バカ兄連れ戻し作戦
堀川と呼ばれた男子大学生の案内に従い、悠は事務所を出て、分子解析研究棟の中を歩き始める
「ここはどういう事をする場所なんですか?」
「んー、物凄くざっくり言うと、物質、水とかタンパク質とか色々あるけど。それの元と言うか、それを構成している、分子ってのを研究してるところなんだ」
「えーと、原子がくっ付いたのが、分子でしたよね。それを研究、ですか」
分子、と言われて頭の片隅にある化学の授業で習った事をなんとか捻りだした悠の知識は、どうやら当たりだったらしい
分子、と言うのは原子。つまり水素原子(H)、酸素原子(O)などと呼称されている各物質の元素が組み合わさったものの最小の粒子の事を指す
水素原子(H)と酸素原子(O)が合わさったのが、生きているなら欠かすことの出来ない水(H2O)分子、である
詳しいことは、中学や高校の化学の教科書を読めば、基本中の基本として記載されている事だろう
「そうそう。ようは世の中にある、物と言う物が何を組み合わせて出来ているのか、それを調べるのが俺達の研究なのさ」
「な、なるほど」
成る程、分からん。を見たまま再現した悠に堀川は苦笑するが、別にバカにしている訳ではない
大概、研究と言うのはその分野に興味が無ければチンプンカンプンで、聞いていても面白くないものだ
悠もその例に漏れず、化学と言う分野にはほとんど興味がない。どちらかと言えば、悠の興味を引くのはスポーツ科学の分野などだろう
「あはは、難しいよね」
「す、すみません……」
説明されてもイマイチピンとこない悠は申し訳なさそうに謝るが、中々理解が難しい分野なのは自分が嫌と言う程体験しているので、何ということは無い
「高嶺がよく言ってたよ。『俺には出来の良い兄弟がいるから、家の事を考えずに俺が好きなことが出来る』ってさ。それがまさか、妹ちゃんだとは思わなかったけど」
「そ、そんなこと言ってたんですか。ちょっと恥ずかしいですね……」
よもや兄の新一に知らないところでそんな風に言われていたことを知って、悠は思わず頬が赤らむ
家族に人知れず褒められている事を知るのは、なんだか気恥ずかしいものだ
「いや、でもすごいよね。道場継ぐんでしょ?なんでも教える、変わった道場なんだって聞いたけど」
確かに高嶺家の道場はかなり変わっている。何せ一つの道場で複数の武道を教えているのだ。どの武道でも一定数の門下生がおり、曜日ごとに教える武道と生徒が変わるのは高嶺道場以外、聞いたことは無い
「あ、ハイ。ウチは柔道、空手、合気道、剣道、ご連絡があれば薙刀、槍、居合なんかも……」
「すっご。え、妹ちゃんも全部出来るの?」
「主は剣道なんですけど、大体一通りは……」
悠も当然複数の武道に通じている。メインは剣道だが、それぞれの型や技、受け身の取り方、試合のルールなどは頭の中に入っている
「はぁー、すっごいわ。俺なんて勉強と研究ばっかで運動とか高校の体育以外じゃほぼやってないよ。おかげでこの年で腰がヤバい」
「あははは、それならウチの道場へどうぞ。初心者向けのコースもありますよ」
「うわ、そこで宣伝するかぁ、商売上手だなぁ」
それを聞いて驚嘆し、自身の運動不足を嘆く堀川院生に高嶺道場の宣伝をしながら、彼に案内されるままに悠は研究棟内を進む
時期もあってか、大学敷地内もそうだったが、研究棟内も閑散としており今のところ棟内では誰ともすれ違っていない
もしかしたら研究室に籠っているだけかもしれないが、多くの部屋の電気は消えているようで、やはり人が少ないのだろう
「一応、教授にも話を通すから、ここで待ってて。すぐだからさ」
「お願いします」
部外者を入れる以上、責任者の教授にも話を通しておくのは当然の措置なので、悠は黙って言う通りにその場で待つ
「あっ」
「……?」
そうして扉の前で少しばかり待ちぼうけしていると、聞き覚えのある声が離れたところから悠の耳へと届いた




