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夏の庭園  作者: 冴島岐之
3/3

footstep * 2

「おねえちゃん?」


 うしろの方、おそらくこの病室の入口から、そう呼ぶ声が聞こえた。聞き慣れた、小さな男の子の声。


「おねえちゃん、入ってもいい?」


「うん、いいよ。怜でしょ? おいで」


 ベッドの上に座り直して、声のした方へにこりと笑って見せた。怜はこの病院の近所に住んでいる子供で、虫が好き。虫のことならなんでも知っていて、楽しそうに話してくれる。


 ぱたんぱたんとスリッパを引きずりながら走りよって来る足音が聞こえた。椅子を引きずる鈍い音、金属音。トン、と腰掛ける空気音。


「怜、夏休みの宿題、ちゃんとやってる?」


「やってるよぉ! あとね、あとね、作文とね、絵日記とね、算数のドリルやったらね、オシマイ!」


「いっぱいあるじゃない」


 右手を口元にあてて、くすくすと笑う。怜は、いつも一生懸命に話そうとしてくれる。雰囲気から、声から、それはわたしにも伝わる。

 はじめて会ったときから比べたら、驚くほど違う。怜は何も話そうとしなかったから。怯えるようにそこにいて、目の見えないわたしがどうやって一日を過ごしているのか、それはまるで虫を観察するように見ているだけだった。


「あ、あのね、おねぇちゃん」


「なぁに?」


「手、出して! 早くっ」


 訳のわからないまま、いわれた通りにわたしは手を出した。怜は差し出したわたしの手を取ると、お椀の形を作らせる。


「なんかくれるの?」


 怜は何も返してくれなかった。でも、まだそこにいる。それからポツ、と、何か小さいものが手に落ちてきた。それはわたしの手の中で小さくはじけて、またポツ、ポツ、と落ち、それから勢いよくザーっと手の平へ落とされた。


「な、なに?」


「へへ、なんでしょー?」


 ひとつひとつは小さな粒だった。落とさないようにその内のひとつを指先でつまもうとするが、両手いっぱいに満たされた状態ではそれは難しくて、ころころと溢れていくのがわかる。


「あのね、それね、種なんだよ! ぼくがね、がんばって育てたの」


「あー……」


 種、植物の種なのか。わたしはなるべく落とさないようにしながらも、種ならいいかとなんとか一粒をつまんだ。平べったいような、両端がとがっているような、紡錘形の種だ。


「これ、……ひまわり?」


「うんっ」


 元気のいい、嬉しそうな声が聞こえた。そんな怜の声を聞くと、わたしも自然と微笑んでしまう。


「すごいんだよっ、僕よりずっと背が高くてね、おっきいの!」


 そういってはしゃぐ怜の声を聞きながら、怜はどんな顔をしているのかと想像してみる。背丈は、服は、顔は、表情は、体型は、こんな風に、こんな声で話す少年は、どんな姿をしているのだろう。


「こんなにいっぱい種つけたんだね、怜、頑張ったね。すごいよ」


 本当なら、その頭をなでてあげたかった。だけどその正確な位置も、よくわからない。両手に種が溢れるほどあって、よかったと思った。もしわたしの目がほんの少しでも見えていたとしても、それは叶わなかったから。


「結ちゃーん……? あ、怜くんも来てたんだ」


 入口にまた、人の気配が増えた。周防先生だと、すぐにわかった。声がした途端に、怜が小さくなるのを感じた。


「先生? もう、お昼?」


「いや、診察に人、来なくてね。受付時間も終わったし、今日の仕事は終わりにしたんだ」


「いいことじゃないですか。みんな元気!」


「そうだね、」


「……何か、ありました?」


 先生の声に、いつもの覇気がなかった。悲しんでいるようなトーン、なぜか。なぜだろう。わたしにはそれがわかったし、なんとなく、それはわたしへ向けてのことなんだと思った。


「いや、なんでもないよ。それよりお散歩、行くかい?」


 先生は誤魔化しているつもりだったのだろうけれど、その声にはやはりいつものような覇気はなかった。けれど先生がいつもと同じように微笑んでくれているような気がして、先生も少し疲れているのかもしれない、と思った。

 それなら、外の空気を吸いに行くのが一番だ。ここの空気は、とてもやさしい。


「はい」


 わたしはどうして、気付けなかったのだろう。


 怜に声をかけて、種を袋にしまう。全部きちんと袋に入っているのかは、わたしにはわからない。けれど怜の小さな手が、わたしの足にかけられた蒲団の上を動き回っているのはなんとなくわかった。

 種の回収が終わると、周防先生はふう、と息を吐いた。


「じゃあ、車椅子準備しなくちゃね。怜くんは、お昼だから家に帰りなさい。またお母さんが探しに来るからね」


「はあい……」


 怜は拗ねたような声を上げた。いつもより元気のない、低い声。その姿を思うと、妙にかわいく思えて、喉の奥だけでくつくつと笑った。


「じゃあ、結ちゃん、僕は怜くんを送ってくるから、ご飯食べて待っててね」


 すぐに江月くんが持ってくるだろうから、そういった周防先生の声がする方へ小さく手を振った。多分、怜の手を引いているのだろう。周防先生は、子供が好きなんだと思う。


「ばいばい、おねえちゃ。また来るね」


「うん、ばいばい」


 声がする方を向いて、胸の前で小さく手を振った。多分、笑顔で。

 目が見えたときと変わらずに、自分がどんな表情をしているのかはわからなかった。

 目の見えない相手に表情を作るのは、なんて意味のないことなんだろうと、少しだけ思った。


 カタン、とドアの閉まったような音を聞き、わたしは小さく息を吐き出した。

 本当に誰もいない、真っ暗な空間。いつものわたしの場所。

 誰かの気遣いをうけることもなく、そうして与えられた気遣いへ逆に気を使う必要もない。こんなにも気持ちを楽にできる、だけど。


「会いたいよ……」


 窓へ向かって、手を伸ばす。慣れた距離。日が当たっているせいか、そこはとても熱を持っていた。

 ここから続く外の、光に溢れた外の世界のその中に、その中心に、春輝はいる。

 わたしからは奪われてしまった、眩しい太陽の世界に。


 約束したのに、次の夏が来たらまた会いに来るって、約束してくれたのに。


 早く、早く春輝の元へ夏が来ますように。そしてここへ来て、またたくさんお話をするの。


 春輝は、目の見えないわたしに見えているものの話を、とても不思議そうに聞いてくれる。わたしも周りの人も今まで気にしなかったようなことを、楽しそうに聞いてくれる。

 そんな風に話しかけてくれる人を、わたしは春輝以外に知らない。


 わたしは確かにこの世界で障害を負っているはずなのに、春輝と話しているとそうではない、みんながわたしにないものを持っているんじゃなくて、私がみんなにないものを持っているような、そういう風に思えてくるのだ。


 あの日、春輝に会えなかったらわたしは今でも、わたしを悲観し続けていただろう。こんな世界を、きっと捨てたくなっていた。

 恐怖を感じる光景など、わたしの目にはもう映らないのだから。


「――あ」


 カラカラとワゴンを押す音と、聞き慣れた足音がした。江月さんだ、とすぐに思う。だんだんと足音とワゴンの動く音が大きくなり、すぐにガラリとドアが開く音が聞こえた。


「結ちゃーん、ご飯持って来ましたよー」


「ありがとうございます」


 いつもと同じ、はきはきしているけれど、どこか厳しい響きを持っている江月さんの声がした。わたしは笑顔でそれを迎える。ガタンと少し大きな音がして、ワゴンが室内へ入ったのだとわかった。


 江月さんはいつもやさしい。初めて会ったときからいつも元気でハツラツとしていて、私のリハビリにも根気強く付き合ってくれる。

 そういうはずだった。けれど江月さんは何かに驚いたように大きく息を飲んだ。そして黙り込んでしまった。


「江月、さん……どうしたの?」


「ううん、なんでもないわ。お昼ご飯、置くね」


「あ……はい」


 どうしたんだろう。そう思ったけれど、すぐに江月さんはいつもの調子で食事の準備をしてくれた。テーブルの準備をして、そこに食器が置かれる音がした。

 ぎこちないまま、手探りでスプーンを探す。形を確かめて右手に持つと、今度は左手で食器に触れた。江月さんはわたしの食事が終わるまで、そこでじっと見ていた。

 ときどきわたしがこぼすと、「こぼしたよ」とだけ教えてくれた。わたしは手探りでそれを探し、一緒にテーブルに置いてあった布巾でそれを拭いた。


「江月さん」


「何?」


「へへ、呼んだだけです」


「そう? おいしい?」


「おいしいです」


「よかった」


 さわさわと木々が葉を擦る音が聞こえてきたような気がした。



***

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