2_オンボロアパートの住人。
詩織さんは、その後も1人で机上世界の冒険譚を読み進め、遊んでいきました。いろいろな、ゲームの中で活躍する人物を、キャラクターを考えて、作成して行って、いろいろな冒険をさせてみました。
ある時は、駆け出しの魔法使いになって、街中や、魔法学校を走り回って、苦労して魔法を覚えてみたり。
ある時は、見目麗しい森の妖精であるエルフに扮して、怪我をして彷徨っている狼の子供を親御さんへと届けたり。
ある時は、お気楽な”妖精さん=fairy”を演じて、偶然さ迷い込んでしまった洞窟から、黒い大きな怪物を避けながら脱出したり。
ある時は、”泥棒さん”とか”怪盗”とか、”thief”など、ロマンあふれる呼ばれ方をする人になり、囚われのご令嬢を助平親父さんから逃れさせたり。
ある時は、山に住む頑丈で頑固な妖精であるドワーフになり、戦士の剣を一振り作り上げ、コンクールに応募したり。
ある時は、教会に勤める若きシスターとなり、親友のお屋敷に夜な夜な現れる、幽霊に、その未練を聞いて、解決したり。
などなど、それはもうどっぷりと、はまり込んでしまったのでございます。
幸い、ルールブックが入っていたじーじ様さんの古いトランクには、1人で遊べるようにいろいろと、遊び方の道筋やそれに使うデータなどが書かれていた紙面、シナリオがございましたので、詩織さんは、それを使用して、存分に、多種多様な冒険を楽しむことができたのでした。
もう一つの幸運なことに、春休みということもあり、時間はたっぷりとありまして、それらの遊びに夢中になりつつ、家事や自宅学習なども過不足なく行われておりました。もし長めのお休みでなかったなら、もしかすると、生活のリズムが乱れていたかもしれません、と詩織さんは、そうでなかったことにホッとしています。
多少、睡眠不足な感じで頭がボーとするときもありますけど。詩織さんはちょっと体調を振り返っって見て、まあ、大丈夫ですよね、と結論づけました。
同じトランクには、じーじ様が遊んでいた机上世界の冒険譚の内容を、読みやすく編集した読み物もありました。詩織さんは、自分が遊ぶ傍、それらにも目を通していきます。
ワープロで書かれた文章を紙に印刷したものの様でした。それらのうち、いくつかの紙面は、簡単な冊子の様な形で止められていて、手作りの本という体裁を整えられています。同じ内容のものが数冊あるところを見ると、その、冒険を読みやすく編集した読み物を誰かに配っていたのかもしれません。
Roleplaying game はRPGと略されて表記されることが多くて、その中でも会話とか、ペンや紙を使用して、電子的なプログラムなどで遊んでいる、電子ゲーム的ではないものを、テーブルトークRPGと、日本では一般的に言いますよ、とルールブックに記されていました。
もともとはアメリカで生まれたゲームで、米語ではTabletop role-playing gameとか、pen-and-paper role-playing gameとか表記されるそうです。
テーブルトークRPGで遊んでいる様子を読みやすく編集した読み物の名前はリプレイという名称でした。読みものなどを、読み進めていると、その様に表現しているという記述を詩織さんは見つけたのです。
replayということでしょう、再演するという意味合いがあるみたいですね。そのままリプレイという日本語もありますか?その時の状況を分かりやすく、そして面白く再演させたような読みものと、考えれば良さそうですね。詩織さんはそう考えました。
そのリプレイは、商業作品としても展開していて、書庫の一角にはその作品が集められているところもありました。後で必ず読もうと、詩織さんは心に強く誓いましたけれど、まずはじーじ様のシナリオと、リプレイから読み進めていきます。
それと、また、詩織さんは、ここで初めて、テーブルトークRPGが色々と種類も豊富に日本国内で販売されていたことを知りました。どこかで背表紙くらいは見たことがあるかもしれませんけれども、指輪物語を一通り読んだ後、幻想世界のお話から少し離れていた詩織さんは、見落としていたのでしょうね、と、1人納得して、頷いています。
今日も詩織さんは、カードをシャッフル(カードの順番が無作為なもの、つまりランダムになるように混ぜる動作のことです)して、新しい冒険をしようとしています。朝ごはんはトーストとベーコンエッグにインスタントっぽいスープをさっと用意して、薫さん(保護者です)をお仕事に送り出した後、さあ、遊ぼうとした時です。
「あ、冒険シートが無いですね」ゲームに使う、専用のシートが無いことに気がつきました。このシートは紙で、罫線やゲームの中で使用する語句の名称や、チェックマークやらが印刷されていまして、ゲームの中で冒険をするキャラクターの、その記録を書き込めるようになっています。
なければ無いで白紙の紙を利用することもできますけれど、ちょっとゲームを進めるには不便です。近所のコンビニエンスストアーなどのコピー機で複製すれば簡単に増やすことができるので、詩織さんはちょくちょくそのようにして、使っていました。
まだあると勘違いしていましたね、とファイルケースの中に一枚だけ大事に残しているコピー元の原稿を確認して、ファイルごと手に取ります。
お財布の中の小銭を確認して、軽く身だしなみを整えて、ちょっと大きめの肩掛け袋にファイルを入れて、詩織さんはご近所のコンビニを目指して、家を出るのでありました。
外へ出ます。少し薄曇りですので少し寒いです、ちょっと足早に道を進みます。詩織さんの家の横には古びたアパートがあります。住人は皆無ですが、何人か住んでいます。詩織さんの祖父のさらに上の方が立てて、大家さんになっていた物件で、物件の寂れ具合相応に、少ないですが、今現在も、引き続き、家賃が得られるようになっています。
そのアパートを横目に見つつ、歩きます。コンビニエンスストアーまでは徒歩で10分ほど離れています。詩織さんの足ですと、もう5分くらい余分にかかるかもしれません。彼女はあまり運動が得ではないからです。
見通しの良い河川敷を早足で歩いていた時です、詩織さんがふと気がつくと周りが暗くなっていました。いつの間にか黒雲が空を覆い隠しています。少し不安気に空を見た詩織さんのお顔に、ポツリと大粒の雨が降りあたります。そして、がららんと、雷が鳴ったと同時に、ものすごい勢いで雨が、まさにバケツを引っくり返したような、大量の水が空から降り注いできます。
ゲリラ豪雨のようです。
詩織さんは慌てて駆け出しました。できるだけ、肩掛け袋を濡らさないように抱えています。河川敷の舗装された道は、大量の雨を捌ききれずに、下に流れる川がもう一本増えたようになっています。
そして詩織さんは、その流れに足を取られたのでしょう、ずるりと、足を滑らせました。抱え込んでいた袋によってバランスが取りづらくなっていたこともあって、倒けてしまいました。ズルバシャベッタンと、擬音が書き文字になって表現されるほどに、それはもう豪快にです。
「ううう、まさかのファンブルです」泥だらけになって、立ち上がります。そして、また小走りで、今度はもう少し注意深く進み、ようやくシャッターの降りている空き店舗の軒下へと、その体を避難して、つぶやきました。
ファンブルとは、詩織さんが遊んでいるゲームで度々登場する用語で、致命的な失敗というくらいの意味です。何かが成功するかどうか判定をするときに、無作為に積んであるカードをめくって、ジョーカーを引くとどんなに簡単な行為でも失敗するので、最近はまっていた詩織さんの口から、思わず出てしまったようです。
同時に詩織さんの脳裏にあざ笑うかのようなイラストが描かれているジョーカーのカードが、浮かびました。
詩織さんの目にじんわりと涙が浮かんできます。そして恐る恐る肩掛けの袋を覗いて、ファイルと取り出して確認します。泥水まみれになってしまった袋の中で、同じく泥水を吸ってふやけて、印刷された文字が滲んだり、汚れで見えなくなってしまったシートを見てしまいました。
ボタリ、と大粒の涙が溢れてきます。喉の奥が熱くなって、何かがぎゅうと押し出されるようにして呼吸が苦しくなるような、息が口から吐かれて奇妙な音を立て続けます。
詩織さんはあまり声をあげずに泣く人でした。顔がゆがんで俯いて、透明な鼻水まで出てきています。
「あ、えと、その、大丈夫?というかこれすごく僕的にピンチな状態じゃなかな?」いささか慌てたような声が聞こえてきたのは、そんな、詩織さんが嗚咽していた時でした。
黒っぽいパーカのフード部分を後ろに垂らして、下はウインドブレイカーのこれも黒っぽいズボン、肩に大きめのスポーツタオルをかけています。身長は小学6年生にしては高め155㎝の詩織さんより頭一つくらい大きいくらいです。
この人の名前は優さんと言います。ぼさぼさに伸びた髪が雨でしっとりとして、ちょろっと、顔とかに張り付いています。年の頃は十代後半から二十代前半に見えます。
「ゔゔん」うめき声のようなものをあげて声がした方を見る詩織さんです。
「とりあえず、このタオル使ってください。えと、確か大家さんとこの詩織ちゃん?だったっけ?」
優さんは、詩織さんの家の隣、古いアパートの住人です。ちょっと引きこもり気味ですので、あまり出会うことがないのですが、一応お互いに顔見知り程度、挨拶を交わす程度の、人間関係は構築されています。
優さんは、タオルを手にして(いくらか湿っています。先に優さんの髪とかを拭いていたからです)詩織さんへと差し出します。
詩織さんがぼんやりと見ながら、まだ泣き続けているので、優さんは、ちょっと周囲を確認しつつ、「通報案件じゃないですからねー」とか呟きながら、丁寧に詩織さんの髪とかの水気や泥を、タオルで拭き取っていきます。
ぐしぐじと、泣きながらなすがままになっている詩織さんです。
「スポーツタオルくらいじゃダメかなぁ。ええと服とかもビショビショですね」
「」しゃくりあげる声にならない声をあげて、泣き続ける詩織さんです。
「うん、これは確実に誰かに見られたら通報されるレベルだね」ちょっと乾いた笑いを浮かべる優さんでありました。
優さんは、できるだけ丁寧に、水気を取っていきましたが、ちょっとビショビショすぎたので、ちょっと大きめのスポーツタオルと言えども、その性能をおおきく超える事態で、対処は難しそうです。
幸い、豪雨らしく、勢いよく降った後、短い時間で雨は上がりつつありましたので、優さんは、詩織さんへ言いました。
「おうちに戻れます?ええと一人で?」
「」泣き続けて反応が薄いです。詩織さんは外界とのつながりを絶つくらい深く悲しんでいるようです。足も自発的には動きそうもありません。
なんだかふらふらと体も揺れています。
「仕方ないですね。ええと通報しないでくださいねー、不審者じゃないですからねー。拐かしでもありませんし、連れ去りでもないんですからねー」と、逆に怪しさを感じさせることを宣い呟きながら、詩織さんの手を引いて歩き始めるのでした。
途中で、詩織さんが歩けなくなったので、おんぶで運ぶ優さんです。
「こ、こっちの方が通報案件じゃないように見えていいかなぁ」などとつぶやいています。
詩織さんは、思っていたよりも疲れていたようです。祖父の葬式から、ずっと緊張していたのでしょうか、または、悲しいという気持ちを感じないように、じーじ様の残してくれたゲームに夢中になりすぎていたのかもしれません。
詩織さんはちょっと声を抑えて泣き続けていましたけれど、そのままいつしか、優さんの背中でうつらうつらとし始めました。
詩織さんは、暖かくて、ゆらゆらと、いい気持ち、と感じた後に、意識を手放しました。
「詩織ちゃん、おうち着きましたよー」と優さんが声をかけると、その頃にはぐっすりと寝入ってしまっていました。
「マジか!?ええと、どうしようかなぁこの状況ぅ」
優さんは途方にくれてしまいました。
「お持ち帰りしないといけない状況なんですか、そうですか」
優さんは錯乱しているようです。
詩織さんは目を覚ましそうにないですし、服はまだ濡れています。このままでは風邪をひいてしまいますよね、別に他意はないですよ、詩織さんの、お家には他に家族はいないことは知っているし、見捨てられないし、とぐるぐると考えた末、自分の部屋に連れていくことにした優さんでありました。
「女児小学生をお持ち帰る、うん、犯罪的なフレーズにしか聞こえない」
引きつった笑みを浮かべて、周囲の目が無いのを確認して、優くんはアパートに入ったのでありました。