1:森の魔法使い
霧の立ち込める早朝。魔法使い見習いのアルルは、今日も師の言いつけに従って巨大樹の近くで薪を拾い集めていた。この辺りは立ち枯れの木が多いので薪集めに困ることは少なく、いつもならもう帰路についている頃なのだが、今日は昨晩に前触れ無く降った雷雨のせいで、見つける薪はどれもが湿っていた。
「ああ、今日は収穫不足です」
アルルはため息をつく。それにしても、昨夜の急激な雷雨は何だったのか。噂によればあの雷、モンブランが信仰している聖雷の顕現だと騒がれているらしいが、信仰のないアルルにはあまりピンと来ない。
「それにしても、どうして魔物が教会を襲ったのでしょう」
薪を拾っては捨て、拾っては捨てを繰り返しながら、アルルは独りごちる。これも噂だが、昨晩遅くにモンブラン教会は、オークの盗賊に押し入られたそうだ。そして恐ろしいことに、孤児や修道女達は皆殺しにされたという。魔物が人里を襲うなんて、本当に何百年ぶりだろうか。アルルはゴロゴロという雷の遠鳴りを聞き、雲行きを案じて空を伺う。
「天魔大戦以来の、何か不吉な出来事が起きようとしているのでしょうか。っと!!」
踏みだそうとした足が何かにつまづいた。バランスを立て直そうとして、さらにやわらかい何かを踏みつける。アルルはその正体を認めて驚いた。
「ひ、人!?」
そう。アルルが踏んでいたのは人だった。なお言えば少年の太ももだった。
魔物の徘徊する、この物騒な地に人とは珍しい。アルルは恐る恐ると姿を伺う。赤茶けた髪に、人形のような顔立ち。眠る姿はつくりもののようだ。包帯の巻かれた手に、鏡面のように磨かれた剣を握っている。剣士見習いの行き倒れかとアルルは思ったが、修道着を着ていることからして教会のもののようだ。微かに魔力の気配もある。アルルは眉を潜めた。
「……教会……まさか」
例のモンブラン教会と関係があるのではと思いつつ、少年の口元に手をあてる。
「……息はあります。よ、よし!」
魔法使い見習いは、少しだけ少年に触れるのを躊躇ったものの、彼を己の住処に連れて帰ることにした。
*
「た、ただいま帰りました。お師様」
アルルは言いながら、巨大樹を繰り抜いて出来た住処の扉を開けた。ここは魔法使い見習いのアルルと、その師である大魔法使いアリアンロードの暮らす隠れ家である。アリアンロードは愛弟子の帰りを認めると、錬金術の道具をおいて振り返った。
「おかえりアルル。薪拾いご苦労様……ふむ。随分と大きな薪を拾ってきましたね。それもかなり湿っている」
彼はアルルが肩を貸している少年をちらりと見た。アルルは自分のベッドに少年を横たえると、額の汗を拭ってから師へ向き直った。
「お師樣。実は森の近くで人が倒れていたのですが、その、まだ息があったようなので連れて帰ってきました」
「そのようですね。それで、どうして彼を助けようと考えたのですか?」
魔法使いとは、基本的に人嫌いの隠者である。彼らは普通の人間のように、人助けは当然だという考えは持ち合わせていない。だからアリアンロードの問いは魔法使いとして当然なものだと、アルルはそう承知した。その上でアルルは答える。
「私は……彼を介抱したいと思います。理由はありません。人助けがしたいからです。その、だから少しだけここに彼を置いてもらえないでしょうか?」
アルルが恐縮そうな、でも真摯な目つきで尋ねると、アリアンロードは椅子から立ち上がって身体を向けた。
「ではアルル、少しばかり覚悟を尋ねておきましょう。誰かを招き入れるということは、多かれ少なかれその者の運命に巻き込まれることを意味します。特に今回のように、素性の知らぬ生き倒れの者となると、占うまでもなく厄介な運命がやってくることでしょう」
言いながら、アリアンロードの目は彼の剣と、そして包帯の巻かれた右手に止まる。
「そして恐らく、この少年のもたらす運命の力は小さくない。今はそうでなくとも、やがてそれは大きな渦となって、お前を飲み込むことになる。場合によっては悲劇を生むかもしれない。アルル、お前にその覚悟はありますか?」
アルルはアルルなりに師のいうことが分かる。まずこの少年、剣を持って倒れていたことからして普通ではない。しかも昨日にモンブラン教会の件があっての、今日の出会いである。恐らくその件と無関係ではないだろう。
けれどもアルルは迷わなかった。魔法使いになると決めたその日から、一人でも多くの命は救うと決めたから。
「はい、あります」
アルルが力強く頷いて言うと、アリアンロードもまた頷いた。
「結構。では責任をもって彼を介抱してやりなさい。私もできる限りの助力はしましょう」
*
「エクター。もっとこの子たちと友達になるような感覚で。ほら、もう一度」
モンブラン教会の裏庭で、エクターは今日もシスターモンブランから魔法の手解きを受けていた。彼女が森の魔法使いだという驚きの事実を知って以降、彼の一番の楽しみは、こうして授業後に行われる秘密の授業だった。
エクターは彼女に言われたとおり、手に触れている草木に語りかける。草木にも自分と同じ心があり、それと自分の心を繋ぐような気持ちで。
「草よ草よ、固くなれ」
何度目の挑戦だろうか。ようやく彼らと何かを共有できたと思った瞬間、しおれている草はピンと針のように硬くなった。
「つ!」
握り方がまずかったのか。針のようになった草はエクターの指をついて、人差し指の腹に小さな血の膨らみを作った。彼はそれを口に含みつつも、魔法の成果を喜ぶようにマロンに目を向ける。彼女は大きく頷いた。
「上出来です。この調子だと、鍵開けの魔法まですぐですね」
「鍵開けの魔法?」
マロンはエクターの手から針のようになった草を取ると、それを器用に曲げていく。どういう魔法なのか、草はマロンの指の動きにしたがって、たちまち鍵の形になった。
「この魔法の簡単な応用です。名前の通り、扉や宝箱、牢の鍵を開けることができます。悪用しないとエクレール様に誓うなら、来週はこの魔法についてレクチャーしてあげましょう。いつか世界を冒険するつもりなら、知っていて損はないでしょう?」
世界を冒険という言葉に、エクターの目が輝いた。
「はい! お願いします先生! あ、でも、先生。先生はどうやって魔法を覚えたんですか? やっぱり、先生にも先生がいたんですか?」
エクターが尋ねると、マロンは頷いた。
「ええ。そうです。先生の先生はあの大魔法使い、アリアンロードです」
誇らしげにいって、彼女は人差し指を立てる。
「アリアンロード……聞いたことないです。そんなすごい人なんですか?」
少し不服そうにマロンは眉をひそめたが、まぁ無理もないですねと苦笑し、彼女は続ける。
「アリアンロードは、かれこれ100年もの間、白の王国で魔法研究の最高顧問を務めていた大魔法使いです。古今東西のあらゆる魔法を収めるだけでなく、彼自身も次から次に魔法を編み出して、世界の魔法の道標とまで言われるようになりましあ。でも、彼の研究した魔法はことごとく王国の戦争に使われてしまったので、アリアンロードは嫌気がさして、ある日、行方をくらませてしまいました。先生がアリアンロードに出会ったのはまさに奇跡のようなものです」
エクターは鳥肌が立った。
魔法使いとしてのマロンが如何にすごいかは、エクターはよく知っている。特に森の魔法を使えば、白の王国軍を一人で相手にできるのではないかと彼は思っている。そしてアリアンロードという魔法使いは、そんな彼女の師であり、そして彼女がそこまで心服している存在なのだ。エクターの中のアリアンロード像は一瞬にして巨大なものになった。
「お、俺もアリアンロードに会いたいです! 先生!」
マロンはエクターの表情に満足して頷いた。
「もしもその必要があるなら、きっとエクレール様が導いて下さいます」
今度は不満気に頬をふくらませるエクターに、マロンはくすりと笑った。
*
「目が覚めたようですね、少年」
知らない声がエクターの耳に届いた。身体を動かそうとすると、節々が痛んだ。力が上手く入らない。それでもなんとか首だけを動かすと、自分はベッドに寝ていていることが分かった。
場所は、木で出来た内装としか分からない。
そして先の声の主は、自分からそう遠くない机で作業に没頭しているようだ。紫のローブを着て、こちらに背を向けて、不思議な器具を触りながら緑や青の煙をモワモワと立ち上らせている。
「もしも死に損なったと悔やむのでなければ、そこで寝ているアルルに礼を言ってやってください。ここだけの話ですが、少年が寝ている間に食事から衣類、まぁ言うなれば下の世話までしていたのがその子です」
言われて、エクターは目だけを動かす。そことはどこか。すると、自分のベッドの縁にもたれている、白いフードを被った――少女? 少年? がスヤスヤと寝ていた。一瞬、下の世話というのにひやりとして手で下着を触ってみた。
――これ、俺の知らないやつだ。
恐る恐るとアルルの寝顔を見る。同い年の子に着せ替えられただけでも恥ずかしいが、もしも女の子だったらどうしようとエクターは考えかけて、やめておいた。
「あ、あの、俺は一体どのぐらい眠っていたんですか?」
「少年をアルルが見つけてから、今日で五日ですね」
五日。信じられないような時間だった。それなら確かに、身体も痛くなるだろう。
「肉体的な損傷はそれほど深刻ではありませんでしたが、精神が著しく衰弱していました。どの過ぎた魔力量を行使した証です。何か心当たりは?」
エクターはその言葉を聞いて、思い出すよりも先に一つの情景がフラッシュバックした。教会でヘビーオークを葬ったときのことだ。
剣に駆け下りてきた稲妻を、激情とともに解き放ったあの一撃。オークを灰にし、自身の右手を焦がしたあの魔法。
「……俺、剣を持っていませんでしたか?」
「持っていました。そこの壁にかけてありますが、今は触らないほうが懸命です」
かすかに声の主が顔を向けた先、その先の壁に、確かにエクレールの剣が掛かっていた。
「あれは少年の持ち物ですか? それとも誰かから?」
問いかけられて、言葉に詰まった。急にマロンのことを思い出して、思い出したら苦しくなってきたのだ。いまあの剣と、そして剣でやったことを話せば、恐らく自分は泣いてしまう。だからエクターは言葉を発せなかった。
「あの剣からは大魔法行使の跡が見られました。魔法研究の進んでいない数百年前であれば、聖典に奇跡として記されていたかもしれませんね。たとえば、聖雷などという呼称で。ところで気分はどうですか? ……えっと」
名前を訪ねられていると思い至り、エクターは喉の奥の涙を飲み込んで言う。
「……エクターです」
「エクター。良い名前だ。生まれは北の国ですね?」
「覚えていません。物心ついた時には、もう教会の孤児院でしたから」
モンブラン教会の、とは言えなかった。身分を明かすことが、何となくエクターには躊躇われたのだ。
「……なるほど。しかしエクターは孤児院で良い師に恵まれたようですね。置かれていた境遇からは考えらないほど心根がまっすぐだ。やはりアルルは人を見る目があります」
じわりと、こらえていた涙が目に滲んだ。知ったふうなことを言わないで欲しいという気持ちと、まさしくその通りだという気持ちがぶつかったのだ。エクターは涙を拭いながら言う。
「……すみません。ここは何処でしょうか?」
「その問いを発するということは、貴方には帰る場所があるということですか、エクター」
どこか有無を言わせぬ言い方に、やや面を食らってしまったエクター。彼は「いえ」と小さく呟いた。
「では、ここはエクターの家です。そして家主は私です。次の家が見つかるまで、客人ではなく家人の一人として働いてもらいます。宜しいですね?」
これもまた、二の句が告げないような言い方だった。だからエクターは黙って頷いた。相変わらず声の主は背を向けているので、その首肯が見えることはない。しかし沈黙を承認ととったのか、彼は作業の手を止めずに頷いた。
「結構。ではもうしばらく休んでいなさい。明日は忙しくなります」
分かりました、と言うつもりだったのに、エクターは急に全身から力が抜けてしまい、自分でも知らぬ間に深い眠りについてしまった。
程なく聞こえてきたエクターの寝息。アリアンロードは作業台から立ち上がり、彼の寝顔を振り返る。紫のフードの中は空っぽだった。
「マロン、私も少しばかり奇跡というものが信じられそうです。この出会いを天上の貴方と、そしてエクレールに捧げましょう」
フードの中の、目と思しき淡いニつの光が、エクターの寝顔を見ていた。