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さて、足元を見よう。右側に大きな箱があって、こいつは使えそうだ。そっと右足が触れて、うん、具合がいい。箱の下には影が伸びている。ちょうど電気の壁の反対側、後ろ側に。ちょっと助走を付けてジャンプして。その影に足が触れるとそのまま体が潜り込んでいった。これこそオレの力、影の中に飛び込んで、違う影から飛び出すことができる。いろいろと制約があって、縦のラインに弱いとか、かなり遠くの影からは出れないとかはあるのだが、この力のおかげでオレはいくつもの戦場を大きな怪我もなく駆け抜けることができたと言える!
影の中は真っ暗だが、所々上から光が伸びている。この光こそが現実世界における影で、ここから元の現実世界に戻ることができる。影の具合から電気の壁の位置は把握しているので、触れないように少し遠くの影を選び飛び上がった。ずっとこの影の中にいると、オレの体は影に近いので、同化して影そのものになってしまう、……そうルゥおじさんが言っていた。おじさんが、オレの親父からよく話を聞いていたものだから、おそらくそうだろうと。
さて、簡単に電気の壁を抜けた。子供がびっくりしているな。地面や天井に敷き詰められたコードから電気の束がオレを狙って飛んでくるが、どこから飛んでくるかわかっているので、避けることはそこまで難しくない。足に纏った体の一部……、炎のようにそこまで熱くはないが、ものを燃やす力のある、オレの体から漏れ出す生命エネルギーだ。これを噴射しつつジャンプすると大きく飛び上がることができるし、うまく具合を調整すると空だって飛べる、もちろん細かく動くことはできないのだが、それだけで十分だろう。
ジャンプする時だけでなく走る時もこの生命エネルギーを使えば、チーターにこそ負けるだろうがかなりの速さで走ることができる。全身の筋肉を動かすたびに、喜びで炎が燃え上がった。影に近い存在のオレの炎は真っ黒で、これは悪魔の炎だと奴らは言った。そうね、間違いじゃないが。
電気の束を避けながら加速してぐんぐん距離を詰める。近距離に持ち込めばオレが負けることなんてあるまい。……しかしこの子供、不思議と、気配が、呼吸の音がない。焦点のあっていない真っ赤な目、病的なほどに白い肌、白い髪。こいつ、血が通ってないな。こいつも被害者なんだと気がつくのに時間を必要としなかった。着ているものは薄いワンピースで、足元はなんにもはいてない。虚ろな顔をして、かろうじてオレのほうを見ているのだが、オレが憎いとかオレを殺してやろうとか、オレに命乞いをしようとか、そんな感情そのものがないように見えた。肌に触れると冷たい。線が細く、まだ体に女らしさが出始めたころの女の子だ。
電気の束はオレを狙うと自分も巻き込むからか、大人しくオレに捕らえられたままだった。しかし、一体誰がこんなことをしたのだろうな。
「おいっ、助けてやる。お前をこんな風にしたのはどいつだ?」
声をかけるが、なんの反応もしない。……無責任に助けてやると言ったものの、こいつはもう死んでいる……。情報を聞き出したあとにぶっ壊してしまうのが苦しみから逃れられて一番いい。哀れにも、この子供は趣味の悪い異能者によって生ける屍にされてしまったのだ。抱き上げると、わずかに指がビリビリする。オレの知り合いにも一人いるのだが……。こういった触るとビリビリしたり、触らずして機械を壊してしまったり誤作動を起こす人間というのは『Street Lamp Interference Data Exchange』……歩いているだけで通過する側の街灯を次々に消してしまう人々、この頭文字から『スライダー』と呼ぶ。帯電人間とか、人間充電器とか、とにかく体に電気を溜め込みやすい人たち。スライダーが異能者になったり、異能者に関わると実にやっかいで、あちらこちらに電波を飛ばしまくったり、機械を壊したり、今のように電気の束を飛ばしてきたりする。
大人になるとうまく制御できたり、体質が変わって体に電気を溜めないようになったりするのだが、このスライダーの女の子は運悪く悪趣味な異能者に捕まってしまったのだ。体質はすぐに変えられないし、放っておくと本人の意思に反してスライダーの才能を思う存分発揮してしまうので、殺すしかない。もう死んでるけど。
「大丈夫か? ものも言えないか?」
どこか遠くを見つめていた女の子は急にぎょろりと大きな目でこちらを見た。こんなに小さいのに、かわいそうに。誰がやったのかは知らないが、たとえ同志であっても、このオレが始末せねばならない。そうでないことを祈るばかりだが。
「……パセリ」
「あ? パセリ? そいつがお前をこんな風にした奴の名前か?」
小さくか細い声で、唇は震えている。
「セージ、ローズマリー、あと、タイム」
「パセリ、セージ、ローズマリーにタイム?」
「パセリ、……セージ、ローズマリー、タイム」
聞き返してもそれを繰り返すばかりだ。……なんだ? 何かを伝えようとしてるのか、そればかり口にする。考えるのは苦手だが、考えてみよう。パセリとセージ、ローズマリー、それからタイムは全てハーブの名だが、教養がないものでそれらの意味するものがわからない。
「パセリ、セージ、ローズマリー、タイム」
「ああ、わかった。それはわかったよ。だからそれがどういう意味か教えてくれないか?」
「パセリ、セージ、ローズマリー、タイム」
イヴァンに聞いてみよう。捜査班の人間は頭がよさそうだし、この意味がわかるかもしれない。女の子を抱き上げて連れていこうとするが、体が痺れたようで、動けない。スライダーにずっと触れていたからか? 困ったな。しかし来てもらうのは危険だ、あの電気の束を、人間が避けきれるとは思えない。
「パセリ、セージ、ローズマリー、タイム」
「ごめんな、オレじゃその意味がわからない」
「パセリ、セージ、ローズマリー、タイム」
「もう少しわかりやすくできないか?」
やばい、と思ったのが遅かった。スライダーのせいなんかじゃない。電気なんて関係なかった。まずいのはこの四つのハーブだ。パセリ、セージ、ローズマリー、タイム。なんなのかはよくわからないが、とりあえずこの声がオレにとってよくないらしい。段々と力が抜けて、女の子にもたれるように倒れた。女の子はオレの耳元でつぶやき続ける。
「パセリ、セージ、ローズマリー、タイム」
「……や、やめて、くれないか。オレは君を助けたいと思ってる」
「パセリ、セージ、ローズマリー、タイム」
「だからそれを、やめてくれると、ありがたいんだが」
「パセリ、セージ、ローズマリー、タイム」
……気分が悪い。さっきまでの自信はどこへやら、オレはこんな小さい女の子の呟きに殺されるのか? この女の子自体はもうオレに……、あのハーブ以外で危害を加えることはないだろうが、今この状態でこの女の子をいじくりまわした異能者が出てこられると非常にまずい。体が痺れて、指の一本でさえ動かせない。舌も震えて、声も出なくなってきた。
「パセリ、セージ、ローズマリー、タイム」
「……」
「パセリ、セージ、ローズマリー、タイム」
とうとう、視界が歪みはじめた。もうダメか、ああまさかこんなにも早く死ぬとは。
「おまわりさーん。助けに来ましたよー!」
その声ではっとした、あの、金髪眼鏡の男。あいつ、電気を避けることができるのか? しかし女の子は気づいていないのか、いや、あんなに大声で気づかないはずない。大きな機械をよじ登って、オレと女の子が倒れている所までやってきた。
「パセリ、セージ、ローズマリー、タイム」
「パセリ? なんのことですかね。パセリ、セージ、ローズマリー……、ああ!」
オレと女の子を引き剥がすと、金髪眼鏡は女の子の頭を撫でた。
「かわいそうに。ごめんよ、それ、やめてくれるかい? おねがいだ」
オレが必死にお願いしても聞いてくれなかったのに、女の子はあっさり口を開くのをやめた。しばらくすると気分がよくなって、起き上がる。女の子が口を開こうとすると、金髪眼鏡の青年はしいっと人差し指を口の前に置いた。『静かに、喋っちゃだめ』の合図。
「助かった」
「ね、俺を連れてくればこんなことにならなかったんですよ」
得意げに鼻を鳴らして腕を組んだ。悪いなと謝ると、少しご機嫌な様子だった。
「しかしさっきの、パセリとかセージとかって、ありゃなんだ?」
「ご存知ないですか? おまじないですよ。魔除けのおまじないです。悪魔除けのおまじないですよ……」
赤いフレームの奥の目は、笑っていなかった。口元だけが、ゆがんでいた。
「ふつうはね、あんなのじゃ何ともないらしいんですけど。この子は特別でしたし、あれだけ何度も聞けば、あなたほどの『悪魔』も動けなくなるんですね」
「オレをあまり煽るなよ。死にたいか」
銃を向けると、手をひらひらと頭上に上げた。女の子も真似をする。
「やめて下さい、俺はあなたの敵ではないです」
「じゃあ何だ? 何の用事だ? どこのどいつだ?」
「……えっと、そうですね、まず名乗ります。……『倫太郎』と呼んで下さい」
「『リンタロウ』? 変な響きだな」
「生まれが複雑でして」
「オレは……」
「知ってます、大丈夫です。有名人ですからね。……えっと、とにかく銃を下ろしてもらえます?」
渋々腕を下ろす。助けてもらって悪いが、どうにも、こいつは胡散臭いな。そもそもオレとこいつ……、倫太郎は絶対に分かり合えない、敵同士だ。
「あなたたちの事を、俺たちは『悪魔』と呼んでます」
「ああ、そうだな。オレはおまえらを『天使』と呼んでる」
「俺は、どうしても、悪魔になりたくって、それであなたを探しました。グレイさん……、どうか……」
胸糞悪い、だから嫌いなんだ、オレは、奴らのことが。