二人の、清らかで柔らかな夜 ☆
太陽はあっという間に西の山並みの向こうへ沈んでいった。
オレンジ色に染まっていた空は、急速に光を失い青黒い絵の具を刷いたような色に変わってゆく。やがて星がひとつ、ふたつと瞬き始めた。
「なんだか怖いなぁ……」
「そう? 私はライガがいれば平気だけど」
しれっと、男として奮い立つ一言を貰い、俺は自分が騎士か戦士にでもなったような気持ちになる。
「もっ、もちろん大丈夫、俺がいるから!」
「うんっ」
とはいったものの、魔物が出る世界でキャンプはいささか無謀だっただろうか?
気がつくと、野犬のような動物が川の向こうを歩いていた。こちらを気にしているが、なぜか一定距離以上は近づいてこない。
見ると、要石のような岩が、宿営地を囲むように配置してあった。
「あれ、魔物よけの魔法の結界だね」
「すげぇ! ファンタジー世界なんだなぁ」
女神様から授かったというパトナの知識が、とてもありがたかった。
けれど俺は武器を買わなかった事を後悔した。
シャコターンの町ではファンタジーRPGに出てくるような「武器屋」もあった。
店には刃渡り40センチぐらいのショートソードや、70センチを超えるロングソード、それに戦闘用の斧、メイスなんかも売っていた。思わず男としてテンションが上がるが、客も店主も筋肉質でちょっと怖かった事を覚えている。
これからの冒険の護身用に、武器を買おうかと考えていた俺だったが、実際持ってみるとズシリと重くて驚いた。
アニメやゲームみたいに片手で剣を振り回したり、ソードスキルで十数連撃! みたいな必殺技を放つなんて夢のまた夢だと悟る。
「こりゃ……無理だ」
そこで俺は、持ったことも無い凶器を振り回すほうが危ないと考えて、食材を切り分けるための刃渡り15センチほどの「ナイフ」を一本だけ買った。
これならば、もし職質されても「キャンプ用です」と言って誤魔化せるし……って、もうそういうのすら無いわけだが。
この世界では自分で身を守らねばならない。
無論、パトナだって俺が守るつもりだ。
けれど、いざ車を降りて自然の中に身を晒すと自分の貧相さが嫌になる。
車に乗っているときは、突進するエンジンのパワーと、硬質な鉄の鎧の中にいるようなものなので、それを自分の力だと勘違いしてしまう。
暑ければエアコンを使い、寒ければヒーターもある。雨風もしのげるし、何かと最強な存在、それが車だと改めて気づかされる。
「ま、別に寝るのは車の中だし、カギかけちゃえば平気だよな」
「うん! ドラゴンとかに踏みつけられたらちょっとヤバイけど、大抵の魔物は無視できるよ」
「恐ろしいことを言うな、てか。ドラゴンいるの?」
「いるみたいよ」
さらっと言うが、さもありなん。
気を取り直して、きれいな川で手足を洗い、顔を拭く。
そしてシャコターンの町で手に入れた鍋に水を張り、野菜とベーコンのスープのような「煮込み」を作ることにする。
宿営地なので、誰かが作った石組みの竈跡があった。それを拝借して薪を集めて火をつける。
火はライターで一発点火。文明の利器はやっぱり偉大だ。
鍋に切ったジャガイモとニンジン、あとはキャベツのような野菜とベーコンを入れて、コトコトと煮込む。刻んだトマトとハーブ粉末と岩塩で味を調えて出来上がり。いい香りが食欲をそそる。
ポトフのような料理だけど、パトナは瞳を輝かせて大喜びしてくれた。
あとは堅いパンを焚き火であぶり、チーズを乗せて食べる。香ばしい小麦の香りに濃厚なチーズがなんともアウトドアでワイルドな味わいだ。
「美味いな!」
「すごい! ライガってお料理できるんだね!?」
「まぁ一人暮らしだし自炊ぐらいできないとな」
飲み物は町で手に入れた果汁を二人で分け合って飲む。
焚き火の炎だけでも十分明るいが、トイレや顔を洗うために川に近づくので、手持ちのランタンも準備する。町で手に入れた雑貨の中には植物油のランタンがあった。
それを社用車の屋根に載せて間接照明にする。
森の奥からは、冷たい空気と闇が急速に押し寄せてきた。
星と東の空からは月が昇り、世界を青白いモノトーンで染めてゆく。
空を見上げると満天の星が瞬いている。
宿営地には他にお客さんは居なかった。俺たちだけということで少し不安もあるが、俺が気弱なところを見せるわけにもいかない。
パチパチと音を立てる焚き火を見つめながら、俺たちは肩を寄せ合って座った。
赤い炎に照らし出されたパトナの横顔を見ると、表情は楽しそうでもあり、どこか寂しげにも見えた。
俺はなんと声を掛けてよいか分からず、しばらく黙ったまま焚き火を見つめていた。
この世界に来てからの冒険を思い出し、パトナとの事も反芻する。
そして、気がつくパトナがそっと俺の手に、指をからめてきた。
――これじゃ、まるで……ここっ……こ、恋人ぢゃん?
「さっ……寒くなったし、車で休もうか」
「うん」
俺はすこし暗闇に怯えた様子のパトナと、ぎゅっと手をつなぎ、足場の悪い川原を歩いた。
きゃ! と、時々つまづいて悲鳴を上げるパトナを支えながら、川まで行き、顔と身体を拭き歯も磨いた。パトナはポニーテールを解き、ぬれたタオルで拭いて梳った。
聞こえるのは虫の音と、ホーホーというフクロウの声だ。時折森の中では動物の目が光ったりもする。
世界に二人きりで取り残されたような錯覚を覚える闇に沈む森のなかで、むしろ寂しさが紛れて有難かった。
社用車に戻った俺たちは、後部座席を倒してフラットにして寝床を作った。荷物を左右に寄せて毛布を敷く。敷く毛布と掛ける毛布。二枚しかないが……べつにいい。
「狭いけど、いいかな? なんなら俺は運転席で寝るけど」
「やだ、一緒がいい」
「パトナ……」
きゅっと俺のシャツの袖をつかむパトナ。
ランプでゆれる大きな瞳、下ろされた髪が大きな胸を隠しながら、サラリと流れた。
思わず月明かりの下で抱きしめて、頬と頬を重ねる。
「ありがと、ライガ」
「何が……?」
「私を人間にしてくれて」
「人間に?」
その言葉に俺は疑問形で返す。
「そう、ライガがいつも大事にしてくれたその気持ちがね、私をこんなふうに作ったんだって」
「女神様が、そう言っていたの?
「うん! だから私……決めたんだ」
パトナの細くて暖かい指先が、俺の両頬をしずかになぞる。
「何を?」
「ライガのお嫁さんになるの。世界を平和にしたら願いがかなうって、女神様は言ったんだよ」
恥ずかしそうに、けれどしっかりとした声でパトナはいった。
「そ、そそ! それな!? えっ……ヨメ……えぇええ!?」
俺のほうは若干パニックだ。
なんならいっそ、別に世界なんか救わなくても、二人でケコーンしちゃえばよくね!?
「わたしの身体……この車はね、やがて壊れちゃうんだって。その時、私も消えちゃうんだ」
「消え……」
俺はハッと息を呑んだ。心臓がバクバクと暴れているのは柔らかいパトナを抱きしめているからだけではない。
ずっと感じていた不安、時折見せるパトナの横顔に浮かぶ悲しげな瞳。
考えないようにしていたけれど、やはり寿命があるのだ。
「世界を救えれば、私は車と切り離されても生きていける本当の人間になれるの。駄目だったらきっと……」
「なら! 俺が世界を救う! 絶対! 絶対! 絶対にだ! だから……心配するな! 必ず――――」
俺の言葉は、柔らかな唇で遮られた。
やがて、暖かいパトナがゆっくりと離れてゆく。
「うん。信じてるよ」
「パトナ」
冷たい空気が唇をひんやりと撫でてゆく。
「寒いね、毛布はいろ」
「……そっ、そうだな」
俺はパトナと二人で車の荷台へと潜り込んだ。後ろのドアを閉めて鍵を内側からロック。
横になる前に念のため周囲をうかがうと、焚き火の向こうに、痩せこけた野犬が一匹ウロウロしているだけだった。
パトナは毛布に潜り込むと、ツナギをするするっと脱いで、ぽんと俺のほうに投げつけてきた。
顔半分だけを毛布から覗かせて、じっと俺を見つめている。
「脱皮か」
「えへへ! ライガも来て」
言われるまでも無い。
俺も毛布に潜り込んだ。そしてもぞもぞとパトナの横に寝転ぶ。
「狭い?」
「いや、もう……天国」
「なにそれ」
くすくすとパトナが暗闇の中で小さく笑う。
密着しながら感じる髪の甘い香りと、女の子特有のほどよい汗の香り。なんともいえない心地余よさに加えて、二人の体温が混じりあう。
触れ合う肌と肌が心地よくて、このまま溶け合ってしまいたい……とクラクラするような感覚に身をまかせる。
あー、なんだこれ。暖かくて安心する……。
すると俺の腕がパトナのふにゃっとした謎の部位に当たったりする。
どこだ、これ!? もはや異次元の柔らかさなんだが!?
「なんだか、キャンプって楽しいね♪」
「お、おおぅ!」
こうして、まるで小学校の野外活動以来のキャンプの夜は清らかに(?)更けていった。