夏休みが明けまして
逃げるように郁斗の前から走り去ってしまった悠は、修練場の草原を抜けてその先にある香達の家のリビングのソファーでひたすら唸っていた
「うぅぅ、私なにしてんだろ……」
考えるよりも先に、身体が動いてとにかく郁斗の姿が見えないところまで行くことしか頭に無かった。条件反射ここに極まりと言ったような動物的な反応だが、何よりも悠を困惑させてるのはどうにも止まらないドキドキとした動悸と、鏡を見なくても分かる程の赤くなった顔だ
それもこれも、悠が口にした言葉が原因だが、そんなことを何故口走ってしまったのかも、ぐちゃぐちゃに揺れる思考では深く考えることも出来ない
「いつも通りにするだけなのに、なんで急にこんな恥ずかしいのさ」
一人、愚痴る様に呟いたその一言にこそ、恥ずかしいと感じる感情の根幹にその理由がある事に悠は気が付かない
とにかく、冷静に、平常心に戻って、いつも通りに話せば良いだけだと、悠は自身に言い聞かせる。それが一番居心地の良い距離感なのは長年培って来たものなのだから、それこそ悠にとっての当たり前である
当たり前に戻れば良いだけ、それなのにそうすることがとても恥ずかしく感じている自分に悠はただただ翻弄され、しばらくの間、その場で唸り続けた
対する郁斗も、自身の心の中に発生したモヤモヤとした感情に手を焼いていた
それもそうだ。元は男で幼馴染、お互いの長所も短所も分かり合っている相手とは言え、郁斗は思春期真っ只中の男の子で、今の悠は街を歩けばナンパの一つ二つは当たり前なくらいの美少女
そんな子が、何の話から発展したのか分からないが自分とキスをするんだと豪語したのである
恐らくは周りの女子生徒に煽られたか何かしたのだろうが、幾ら今まで悠の無自覚なボディタッチと誘惑を跳ねのけて来た鋼の心を持つ郁斗も、直接自分に好意を持っているかのような発言をされれば、今まで見て見ぬフリしてきた部分に思考が傾かざるを得なかった
「なんじゃ小僧、面白くなさそうな顔をして、悠と喧嘩したわけでもあるまいに」
「いや、そうなんですけど、何というか、顔を合わせずらいと言うか」
考え込み過ぎて、ムスッとした表情になっていた郁斗の横に、ドカリと相変わらず大雑把な動作で照が座り込む
その照がして来た問いかけに、郁斗は何とも歯切れの悪い答えしか返すことが出来なかった
「今更惚れたのか」
「んぐっ?!ち、違いますよ。俺と悠はそういう関係じゃないです」
次に来たド直球の言葉に、息を詰まらせつつ郁斗はいつも通りそう答える
郁斗は、悠が悠に戻る手助けをするために今もこうして隣に立つと決めているのだ。郁斗にとって、二人の間柄とはそうあるべきだと定義している
悠は、いつか悠に戻るのである。いつか戻ると決めている親友を、自分もそれに協力している身としては、自分がそういった感情を持つことはタブーに近い感覚だった
「そういう関係とはなんじゃ?夫婦か?恋人か?番いか?」
「だから、そういう男女の関係じゃ――」
「お主バカじゃろ」
「は?」
踏み込んで来た照に、否定の答えを返そうとしたところで呆れかえったような照の声音がかぶさり、郁斗は思わず疑問符を浮かべる
いきなり罵倒されれば真っ当な反応であるが、その言葉を投げかけた照は本当に呆れかえった表情をして、さっさと立ち上がって歩き出してしまう
「なんも変わらんじゃろうにの。ま、お主は精々自分で考えるんじゃな」
「え、はっ?ちょっとどういうこと」
「しらんしらーん。儂はこの件には関わらんからの」
あとは勝手にやれと言わんばかりの照の様子を終始呆気にとられていただけだった郁斗は、なんなんだよとモヤモヤとした感情を振り払えぬまま、働かない頭で、そのモヤモヤを振り払おうと躍起になるのだった




