ピンセットで歯医者さんごっこ
大きく飛び上がって、低いビルの屋上に着地する。加速しながらビルをつたって、大きな一歩を踏み込んで高く遠く飛んだ。こういうことは、珍しいことではなかった。
NDってのは基本的に暇な部署だ、本当に物騒な時にしか出ないからな。捜査班や本部では何やら色々やることがあるらしいが、身体能力と面接だけで入ってきた異能班は完全に出動時にしか出番がないのである。それだけ人がおらず、替えもなかなかきかないのでできるだけ出動だけさせとけってこと。三ヶ月ごとに体力テストがあり、それに合格できれば引き続き異能班としてお勤めできる。
人間の異能者の事情はわからないのだが、オレ達に限ると、今の環境じゃ暴れ足りないというのが現状である。今の見た目こそは人間と変わらないのだがこれは化けている姿であり、本来は様々な動物を趣味悪く継ぎ接ぎしたような姿をしている、それはオレも変わりない。そのおかげで動物の運動能力や優れた聴力、嗅覚、視力などを持っているというわけである。
その中でもオレは肉食動物のかき集め、本能として腹が減ったら何か殺して食わないと、って、そう思う、らしい。何か殺すにしても野良犬なんかを追っかけるだけじゃ物足りない。たまにやって血のにおいを嗅いで満足するだけで、あとはこうやって走り回って欲求不満を解消するしかない。ただ今は、暴れるっていうか、暴れられるっていうか。ただオレ個人のプライドのために動いてる。
マンションのバルコニーに着地した、窓を開けてうちに戻る。倫太郎は居間にいて、じっと廊下のむこう、玄関の扉を見つめている。
「おい、……」
肩を叩くと気づいたようだった。振り向いて、少し安心した様子で、弱々しく微笑んだ。
「グレイさん。短い間でしたけど、ありがとうございました」
「なんだ、いきなり。どうした」
「俺、お迎え来たみたいです。どうやら、ご存知で戻っていらしたみたいですけど」
あ、ああ。痛いくらい感じてる、敵意ってレベルじゃない。悪意だ。ただ全ての生きる者に向けた憎悪。だってどこにいるかわからないのに、鳥肌が立つほど恐ろしい。
「……帰りたくないです……。こっちできっと父親を探して幸せになれるって思ってました。きっともう、戻れないでしょう……」
止めてほしい、らしい。帰るなって、止めたところでどうする? 迎えにきたのは間違いなくあの緑髪の男じゃないか。覚悟してきたとはいえ……、あれとタイマンはってくれって? 俺が助けてやっただろってか?
一瞬そう考えたが、こいつを置いとくかはよそにして、ドロシィを取り戻すためにあの緑髪の男に会いにいかねばならないのだった。
「とりあえずな、そいつの所に行こう。それから話を合わせれば……」
そう言うと、倫太郎は玄関から飛び出していった。追いかけて外に出ると、不自然に、隣の部屋のドアが開いている。引越ししてきた、スポーツカーに乗っていた住人の部屋。明らかにそこから気配がしていた、勘弁してくれ……。わざわざこんなことまでして、なんて気持ち悪い男だ、それにこの倫太郎とはどんな仲だろう。
二人でその扉の前に立った。唾を飲む。緊張している。倫太郎を先に行かせ、オレは後ろからついていった。何かあれば、後ろから襲いかかって倫太郎を人質に取ろうと思ったからだ。
そっと蟻地獄の中へ、部屋には金の糸が織り込まれた趣味の悪い絨毯がしいてあって、壁紙は薄汚れた花柄だった。使い込まれてくたびれたソファーとサイドテーブルがひとつ。白いひび割れたカップがひとつ置いてあって、あの緑髪の男はカップのふちを愛おしそうに指で触れて、紅茶を注ぐ。ソファーに深く座り足を組んで、オレ達がやってくるのを待っていたようだった。二つの赤いひとみは、暗闇の中でもぎょろぎょろこちらを捉えて離さない。
「僕と一緒に、うちへ帰ろう。すっかり悪魔臭くなってしまって。ねえ?」
後ろに潜むオレに気づかないはずがなかった。
「ドロシィは無事か?」
「ああ、愛しい彼女はここにいるよ。なあ、クリス?」
後ろからじゃ見えないな。倫太郎が頷くが、自分で確認しないと信じられるわけあるまい。奥に物言わぬ亡骸となったドロシィが転がってるなんて展開は、勘弁してもらいたいものだが。
「……テディくん。いきなり飛び出して、本当に悪かったよ。でも、俺は……、戻りたくないんだ。向こうに戻ったって、何にも変わらないから」
「なあ、きっと、その悪魔に騙されているんだ。うまい話でも聞かされたんだろ。とにかく一度戻って頭を冷やして考えれば、君はかしこい子だから、何が正しいのかすぐにわかるはずだよ。何なら、僕がこの部屋を買い取って二人一緒に暮らせばいいじゃないか、今までと同じようにね」
「……心配かけてごめんなさい。今までと同じじゃ、だめなんだよ。勝手だけど、俺は本当にうちには戻りたくないんだ……」
気がつくとオレは腕を影の炎で燃やし、倫太郎の首に回していた。これ以上奴らの話を聞いていると狂いそうだ。このまま延々と戻りたくないと戻れとを繰り返すつもりだぞ。俺はとりあえずドロシィを取り戻したくて仕方が無いのだ。
黒く燃える影は形にもなる。最近扱えるようになった、人間が持ち歩いている銃を真似たもの、手を開いてイメージすると影が集まり黒い銃が握られる。威力こそ実弾に劣るが、影でできた銃弾はヒトを殺すのには十分すぎるほど。その銃の銃口を倫太郎の頭蓋骨に押し付けた。同時に首も強く掴み、いつでも首の骨を折れるようにしている。ゆるゆると首の皮が焼けて焦げたようなにおいがしている、このにおいを嗅ぐのは大好きだった。
「ぐ、グレイさん……」
「ほら、みろ、そうなるだろ。信じるに値しない生き物だよ、そいつは」
興奮して息が上がっている。こうやって、天使を殺そうとするのは数ヶ月ぶりだ。手が滑れば今にも殺してしまいそうだった。
「ハァ、お前らのうっとうしい茶番はもううんざりだ。お前はこいつを取り戻したい、オレはドロシィを取り戻したい。違うか?」
「ほーお、それで?」
「ドロシィとこいつを交換すりゃあ、文句がないだろ。オレだって、突然押しかけてきてほとほと困ってる。引き取りに来たんなら、よっぽど都合いい話はないぜ」
倫太郎は喉を震わせていた。裏切られたって、そう思ってるんだろ。騙すなら身内からって知ってるか? 一度こういった態度はとるが、このグレイ・キンケード、命の恩人が助けを求めているのなら、その手を振り払うことはしないさ。オレのプライドがそれを許さない。
「クリス、君は、それでいいかい? 悪魔はそう言ってるが。君は戻りたくはないんだろう」
「……」
「僕は、嫌がる君を無理やり連れて行くことは、できないんだ」
「……俺は……」
「どうしたい。その悪魔についていくか? それとも僕と一緒に帰るか、決めてくれ。僕は無理やり連れていけない、僕は、君の嫌がることはしたくないんだ。わかってくれるかい。君が僕から離れることより、君が僕を嫌いになるほうが、僕は悲しいんだ」
「……」
くそ、予想外だ。無理やりにでも連れて帰ると思った。……ここからは……、ドロシィと交換したあとで、倫太郎が帰りたくないとぐずればなんとかなるか、はて。本当は、帰るとなったあとで、不意打ちして倫太郎を引き剥がす予定だった、明かりが小さなロウソクしかない今、夜の闇に溶けることなんて、影の悪魔にしてみれば朝飯前である。さて……。
「迷うなら、少し、考えてみるといい。僕は急がないからね。何度も言うが、何よりも君が傷つくのが嫌なんだよ、クリス。そして彼女も返そう。これは僕を恐れず向かってきた僕から悪魔への贈り物としよう、受け取ってくれ。喜ぶように仕掛けはしておいたからね……。クリスは、君のそばで生きてれば構わないんだ、生きてればね」
オレの家と部屋の設計変わらない、背後の大きな窓を開けると、緑髪の男は骨格を変え、夜の街へと飛んでいった。本来飛べるような身体のつくりではないだろう、成人男性一人を飛ばすのには頼りなさすぎる緑の翼は、それでも役割を果たして風に乗っていた。おそらく魔法でサポートしているのだろうが。
緑髪の男が去ったのを確認すると、倫太郎の首からすぐに手を離した。
「悪かった!」
「……い、いえ……」
「とにかく、奴とやりあうことなく、お前もドロシィも取り戻せてよかったよ」
「う、嘘だったんですか? 俺はてっきり、本当にそうだと思っていました。なんせ、やっぱり本来敵同士なんですから……」
「……オレが、そんな事するように思ってたんなら、今すぐ謝れよ。ま、これで前の恩は返したろ。今度からは助けないからな」
「あ、ありがとうございます。そして、ごめんなさい。……そしたら、今度は俺が、ピンチの時に駆けつけて助けますから。また、助けてください、それができたら」
倫太郎の白くて細めの首に、オレの手形がくっきりついた焦げ跡。火傷ってほどじゃあないが、しばらくは残るだろう。まるで芸術家が長い時間気をはって作り上げた、大理石の彫刻のような首にくっきりとオレの生命エネルギーが跡を残している。流石に芸術に疎いオレでも美を損なったことに罪悪感は覚えたが、わざわざ口にして心配することはしなかった。彫刻みたいに綺麗な首に手形の火傷を作って悪かったと、せっかく芸術家が作り上げたみたいに美しかったのにと、そう言えばオレがそう思っているのと同じことで気恥ずかしくて仕方なかったからだ。
そ、それよりドロシィ。ドロシィは無事だろうか? 倫太郎から離れると、青髪おかっぱの顔を隠した美女が見える、ソファーの前に腕を縛られて転がされていて、気を失っているみたいだ。軽く体に触れて名前を呼ぶと、ゆっくり目を開ける。腕を縛られている以外に乱暴された様子はなく、詳しくドロシィから話を聞かねばならないのだが、あの緑髪の男は妙な所で『紳士』ぶりやがって、腹が立つな。
「あれ、グレイさん。わたし、どうしたのかしら……?」
腕に巻きついているリボンを焼き切って、ドロシィに手を差し伸べた。立てるかと聞くと、ふらつきながらもオレの手をとって立ち上がるのだが、その時に不気味な音が鳴った。一瞬びくついたが、その音がした先を見ると、鳥肌が立った。なんてことを、あいつは……!
ドロシィの着ているセーター、右肘から先は何も中に入っていない。ひらひらと窓からの風に揺れているだけだ。右腕が切り落とされ、足元に落ちている。
そしてこの子は、忘れてたみたいにとぼけた顔をして、ごまかそうとするのだ。服装は乱れていない、他に目立つ場所に傷や痣もない。絨毯の上に落ちたドロシィの腕の断面部分を確認すると、綺麗にふさがりピンクの皮膚が傷口を覆っている。『傷もなく中の臓器を取り出す』……、あの連続殺人犯は、『傷つけて臓器を取り出し、変わりなく皮膚と皮膚をつなげてしまう』のだ。医者にでもなれば重宝される力なのだろうが、こう悪い事に使われると、なんて気味の悪い力なのだろう。ドロシィの腕の断面部分も、同じように皮膚に覆われ、一滴たりとも出血はしていない。
「なあ、利き手はどっちだ」
「右です……」
無い腕を見つめて、ある腕で顔をこすった。あの男はドロシィから右腕を奪うという意味をよく知っている。おなじ腕でも、左腕では随分違っていた。彼女はこの春美大にはいったばかりで……、無くした右腕でこれから絵筆を握るはずだった。
「大丈夫です。まだ一本あるんですから、無いわけではないんですから、きっとなんとかなりますよ。絵だって、全く描けないわけじゃない」
「すまない、……とにかく。病院へ行こう。何されたかわからない、他に悪い所もあるかもしれないからな」
「ええ……」
ドロシィの左手をしっかり握って振り返ると、立ち尽くす倫太郎。眼鏡の奥に涙が見えた。
「ごめんなさい、俺が……」
ここへ来なければ、こんなことにはならなかったのに。俺のせいで……。多分、言いたいのはこんな感じ。お前のせいじゃない、お前は悪くない。そう言ってもらいたいから、罪悪感から逃げるためにそう言うのか、お前は?
「お前のせいじゃないよ。あいつは、ずっと前から同じようなことをしてた、お前のせいじゃないんだ。だから、泣く必要ないんだからな」
うずくまって謝りながら泣き続ける倫太郎と、無い右腕を隠すように自分の肩を抱くドロシィの姿は居た堪れなく、緑髪の男が飛び去っていったバルコニーに出て深呼吸したあと、携帯電話の小さな液晶を見つめた。