3:追憶を抱いて
白の王国から遥か東の地。広大なプラム砂漠の端に建てられたオアシス都市アンズは、今日も行商人で賑わっていた。
大陸内部では大した値がつかない水や食料、その他の雑貨も、砂漠まで持っていけば貴重品になる。それゆえここは、移動手段に自信のある行商たちのたまり場になっていた。あるいは、そういうものを必要とする砂漠の旅人が生き倒れる場所でもあった。
都市の入口近く。古い廃墟の壁に背中を預ける形で、フードを着た物乞いが蹲っていた。みすぼらしい身なりからして、いわゆる生き倒れの類だろう。
「おじさん、大丈夫ですか?」
そんな物乞いに、一人のエルフの少女が声をかけた。
物乞いはフードの顔をあげることはせず、そのまま静かに頷いて見せた。
「ええ。ですが、長旅で少し疲れてしまったようです」
物乞いは掠れた声で言った。
少女は思う。
この人も、きっとプラム砂漠を横断した果てに、やっとの思いでここに辿り着いた旅人なのだろうと。そしてやっぱり、お金がないからこのままここで生き倒れてしまうのだろうと。
――何か、最後に私ができる人助けはないでしょうか。
少女は考えて、ふと、ポケットにリンゴの欠片があることを思い出した。彼女はカラカラに乾いたそれを取り出し、
「これ、食べて下さい」
と、物乞いに差し出した。ふわりと、物乞いがフードの顔をあげる。その表情も顔も、なんだか暗くてよくわからなかった。けれども、
「これはどうも親切に。でも良いのですか? 貴方にとってこれは貴重なものだと思うのですが」
そんな風に答える物乞いの声は、心底嬉しそうな様子だった。だから少女も嬉しくなった。
「はい、これは今夜の夕食です。でも、良いんです。これからは家族が私を養ってくれますから」
そう言って彼女が指差したのは、行商人が開いている競売小屋の一つだった。物乞いは「あの店の主人が家族ですか?」と聞いたが、少女は首を否定向きに振った。よく見れば、少女の指は競売小屋の前。うつろな目をした子供たちが作る列の、その最後尾を指さしていた。
奴隷屋。
そこはそう呼ばれる、孤児の売買を専門とした行商人の小屋だった。
物乞いは、少女の手から乾いたリンゴを受け取りながら尋ねる。
「少女よ、名前は?」
エルフの少女は首を左右に振った。
「まだ、ありません。新しい家族の――旦那様にもらう予定です。……それじゃぁおじさん、縁があったらまた」
少女は手を振ると、駆け足で子供たちの列へと向かった。
*
「さぁ、最後の品物はこっちだ! 西は神秘的なブルーミントの森からエルフの少女! 年は幼いがこの器量だ! あと数年も待てば誰もが振り返る美女になること間違いなし! さぁ早い者勝ちだぜ!? さぁさぁ誰がこの子のご主人様だ!? 誰がこの子をほしいままにする!? さぁ競り落とした! まずは50ゴールド! 50ゴールドからスタートだ!」
その日の夕暮れ、奴隷屋の主人は大きな声をあげてエルフの少女を競りに出していた。しかしながら、小屋に群がっている客はほとんどが野次馬で、誰も手をあげようとはしない。それもそうだろう。水と食料が貴重になる砂漠の都市で、愛玩目的に子供を50ゴールドなどという大金で買う余裕のあるものなど、そうそういるわけがない。
「なんだなんだどうしたどうした!? 今日の客は財布の紐が硬いな! それなら45ゴールドでどうだい!? 45ゴールド! これ以上は負けらんないぜ!?」
奴隷屋の主人は店の台を叩いて客達を煽る。しかしやはり、値付けの手はあがらなかった。
主人は渋い顔で思う。いくらなんでもこれ以上は負けられない。確かに砂漠の真ん中で、人一人を45ゴールドで買うなどは酔狂のやることかもしれない。しかし少女のこの見目からすれば、これ未満で売る気にもなれない。それこそ場所が場所でなければ、200ゴールドでも買い手はつく器量だろう。
――これ以上値下げするぐらいなら、いっそ俺がこいつを楽しんじまうか?
主人が少女によこしまな目をやったときだった。
「では、その子は私がもらいうけましょう」
思わぬタイミングで手が上がった。
「はいよ旦那! さすがはお目が高い!」
条件反射的に商売口上を述べつつ、主人は値付にあがった手に目を向けた。しかしその正体を認めると、主人の表情は一気に不機嫌になった。一方、当のエルフの少女は驚いたように目を丸くした。手を上げたのは他でもない。廃墟の壁で弱っていた、あのローブの物乞いだった。
奴隷屋の主人は舌打ちして、太い腕を組んで言う。
「おい、まだアンズにいやがったのか乞食。もう俺の店に近づくなっていっただろ。これ以上、その汚え格好でほつきあるいてやがると、商売妨害で衛兵に」
と凄み始めた主人の前に、物乞いは臆することなく歩み寄る。そして垢で汚れた拳を差し出した。
その手が開かれると、手の平からキラキラと目の眩むような金貨がこぼれ落ちてきた。
野次馬がどよめいた。
この金貨は砂漠でやりとりされる貧相な地方通貨ではない。白の王国でも一部の上流貴族にしか手に入らない、純金製の王国通貨である。それを十枚も、この物乞いは地面に転がしたのだ。
「こ、これは……」
主人は窒息しそうな声を絞りだすのが精一杯だった。
想像を超えた大金を前にして震える彼に、物乞いが穏やかな口調で言う。
「王国通貨、金貨で10枚。プラム砂漠のアンズ通貨でいえばだいたい1000ゴールドの価値があると思いますが、不足ですか?」
「め、滅相もございません旦那様!」
主人は弾かれたように物乞いに跪いて、大慌てて金貨をかき集める。主人は震えた。これだけあれば、ゆうに3年は豪遊できる。もうこんな砂漠をうろつく必要は当分ない。ああ、今日は一体なんという日なのだ。主人は笑いをこらえながら、しかし少女には目もくれずに言った。
「ささ、お前! 何をぼけっとしている! 早く旦那様のもとにいきなさい! くれぐれも失礼のないようにな! そ、それじゃ今日はこれでお開き!」
酔狂な客の気が変わらない内に。そんな様子がありありと伝わる手際の良さで、本日の競売はお開きとなった。
そして、1000ゴールドの金貨という一生に一度拝めるかどうかの大金。それを前に呆然としている野次馬をよそに、物乞いは少女の手をひいてその場を離れた。
「思いの外、早く縁があったようですね」
物乞いに手を引かれる忘我の少女は、その言葉で我に返った。そして現状を理解した彼女はパニックになる。
「あ、あの、私……その」
上ずった声を戻すため、少女は一度喉を鳴らす。
「……あ、あ、あんな大金で買ってもらうほどの価値なんてないです……」
そんなセリフを何とか絞り出したが、物乞いは「そうですか」としか言わなかった。そしてなお手をひいて歩き続ける彼が怖くなったのか、エルフの少女は目を閉じて叫んだ。
「わ、私、困ります!!!」
すると、物乞いはあっさりと手を離した。
そして足を止めて、ちらとだけ振り返る。
怯えたように己を見上げる少女に、彼は穏やかな口調で言った。
「そうですか。では、ここで別れるとしましょう。縁があればまた」
それから振り返ること無く物乞いは立ち去り始めた。
え、と。少女はしばし呆気にとられたようにその背中を見ていたが、
「ま、待ってください!」
「何ですか?」
物乞いが足を止めて振り返る。その様子は本当に『?』という感じだったので、エルフの少女は混乱で泣きそうになってきた。
「さ、さっきから貴方、むちゃくちゃです! あんな大金を出して私を買っておいて、でも別れると言えばすぐさようならなんて、こ、こんな話がありますか!? 一生遊べるようなお金を捨てたようなもんじゃないですか!」
物乞いは「ふむ」と頷いた。
「ではどのようにしましょうか?」
首を傾げる物乞いに、少女は少しの間沈黙し、彼女なりに考えてから言った。
「何か、私にできることはありませんか? なんでもします。いえ、違う。させてください! お願いです! 先のお金に少しでも報いることを、私にさせてください!」
胸に手を当て、少女は力強く言った。その言葉は一途でひたむきで、だからこそ痛ましくもあった。きっとそうするように、奴隷として教育されたのかもしれない。物乞いはまた「ふむ」と頷いた。
「では貴方には何ができるのですか?」
少女は不意を突かれたように、言葉を失った。
「貴方に病んだ王国を救う知恵がありますか? 魔物を葬る剣の腕がありますか? あるいは私の支払った金額を取り返す財産がありますか?」
真っ直ぐに突きつけられた己の無力に、エルフの少女は俯いた。そして彼女は消え入りそうな声で呟く。
「いえ、……どれもありません」
自分で声に出すと、エルフの少女は急に恥ずかしくなった。何でもすると言っておきながら、では何ができるのかと問われて、事実として何もできないことを実感したから。自分に何かする力が一つでもあったなら、そもそも奴隷屋に売られるようなことはなかったのだ。
私は無力。
私に、この人を呼び止める資格なんてなかった。
エルフの少女がそう痛感したとき、じわりと眼に涙がにじんだ。しかし。
「結構。では魔法使いになりなさい」
物乞いは、少女の在り方を肯定するような口調で言った。少なくとも、彼女にはそう聞こえた。
少女は顔をあげて物乞いを見る。そして初めて、フードの中に淡い光が二つ灯っていることに気付いた。
「魔法……使い?」
エルフの少女が復唱すると、「そうです」と物乞いは頷いた。
「魔法使いになって、貴方の世界を変えなさい。そしてこの世界を救うか滅ぼすかに苦悩する、大いなる存在となりなさい。アルル」
無力な己が世界の運命を決める。
受けた言葉の衝撃は大きかった。
しかしそれよりも、どうしてか最後に響いたアルルという音が気になって、彼女はそれを呪文のように復唱した。
「アルル?」
物乞いは頷いた。
「お前の名であり、そして私の弟子の名です。今日から私を師として仰ぎ、いま感じた無力を一日も早く払拭できるよう励みなさい、アルル。……それではまず、腹ごしらえの魔法から教えましょう」
そのとき、エルフの少女のお腹がぐぅとなった。それを聞いたかどうかわからないが、物乞い――彼女の師は、乾いたリンゴの欠片を差し出した。少女が彼に渡したものだ。
「これはお前の運命を変え、そして空腹を満たす魔法です。さぁ」
その顔を、エルフの少女――アルルは最後まで見ていられなかった。涙で視界がにじみ、これまで感じたことのない思いが肩を震わせたから。それが優しさだと知るには、これまでの生があまりにも過酷だったのだ。
*
ティラミスの森で眠りから覚めたとき、アルルは自分が泣いていることに気付いた。アルルは目尻の涙をまばたきで流す。どうやら古い夢を見ていたらしい。
――久しぶりですね、奴隷の頃の夢なんて。もう前世のことだと思ってました。
薄く目を開けて、アルルは徐々に微睡みから意識を起こしていく。きっとこんな夢を見たのは、全身に懐かしい匂いを感じていたからだろう。自分の魔法の師、アリアンロードの匂いを。
いや、匂いだけじゃない。
この温もりもそう。まるで本当に師が近くにいるかのような感覚が、身体に伝わっていた。
そこでふと、アルルは気付く。どうして私は、全身に温度や匂いや、感触を感じているのだろうか。
ぱちりと目を開ける。
エクターがいた。
それも顔の向きを変えるだけで、鼻の先が彼の頬に触れてしまうぐらいの近くに。そして腕が、彼の首に巻き付いていた。身体もぴたりと密着し、全身にエクターの温度と、硬さと柔らかさを感じていた。
知らぬ間に、アルルはエクターと同じブランケットに入って抱きついていたらしい。
それを理解すると、アルルは恥ずかしさから全身が火のようになった。
「きゃ!」
アルルは叫びながら飛び起きて、脱兎のごとく脱出した。
「な、なんだよアルル! どうした! 蛇でもいたのか!」
アルルの反応に驚いたのはエクターだった。彼はアルルとほぼ同時に飛び上って危機を察知し、素早くショートソードの鞘を払った。
そしてアルルを庇うような位置で周りに目を配る。
「どこだ……? ガラガラか? まさかコブラ?」
アルルは、エクターの想定外な対応に、すっかりと恥ずかしさを消されてしまった。そして少しの間ポカンとなったが、彼の鋭くなった横顔を見ていると、アルルはまた恥ずかしくなってきた。しかしとにかく、彼の誤解を解かなくてはと手をサカサカと振る。
「え、エクターさん、すみません! 違います! いません! 蛇とかいません!」
「んん?」
首を傾げるエクターに、アルルは続ける。少しばかり俯きながら。
「あの、その。……お、思ったより近くにいたからびっくりしてしまって……。ていうか、ごめんなさい。私が勝手にエクターさんのところに入ってたみたいで……」
エクターは、アルルが飛び起きた理由がなんてこともなかったことを知ると安堵し、ショートソードを鞘に収めた。
「まぁ、寝て起きて誰かが近くにいたら驚くかもしれないな。でも、アルル」
エクターは肩をすくめていう。
「アルルが俺のところに入って来たんじゃなくて、俺がアルルのそばに寄ったんだけどな」
え、というアルルに、エクターは続ける。
「昨晩はあのキノコにあたって、そのまま寝ちゃっただろ? あれから少しして目が覚めたんだけど、薪の火が消えててアルルが少し寒そうだったんだ。だから、ああやって一緒にブランケットをかぶって寝て、体温を逃がさないようにしてたわけだよ。でも、まさか枕みたいにギュウってされるのは予想外だったな」
笑うエクターに、アルルの頬は真っ赤になった。その様子がいっそう面白かったのだろう、なんだかエクターは嬉しそうだった。
「あの、え、エクターさん。私、へんな匂いとかしませんでした?」
エクターは笑うのをやめて、再び首を傾げた。するとアルルは、何か妙なことを勘ぐられたら困るとばかりに「あ、違うんです」と謎の否定を慌ててし、
「その。き、昨日は、お、お風呂に入ってなかったし、なんか、は、恥ずかしいっていうか」
どんどん赤く、どんどん萎んでいくように消沈するアルル。エクターは、おかしな事を言うもんだな、と思いつつも、しかしアルルの反応が面白かったので、少しからかってみることにした。
エクターは言う。
「いや、そんなのいちいち気にしないよ。でも、言われてみればアルルは甘いミルクみたいな匂いがしたな。男に言うのも変なんだけど、強いて言うなら女の子みたいに良い匂いだな~って」
「え、エクターさん!」
予想通りのおかしな表情が得られて、エクターは笑いながらも「悪い悪い、冗談だよ」と手を振った。
「それより、そろそろ行こう。ほら、日が登り始めている」
言いながら、エクターは虚の外に目をやった。
見れば確かに、巨大樹の合間から仄青い光が漏れていた。
夜明けの光が、ティラミスの森を照らし始めたのだ。
「今から行けば、きっと朝にはコーンブレッドの村につくはずだ。朝飯はそこで取ろうぜ。さ、支度しよう」
エクターは言ってから、一つ伸びをした。