、彼女は僕を責めたりはしなかった。
いきなり怒鳴った私も悪いし、もうお互い謝ったからおあいこねと。
彼女はそういう所が昔から上手い。どんな時も丁度いいタイミングで自ら退き、事を上手く収めるのだ。
だから僕は昔から彼女に頭が上がらなかった。
自分が知っている彼女と今とが変わらなかった事に少し嬉しくなり彼女の方へ視線を向けると、彼女は目を伏せて俯いていた。
「実はね……」
僕は何だか鼓動が速くなった気がした。生唾を飲み次の彼女の言葉を待つ。
「私、捨てられちゃったんだ」
暫く何も言えなかった。
彼女はそんな僕を余所に話してくれた。
会社の先輩に告白され付き合い始めたはいいが、実はその先輩は既に交際中の女性がいたらしく彼女は二股を掛けらた。
勿論、彼女は問い詰めた。しかし、彼女との関係は遊びだったと言い放たれたのだ。
ここまでならまだいいが、その先輩は社内ではそこそこ優秀で信用されていた人物であり、その立場を利用し彼女の有りもしない罪を被せたのだ。
浮気を持ちかけた悪女であると周りに吹聴したのだ。
失意の中にいた彼女は失恋の傷も合わさり、仕事が手に付かなくなった。そして、彼女もまた逃げる様に帰ってきた。
ただ、僕と違う所は彼女は会社は辞めなかった。体調不良からの休職中という扱いにしてもらい長い休みを取ったということだ。
どうも彼女の上司が事情を粗方、察しているらしい。
帰ってきてからの彼女は何もやる気が起きず自室に引きこもっていたらしい。そして、毎日をただただ過ごしていたという。
夜に眠れず日が昇り始める頃にやっと眠り、昼過ぎに起きても何をするでもなく、また夜が来て。
不意に涙が溢れてくる事もあった。
今まで生きて一番辛い時間だったと彼女は言った。
僕はただ静かに彼女の話を聞いていた。
彼女も僕と同じ様に逃げて来たことに仲間意識を感じ、自分だけじゃないと安堵しつつ。
しかし今の彼女には話に聞いた様な絶望や諦めといったものは感じない。寧ろ、あの頃の彼女の様な前向きな空気を感じる。
彼女は言った。
「でもね、ある日、お母さんに言われたの。今は何があったのか聞かない。いつか貴方が話してくれるまで待つわ。でもこれだけは覚えといて。いつでも私たちは貴方の味方よ。って」
それを言われて何だか胸がすってしたの。と言う彼女の笑顔はいつもの彼女だった。
それから彼女は母に全てを打ち明けた様だ。
その日を境に彼女は変わった。
先ず今までの生活の時間を元に戻した。それから心配して連絡をくれていた同僚たちにも全てを話した。
同僚たちは自分のことの様に怒り、彼女に今まで力になれずごめんと謝られたそうだ。
社内での濡れ衣は何とかしてくれるらしい。
そして、彼女に休養を与えた上司からの言伝も伝えてくれた。
「いつ戻っても大丈夫な様にしておくから、ゆっくり休みなさいだって。吃驚だよね。もっと早く周りに相談しておけば良かったって思ったよ。」
彼女は続ける。
「お母さんに打ち明けた後にどうして見捨てないのって聞いたの。そしたら、子を見捨てる親がいるもんですかって。それ聞いて引きこもってた自分が馬鹿らしくなっちゃって。それで連絡くれた子に謝って全部話したの。そしたら皆、私の為に怒ってくれて。」
自分が思ってる以上に味方っているのね。と立ち直った彼女は言った。
羨ましい。
僕はそう思ってしまった。
果たして自分にはそんな存在がいるのだろうか。もしかしたら彼女がその様な人なのだろうか。
ただ一歩踏み出すのが怖い。
彼女にも拒絶されてしまったらと思うと何も出来なくなってしまった。
「君も何かあったんでしょ」
彼女のその言葉を聞いた時、多分僕は心の箍が外れてしまったのだろう。
僕は全てを彼女に曝け出した。
彼女は静かに僕の話を聞いてくれた。僕が話し終わるとぽつりと言った。
「やっぱり、変わってないね。自分で何もかも溜め込んじゃう所」
彼女は怒った。僕に対して。
何故、周りに頼らなかったのかと。
「私が言っても説得力ないけどね」
と彼女は自傷気味に言った。
「別に私でも良かったんだよ。相談するのは」
それは思い付かなかった。だが、もし思いついても実行出来なかったと思う。気まずくてと言うと。
「私はね、別に君のこと嫌いになったわけじゃなかったんだよ。実際、あの喧嘩の後は後悔したしまだ好きだったもの」
でもと彼女は続ける。
「君にまた会えたから良かったんだけどね。君も謝ってくれたし、今も私に打ち明けてくれた。だから言うよ。私は何があっても君の味方だから」
その瞬間、僕の心は初めて晴れた気がした。
その後、僕たちは互いの新しい連絡先を交換して別れた。
「また落ち着いたら連絡するね」
彼女はそう言い残して帰っていった。
向こうから連絡してくれるのは恐らく僕に対する配慮からであろう。
彼女のあの言葉を聞いた僕は年甲斐もなく号泣した。
今までの良くないものを洗い流すかのように涙して彼女の世話になったのだ。彼女は僕が気恥ずかしさからまた連絡するのを躊躇うんではないかと睨んだようだ。
実際、僕はその後彼女の目を見ることができなかった。
僕は彼女と別れた後、まず家に帰り両親に今までのことを打ち明けた。勿論、両親二人のことを疑っていたことも含めて。
僕が話している間、二人は静かに聞いてくれた。
話し終わると母は涙を浮かべながら微笑んでくれた。父は僕の肩を軽く叩きながら良く話してくれたと慰めてくれた。
僕はこんな二人を疑ってしまった自分がとても恥ずかしかったが、同時に故郷の家に帰って初めて安心した。
あの日から何日か後、僕はまたあの公園に来ている。
まだこの先どうするか何も考えてはないが、暫くはのんびりしようと思う。
公園には中学年ぐらいの子供たちが遊んでいる。多分、学校から下校の途中で寄ったのだろう。
ふと、見上げると桜がピンク色の花弁を咲かしていた。
まだ満開ではないが何だか僕にはそれが嬉しく思え自然に頬が緩んだ。
その時、ふっと一陣の風が吹いた。その風はとても暖かく優しさに包んでくれる様な気がした。
その時僕はこう思わずにはいられなかった。
ああ、春が来たと。
読んでいただきありがとうございました。
初投稿作なのでまだまだ未熟ですが気に入っていただけたら幸いです。
あそこが良かった、あそこが駄目だった等、感想等も歓迎してますのでよろしくお願いします。