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夏の庭園  作者: 冴島岐之
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footstep * 1

 神様がわたしの前から光を消してしまったのには、きっと何か、わたしには到底理解できない理由があるのだと思う。


「先生、今日は晴れてるんだね」


 音がした。誰かが入ってくる音。足音で、周防先生だとわかった。先生は、とてもゆっくり歩く。


「そうだよ、結ちゃん。よくわかったね」


「足の調子がいいの。あと、晴れてる日の匂いがするんだ」


「そう、すごいね」


 周防先生が、椅子に腰掛けたのがわかった。いつもの診察が始まる。もう慣れてしまったけれど、見えないことはやっぱり、時々不安になる。


 わたしは、目が見えない。

 見えなくなった日のことは、あまり覚えていない。とにかく、すごい事故だったそうだ。おじいちゃんとおばあちゃんがいる、この町に来る途中で。山間の道路、雷雨の日。突然起こった崖崩れに巻き込まれたそうだ。

 そんな大事故の中、わたしは奇跡的に助かった。わたしは事故の後遺症なのか、事故当日の記憶が曖昧で、ほとんど覚えていない。車の前半分は空き缶みたいにぺしゃりと潰れていたが、わたしがいた後部座席はほとんどその形を保っていたのだと、おじいちゃんは説明してくれた。

 つまり、わたしの両親は土砂によって潰れてしまったのだ。その姿も充分に確認できないほどに。


 そうして目が覚めたと思ったとき、わたしの目には何も映らなくなっていた。目を開けているような気がするのに、光が入ってこない。自分が目を開けているのかも、だんだん不安になった。それから目が見えなくなったのだと理解するのに、そう長くはかからなかった。


 でも、見えなくなってよかったのかもしれない、とも思う。

 無惨な両親の姿も、動かなくなってしまったわたしの足がどんな形をしているのかも、知らなくてよかった。おじいちゃんとおばあちゃんの悲しむ顔も、知らない。


「本当に、体調はいいみたいだね。あとで散歩にでも行くかい?」


「いいの? 行く!」


 わたしの記憶はそれ以来、匂いと音だけで形作られている。見えていた頃の光景も歳月が過ぎるたびに色褪せて、人の顔になるとほとんど思い出せない。記憶の曖昧さをわたしはよく知っている。ぼんやりとしたものしか、わたしには残らなかった。


「きっと、すごく気持ちいいだろうなぁ」


「そうだね、今日は本当に、よく晴れてる。雲ひとつない」


 先生がそういいながら、頭をなでてくれた。先生の手は大きくてあったかくて好き。見えないけれど、先生はきっとすごくやさしくてかっこいい顔をしていると思う。見れないのが、少しだけ残念だ。


「今日、来ないかなぁ」


「春輝くん?」


「……うん」


 先生の顔を見れないのは残念だけれど、わたしにはもっと見たいものがある。もし、一度でも、一瞬でもいい。またわたしの世界に光が戻ってくるのなら、見たいものがある。ようやく、そう思えるようになった。強く思えるものに、出逢った。

 勇上春輝。

 一年程前に突然現れた、不思議な青年。

 彼は、美大生なのだといった。画家になるのが夢だと、それでなくても何か美術に関わる仕事をしていきたいのだと、話してくれた。


 きっと彼の周りは、溢れるほどの光と鮮やかな色で埋め尽くされている。

 わたしとは違う世界で生きる人。それが、勇上春輝という人だった。わたしにはそれが、目の見えなくなった世界の唯一の光みたいに思えた。


 春輝のいる処は、きっときらきらしてる。わたしの唯一の、光。


「そういえば、もうすぐ八月になるね」


 周防先生がふと、そういった。多分、この部屋のどこかにあるカレンダーを見ているんだと思う。声が出る方向が少し変わったから、違う所を見ているんだと感じた。


「きっともう、大学は夏休みだよね」


「……そうだね」


 下半身にかかった蒲団をぎゅっと掴んだ。今日はいい天気だから、春輝に会いたい。いつも思うのだ。もう、こんなに晴れた日は来ないかもしれないと。わたしにはそういう漠然とした不安がある。

 天気がいい日は、わたしの体の調子もいい。不思議なものだけれど、雨の日や雪の日、とにかく天気の悪い日には足がひどく痛む。原因はわからない。だけど体はわたしの理解をずっと越えた敏感さと繊細さを持ち合わせていて、空気のわずかな変化や大地の動きに反応して、壊れた所からじわじわと伝えてくるのだ。

 もう、こんなに天気のいい日は来ないかもしれない。わたしは、痛みを抱えたまま春輝には会いたくない。春輝には、元気なわたしだけを覚えていてほしいから。

 これは、わがままだろうか。


「ねぇ、周防先生。お散歩、いつ行ける? 今日は忙しいの?」


「午前の診療が終わったら、行けるよ。今日は往診の予定もないし、日曜日なんだ。結ちゃんがお昼いっぱい食べたら、それから行こう」


 先生はそういいながら、また頭をなでてくれた。大きくてあったかくて、太陽みたいな手。なんでか泣きそうになったけれど、わたしは笑った。

 久しぶりに外に出れるのが、嬉しかったから。


「うん。先生、ありがとう」


 本当だったらわたしは今、高校に通う年だ。秋が来れば、十七歳になる。けれど事故にあった中学一年の夏から、わたしはずっと病院にいる。

 院内学級というものにも、通った。そのほとんどの時間は、点字を覚えることに費やされた。それから、歩くことに。

 けれど結局、わたしは歩かなかった。

 どこにも異常はないといわれたのだけれど、暗闇を歩くことをわたしは拒んだ。怖かったから。歩けるようになっても、自分の足で動けても、どこへ向かっていても、そこは当てのない暗闇だった。わたしは周りに迷惑をかけてでも、歩かないことを選んだのだ。

 手をひかれていても、ひとりのような気がした。

 わたしはいつも、漠然とした不安と隣り合わせだ。

 春輝に会いたい。

 今はただ、それだけだ。


 開いた窓から、風が吹き込んできた。やわらかい、太陽の熱をたくさん吸収した空気。おそらくこの病室は中庭を向いているのだろう。花の香りと、若葉の匂いがした。それらはわたしの髪を揺らし、この真っ暗な視界の中で、まるで足元を逃げていく川魚のようにするりと流れて、すぐに消えた。

 あの空気はどこへ向かうのだろう。今はどこを漂う空気になっているのだろう。しばらく考えて、窓を閉めた。圧縮された空気がぶつかる。でもそれもすぐに消えてしまったから、なんだか悲しくなった。


 わたしはここにいるのに。


 音と匂いだけの世界には、確かなものが何もなくて、とてもさみしかった。



***

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