第6話 すれ違う二人、動き出す計画
「おはよう、あなた……」
「ああ、おはよう紗枝」
次の日の朝、俺は何時も通り妻と顔を合わせて何時も通りの朝を迎えていた。
「昨日は遅かったのね」
「いやぁ……昨日でプロジェクトもひと段落ついてね
二次会でちょっと騒ぎすぎちゃったよ……」
「ふーん……」
本当は部下の若い女の子と二人でバーに行きカラオケに行っていた。
妻には嘘をつく事になってしまったが、これはあくまでやましい事があっての話ではない。
赤石さんを助けるためである。だからこの嘘は必要な嘘なのだ。妻を心配させない為の……
嘘をつく事に罪悪感はあったが、俺はもう一つ嘘を重ねなければならなかった。
「後、今日も悪いけど遅くなるんだ……」
「何で? プロジェクトが終わったらしばらくは早く帰ってきて
買い物や家事を手伝う約束でしょ?」
「いや……その……実は今の取引先との飲み会があってね
それで、今日はちょっと遅くなりそうなんだ
ああ、でも昨日よりは早く帰るようにするよ」
勿論、嘘だ。仕事が終わった後、赤石さんと会うための口実だ。
紗枝は明らかにイラついている事が分かる様子だったので余計に罪悪感がこみ上げる。
「あっそ……じゃあ夕飯は用意しないわよ
その代わりに埋め合わせは何時かしてもらうからね!」
「ああ、分かってるよ」
赤石さんのストーカーの件を解決させれば、きっと時間は作れるだろうし埋め合わせはできるだろう。
そうだ……機嫌を取るためにもあのデパートのあのケーキを帰りに買っておくことにしよう。
◇
「博さん……来てくれたんですね?」
「えっ? 博さん?」
「あっ……いえ間違えて下の名前で呼んじゃいました……
ごめんなさい、大原さん」
あまりにも不意打ち過ぎて驚いてしまったが、すぐに大原さんと呼び直される。
ただ名前から苗字に戻されてしまう事に何故か少しだけ寂しさを感じている自分がいた。
カラオケのやかたの近くの前で待ち合わせて、赤石さんのストーカーの対処のために今日もカラオケで個室を借りる事となっていた。
「じゃあ行きましょうか、大原さん!」
「大原さんの演歌はやっぱりカッコいいですね!」
「いやぁ……そうかな……」
せっかくカラオケの個室を借りたので何曲か歌ってから、本題に入る事になった。
それにしても赤石さんの前で演歌を歌うと気持ちが良い。
カッコいい、上手いと自分を立てて褒めてくれる。
紗枝なら、またか……って顔をされたり、あんた本当にそれ好きだねとしか言われない。
同年代の妻にすらそんな顔をされるのだ。
だから、曲を知らない若い子に楽しんで貰えるのか怪しいと思ったので俺は二次会にカラオケを選ぶことはしなかったのだ。
だが、赤石さんは褒めてくれる。そして赤石さんも自分の好きな曲を歌って俺に聞かせてくれる。
俺はそんな赤石さんの姿を見るのが楽しくなっていた。
「どうでしたか? 大原さん?」
「とっても上手だったよ! 赤石さん歌手にもなれるんじゃない?」
「いや、それはちょっと褒めすぎですよ、大原さん!」
そんな本題を忘れた充実した時間を過ごしていた。
30分くらいで本題に入るつもりがいつの間にか2時間が経過していた。
時間に気づいた赤石さんが本題を話し始める事になった。
「ストーカーの件ですが、昨日も何時会えるかと言うのを
ほぼ強制するように何通もメールを送ってきます……」
赤石さんは木曽から送られたメールを見せる。
ばらされたくなかったら早く連絡をよこせ。
警察に相談しても無駄だ。警察に相談したと分かった瞬間全てをばらす。
金を持ってきて、少しホテルで俺を楽しませてくれれば悪いようにはしない。
脅迫めいた連絡の催促メールが1時間に1回きっかり1行ずつ来ている。
「返信しなかったら、過去をばらされる……
会ったら会ったで色々な物を失うわけだよね……」
「はい……もうどうしたら良いのか……」
その時赤石さんの携帯が鳴った。
「またメールが来たみたいです……」
「やっぱりメールは木曽から……」
赤石さんは恐る恐る携帯の画面を見て、メールの内容を見る。
そしてすべて読み終えると、それを黙って俺に見せに来た。
もう我慢の限界だ。昔の仲間を無視しやがって……
俺たち仲間なんだからよ、おまえの家に今から行って良いよな?
居ないんなら、お前の部屋に勝手に上がって滅茶苦茶にしてやるからな。
これは……不味い……
赤石さんも何とか色々な事を先延ばしにしてきていて、ついに相手もしびれを切らした様だ。
「……もうこれは……こちらから日時をセッティングするしかないですよね」
「あ、会うのかい?」
「無視したり、誤魔化してもこのままだと部屋に金属バットを持って
上がり込んで来そうです……そこまで強引な事はしなくても
家の場所は割れてるので帰るときに何時襲われるかも分からないです」
確かに相手の様子を見る限り緊急を要する状態だ。
「明後日の夜に、彼と会う事を打診してみます
そう言っておけば今日と明日に何かされる事はないと思います」
先延ばしでしかないが、勢いだけで部屋を壊されたり夜道で襲われるよりはマシだろう。
「大原さん、明後日の夜、隠れて私についてきてもらえませんか?」
「えっ……?」
「もうこれ以上の先延ばしはできないと思います
ですから明後日は必ず会うしかない
大原さんの事を木曽は知らないと思います、木曽にとって私は天涯孤独の女でしかないんです
だから、木曽の隙をつくには大原さんの力を借りるしかないんです」
なるほど、確かに木曽にとって不確定要素である自分が行けば何とかできるかもしれない。
だけど……
「意気地なしって思われるかもしれないけど
赤石さんの為に正直に言うけど、俺はその腕っぷしはそんなに強い方じゃない
もしも赤石さんに何かあってもストーカーと会う以上
必ず助けられるか分からない……それでも良いかな?」
ここは男なら嘘でも守るというべきなのだろう。
しかし、赤石さんの事を思うなら事実は伝えるべきだと思った。
ストーカーに会うと言う危険を自分から犯す以上、安請け合いなどできるはずがない。
「そこは嘘でも私を絶対守るって言ってくださいよ……
でもそこで安請け合いせず本当の事を言ってくれる人って好きですよ」
自然に発せられた好きという言葉に少し心臓を掴まれながらも赤石さんは話を続けた。
「大丈夫です、そもそも大原さんに危険な真似はさせません……
私に考えがあります、今私は弱みがあるから木曽に脅迫され付け回されている
なら、木曽の弱みをこちらも握るか、木曽が持っている情報が弱みでないと錯覚させれば良いんです……」
「そんな事ができるのかい……?」
確かに警察に頼らずストーカーを何とかするのであれば、それをするしかない。
「はい、できます……
だから大原さんの力を貸してください
あなたの力があれば絶対に……そして危険な事はさせない事は約束します!
だからお願いします、私に協力してください!」
赤石さんは俺にこう訴えかけると、深く頭を下げた。
頭を下げてここまで言っている彼女の頼みをここまで話に乗っかっておいて断れる人間がいるわけがない。
「分かった、明後日の夜だね……協力するよ」
「ありがとうございます……」
こうして今日の夜は木曽をどうやって出し抜くか作戦会議をする事になった。
明後日の決行日に備え……明日もカラオケのやかたで作戦会議をすることになるだろう。
最初はプロジェクトで自分を慕ってくれている部下だった赤石さん……
その存在は少しずつ俺の中で大きくなりつつある……
しかし、俺にも家族がいる。ストーカーを追い払えば赤石さんの問題は解決できるんだ。
そうしたら、俺と赤石さんは同じ会社のただの上司と部下の関係に戻る。
俺はそうするつもりでいたし、そうならなければならない。
だが、ただの上司と部下と言う関係に戻る事に俺の胸の引っ掛かりはますます強くなっていた。
彼女は唯一俺を褒めてくれる、頭の固い上司は何時までも俺を認めないし、妻は子供が生まれた頃からそっけなくなってしまった。
赤石さんともっと一緒に居たい、その先を求めたい……許されない考えが俺の脳内を支配する。
しかし、すぐに俺は悲しんでいる紗枝や息子の顔を思い浮かべる。
そうだ……俺には家族がいる。家族のいる身で自分の身勝手で浮気をするなんて許されるわけがない。
紗枝だって……何というか……倦怠期なだけで俺の事を想ってくれているはずだ。
今日だって赤石さんの為に嘘をついてしまった。その事に対して罪悪感を覚えている。
そうだ……明後日で赤石さんとは"ただの部下と上司"……それで良い……いや、そうなくてはならない……
この時の俺は確かにそう思っていたんだ。
続く